舞い降りた少女
――夜空から、静かに星々が消えていった頃。
セピアは、その日も遠くを眺めていた。
傍らでは羊達の鳴き声と、その首に下げられた鐘の音だけが聞こえている。優しくそよぐ風に吹かれながら、彼は遠くを見つめた。
「まだ戦争は終わらないのかな……」
風が彼の頬を撫でて通り過ぎる。
「あれから、もう二年……父さんは、兄さんはここに帰って来られるんだろうか」
過ぎ去った楽しい思い出、家族団欒の風景が彼の脳裏をかすめる。ため息をひとつつき、セピアは柔らかな草の上に腰を下ろした。牧羊犬のエスとバスが羊の群れの中をうろうろしている。ここはセピアの家の放牧場だ。柵に囲われたこの高台では、余程のことがない限りトラブルは起きない。
高い太陽に誘われて、セピアは町が見下ろせるお気に入りの場所に移り、弁当を取り出した。包みを開くとぶ厚いサンドイッチが顔を出す。セピアはそれに齧りつこうとして、つと柵の向こうの森に目をやった。
つい、と何か輝くものが森と放牧場の境界近くに落ちていった。近い。一瞬、見たこともない翼の生えた生物だったような気がした。胸騒ぎがする。
「エス、バス。何かあったらすぐ知らせろよ」
セピアは狼避け用の剣をつかむと、羊達を犬に託して森へ向かった。柵を越え、茂みをがさがさとかき分けて、思わず息が止まった。
森の緑を透かす光の中に、渦巻く長い銀髪。夢を見ているようだと、セピアは頬をつねった。痛い。何度もまばたいて、もう一度見た。黄金色の弦の張られた片手琴を抱えた、銀髪の少女が倒れている。幻覚などではない。
「……あ、あのう……もし……」
恐る恐る声を掛けてみるが、少女は身動ぎ一つしない。勇気を出して触れてみると、蝋燭のように白い肌の温もりと微かな息遣いが確認できた。
「良かった、生きてる……」
安堵に溜息が出た。
「このまま放っておく訳にはいかないよね、うちに運んだ方がいいかなあ。……そうだ、ハウローに少しうちの羊を見ていて貰おう、あいつの放牧場が一番近いし」
セピアはひとり頷き、少女を抱き上げた。自分より少し年上に見える彼女の体を銀髪が滑り落ち、セピアはぎょっとした。……少女は全裸だった。セピアは慌てて顔を横に向け、少女を見ないようにしながら自分のコートを彼女に着せかけた。
「……ハウローに応援を頼んだら誤解されるかな……いや、で、でも俺は悪い事は何もしてないしっ……!」
友人に応援を頼むべきか、セピアはどぎまぎしながら必死に考え、そして少女の容体を最優先することに決めた。
翌朝まだ明けやらぬ頃、暗がりの中でセピアは、母親が自分を呼ぶ声に目を覚ました。どうやら少女が目を覚ましたらしい。慌ててランプを灯し、冷たい水で顔を洗い、寝癖を撫でつけ、台所からパンをひとつ失敬して口に放り込むと、彼は少女の眠る部屋へ急いだ。
緊張しながらノックをし、扉を開くと、ベッドで身を起こしている彼女の姿があった。目の覚めるような青い瞳がこちらを見た。射すくめられたようにセピアの体が動けなくなる。この少女が現実離れして見える。噂に聞く精霊かと思うような容姿と雰囲気が、見慣れた部屋さえ幻想的に見せている。
「……」
少女は微かに唇を動かした。生まれてこのかた太陽に当たった事のないような白い顔。とても長い銀髪。額にはおできのような出っ張りがある。アルビノ、なのかも知れない。
「ちょっと待っておいで、今、御飯を持って来るからね。おやセピアったら、何つっ立っているのさ、こっちへ来てこの子の相手をしておやりよ」
少女のベッドのそばに居たセピアの母、ブルーノはそう言い、扉口で魂を抜かれたように突っ立っている息子をその場に残して台所へ消えた。セピアはおずおずと部屋へ足を踏み入れた。彼女の警戒したような眼差しに気付くと、笑顔を向けてそっと話しかけた。
「俺はセピリズ。セピアって呼んでもいいよ。君……名前は何て言うの?」
すると彼女は黙ったまま瞳を宙に漂わせた。青い瞳に不安と怯えが浮かび上がる。
「……」
彼女は俯き、その真っ白な手を見つめた。瞳に映った不安が、大きく揺れ、そして涙が頬を伝った。
「私、……誰?」
か細い声で少女は呟いた。雪のような肌に、またひとすじの雨が落ちる。
「おやおや、セピア、何やってんだい。女の子を泣かすだなんて」
ブルーノが食事の乗ったトレイを持って部屋に入ってきた。少女がびくりとして身を引いたが、ブルーノは構わずにベッドに歩み寄る。
「ほら、食事だよ。お腹が空いているだろう? 昨日から眠りっ放しだったものねえ」
「お……食事?」
彼女は途方に暮れたように呟いた。
「そうさ。遠慮しないでたんとお食べよ。お代わりだってあるんだから」
「そうだよ、うちでは遠慮なんていらないからさ」
セピアも母親に口を添える。少女は涙を拭い、トレイに目を落とした。美味しそうな香りが立ち上ぼっている。しかし彼女は手を付けず、ただ呆然と料理を見つめていた。
「お前さん、もしかして他所のお国の人かねえ? こんな料理見たことがないって顔しているよ。ほら、お貸し。これは、こうやって食べるんだよ」
彼女の様子を察知したブルーノが、ベッドの脇へ回って食器の使い方を教え始めた。
「……じゃあ、かあさん、俺そろそろ山に行ってくるから」
セピアは二人の姿を少し眺めていたが、窓の外の空の色を見て帽子を被り部屋を出た。背中から母親の「気をつけて行ってくるんだよ」という声が追ってきた。セピアは弁当の包みを持つと扉を開け、夜明け時の朝靄の中に飛び出した。
うす明るい靄を被って、トラブ村はようやっと目を覚ましたばかりだ。セピアと同じような年頃の羊飼い達が、各々の羊を追って歩いている。朝の静けさの中で、羊達の立てる音だけが賑わいで聞こえる。セピアは友人のカイナの姿を見つけ、彼に駆け寄ろうとしたが、隣の家のハウローに声を掛けられて振り返った。
「お早う、セピリズ」
「ああ、お早う、ハウロー。今日はどうも天気が気になるな」
「まあ、この靄じゃあね。でも、日は射してきているから、昼には晴れるんじゃないか?」
ハウローはそう言って東の空を示した。確かに、靄の向こうで金色の光がうっすら広がりつつあった。
「ところで……昨日の娘、どうした?」
ハウローが気になる様子で尋ねてきた。
「今朝目を覚ましたけれど、名前も分からないみたいなんだ。今は母さんがついていてやっているよ」
「ふーん……でも、妖精族か、白子みたいだし……凶兆じゃないかって、大人達は言っていたぜ」
その言い方にセピアは少しかちんと来た。あの少女が災いを運んでくるなんてとても思えない。彼は少し冷めた目で友人を見つめた。
「何怖がっているんだよ、ハウロー。他所者が災いを運んでくるなんて、今時信じているのは老人達くらいだろう?」
「いや、まあ、そうだけれど……」
ハウローは口ごもった。彼は余りセピアが拾った娘のことを、歓迎してはいない様子だった。セピアは肩を竦めると、この話題を打ち切りにした。二人は他の羊飼い達と共に、山の上の遊牧地へと登っていった。
その日、セピアは早めに仕事を切り上げ、家へ急いだ。ハウローの言った言葉が彼の中に少し影を落としている。
「……そんな訳ないよ。あの子が災いをもたらすようには見えない」
何度も彼は自分に言い聞かせた。セピアは羊小屋に羊を入れ、掛け金を掛けると母屋へ走った。仕事を終えたエスとバスが、セピアの後をついてくる。
台所で夕飯の支度をしている母親に帰ったと告げ、彼はすぐに少女の部屋をノックした。返事はない。
「……寝てるのかな?」
そう思い、台所へ戻ろうとした時、緊迫した雰囲気で少女が叫んだ。
「誰? 誰なの! ミムって私?……いや、いやああ!」
その悲鳴に、セピアは驚いて扉を開けた。ベッドに身を起こし、肩を弾ませた少女が凄い目でこちらを見た。そして、ふっと息をつくと、彼女はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
「……大丈夫? 怖い夢でも見たのかい?」
セピアが問うと少女はゆっくり目を閉じた。それは肯定に見えた。少女は震えながら自分の肩を抱いた。細い体躯がより心細そうにうずくまる。
「……君はミムって言うの?」
「……………」
少女はしばらく黙って、ベッドの脇に置いてある片手琴を見つめた。永遠のような長い時間が過ぎ、少女はゆっくりと声を絞り出した。
「……分からないの……多分、違うと思う……わ」
彼女は悲しそうに答えた。セピアはどうしたらこの少女を励ませるか考え、思い至って指笛を吹き鳴らした。指笛は廊下に響き、少女はその澄んだ音に驚いて顔を上げた。
「そんなに悲しい顔しないで。そのうち思い出せるよ。ねえ君は犬は好き?」
矢継ぎ早にセピアは尋ねた。少女は顔を上げた。ととと……と足音が2匹分、近付いてくる。
あ、と思った時、戸口から2つの大きな影が飛び出してきてベッドの傍で立ち止まった。少女は一瞬怯えて毛布を被った。
「はい、お座り」
セピアが犬を座らせると、少女はおずおずと毛布から顔を出した。犬を見たこともないような様子である。そう言えば先刻台所に立ち寄った時、ブルーノは少女が服の着方も忘れてしまったようだと言っていた。何もかも忘れてしまうなんて、とても不安だろうなと心の中で呟くと、セピアはこの少女の力になりたいと思った。
「君の事、仮にだけど、ミムって呼んでもいいかな? ミム、紹介するね。俺の相棒のエスとバスだよ。噛みついたりしないから大丈夫。怖がらなくていいよ」
犬達は放牧場では決して見せないくつろいだ表情で、少女を見上げてお座りをしている。甘えん坊のエスが彼女に「構って構って~」と目を向けた。ミムは困ったようにセピアを見た。犬が危険ではないと分かって貰えたようだが、途方に暮れているようだ。セピアはくすくす笑って言った。
「こいつ甘ったれなんだよ。撫でて撫でてってうるさいんだ。バスは体を動かすほうが好きなんだよね」
彼はそう言っておとなしく座っているバスの頭をわしわしと撫でた。エスが羨ましそうにバスを見やり、それから期待に満ちた表情でミムを見つめた。半分垂れた片耳と人懐こい顔だちが可愛らしい。少女はおっかなびっくり手を伸ばした。恐る恐る触れた犬の頭は温かく、命の匂いが彼女の鼻をくすぐった。エスは満足気に目を細め、尾を静かに左右に振った。その気持ち良さそうな表情につられて、思わずミムの顔がほころんだ。それを見てセピアは嬉しくなり、少女に近寄った。
「明日、君もこの子逹と一緒に山に来るかい? その琴を持ってきていいから」
「ええ……そうね……」
ミムは少し戸惑ったように、二匹の犬を見つめた。
「……いいわ。行ってみる」
「良かった」
きっとあそこの景色を見たら、元気が出るよ。そう思うとセピアは嬉しくなって彼女に手を差し延べた。
「おいで。夕御飯は皆で一緒に食べようよ。こんな寂しい部屋で孤食なんて体に良くないもん。……大丈夫? 歩けるかい?」
「ええ、平気……」
ミムは彼の手につかまり、ベッドから降りた。少女の警戒心が自然に解けているのをセピアは感じた。彼女は驚くほど細い足で何とか自分の体を支えると、おぼつかない足取りで歩き始める。彼女の体を支えるように、両側に犬逹がついた。
「ずっと寝ていたせいかしら……何だか、自分の体ではないみたい」
ミムは呟いた。しかし、足が慣れると普通に歩けることが分かった。これならあの坂道も大丈夫だとセピアは思った。
台所で鍋をかき混ぜていたブルーノは、驚いた表情で二人を迎えた。
「おやおや、お嬢さん、起きても大丈夫なのかい?」
「大丈夫大丈夫。あんまり寝かせてばかりいると、足がベッドに張りついちゃうよ」
ミムに代わって、セピアが陽気に返事をした。
「まあ、それもそうだ」
そう言ってブルーノは、ミムを見つめ、頷いた。
「やっぱり、同年代の子供は魔法使いだねえ。あのお嬢さんが、こんなに明るい顔になって」
「ほら、ミム、こっちこっち」
セピアは少女を空いている席につかせると、母親を手伝って料理をテーブルに並べ始める。犬逹は暖炉際のお決まりの場所に座り、おとなしく自分の食べ物が来るのを待っている。料理が手際良く並び、ミムにとっては初めての、楽しい食事が始まった。
「さあ、沢山食べてよ。明日山へ行くんだから、栄養つけなくちゃ」
セピアは嬉しそうに言って、ミムの皿にシチューを盛った。
「おや、セピア、この子連れて行くのかい?」
ブルーノがパンを切りながら息子に聞き返した。
「うん。ミムが、俺と一緒に山に行きたいって言ってくれたんだ。家の中で寝ているより、山の空気を吸った方が体にもいいと思うし」
セピアは嬉しさに黒い瞳をきらきらと輝かせた。それを見たブルーノの目に懐かしい光が宿る。戦争が始まる前、このテーブルの空席には父親と兄が座っており、その頃のセピアはいつもこんな風に笑っていた……ブルーノは軽く首を振って過去の幻想を追い出すと、言った。
「……気をつけてお行きよ。ええと、ミムちゃん……は美人だし、結構目立つだろうからね」
確かにミムは目立つだろうな、とセピアはハウローの言葉を思い出した。少し胸が塞がる。
「大丈夫、かあさんの服とスカーフを貸してあげるよ」
セピアの胸の内を見透かすようにブルーノはウインクをした。セピアはほっとしてミムを見、にっこりと笑った。この家の雰囲気に慣れたせいか、少女の食欲がかなり正常に戻っていたのだ。堅い朝焼きのパンを温かいシチューに浸す食事はミムにとって初めてだったが、彼女は気に入ったのか三杯もお代わりをした。
「うちの御飯が気に入ってもらえて、良かった」
食事の後、洗い物をしながらブルーノは言った。片付けをセピアと二人で手伝いながら、ミムは少し顔を赤らめた。その様子を見て、ブルーノは笑顔で言った。
「御飯が美味しいのはいいことだよ。恥ずかしがる必要なんてないさ。まあ、あたしもその位の年齢には、沢山食べた後には決まりが悪くなったもんだけどね」
「……はい」
ミムは素直に頷いた。片付けの後、ブルーノは明日出かける際に着るようにと、若い頃着ていた服とスカーフを用意してくれた。それからミムは湯を使わせてもらい、早めに寝ようと部屋に向かった。
「明日の朝、夜明け前には出かけるからね。寝坊するなよ!」
廊下で擦れ違ったセピアが念を押した。ミムは、こっくり頷くと、部屋に入り扉を閉めた。
扉の向こうから、セピアの声が小さく聞こえる。
「寝坊したら、エスに起こして貰うからな」
「分かったわ」
くすくす笑いながらミムは答え、足音が遠ざかって行くのをじっと聞いていた。それからベッドに近付くと、大切に置いてあった黄金の弦の張られた琴をそっと手に取り、囁いた。
「今夜はきっともう恐ろしい夢は見ないわ。……ねえ、あなたもそう思うでしょう……?」
琴は何も答えないが、少女は満足して微笑んだ。
「あなたの名前……まだ私には分からないけど……いつか、きっと、教えてくれるかしら?」
ピン、と澄んだ音が鳴った。手も振れていないのに弦が震えたのだ。それを見てミムは安心した。片手琴を枕元に大切に戻し、ベッドの中に滑り込む。
「おやすみなさい……」
彼女は山と森と草原の広がる景色に思いを馳せながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。