宗教と政治
うちの祖母は創価学会というのに入っている。俺も名前だけなら属しているようだ。今も定期的に家で集まり活動をしている。
創価といえば、世間での評価はよろしくないのが多いかな。
一番の原因は勧誘のしつこさらしい。
一応、俺個人は無宗教というか無心論者である。宗教自体は否定しないし、それで救われている人がいるのもまた事実。俺が書く駄文より心動かされている人がいるのは確かな事。
毎日、学会の新聞が家に届く。
たまに中を読んでみる。なかなかの偏向っぷり。この際、善し悪しは置いておく。というか俺が定義できるものではない。個人が定義するものである。
俺は無知が不幸というか、なにか1つに捕らわれるのが嫌だったから仕事にも趣味にも性格にも表れていた。
だけど、世界が狭いというのもまた幸せへの第1歩なのかもしれない。
比べるものがなければ妬みも僻みもしない。
過去の歴史では、個人の価値観を大衆に押し付けようとして返り討ちにあうというケースが多々ある。
2次の物語にもそういったケースは度々見られる。
圧倒的な力をもった独裁者が正義という名の刃を手にした勇者達に倒される。
勇者達は旅の過程で色々な人達と現実に出逢うが、勇者が刃を振りかざすのはあくまでも勇者個人の意思。
大衆が真実に気づかないで、まやかしの幸せの中にいようとそれに気づかなければ、それはそれでアリなのではないか。
そんなの本当の幸せじゃない、と叫ぼうがそれは勇者個人の価値観。
本来なら個人個人が己の世界を築かなければいけないのだが、そうもいかない。
そして政治。
昔は銃を手に取り、今は言葉を操り、平等という名の自己満足を手にいれようとしている。
言葉で効果がない場所は今でも血を流して地を紅く染めようとしている。
報道番組で、あるデモの映像を流しながら『今、政治への関心が高まっている』と言葉を付け加えたら、そのまま視聴者は捉えてしまう。捕らわれてしまうかもしれない。
これが良いのかどうかは俺は分からない。多分、人類が滅ぶ前にも答えはでないだろう。
知らない幸せ、知る不幸、知らない不幸、知る幸せ。
人生はこの4つの選択肢に分かれているのかもしれない。




