コタツ、モラトリアム、馬鹿二人
モラトリアムとはこたつに似ている。ぬるま湯のように暖かく、抜け出ることは困難だ。しかしいつかは足を出さなければいけない。そういつかは。でもそれは今じゃない。おやすみなさい。
俺は、大学の文芸部の部室で、思索にふけってこたつでうとうとしていた。今は二限の最中だ。ああ他の奴らが真面目に授業に出ている時に、こたつでまどろんでいると最高に気持ち良い。我が子孫にこの快楽を伝えたい。
「あ、先輩じゃないですか」
嫌な声が聞えた。
頭を上げる。佐東エミコが立っていた。
「何してんですか」と聞かれたので、「思索」と答えたら、「どーせまたさぼってんでしょ」と鼻で笑われた。
佐東は文芸部の一つ下の後輩である。黒髪のショートカットで、なんとなく座敷童っぽい。文才はあるが、性格が悪い。俺のことを全く敬わない。
「こたつ入りますよ」
「ここは俺の領土だ。関税を払え」
足を蹴られた。
「こたつは文芸部皆のものですよ。あ~、ぬっくい」
「おまえもっと俺のこと敬えよ」
「敬ってますよ。先輩って言ってるじゃないですか」
「なんかもっとこう態度で敬ってほしい。軽々しく蹴らないでほしい」
また足を蹴られた。
「……お前、また蹴ったろ」
「蹴ってないですよ。こたつに噛まれたんじゃないですか?」
真顔で言いやがったこいつ。
「こたつが噛むわけないだろ」
「いや南米ではコタツが噛むらしいですよ」
「これは近場のホームセンターで買ったものだ!」
「南米産なんですよ。……私だけが真実を知っている」
メン・イン・ブラックに逮捕されろ。
佐東と話していてもらちが明かないので、俺は思索に戻ることにした。
「先輩? お~い。ねえ。寝てんですか?お~い」
ふん。ざまあみろ。
次の瞬間、俺の股間に雷のような痛みが走った。
「おっおっおっおっ」
「アザラシの真似ですか?」
「お、お前はしちゃいけないことをした」
「何のことですか?」と言って、佐東はにやりと猫のように笑った。
「……もう、二度とするなよ」
「何の事だかわかりませんが、わかりました」
やはりこいつは俺を敬ってない。
「で、何の用だよ」
「暇です」
「知るか」
「暇なんですよぉ。ケータイの充電も切れちゃったし、本も今日に限って忘れちゃったし」
コタツの中で、佐東が足をバタバタさせた。
「止めろ。わかった。わかった。付き合ってやるよ」
「やった。で、何します?」
「じゃんけんとあっちむいてほいかな」
「私、先輩のそういう安易で安直な所、好きですよ」
「うるせえ。じゃああれだ。負けた方が勝った方の頼みを一つ聞く」
「……いいですよ」
「あ、頼みで金関係は無しな。今ちょっと手元がないから」
「先輩、しょぼいです」
自分でも今のは、しょぼいと思った。
「じゃあ最初はグーで行くか」
「いいですよ」
『最初はグー!』『ジャン!ケン!ポン!』
俺がグーで、佐東がパーだった。
冷や汗が流れた。
大丈夫。あっちむいてほいに負けさえしなければ問題ないのだ。
視線を誘導されるな。自分の意志を貫け。
「いきますよ。いいですか、先輩」
「……あぁ、いいよ」
「あっちむいてほい!」
俺は右を向いた。佐東の人差し指は右を指し示していた。
「勝ちました」と言って、佐東は両手を上げた。俺は頭を抱えた。
「じゃあ♪どうしようかなぁ」そう言って、佐東は邪悪な笑みを浮かべた。
「佐東、ノド乾いてないか? 肩こってないか?」
「先輩、願い事を誘導しないでください。私の願いは私のものです」
くそ。
「……じゃあこれから私が尋ねる三つの質問に答えてください。回答拒否は駄目ですからね」
「わかった。いいだろう」
「一つ目。女性の好きな髪形は?」
「ポニーテール」
足を蹴られた。
「何で蹴るんだよ」
「失礼。足が長いもので。では二つ目です。女性の好きな服装は?」
「……それ答えなきゃダメか?」
「絶対、答えてください」
「聞いたら、俺を軽蔑するぞ」
「もう軽蔑してるから大丈夫です」
……凄い馬鹿にされた。
俺は俺が出来る一番かっこいい顔で「学校指定水着が好きだ」と宣言した。
「……それは、スクール水着が好きということですか?」
「うん」
足を蹴られた。
「だから。なんで蹴るんだよ!」
「いや、今のは蹴りますよ。誰だって蹴りますよ」
平然とした顔で、佐東は言った。
「先輩。スクール水着が好きな気持ち悪い先輩」
「その形容詞は止めろ」
「そういえば思い出したんですが、私、中高、水泳部に所属していたんです」
「佐東、中高、文芸部って言ってなかったっけ」
「け、兼部してたんですよ」
「すごいなお前」
兼部するほどの部活動の情熱は俺にはなかった。俺は佐東を見直した。
「そ、そう。凄いんですよ、私は。バタフライが凄すぎて、トビウオエミコと呼ばれていましたから」
「へー」
「先輩が今度プールに連れて行ってくれたら、私の華麗なる泳ぎを見せてあげますよ」
「いやだよ。さみぃし」
今度は足を何度も蹴られた。
「……お前、俺の足に恨みでもあんの?」
「……足にはありません」
なんでこんなに後輩に足を蹴られなければならないのだ。
「……じゃあ最後の質問です。異性を見るとき、まず見るところは?」
「足」
佐東は頭を抱えた。
「先輩、私、今日パンツなんですよ」
「へー」
「こたつ、熱くないですか?」
「そうか? 俺はちょうどいいけど」
カチャカチャという音がした。
「んっ」
「なあ佐藤、さっきからお前何してんだ?」
ペッと佐東が女物のズボンを放り出した。
「何してんだ。お前!」
「パンツ脱いだんですけど」
「何で!?」
「こたつが熱くて」
「こたつの温度下げればいいだけだろ!」
「だってそうしたら、先輩私の足見てくれないじゃないですか?」
「何言ってんだお前!?」
佐東は何故かちょっと泣きそうな顔をしている。
熱でもあるのだろうか。
「佐東、とりあえずズボンはけ」
「やです」
「いいからはけよ!」
「私だってなんでこうなったか分からないんです!」
言ってることがさらに支離滅裂になってきた。やはり風邪かなんかではないだろうか。
こたつの温度を下げようか? いや駄目だ。温度調節器はコタツの内部にあり、コタツの内部を覗くと、佐東の下着を覗く可能性がある。それはさすがに駄目だろう。
佐東をコタツから出せば温度調節が出来る。いや駄目だ。それでも下着が見えてしまう。
佐東にズボンを吐かせるのが一番手っ取り早い。
「佐東、いいかげんズボンはけよ」
「やです!」
「ズボンはいたら足見てやるから」
「え」
「それにお前の足はよく知ってるよ」
「本当、ですか?」
「今日、散々蹴られたからな」
俺の股間に雷のような痛みが何度も走った。
「先輩のバーカ!アホ!間抜け!文脈読めないマン!」
「おっおっおっおっおっ」
俺はアザラシの様に鳴いて、アザラシの様にうつぶせになった。
「うーす、何してんの?」という文芸部同期の女子の声が聞えた。
「先輩!」という佐東の声。
「え、なんで佐東ちゃん、パンツなの?」という同期の声。
佐東の下着はうつ伏せになっていたため、見えなかった。
それが良い事なのか悪い事なのかはわからない。
佐東は俺をボロカスに罵倒した後、用事があるとか言って出て行った。
同期は、俺から一部始終を聞くとげらげらと笑ってから、俺を「馬鹿」だと言った。
「どうして俺が馬鹿なんだ」
「理由がわからないから馬鹿なんだ」
「馬鹿なのは佐東だ」
「どっちも馬鹿だよ。まぁ、とりあえず佐東ちゃんに謝っておけば」
佐東にとにかく人を蹴るなというメールを送ると、アッカンベーの絵文字が帰ってきた。やっぱりあいつは俺を馬鹿にしている。
それからしばらくして佐東がスカートをはいてきた。少しだけ似合っていた。