詞の八~コトバノハチ~
詞の八 ~コトバ ノ ハチ~
手術から私が目覚めたのは、二日も経ってのことだったそうだ。やけに他人事のようだけど、仕方ない。
私にあるのは、紅いプールを泳いでいた記憶だけなのだから。
目覚めたはいいけど、ICUから一般の個室病室に移るまで一週間、さらにそこで空気感染を防ぐエアシェードを外すまで二週間、そこから私の定位置である、小児病棟のあの病室に帰るまで、一週間。
気が遠くなるような時間だよ、全く。
「ただいまぁ」
住み慣れたなんていうのは、ちょっと言い方が間違っているかもしれないけれど、私には適当に思えた。
「おかえり、おねぇちゃん……」
一ヶ月会わない間に、例えばカレハちゃんの性格が激変していて、
「おっかえりなさい、おねぇちゃん! きゃるるんっ♪」
とか言い出して抱きついてきたら、ちょっと可笑しい気もする。
「それはそれで面白いけど……」
私がクスクス笑うと、カレハちゃんは何だろうという風に首をかしげる。そうすると、まとまっていたスタイルから、はらりと少しだけ髪の毛がもつれでた。一般的にこういうのはなんて言ったらいいのだろう。とか、難しいことを考えなくても、かわいい! と一言でいいのだ。
でも私はそう簡単にコトバなんかで済ましてあげない。
「カレハちゃん……」
私はベッドの脇まで行き、カレハちゃんの折れそうな体をぎゅっと抱きしめた。カレハちゃんはいつもの事ながら、一ヶ月ぶりのぎゅー攻撃にちょっと固まっている。
私が存分にカレハちゃんを堪能して腕を離そうとした時、ちいさな手にそっと力がこもった。いつだったかな、前にも一度こういうことがあった気がする。
確か久し振りにご両親が面会に来て、仕事の都合で早々と帰っちゃったときだ。私は慰めるつもりでぎゅっとして、その柔らかさにほにゃっとなっていた。そして、今みたいに離そうとした腕をカレハちゃんが掴んだんだ。
その時は「もうちょっと……」と消えそうな声で私に言った。そして今はこういった。
「おねぇちゃん、あったかい……」
そろそろ夏が近付いている。エアコンが効いていても、日本のこの季節はじめじめが勝ってるから、あまり人同士でぎゅってしても、心地よくはない。
……そのはずなんだ。でも私はそれを無視して、攻撃する。でもどこか違うんだ。カレハちゃんやみんなにぎゅってすると、暑いにもじめじめにも勝って、私のなかで幸せがひょっこり顔を出す。
でもこの時の顔の出しようっていったら、雨後のたけのこなんてことわざがバカらしくなるくらいだった。人生最大なんていうのはきっと大げさ極まりないんだと思うけど、私はそれくらい嬉しかった。
私が抱きしめることで、カレハちゃんはあったかいって言ってくれた。別に私があったかいって言われたわけじゃない。
私の人間性をあったかいって言われたわけじゃない。
でも、この一言は私にとって、それくらいの価値があるんだ。人の温もりと、大気の暑さはまるで違うと私はカレハちゃんに教えてあげられたのだ。
私が短い人生の中で、出会って来られた幸福をカレハちゃんに伝えられたんだ。この狭い病室で私はほとんどを過ごしてきた。お母さんだってほとんど知らない。でも私はそれ以外の人にたくさんたくさん教えてもらった。例えばそれはきみこさんだったり、カレハちゃんやユウイチくん、アキちゃんだったりする。
教えてくれた人に教えるなんてバカみたいだけど、自分ではそれに気付きにくい。でも気付いたとき、私のように羽の生えた心になれる。
だから私はお礼にもう一度カレハちゃんをぎゅっと抱きしめた。昨日お風呂だったのかな――髪の毛からは懐かしいシャンプーの匂いがした。
カレハちゃんの髪をクンクンしながら、私は斜めに位置するユウイチくんのベッドを見た。
「ん……?」
いつもは白いシーツがくちゃっとなっていて、携帯ゲーム機のソフトやらが散乱している。それなのに、今見えるベッドはきちんと整っていて、まるで生活感がない。
それどころか、新しい住人を待ち望んでいるようにさえ見える。もう何日も人が使った形跡がないのだ。これはアキちゃんがいなくなった時とよく似ている。
「…………」
だから嫌な気持ちがむくっと大きくふくれた。綺麗な白いシーツを見るたびにむくっ。しわのないシーツを見るたびにむくっ。だから私はしわばかり見つけるようにした。でもなかなかない。見つけてやると意気込んで、見つけられなくってむくっ――その繰り返しで、こころの中が黒く黒くなってしまった。こうなったら、もう希望とかそういうものは見えなくなってしまう。きっとこういうところで生活していれば、一度か二度は味わうものだ。
だから口がそういう気持ちで動かされる。脳が勝手に言葉を作ってしまう。そして、口にだしてしまう。
ここにいるか弱きカレハちゃんに向けてしまう。ぶつけてしまう。
「……カレハちゃん……ユウイチくんは、どうしたの?」
聞いてから私は乾いた喉をならした。
わざわざ聞かなくたって見ればわかる。それなのに、私は確認したかったんだ。
ユウイチくんがどうなったのかを確認したかったんだ。
「ん……ユウイチはもういないよ……おねぇちゃんがここにいない間に……」
私は詰まる事なく言うカレハちゃんを思わず止めたくなった。自分から聞いておいて、最大級に自分勝手だ。
私の黒い心は希望なんて生み出してくれない。常に悪い結果だけを思い浮かべさせる。ユウイチくんがここにいないということは、どこにもいないということだと、無理やり答えを押し付けてくる。
「……お家に帰ったよ……」
「え?」
カレハちゃんは何て言ったのだろう? 私はもしかしたら耳が悪くなっちゃったのか――それとも、あれ? あれ? あのカレハちゃんが嘘でもついているのかな――。
「おねぇちゃんの手術が終って、しばらくしてからユウイチ、退院が決まったの。さよなら言いたいっていってたけど、おねぇちゃん寝たままだったから……」
そうか……そうなんだ。
私は自分が汚くって仕方なく思えてくる。
私の心は黒いから、そんな希望を紡ぎ出してなんてくれなかった。当たり前にも似て存在するはずの幸せの選択肢を私の心は選ばなかった。
それは私が――ユウイチくんがいなくってもいいと思っているって事なのだろうか。
それは私がユウイチくんの病気が治るはずがないと思っているからだろうか。
「…………」
きっとどの心だったとしても、罪にしかならない。
ICUのガラスの向こう。いつまでもいつまでも起きない私を見ながら、ユウイチくんが私と同じ事を思っただろうか。
黒い心に支配されて、私の死を思い描いただろうか――。
私のように暗い顔をして、幸せなんて何にも考えられずいただろうか。
ちがう、きっと違う。ユウイチくんがそんな事を考えるはずがない。
私が治るのを小さな手を合わせて祈っていてくれたに違いない。私がいつもみたいに抱きしめてくれると思っていたに違いない。もしかしたら、さよならがいえないことを後悔していたかもしれない。もしかしたら、先にいなくなる自分を責めていたかもしれない。
「そっか……さよならの代わりにおもいっきりぎゅって、ぎゅ~~ってしてあげたかったのにな…………」
私は整ったベッドを緩んだ目で見ていた。もうしわを見つけても、黒い心は出てこない。その代わり、歪んだ視界から涙がこぼれてしまった。私はそれをカレハちゃんに気付かれないように素早く拭った。
「ふぅん、そんなにぎゅってしたいなら、させてやってもいいぜ」
懐かしい声。まるでユウイチくんみたいだ。一ヶ月ほどかかってカレハちゃんが体得した声真似だったら、すごいのに……。
「え……」
よく考えたらそんな事あるはずがない。カレハちゃんの声はユウイチくんとはまるで違うのだ。私はそれさえもわからないくらい混乱しちゃったのだ。
私はあわてながら声がする場所を探す。でもすぐに気がついた。病室の入り口の所に花が咲いていたからだ。
ドラマで主人公が恋人にプレゼントするような、おっきなおっきなものじゃない。
それ相応っていうのかな。かわいらしい花が咲いていた。
「ユウイチくん!」
私が嬉しそうに声を弾けさせると、抱えた花束の脇からひょこりと懐かしい顔が覗いた。
「きてやったぜ、真由ねぇちゃん!」
ユウイチくんはニカっと笑って、私のほうへ歩いてくる。そして、ぴったり目の前で行進止まれ。
なぜだろう。ほんの少しの間しか離れてなかったはずなんだ。でも嗅ぎ慣れたエタノールの匂いじゃなくて、短く刈りそろえたツンツンの髪の毛からは、外の巡る季節の匂いがした。
「へへ、これいいだろう? もっと大きいのにして欲しかったんだけどな……これでも、ゲームソフト一本分の半分なんだから、感謝しろよな。俺だって……その、ねぇちゃんのために、身を切ったわけだ」
「うんうん!」
私は話半分で聞いて、ユウイチくんをぎゅっと抱きしめた。花束が邪魔になってるけど、かまうことなく。むしろ、その花ごとユウイチくんを抱きしめたかったんだ。
「真由ねぇちゃん……元気になったんだな」
「うん、まぁ、私はこれから、だけどね……ユウイチくんも元気になったんだよね」
「うん……元気になりすぎて、追い出されちゃった」
「ばか……」
私はもう一回、ユウイチくんを強く抱きしめた。
「真由ねぇちゃん……懐かしい匂いがするな……」
「え…………」
そういったユウイチくんの顔は見えない。
ねぇそれは私の石鹸の匂い?
それはシャンプーの匂い?
だったらいいな……でも消毒液の匂いだったらイヤだな……。
少し聞いてみたかったけど、私はユウイチくんが運んできた季節の匂いを堪能する選択肢を選んだ。
だって、そこには私の知らない世界がある気がしたから。