詞の七~コトバノナナ~
詞の七 ~コトバ ノ ナナ~
私は今、深い深いところにいる。
すごく静かで、何にもなくて――暗くて少し寒い。
入ったことないけど、屋外のプールの底から空を見上げると、こんな風なのかもしれない。ふわふわしていて、全てが夢みたい。硬いはずの地面も素足を下ろすとすうっと沈み込んでいくみたいだ。
だから私には外の世界でのことが聞こえない。大本先生がどれほどの汗を流しながら、手術室に立っているか。
そこで何が行われているかも知らずにすむ。
例えば冷たいメスが私のお腹を走って、その道筋から赤い血がぽつぽつ浮かんで流れても、知らなくていい。開かれたお腹を構成する大事な肋骨をグラインダーカッターで切り取っていても、知らなくていい。何せ音なんて、全部優しい音楽に聞こえるくらいだもの。
何も心配しなくていい。私はただ終るのをここで揺られながら待っていればいい。
そして漂うふわふわした空が光って見えるのを待って、浮き上がればいい。ただ、このふっかりとした地面に足を取られないように、そこだけに気をつければいい。
いくら綺麗な花が咲いていたって、優しい女の人が対岸から手を振っていたって、気にしちゃいけない。
でもどうしてだろう。すごくいい匂いがする。鼻の先にふわりときて、とても懐かしい。もうずっと匂いに埋まっていたい。春先のふかふか布団みたいだ。いったん出てしまっても、また入り込みたい衝動に駆られちゃう。
優しくて、深くて、まとわりついてくる温かさ。
これはもしかして私を離さないようにしているのか?
でもそんな事しても無駄だよ。私はこんなの、簡単に抜けちゃうんだから。
そんな風に強がって、柔らかい地面に少し埋まった足を上げて見せようとする。
「うぇ、そんな……そんな!」
簡単なはずだった。それは何ていうか、病院食のはんぺんみたいな感じだったから。
私は完璧に気を抜いていた。そんな事があるはずないと。
ただこの波に揺られていれば、時間が全てを洗い流してくれると思って、努力をしなかった。
光に向かって、必死に泳ぐ努力をしなかった。
だから掴まれそうになったんだ。
地面を蹴ろうとしたのに、離れるどころか、それは私の足をしっかりと掴み始めた。何本も、何本も地面は手に形を変えて、私の足から、太腿から、腰までを掴みはじめる。
安っぽい想像だけど、だからこそやっかいで、とても怖かった。
心の中が、怖いでいっぱいになった瞬間に口から、がぼっと空気が漏れていった。何でもなかった呼吸が続かなくなって、眼が回りそうになる。
目の前が私の吐いた息のシャボン玉で見えなくなる。
苦しくてもがくけど、そのせいでもっと世界が見えなくなる。がぼがぼ、がぼがぼ、吐き出す泡で何もかもが消える。
「……ちゃん……」
でも聞こえたんだ。
何にも見えない泡だらけの世界で、その声だけは聞こえたんだ。
「おねぇちゃん、落ち着いて」
もがいてもだえて、バタバタしてるだけだった私の手を、誰かがつかんだ。
そりゃもう、ダメなんだって思った。でも、その手はすごく小さくて、でもあったかくて、やわらかで、私の手を両手で包んでくれている。
「おねぇちゃん、しっかり泳いで!」
「アキちゃん……?」
私が泡に紛れてもらすと、アキちゃんはにっこりとあの笑顔をくれる。それなのに、今まで見たどの顔色より、アキちゃんは白かった。でも、そんな理由を聞く前に、アキちゃんは私に話し始める。
「おねぇちゃん、諦めちゃだめ! 必死で泳いで上の光を見て!」
アキちゃんは私の手を痛いくらい握りながら、目の前の泡をかきわけて私を見つめる。
「さ、早く泳いで。上に、上にいくんだよ」
まるで私のおねぇさんにでもなったみたいに、アキちゃんはある所まで、必死に連れて行ってくれた。
でも、ある部分でぴたりと止まった。
「アキちゃん?」
私は当然その先もアキちゃんが一緒に来るものだと思っていた。でも、さっきまで繋いでいた手まで放して、アキちゃんは空間に浮かんでいる。
「ごめんね、おねぇちゃん。アキはここから先には行けないの」
「どうして?」
「う~ん、誰かがね。もうアキはそっちにいけないんだよっていうの。だからダメなの」
そんな理由なの? って聞こうとした。でも聞けなかった。ここがどこなのかはよくわからない。
水の中なのか、空の上なのか。
でもアキちゃんは、はっきりと泣いていた。あの日の赤よりも鮮明な透明が、白いほっぺに道を描いていた。
「アキちゃん……」
「でもね、真由おねぇちゃんはまだ帰れるよ。だから泳いで、頑張って! ユウイチくんによろしくねっ!」
アキちゃんは戸惑う私の背中をどんっと押して、手をぶんぶか振った。
「アキちゃん! どうして、どうしてぇ!」
私は叫ぶけど、アキちゃんは濡れたほっぺたをふにゅっとしたまんまで、やっぱり手を振っていた。
私はそれをつかもうと、必死で手をのばす。
でも私の手が掴むのはすぐにぱちんと弾ける泡だけで、本当に掴みたいアキちゃんの手のひらだけは、幻みたいにスカスカって通り抜けて消えてしまう。
私がもがくから、アキちゃんの姿まで、歪んでしまう。
そしてどんどん、遠くなって行く。遠く、遠く、遠く。
もう、私がどんな魔法をつかっても届かないくらい、アキちゃんとの距離が離れちゃったとき、誰かがその後ろに現れた。
そして、アキちゃんを後ろから、ぎゅっと抱きしめた。
あれは誰の腕だろう。すごく白くて、細いのにすごく綺麗ですごく温かそうで、すごく、すごく……私の頭の中が、すごいすごいを連発して埋まっていく。だからかな……頭がぴりぴりし始めて……どこかに忘れていたものが、チカチカ点滅信号が光るように、私の頭の中に浮かんでくる。
でもその全てが、嫌なものじゃない。
ううん、嫌なんてとんでもない。私はずっとこれを見たかったんだ。
夕焼け杏色のなかで、包まれる優しい腕の記憶。
それは私が記憶の奥の奥に落としてしまって、忘れかけていたものだと思う。
きっとあったかだった。きっと優しかった。
きっと、きっと、きっと、きっと。
「お母さん……」
そう私が呟いた瞬間に、世界の全てにさぁ~~~っと、色がついていく。
「え、何これ! この水って赤かったの!」
そうわかった途端、私は息ができなくなって、がぼがぼと肺から酸素が抜けていく。
「ちょ、苦しい、くるしいぃいいい!!」
もう、水面まで五センチくらいじゃないか、頑張れ私。
ほら、アキちゃんもお母さんも応援してくれたんだぞ、ここでガンバらないで、いつガンバるんだ?
そう思っても、やっぱり、息は続かない。
「あ~~~苦しいぃぃぃいいい!」
そんな事を言ったはずで、私はカッっと目を開いた。
そして飛び込んできたのは、柔らかい蛍光灯の光。そして苦しいだけの酸素マスクだった。
「んがぁ!」
っと言ってみたものの、私にはそれを剥ぎ取る力さえなかったみたいだ。なにせ、手が上がらない。
「ちょっと、なんで……」
私がウンウン、もぞもぞしていると、きみこさんが慌てた顔をして、病室から出て行った。
「何、ここ……どこなの?」
やっと振り向いたけれど、そこには懐かしい病室の窓はなかった。ここは壁全面がコンクリートにうっすらモルタルだっけ、それが吹き付けてある壁だ。味気も何もない。
せめて、窓があって、空が見れたら――。
「気が晴れるのになぁ……」
私はそれだけいって、また眠った。