詞の六~コトバノロク~
詞の六 ~コトバ ノ ロク~
鏡の前に私がいる。
昔からあんまり太ってはないけど、またいくらか痩せたのかもしれない。
鎖骨がはっきりと浮いて、水滴がその上で珠になってる。
ここは病院の浴室。介護用のじゃないから、家庭用よりやや大きい程度。
特に私は付き添いがなくちゃ入浴してはいけないってことになっていないので、看護師さんは外で待っている。
「ここか……」
私はいつかパジャマの上からやったように、手術で開腹する場所を、中指でなぞりはじめる。胸骨のすぐ下に指を置き、緩やかにカーブしながら、おへその上で止める。
自分の指なのに、やけにこそばゆくて、もぞもぞする。
「ん?」
そこで私はいいものを見つけた。おそらく小児病棟ならではの忘れ物だろう。
それは石鹸クレヨンだ。体や浴室の壁なんかに落書きしても、石鹸なのですぐに落ちる面白アイテム。
私はそれを借りる事にした。鏡を見ながら手に取ったクレヨンを動かしていく。
「んっ……」
それは指なんかよりもっと冷たくて、もっとこそばゆいものだった。ヘンな声を出しながらも、私は先生が説明してくれた通り、クレヨンで自分の体に線を描いていく。
まず長く緩やかな一本。
続いてそれに付属して展開する短い線を六本。
「こんなものかな?」
出来上がった青いクレヨンの痕を鏡に映してみる。
「…………」
それははっきりしないお風呂場の灯りでもくっきりと、すごく酷い傷に見えた。実際はここまで太くてはっきりしたものじゃないかもしれない。
でも私が思ったのは、怖いってことだった。
だから私はすぐにシャワーをかけて、泡だらけにして、スポンジで体をこすった。
もちろんそれはすぐに消えた。でも、私は手術すると確実にあの傷を負う。
どんなに病気であることを受け入れたとしても、恐怖がなくなっちゃう訳じゃない。人が人である以上、怖いなんてどこにも行きはしないんだ。私たちが気付いてないだけで、いつも足元に座って、見上げている。私たちが自分に気付いて泣くときや、苦しむのを笑ってみている。
「でもこれはきっと……私の罪に対する罰なんだよね」
優しいカレハちゃんを裏切る代償。ユウイチくんの約束を破ってしまう代償。
そういうものなんだ。
だったら、耐えなくちゃいけないものだ。
胸を切り開き、肋骨を切り取って――それ自体には麻酔っていう救済がある。手術中、私が痛みや軋みを感じる事はないだろう。成功しても失敗しても、私に残るのは結果だけだ。
あるいは傷跡という結果。
あるいは死という結果。
どちらにしても、受け入れるしかない。私はお母さんとは違う道を行くのだ。手術もできなかったというお母さんとは違う。
だから、違う結果が出るって、私は思わないといけないのだろう。だってお母さんと違うことをしてもらえるんだもの。私はきっと、罪を背負うのと同じように、希望も背負わなきゃいけない。
この二つを同じように背負うことが、私の務めなんだろう。
「きっと許されたいだけの、いいわけだ……」
シャワーの湯気で曇った鏡に、くすんだ私が映る。
よく見えない顔は、私の心みたいなものなのかも知れない。ぼんやりと霧の向こうの顔が笑顔かどうかわからない。
手術が上手くいく事で単純な変化を望んでいる私と、手術も上手くいって、ユウイチくんもカレハちゃんも私を許してくれて、全てが思い通り私の望む通りに行くということを望んでいる私。
「どっちも身勝手すぎるよ……」
私は曇った鏡に指を置き、出来上がるだろう手術痕をそこに描いた。
私のものじゃないはずなのに、とても生々しかった。
石鹸クレヨンで生身に描いたものより、なぜか重々しかった。
「偽物なのに……」
私はその鏡の落書きを残したまんまお風呂から上がった。
お風呂の熱でちょっとぼ~っとした頭を小さくカクカク揺らしながら病室に戻ると、私のベッドの前にユウイチくんが立っていた。
私はまだユウイチくんに手術の事を言ってない。これはきっとチャンスなんだろう。
こんな機会を与えられたんだ。
私だって引いちゃいけないことぐらいわかる。
私は渇いた喉をゴクリと鳴らして、ユウイチくんの傍に行った。
「あ、真由ねぇちゃん……なんだお風呂だったのか」
「うん、湯上りでいい匂いがするんだから。乙女の匂いなんだから」
私は自分の緊張をほぐそうと、いつもみたいに冗談を言って、ユウイチくんにならんだ。
「どう?」
「うん、真由ねぇちゃん、いい匂いする」
「じゃあ、これでどうだ……」
私は立ったままユウイチくんを後ろからぎゅーっと抱いた。
私よりまだ随分小さいので、こうするのが最善だ。私もとっても楽チン。
「あったかいな、ねぇちゃん……」
しばらく私はそうしたままだった。ユウイチくんもじっとして、私にもたれてくれている。
そうしてふたりで窓の外をぼんやり見ていた。
「なぁ、ねぇちゃん……手術するんだろ?」
「えっ……」
別に強い風は吹いてなかった。白い鳥だってばっさばさ飛んでない。
何でもない瞬間だった。
その優しい言葉が私を包んでくれたのは……。
「ねぇちゃん、手術絶対に上手くいって、元気になれるよ」
「うん……」
「だからさ、頑張って……」
「うん……」
私は自分から何も言えなかったくせに、こんなにもあったかくなってしまった。もう、それ以上言い訳なんてする必要ない。ユウイチくんの小さな勇気が、私の中でいっぱいに広がっていった。
そして、思った。
どんなに小さくて、どんなに薄っぺらで、どんなにあやふやでも、希望を持つと言う事。
私たちは変わる事を望んでもいいんじゃないのか――。
そう、私は思い始めていた。