詞の五~コトバノゴ~
詞の五 ~コトバ ノ ゴ~
平静でいること、普通でいること、安定していること。
それらが私たちのいつも変わらない願いみたいなものだ。
だからって、味の薄い病院食を口に含むたびに、そんな事をお祈りしているわけでもない。
その程度がいわゆる「不信心」とかいうものじゃないはずだ。
でも、そういう小さなものの積み重ねも、何かの波にはなったのかな――突然、回診の他に私のところへ、主治医の大本先生がやってきた。
「真由ちゃん、加減はどうだい?」
先生は忙しさを表に出さず、いつも優しく話しかけてくれる。まだ若いのに、腕のいい外科の先生だ。
「はい、特に何ともないですよ」
「うん、いいことだね。それでね、真由ちゃん」
先生は言葉の尻尾を弱めて、私に一歩近付く。私は何だろうと思った。脈はさっきみたし、体温も測って済んだ。
「真由ちゃん、検査の経過がね、とってもよかったんだ。この調子なら、来月には手術ができそうだよ」
「えっ?」
こういうのは青天のヘキレキって言うんだっけ?
私が手術?
「そうだよ、これもちゃんと真由ちゃんが頑張って治療してきたからだよ」
「そうなの?」
本当にそうなんだろうか。私がここでしてきた事と言えば、食っちゃ寝、食っちゃ寝。たまにパソコンでサイト徘徊。飽きたらみんなをぎゅーとする。
この生活のどこに「頑張って治療した」が含まれているんだろう。私にはさっぱりだ。
確かに検査とかは何個も何回もやったけど、それは「辛い」に分類してもいいかどうか迷うものだった。
だってそれは私が小さな頃から、ずっとずっと、朝晩の歯磨きみたいにしてきた事なんだから。
私は点滴のとき以外は、わりと自由に歩きまわれるし、パソコンだって許してもらってる。カレハちゃんみたいに、ずっと寝ていることだけが許されている事じゃない。
「先生、本当なんですか?」
「はは、真由ちゃんは心配性だな。大丈夫、このまま調整していけば、必ず手術も成功するよ……いいや、してみせる」
先生の顔は自信に満ちていた。でも、私は同じ病気で死んだというお母さんのことが頭に浮かんだ。
もちろん、十数年前と今の治療技術や薬の効能を比べてはいけない。医術は日進月歩、千里の道も一歩ずつだ。だけど大本先生がその時いて、いまほど技術も機械も薬もあって、お母さんの手術をしていれば――そんな事を思ってしまった。
これだって、「でも」も「もしも」もないことなんだ。
先生は私の手術を成功させるっていった。
それは信じなきゃいけないことなんだろう。
どんなにか不安で、歩み寄れない事だとしても。
でも私は怖い。
私たちは変わらないことが、普通で一番の幸せなんだから。
手術をすることっていうのは、変わるっていうことじゃないのか?
だから私は怖くなる。
いくら大丈夫だよ、そんな事ないよって優しく先生が近寄ってきても、私は自分の心地いい巣穴を出て行くのが、ものすごく怖い。
自分から変わることがすごく怖い。その変化が自分にどう影響しちゃうのか、それがとても怖い。そしてみんなにも――。
「真由ちゃん、大丈夫だからね」
そういい残して、先生は行ってしまった。大丈夫という優しい声が私の中でグルグルまわる。
とっても嬉しい呪文だけど、私は耳を塞ぎたくなる。
それは聞いちゃいけないことのように思えたんだ。お菓子をあげるよっていう魔女の誘惑だ。
「おねぇちゃん……」
「え……」
揺らいだカーテンの隙間からカレハちゃんの声がした。
私は急いでその元へいく。
「ん? どうしたの」
「うん、おめでと……」
どうやらカレハちゃんは聞いていたようだ。またちいちゃな手が布団から覗く。私は慌ててその指に手をのばす。
触れた瞬間の冷たさは、すぐに解ける。でも、この寂しそうな眼はどうすればいいんだろう。
私はこの前、嘘をついた。
そしてまた、嘘をつこうとしている。
この眼に対する、私に許されている方法は、きっと嘘しかない。
「ありがと。カレハちゃんもすぐによくなるよ」
「ん……」
カレハちゃんの笑顔はすごく儚かった。まるで私の嘘なんてお見通しで、その上その先まで知っているようだった。
だから私は耐え切れなくなって、視線を外してしまった。
その後いつも通り、手をベッドの中にしまってあげて、私は自分のベッドに戻った。
「ふぅ……」
病気であることを諦めてから、随分と出なかったため息が漏れた。ユウイチくんはまだこのことを知らない。言ったらどうなるだろう?
「ねぇちゃんの裏切り者!」
そう言ってくれるだろうか、私を責めてくれるだろうか。
きっと、よかったとか頑張れと言ってもらうより、私は楽になれるだろう。
「本当に、いけないおねぇさんね……」
気付いたら、自分が逃げる事ばかり考えていた。
そんな私の手術は、本当に成功するんだろうか?
窓の外を見ると、どこからか風が運んできた木葉が舞っていた。