詞の二~コトバノニ~
詞の二 ~コトバ ノ ニ~
病室――
ここにいると、変わらない事が多いって思う。
どんなに窓の外の景色が季節を教えてくれても、結局、窓枠の額縁がつくる世界以外のところはみえないし触れられない。屋上に登って、世界に繋がっている空を感じてみても、そこは病院の屋上の空でしかない。
こんなことばっかり考えてる私は、偏屈だろう。
でも、ここで変わるっていうことは、二種類しかない。
それはいい事と悪い事。
いい事は退院して出て行くこと。悪い事は入院してくる事。
そして、いなくなること――。
だから実は、変わらないことっていうのは、一番安定しているっていうことでもある。
「どうしたのぉ、真由ちゃん。ぼーっとして……まぁ、点滴してるんだから仕方ないかな」
きみこさんが笑いながら言う通り、点滴中はとても暇なのだ。このにっくきポリパックが空になるまでは、パソコンもしちゃダメだって、先生にも言われている。許されるのは、たこ足のガラガラを連れてのおトイレだけ。同じくゲームを禁じられているユウイチくんのようには、私は子どもではないので、ブーブー言って、きみこさんを困らせたりしない。
私はおねぇさんなのだ。ここはぐっと我慢だ。
カレハちゃんなんて、文句なんて無駄な事って言いたいぐらいに大人しい。一度、点滴中じっとしているカレハちゃんに聞いたことがある。「何してるの?」って、そうしたら、
「液が落ちるの、見てるだけ……」
と、ぼそりと教えてくれた。
せっかくなので、真似してみた。でも私は五分ともたなかった。ぽたぽた、ぽたぽた、が見ているうちに、イライラ、イライラに変わっただけだった。
カレハちゃん、こんなのどこが面白いの? とは聞けなかった。
だってカーテンの隙間からのぞいてみたカレハちゃんは、じっと自分の腕に繋がるシリコンチューブの根元を見つめていたからだ。
それは面白いとか、そんなのとは別の世界の出来事だった。それ以外にやる事がない。だから仕方ない。そういう諦めみたいなものを感じてしまった。まだ、恨んで呪っているくらい睨みつけてたほうがマシなくらいだ。
同じ年代の女の子のアキちゃんなんて、じっとしてなさいって言われてるのに、たこ足のあいつ(銀色の点滴がかけてあるやつね)を引っ張りまわして、渡り鳥みたいに友達の病室を遊び歩いている。
その違いっていうのはまるで、光と影みたいだ。
でも、この病室でいえば、それはそれで調和がとれていたと思う。
アキちゃんの明るさと、カレハちゃんの穏やかさ。
だけど、調和っていうのはどちらかが欠けると、いっぺんに台無しになっちゃう。
それはまるで、日が陰るくらい突然で、夜が明けるくらい自然な事だった。
渡り鳥のように飛び回っていたアキちゃんが、病室に帰ってこなかった。
遊び先の病室で発作を起こし、そのままICUに運ばれてしまったんだ。
私がそれを知ったのは、夕飯のときだった。味の薄い病院食の中で、大好物なメロンのゼリーを思わずシーツの上に落としてしまった。アキちゃんが夕飯時にきっちりベッドにいないことなんて当たり前だったから、私には気が回らなかった。
いつもこのおかずはまずいだとか、ぎゃあぎゃあ言ってるユウイチくんさえ、誰もいないアキちゃんのベッドをみては、ぼそぼそと口にご飯を含むってのを繰り返していた。
カレハちゃんは相変わらず押し黙って、小さな口にご飯を入れていた。
私は落ちたゼリーを悔やみながら、まだ食べられるよねとシーツの上の透き通った碧の欠片をスプーンに乗っけていた。
そんなのタダの現実逃避だ。
急にそう思ったのは、夕食後の点滴のシズクをながめていた時だった。
「…………うん」
私は体をゆっくり起こし、たこ足の点滴をひきずって病室を出た。
消灯間近の小児病棟は驚くほど静かだ。もちろんいつもじゃない。今日は特に静かだった。
私はたこ足の相棒につかまりながら、廊下を歩く。行き先はもちろんあそこだ。幸い、ここからは近い。
「……中に入れるわけじゃないのに……私は」
早くも挫けて、悔やむ。その場所の目と鼻の先で、まごまご、行ったりきたりしていた。
「あら、真由ちゃん?」
「は、ひっ!!」
この不信人物に声をかけたのは、きみこさんだった。
「どうしたの? 点滴中はできるだけじっとしてなさいって言ってるでしょぉ。無理に動くと、針が血管を痛めちゃうことだってあるのよぉ」
「うん、でも……」
私はきみこさんの顔から視線を外して、俯く。
でも、きみこさんはよく気の回る人だから、私がICUの近くでウロウロしている理由がすぐにわかったみたいだ。ささっと近付いてきて、ぎゅっと大きな胸に抱いてくれた。
「大丈夫よ、アキちゃんは強いんだから。もう発作も落ち着いたし、本当は今日中に一般の方に帰れる予定だったんだけど、念のため今夜はこっちにいるだけよぉ」
「そうなんだ……」
私はそれを聞いて、へなへなときみこさんに寄りかかった。
「あら、大丈夫~? それとも真由ちゃんもICUが必要かしらぁ」
言うと、きみこさんは私の頭をなでてくれた。
「きみこさん、いい匂い……」
そういうと、きみこさんは目を糸にしてわらってくれた。
「こういうのはくたびれ損って言わないよね……」
私は自分のベッドに戻り、腰を下ろしながら呟いた。
「真由おねぇちゃん……」
それは隣のベッドから聞こえた。何だろうと思う間に、白いカーテンが少しだけ開く。
「カレハちゃん……」
「アキちゃん、大丈夫?」
どうして私がアキちゃんの所へ行ったとわかるのだろう。
「うん、今夜は念のためだって、だから明日には帰ってくるよ」
「……そう、よかった」
それだけ言うとすっと、カーテンはしまった。
「……」
確かにカレハちゃんはとても穏やかで、物静かで、無口かもしれない。
でも、とても優しい娘だ。とてもとても優しい娘だ。
よし、明日はいっぱい、ぎゅ~ってしてあげよう。今日はもう無理だから、とりあえず、この枕で我慢だ。
そう、とても優しいんだ。みんな、みんな。
みんな誰かが欠けて欲しくない、自分との関わりを絶って欲しくない。
ひとりになりたくない、みんなといたい。
だから、たとえそれが退院だって、みんな寂しいんだ。
嬉しいことでも、寂しいんだ。