詞の十~コトバノジュウ~
詞の十 ~ コトバ ノ ジュウ ~
それは「羽」
私がここから――いや、私たちが飛ぶための「羽」
カレハちゃんの彼氏の持ってきてくれるそれを一枚一枚、丁寧に集めるんだ。
今日のこれも……。
「カレハ、カレハ聞いてるのか?」
「うん……」
カレハちゃんは、けほんと一回小さな咳をして答える。
私がしていることは、どんなに綺麗な言葉にしてみても、盗み聞きというのだろう。
でも残念なことに、私にはカレハちゃんのように何かを運んできてくれる人がいないのだ。ならば、こうしても罪も罪として認められず、少しは大目にみてくれるだろう。
神様がいるかどうかはよくわからないけど、これで何かのバチが当たったためしがないから、いいのだろう。
「そうそう、プールの話だよ! いや、それはもう終ったんだっけ……それじゃ何の話が聞きたい?」
「…………」
カレハちゃんが無言の間に、私はベッドから乗り出して、手をあげたい気分だった。はいはいはい! 私聞きたい事がいっぱいあるよ! って、割り込んでしまいたい気分だった。でも、二人のステージに私の出演シーンは用意されていない。だから、大人しく私は少女のように噂話に興味津々なままベッドに潜っていなければならない。いいでしょう? 私はまだまだ少女でいける歳なの!
「……なんでもいい」
私のドキドキをほっぽいて、カレハちゃんはそんな事を言い出す。これじゃせっかく話そうとしている相手がへにゃってなっちゃうでしょ。ここは優しく何かの話題を振ってあげなくちゃいけないって、ネットに書いてあったよ!
「そっか、なら俺のとっておき話すから、後で聞きたくなかったなんて言うなよ?」
と、彼はこの程度では挫けない子だったようだ。とてもたくましいというか、将来この挫けない心でナンパ師とかにならないことを祈りたい。私のかわいいカレハちゃんが不幸になっちゃうじゃない。
なんて思うけど、これは私の取り越し苦労なのね。それは二人の中ではすでに出来上がっている秘密の暗号みたいなものなんだ。ほら、よく言う「山と川」みたいな合言葉。だから、元々ステージにいない私が心配するようなことじゃないんだ。
二人のステージは二人にまかせればいい。観客は黙って見ているしかないんだ。それだけで、欠片だけでも大切なものが手に入るのだから。
「じゃあこの前、学校に忍び込んだ話だ!」
「ふぅん……」
相変わらず端から見れば、カレハちゃんの聞く態度は興味ゼロだ。私ならとっくに諦めて寝ている。それでも彼はきっと眼を輝かせて、カレハちゃんに自分の冒険譚を聞かせようとしているに違いない。かく言う私も、彼と同じように眼はギンギン。
「その日はドリルの宿題がたんまり出たんだ。でも俺はそれがないことに、家に帰ってたんまり遊んだ後になって思い出した。ご飯も食べたし、すでにお風呂にまで入った後だ。普通なら諦めるよな?」
「…………」
カレハちゃんが無言でいる代わりに、私は心のなかで必死に相づちを打つ。そうでもしないと、話を待っている私の間がもたない。
「だが、俺は諦めなかった。お母さんに言うのも怒られるのが目に見えている。だから俺は黙って出かけたのさ」
ふむふむ、この子はユウイチくんとは少し違って、冒険野郎タイプなのか――とほくそえむ私を置いて、やはりカレハちゃんは黙ったまんまだ。
「夜の道っていうのはさ、まるで違うんだぞ? 昼間には毎日通ってる所でも、お日様の光がないだけで、別の世界みたいなんだ。しぃ~んって、全部がだんまりしてるんだぜ」
「……へぇ」
カレハちゃんは感嘆詞というか、つまらない言葉で相づちをうつのが基本なのかな……私と話している時はそうでもないのに。なんだかカレシが可哀想になってきた。
それでも相当へこたれないカレシは、カレハちゃんの反応を無視するくらいの勢いで話し続ける。これくらいの気概っていうのは、私も見習いたい。
「そこは俺の強さ。暗い道だって楽しんでいるうちに、学校についたわけ。さすがに正面の門は俺には高すぎる。だからあの時の抜け道を使うのさ」
「……ああ。あれはまだ直ってないの?」
初めてカレハちゃんがそれっぽい反応を示したと思う。
私にはよくわからないけれど、二人には共通のサインみたいなものなんだろう。もしくは二人だけの秘密。
それは何だか悔しい。私が観客だということ、盗み聞きをしている存在だということ、それをはっきりと叩きつけられてるみたいなものだ。だからって私は挫けない。カレハちゃんの彼氏みたいにアグレッシブにいくのだ。
「まだカレハが学校にいた頃だからな。相当前だぜ?」
「そうだね……」
哀愁なんていうには幼すぎる時間かもしれない。
それでも二人にとっては私が言ったような「秘密」ではない。それは二人にとっては、共通の「宝物」なのだ。私の考えは二人の宝物を汚したのかもしれない。
でもそれを咎められないのは観客たる特権なのだ。
だから私はそれを振り返らずに、二人の話を楽しむことができる。
「それでどうしたの……」
「ああ、壊れたフェンスから無事に学校に潜り込んだ俺は、夜の暗い廊下も恐れずに三階まで駆け上がった! しかし、そこには大変な落とし穴があったんだ」
なんだろ、なんだろと私は心をサンバくらいに躍らせる。
でもカレハちゃんは冷静に話を折り畳む。
「……どうせ、教室の鍵が開いてなかったんでしょ?」
「う…………」
どうやら、ずばりオチを言われてしまったらしく、これにはさすがの彼氏もヘコんだみたいだ。
「そ、そうだよ! そうだけど、先に話のオワリを言っちゃうのは反則なんだぞ、カレハ!」
「へぇ。そうなんだ……」
悪ぶれた様子も、毒気もなくカレハちゃんは言う。けれど、私はその声がちょっとだけ上向いてる事を知っている。
話は結局、宿題のドリルを取りに行ったはいいが、教室には入れず、しかも母親にまで夜出かけたことがバレてしまったという、よくある小学生の冒険譚として幕を閉じた。
だけど、それはよくあるものではない。
少なくとも、私とカレハちゃんにとってはちがうはずだ。
言葉の端には季節が匂っていた。
風があって、花が咲いていて、おまけに白い鳥も飛んでいる。
そこは外の世界なんだ。
私たちの暮らしているここから外の世界。
それは私がホームページを見て想いを馳せているあの場所と同じところ。
私とカレハちゃんは彼が持ってきてくれる「羽」を一枚一枚集めて、外へと飛びたつ翼を作っているのだ。
それが完成すれば、私はあの場所に行ける。
カレハちゃんは彼氏とまた学校に行ける。
私たちは大事な作りかけの白い翼を抱いて、その日が来るのを待っている。
自分の命が先に散らないことを祈りながら、待っている。
「……っ……」
そのとき、小さく手術痕が疼いた。
そうだ、私には消えない羽がある。この体に消えない羽の刻印があるんだ。
それは白い羽とは少し違うかもしれないけど、この世界に私を留めている証。
そして絆だ。
「……っ……っ」
けほんけほん、カレハちゃんの小さな咳が病室にこだまする。
その一回一回が、せっかく集めた白い羽を散らしているみたいに感じる。でも、その羽は私のように盗んだものじゃない。きっと彼氏がまた、どこからでも拾い集めて、カレハちゃんの背中にくっつけてくれる。
それがカレハちゃんの絆。この世界にいる証なんだ。
だから、カレハちゃんはいつかここから、ちゃんと飛び立てると、私にはヘンテコな確信があった。
一人で願うことと、二人で願うこと。
強いのがどちらかなんて、別に言うまでもなくわかることなんだから。
私はひとりなのかもしれない。
でも、そんなことで卑屈になったり、諦めたり、後ろ向きになったりはしない。
私にはこの刻印がある。決して消えない、アキちゃん、お母さん、ユウイチくん、カレハちゃん、大本先生、きみこさん……お父さん、おじいちゃん……みんなとの、世界との消えない絆と証がある。
だから私も飛び立てる。いつかここから飛びたつ。
「そうしたら、まずあそこへ行こう……」
車の免許をとって、おじいちゃんにおねだりして、あの民宿に飽きるまで泊まろう。
そして飽きるまで、あの空を眺めるんだ。
またそこで大切な人と出会って、私はこの世界に溶け込んでいく。
この小さな病室から飛び出していく。
飛び立てなかった小さなものも、大きなものもこの身に背負って。この育てた翼で、この消えない刻印を抱いて、飛びたつんだ。
そこではユウイチくんが新しいゲームが欲しいってお母さんにおねだりしていて、カレハちゃんが彼氏と一緒に通学路の小さな花を眺めていて。
そして私はあの民宿の窓から、あの空を眺める。
白い翼を茜色に染めて、暮れゆく空に瞬き始める星を見つけて遊ぶんだ――。
「そうだよね?」
宙へ問いかけた声に、カレハちゃんの小さな咳が答える。
今は飛び立てない翼でも、私たちは大切に育てる。
飛びたつその日のために――。
羽の刻印 了