チサちゃん
生物室の後ろの40センチくらいの高さの棚の上には大きな水槽があった。窓際の良く日の当たる方だ。
底辺が1メートル×80センチくらいで高さが50センチくらい。壁面の内側は全体的に緑のコケで覆われていた。超ヌルヌルしてドプドプしてそう。
嫌な予感しかしない。
スズキ君もやって来て私たちと合流し、私たち3人はそっと一番後ろの端の方に入り込んだ。
バチャッッ!
ギャラリーがいるのを感じ取ったのか、中の壁面に着いた緑色のコケで中の見えない水槽にいる何かが、水面で水しぶきを上げた。
ビクっと身を縮める私たちとは裏腹に、水槽のそばにいた先輩方は皆、華麗にその汚い水をよけ、水はパシャパシャっと戸棚の下の教室のコンクリートの床に散った。
げ~~~~、と思う。アレの掃除とかさせられたら…
「はい、じゃあ…」と白衣の水本先生が笑顔を見せた。「みんなお疲れ様~。他の委員より早くに活動が始まって申し訳ないよね。ありがと来てくれて。…ん~~と、見た顔が多いけど、去年も飼育委員しましたよ、って子、手を挙げて~」
10人くらいの女子の先輩たちがババババっと手を挙げ、続けて男子の先輩たちががだるそうに手を挙げる。
ビックリだ。
私たち3人以外全員手をあげてるんですけど。
「アレ?」と水本先生。「こんなに?こんなにいるか?いや、見た顔多いなと思ってたけど、思ってたより多かったね。ごめん全員覚えてなくてホントごめん。どうしたみんな、そんなに飼育委員好きか!」
先生の問いかけに、好きです!!、と一斉に答える女子の先輩のみなさん。
もしかして先輩方、水本先生のファンなんじゃ…だってキダを見ても全く何の反応もなかったし。
「そっかそっか」と水本先生。「嬉しいけど頑張りすぎないようにね」
は~~~~い!!と答える先輩女子のみなさん。
「それと」と水本先生。「…え~と?そこの3人」
先生は私たち3人に言った。「君らは?君らが1年?自分から立候補したの?それとも担任の先生に無理矢理?」
担任から有無を言わさず、ですけど?
「「はい」」と返事をする私とスズキ君。
「ハハハそっか、」と満面の笑顔で水本が言う。「そりゃちょっと申し訳ないけど。あ~~君らの担任があみだで負けるからな。なんか特に高森先生、美人かもしれんけど高飛車でウザいからオレ嫌いなんだけどホラ、2、3年は全員持ち上がりってくらい楽しい委員会だから」
今、何気に高森先生の悪口入れた!
それから先生は2、3年生に言った。「嬉しいぞ先生は~~お前らほんとビイが好きなんだな。か、もしくはオレの事を慕ってるんだな!じゃあもうあんま説明しなくていいな。ラッキーラッキー。みんな、ありがとう!そこの1年生3人は頼もしい先輩方のやり方を見て早く事慣れるようにね~~」
にこやかに笑った後、水本先生は私たち3人をじっと見ながら言った。「出来るよね?」
固まる私たち3人。
「やっぱ似てるよな」とキダがぼそっと言った。
スズキ君はふん?て顔をしたが、それはキダと話した小学の時の髪の長い先生の事だ。本当によく似ている。
飼育係は小学生の時にキダと一緒にやった。
教室の水槽で飼っていたメダカに餌をやったり、飼育小屋で飼っていたウサギとチャボ、インコたちをクラスごとに世話したり、中庭の池の鯉にえさをやったり…
今思えば楽しいような思い出だけど、係だから仕方なくやっていた。鳥や動物を見るのは好きだけど世話をするのは大変だった。小屋はふんの匂いもするし、軍手をはめていてもなんとなく手にふんが付いているような気がして気持ちが悪かった。キダは係の時間は珍しく忘れずに来ていたが、どちらかというと動物と遊ぶ係、そして私は仕事する係、みたいな感じだった。私の方がちゃんと掃除をして小屋も綺麗にしてあげていたのに、動物はみんなキダになついているように見えた。
キダがイタズラばかりしていてもキダの事を嫌いだと思った事はなかった、とか思ってたけど、そんな事はなかったかも。
今だってそうだ。彼女いたくせにって、また思ってしまう。その彼女は、キダが小学生の時にどれだけ子ザルだったか知ってたのかな。知ってたら絶対付き合ってないと思う。
そして飼育係中一番思い出に残っているのは、キダが飼育小屋が狭いだろうと、段ボールに入れて教室まで運んだ5匹のウサギを床に放った事だ。突然いつもの小屋の10倍くらいの広さのところへ解き放されて、私たちの足と机と椅子の脚の間を迷路のように、縦横無尽に駆け回る茶色いウサギたち…
「お疲れ様」
横から男子の声がして、見ると制服のブレザーの左胸についているバッジが緑色だ。2年生だな。背が高い。
バッジの色は3年が赤、私たち1年は青だ。
「え~と何ちゃん?」とニッコリ笑顔でその2年生男子は聞いて来た。
3人を、というよりも私を見ている。私に聞いているのだ。
「1年の木本と言います」
「木本何ちゃん?」
「…」何で下の名前を聞く?
「なんかさ、どっかで会った事ない?」
「いえ、」とキダが答える。「ないです」
「え?」と先輩。「いや、オレは木本ちゃんに聞いてる。なんか…どっかで見た事あったようななかったような…お姉ちゃんとかいる?」
「いえ、」とキダが答える。「いません」
キダが私の代わりに答えるのをスズキ君が見て、笑うのを我慢している。
「…あ~、」と先輩がキダに聞いた。「木本ちゃんの彼氏?」
「違います!」と慌てて答える私。
「へ~~」と先輩。「じゃあほら、木本何ちゃんですか~~?」
首を少し傾けて聞いてくる。なんかチャラいな、この先輩。髪も少し長めだ。でも制服は普通。着崩したりもしていない。ネクタイがちょっとゆるいくらい。身長はキダと同じくらいだ。
「…キモトチサです」と渋々答える私。
「チサちゃんか。可愛いね。カエル好きなの?」
「え?」
「カエル」
私の名前だけ聞いて自分の苗字も言わない先輩は水槽を指さしながら言った。
カエルか…
ていうか何で名前呼び?慣れない1年生を温かく迎え入れようとしてくれてるのかな…
でもやっぱりそうか…「あんなキモいカエル」って高森先生が言ってたもんな…。そのカエルがあの藻がはった水槽にいるのか…。カエルとウサギとコウモリの世話って言ってたもんね…でもカエルを飼うにしては水槽デカくない?それで水も入り過ぎじゃない?にごりすぎじゃない?
そう思いながら、私の頭の端の方で、むかしキダが私も含めたクラスメートへのいたずらに使ったいろいろ種類のカエルが一度に頭の中に浮かんだ。キダカズミが私の目の前に突き出した茶色のカエル、誰かののペンケースに入った黄緑色のツヤっとしたアマガエル、私のノートの上にふんぞり返った偉そうな、極彩色のぬめっとしたトノサマガエル…
キダとなんか本当に、良い思い出なんかちっともないじゃん。
私は何を根拠にキダの事を嫌いだと思った事がなかった、とか思ったんだろう。
「いえ」と、今度代わりに答えてくれたのはスズキ君だった。「カエルが好きなわけじゃなくて、クラスから二人」と私と自分を指しながら言う。「担任から指名されてきました。あと、隣のクラスから一人。よろしくお願いします」
「そっかそっか」と先輩がニコニコしながらスズキ君に聞く。「なんて名前?」
「スズキです」
「じゃあ、さっきチサちゃんの代わりに答えてた、はいイケメンの彼氏は?」
「…すみません先輩」キダが自分の名前を答えずに言った。私を指さしながらだ。「こいつ、名前で呼ばれるのすごく嫌がるんで苗字で呼んでやってください」
「え?」と先輩。「そうなの?」と私に聞いてくる。
「いえ、…あの…はい…」しどろもどろになる私だ。
なんでキダがそんな事言う?せっかく先輩が気を使って呼んでくれてんのに。
「あ、そう。可愛い名前なのに」と先輩。「ねえ?」
「すみません」と私が謝る。
「で?」と先輩。「名前は?」とキダに聞く。
キダがまだなにかムッとした感じなので、「キダって言います」とスズキ君が慌てて代わりに答えた。
ほんとにもうキダめ、先輩にちょっとたてつく感じ止めて欲しい。スズキ君が気を使わなきゃいけなくなるじゃん。
「じゃあチサちゃんとスズキとキダ」と先輩が言う。
やっぱりチサちゃんて呼ばれるんだ!
「オレが前もって水本から君らの…じゃなかった水本先生から君ら1年の世話するように言われてたから。よろしくね~」
先輩今、1回さらっと先生呼び捨てにした…