気をつけろ
「『気をつけろ』か……」
別れ際に熊男の言った言葉をオレは呟く。
熊男の横に立っていた村長の顔を思い出し、声を出さずに少し笑う。
あの後、熊男は怒られるのだろうか。そうなら悪いことをした。
恐らく村長は追っ手を放つつもりなのだろう。そして熊男はオレにそれを教えてくれた。でも、それぐらいの事は既に想定済みだ。
馬車に乗る木箱の量を考えれば、あの村にとって大打撃なのは間違いなかったし、そうなれば取り返しに来ることなど容易に想像できる。
だからオレには熊男の助言なんて必要なかったのだ。
溜め息と共にもう一度、言葉を繰り返す。
「『気をつけろ』ねぇ……」
その言葉は町を出発する前に、ミラ姉ちゃんがオレに言った言葉と同じだった。
熊男の言葉がオレに、町を出る前に会ったミラ姉ちゃんの姿を想起させる。
ミラ姉ちゃんは“旅の安全を願って”なんて理由で『気をつけろ』なんて言わない人間だ。それはオレならわかる。
だからあの場では直接言えない理由があって、オレに『気をつけろ』の言葉で伝えようとしたんだ。
だからオレは思い出す必要がある。
あの時のミラ姉ちゃんの様子はどうだった? オレに何を伝えようとしていた? オレは何に気をつければいいんだ?
あの時さほど気に止めなかった事を後悔する。
あの時、もう少し気にしていれば……。あの時、もう少し周りに注意を払っていれば……。
ただ、その後悔は今となっては遅すぎて、あの時の言葉がオレに何を伝えたいものだったのか今となっては分からない。
何を伝えようとして発せられた言葉だったのか、ミラ姉ちゃんに確かめたくても今この場にはオレとアリサしか居ない。
馬車の荷台の物資を漁り、木箱からリンゴを取りだして幸せそうにかぶりつくアリサを横目で見ながら、アリサに聞くのだけはやめようと心に決める。
アリサに聞くぐらいなら、馬車を引く馬に聞いた方が答えをくれそうな気がした。
オレの口から、何度目かわからない溜め息が漏れる。
オレの悩みとは関係なく馬車は何の障害もなく進み続け、日が落ち始める頃には目的の町まであと少しの所まで達していた。
このまま何もなければ明日の夜は町の宿に泊まれるだろう。
オレは荷台で食料を食い散らかして、眠ってしまったアリサを見ながら明日のことを考える。
町についてアリサの親戚と会えれば今回の旅は終わりだ。
アリサは親戚との再会を果たし、新しい暮らしを始めるだろう。
……あれ、でもそうなったらオレはどうなる? オレとアリサのパーティーは解散になってしまうのか?
言いようのない不安がオレを襲う。
オレはその不安を振り払うように、野宿するための準備に取りかかる事にする。
気持ちよさそうに寝言を放ちながら眠るアリサを起こすのは気が引けて、オレは一人で全ての作業をこなす事にした。
馬車を大きな木の近くに寄せて止まらせると、馬車から魔導紐を外して枝に括り付ける。
頑張った馬達の体を撫でてやりながら命令する。
「休め」
オレの命令によって馬達はそれぞれ地面に生える草を食べ始める。
その光景を見ながら、馬用の水桶を荷台から降ろしてそこに魔法で精製した水を入れていく。
草と水を用意して、馬の世話は終わりだ。
次は眠るためのテントを広げる。
だけどテントはアリサのすぐ隣に置かれていて、アリサを起こさずに取り出すのは不可能に思えた。
オレはテントを後回しにして、先に結界を張ることにして詠唱する。
「闇を切り裂く明かりよ、我を守り、その光の恩恵を与え賜え<灯>」
オレの詠唱が完成し、目の前に小さな炎が出現した。
小さな炎は地面へとゆっくり落ちていき、その場で燃え広がることなく揺らめき始める。
小さな炎へと意識を集中し、魔力の線を構築してオレと炎を繋ぐ。
オレはその魔力線を使い、炎へさらなる魔力を投入して結界を強固なものへと変える。
炎はオレの魔力を喰らい、力強く燃え上がっていく。
消える気配など一切感じさせないその炎は周りの野生動物達を怯えさせ、遠ざける事に成功する。
オレの知覚範囲は炎の照らす距離と同じになり、周囲の動物や木々のざわめきの情報が脳内へと流れ込んでくるようになっていく。
近くから遠くへ円を描くように広がっていくオレの感覚が知覚範囲ぎりぎりの所で、オレたちに敵意を持っている生物の群れを捉える。
オレが認識すると同時に結界の範囲から敵の気配が消える。
数は範囲内に居た分だけで五。恐らく範囲の外にも居たはずだ。
結界の範囲から即座に出た……ということは、知能を持っている生き物だと推測できる。
そして結界から出ていった敵の動き……それは、二本の足による歩行。
その敵の動きからオレはこの敵の正体が人間だと推測する。
もしかした亜人種の魔物かもしれないが、魔物より人間の方がやっかいなので、人間という推測で動く。
このタイミングで現れる人間の敵。
それはあの村からの追っ手の可能性が高い。
オレが追っ手の存在に気づいたことを悟られないように、何でもない風を装ってアリサを起こす事にする。
「アリサ、そろそろご飯にしようかと思うんだけど……」
アリサからは静かな寝息が返ってくるだけで、返事はない。
この状況で眠り続けるアリサにイラつきながら、起こすために揺さぶる。
……それでもアリサは唸るだけで目を覚まさない。
異常だ。
焦ってアリサを凝視するオレに、どこかから眠り草特有の甘ったるい香りが漂ってくる。
鼻孔をくすぐる甘ったるい香りの発生源を探す。
オレの目は周りに散らばる食べ物のゴミへと引き寄せられる。
芯だけになったリンゴ、食べかけのクッキー、ミカンの皮。
その全てから香りが漂ってきている。
――盛られた。
熊男はもしかしたら追っ手じゃなく、この事をオレに伝えようとしていたのだろうか。
――オレは情報を受け取り損ねた。
瞬時にその事実を認め、反省と後悔を後回しにする。
オレはちゃんと目と鼻で木箱の中身を確認しなかった自分を恨みつつ、現状の対処へと頭脳を切り替えていく。
アリサは恐らく起きないだろう。
それが明日までなのか、十分先なのかはわからない。
ただ、この結界の外にいる襲撃者達との戦闘で役に立たないことは確定だ。
オレがアリサを守りながら戦うことを決意すると同時に、結界の感知範囲に多数の人間が入ってくる。
――戦闘開始だ。




