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続くかも知れない短編集

ニセコエ

作者: 笠倉とあ

「――傍にいるよ」


 ベッドに眠る人を見下ろして、彼女は優しく呟いた。


 彼女の手には青い小瓶。一つのものを捨てて代わりに多くを手に入れる、今の彼女に何より必要な魔法の薬。

 唇に微かな微笑を刻み、彼女は囁き続ける。


「傍にいるよ。あなたが失った全てを、私がもう一度、あなたにあげる。たとえ――」




※※※




 とある国の山奥に、一軒の家が建っていた。

 小屋と言っても過言ではないその小さな家には、毎日二人分の、或いは三人分の声が響いている。




 雲一つなく晴れた、その朝。

 コンコン、と控えめなノックの音がして、少年――ユースはゆっくりと意識を覚醒させた。


 くぁ、と小さく欠伸をし、朝日の射し込むベッドから身を起こす。

 金茶色の頭髪がぴょこぴょこと跳ねる幼げな相貌はしっかり両目が閉じられていて、彼はその瞼を押し上げないままベッドの端から足を下ろした。


「ユースさん、おはようございます。ドアを開けても宜しいですか?」

「おはよう、セルジオ。開けて良いよ」


 かけられた声へと返してすぐに、ドアが開く音がする。

 今日の当番はセルジオなんだな、と思いながら、ユースは友人たちからお菓子のようだと評される甘い笑みをほわりと浮かべた。


 ――ユースという名の少年は、かつて隣国の王の庶子だった。

 三月以上前、腹違いの兄による謀略に追い落とされ、視力を失った彼の身は、僅か十五歳にして逃亡者へと堕ちた。


 あの日から彼の世界は、ずっと明けない夜に包まれたまま。

 何とかこの山まで逃げ延びてきたは良いものの、助けてくれる友人たちの手が無ければ、世間知らずのユースなど、とても一人では生きていけなかっただろう。


 今のユースは、代わる代わる通って来る友人たちに支えられ、ここでひっそりと日々を送っている。

 一日一人、多くて二人。

 中でも殊更頻繁にやって来るのが、今日ユースの元へとやって来たセルジオだ。


 乳兄弟兼側近のセルジオは、ユースが生まれた時から傍にいて、友人として臣下として、尽くし続けてくれた少年だった。

 赤色混じりの黒髪に、精悍と讃えられる顔立ちを持つ彼は、ユースに対してだけ酷く心配性になる。実際、ユースが怪我とショックで塞ぎ込んでいた時期、一番おろおろしながら世話を焼いてくれたのは彼だった。


 三月前、燃え盛る離宮から逃げ出し、衰弱と混乱に倒れていたユースを助けてここまで連れて来たのも彼であったそうだ。

 この家で目覚めたユースが一番最初に聞いたのは、今にも泣きそうにユースの名を呼ぶ、掠れたセルジオの声だった。


「――セルジオ、いつもありがとう。今日もお願いね」

「勿論です、ユースさん!」


 明るく返すセルジオの顔は、きっと城にいた頃もよく見せていた、朗らかな笑顔を浮かべているのだろう。

 友人たちの中では最も付き合いの長い彼は、同時にユースを最も大切にしてくれる人でもあった。

 離宮を逃げ出してから、ユースの行方を隠すための工作や情報収集に追われてほとんど顔を出せないことを、セルジオは気の毒になるほど必死に謝ってくれた。

 離宮に住んでいた頃、周囲に構われなかったユースのために、時折セルジオが持って来てくれる市井の玩具が、ユースは好きだった。


「薬を塗る前に、まずはお顔を拭きましょうね。今日は、良い香りのする花の種を買って来たんです。後で鉢に植えましょう」

「わあ、楽しみ。何処に置こうかなあ」


 濡れたタオルで優しく顔を拭われながら、ユースは嬉しそうに笑った。

 汚れが取れれば、次は両瞼を中心に青臭い薬を塗り込まれる。薄い手袋を付けたセルジオの手が、最後に包帯を丁寧に巻いた。


「ユースさん、きつくありませんか? 体調は大丈夫ですか?」

「平気、今日は大分調子が良いんだ。ありがとう、セルジオ」


 だから午後は森を散歩に行けたら良いな、と強請って、ユースは微笑んだ。

 しっかりと閉ざされたユースの両瞼は、三月前の火事で受けた火傷の痕が、今も赤黒く覆っている。




※※※




「待てヒィラ、だらしない足音を立てるなと言っている!」

「リーズ煩ぁい。今日も元気にお姑様ぁ」

「だから床に土を落とすなと! おいヒィラ!」

「リーズが拭いといてよぉー。――おはよーユースくぅん、起きてるぅー?」


 上空を厚い雲に覆われたその朝、ユースの耳に聞こえて来たのはよく似た二つの声だった。


 ヒィラとリーズイーシュ、明るい金髪を持つ双子の兄弟だ。将軍家出身の新米騎士だった彼らは、今も騎士団に留まって仕事をしているらしい。

 いつも二人セットで行動している双子は、この家に顔を出す機会こそ一番少ないが、来た時は一番賑やかに騒ぐコンビだった。


 走ってきた足音は一人分。ノックもそこそこに寝室へ飛び込んできたヒィラを、身を起こしたユースはくすくすと笑って出迎えた。


「おはよう、ヒィラ。あんまりリーズを困らせちゃ駄目だよ」

「大丈夫だよぉ、リーズはあれで世話焼くのが好きなんだからぁ」


 へらりと呑気な声でヒィラが笑う。「だからユースくんももうちょっと世話焼かせてやってよー」と言いながら、その手がユースの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。


「今、リーズがカーテン開けて朝食作ってるからぁ。今朝はリーズが一緒にご飯食べるからねぇ」

「そう言えば、ヒィラはキッチンに行ったことがないね。料理はいつもリーズが一人で作ってるし」

「僕が料理苦手だって知ってるだろぉ? 適材適所だよぉ」


 喋りながら、ヒィラが包帯を取り上げる気配がした。


 呑気で緩い兄のヒィラと、堅物な弟のリーズイーシュは、これで存外しっかり役割分担をしているようだった。

 どちらかがユースの傍に付いて、どちらかが別の場所で家事をする。そのシステムは一度も崩れたことはなく、ユースは時折、ほんの少し、それを寂しいと思う。


「ヒィラは一人だと、目玉焼きも焦がしちゃうって言ってたもんね。今度俺と二人でクッキー焼いてさ、いつものお礼にリーズにあげない? 持って帰って一緒に食べなよ」

「ユースくんが作るの付き合ってくれるなら良いよぉ。……『お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい』なんて絶対に言わないユースくんのこと、僕だぁい好きぃ」


 ユースの身支度を整えたヒィラの手には、彼ら双子がいつも着けている革手袋の感触がある。

 リビングのドアまでユースの手を引いて来た後、ヒィラは「また後でねぇ」と廊下を歩いて行ってしまった。

 ユースがリビングに入って行けば、今度は続き部屋のキッチンからリーズイーシュの足音が近付いてくる。


「ユース様、お早うございます。ヒィラは何か失礼を致しませんでしたか?」

「おはよう、リーズ。ヒィラは色々手伝ってくれたから、助かったよ」

「それは良うございました」


 流石に双子だけあって、その凛々しい口調を除けば、リーズイーシュの声はヒィラに瓜二つと言って良い。今日もピシリと背筋を伸ばしているのだろう青年に、ユースは「リーズも、今日も来てくれてありがとう」と笑った。


「恐れ入ります。ユース様、今朝はオムレツを用意しておりますので、具を挽き肉とカショ芋から選んで頂けますか」

「カショ芋の方を貰おうかな。あれ、甘くて好きなんだよね」

「畏まりました。では、挽き肉の方は俺が食しましょう」

「ねえリーズ、ヒィラは今朝も食べないの?」

「あれには先日の野外訓練で失敗したペナルティとして、外で草むしりをやらせる予定です。代わりにうちのコックから大量に菓子を巻き上げておりましたので、ユース様はどうぞお気遣いなく」


 律儀に一礼する気配がして、リーズイーシュはキッチンへと引っ込んでいった。きっとこれから、テーブルに皿の用意をするのだろう。


 この家の食卓を双子が揃って囲んだことは、まだ一度もない。




※※※




「ねえ、アズディーエ。城の方はどうなってるの?」


 暖かな午後の日差しが差し込むリビングで、ふと思い出したように問いかけたユースに、傍らでこの国の文化史を読み上げていた青年の声がぴたりと止まったのが分かった。


 朗々とした綺麗な声と端麗な容姿を持つアズディーエは、ユースより五歳上の青年だ。いつも青縁眼鏡をかけている彼は、現役の文官であるがそこらの騎士よりも遥かに強く、いつも折り畳み式の長槍を携帯している。

 けれど、事件以来武器の音を怖がるようになったユースを気遣ってか、彼があの特徴的な金属音をさせることは一度もなくなって。

 代わりにいつも持って来るのは、ユースに読み聞かせるための小難しい本や新聞ばかりだ。


 ぱたん、と本を閉じて、アズディーエはよく通る低い声で呟いた。


「……クラウス様の動向が気になりますか?」

「うん。出来れば、他の兄さんや姉さんたちがどうなったのかも知りたいんだけど」


 クッションを抱き締めて頷けば、ユースを追い落とした張本人の名に、アズディーエが深々と溜め息をついた。


「……現状は落ち着いています。一時は危うい時期もありましたが、今はクラウス様の一人勝ち状態ですね。先日、三兄のエーリウス様を下して、とうとう即位なさいましたよ。

 国外に嫁いだ二の姉君と、半年前に離宮から逃れたあなたを含めれば、これでクラウス様を除く兄弟八人が全員淘汰されたことになります」

「そう。……クラウス兄様は、昔から王になりたがってたからね」


 幼い頃何度か見かけたことのある、いつも眉間に皺を寄せていた厳しい長兄の顔を思い出して、ユースは小さく笑った。


 ユースは、城に戻りたいとは思っていない。視力と平穏を奪われた悲しさは確かにあるが、苛烈と謳われたクラウスが、その実誰よりも自国を憂えていたことを知っていた。


「アズディーエ。兄様は、うまくやれるかな」

「あの方は、この後継争いを最後の大きな流血にしたいと仰っておられました。蜂蜜みたいにとろとろで甘っちょろいあなたと違って、クラウス様なら巧く飴と鞭を使い分けるでしょうよ」

「あはは、そうだね。そうなったら良いなあ」


 さらりと差し込まれた皮肉にも含むもののない笑い声を上げて、ユースは閉ざされたままの瞳で兄を想った。


 アズディーエは有能だから、きっとこれからも城で仕事を続けていけるだろう。

 腐敗の気配を見せ始めていた国が、少しでも良くなっていけば良いと思う。自分はきっと、変わりゆく故郷の姿を見られないだろうから。

 そんなことを思ってユースは、けほ、と小さく咳をした。




※※※




「ユース様、何処ですかー? お昼が出来ましたよー!」


 からりと乾いた風の中、拙い仕草で洗濯物を干していたユースは、明るい少女の呼び声に振り返った。とたとたと駆ける音が聞こえてきて、ユースのいる庭の前で止まる。


「いたいた、ユース様! 食欲はありますか? ご飯食べられそうです?」

「お腹は空いてるよ、ありがとう、ノエル。トマトの匂いがするけど、メニューはなぁに?」

「今日はウサギの煮込みです! 良いトマトが市場に出てたので!」


 十の頃から城に勤めていたというメイドのノエルは、城の飼育小屋を担当していた係員でもあった。

 オレンジに近い赤の髪とくるくるよく動く瞳が特徴の彼女は無類の動物好きで、けれど料理の時は鶏だろうとウサギだろうと豪快に捌いてみせるので、そのギャップに興味を持ったのが、友達になった切っ掛けだ。

 勿論プライベートだけのひっそりとした友人関係だったけれど、ユースは彼女に色々な我が儘を助けてもらった。


「――ねえ、ノエル。リリは、まだ見つからない?」


 家事用の薄い手袋を着けたノエルに手を引かれ、キッチンの食卓に向かいながら、ユースはぽつりとそう問うた。ノエルの手が微かに震え、それから少女が肩を落とした気配がする。


「すみません、ユース様……やっぱり、まだリリは」

「そう……ごめんね、急かしてるわけじゃないんだ。セルジオも探してくれてるらしいんだけど」

「良いんですよ! その、私だってあの子が心配ですし……」


 ――リリ。

 それは五年前、離宮に迷い込んできた白猫にユースが付けた名前だった。


 父王には無関心のまま捨て置かれ、妾妃であった母はとうに死去していた当時、ユースは偶然見つけた白猫を拾い、困ったような使用人たちの目を半ば押し切るようにして手元に置いた。

 発見当時、随分と衰弱していたリリを介抱するのに、最も助力してくれたのが、三歳年上の友人であったノエルである。

 夜通し世話をしたこともあるためか、ノエルは殊更リリを可愛がっていた。事件以来姿を消したリリを探して、彼女は今も焼け落ちた離宮跡へ足を運んでいるらしい。


「ユース様、リリならきっと大丈夫ですよ。猫は逃げ足も早いですし、そのうちまたひょっこり現れます。それまでは、ユース様が元気でいて下さることが一番大切ですよ」

「うん……そうだね、ノエル。玄関に魚の油漬けを置いておいたら、釣られて寄って来ると思う?」

「いや……隣国まで匂いを嗅ぎ付けるほど食い意地は張っていないと思いますが……」


 うろりと目を泳がせているのだろうノエルの手が、キッチンのドアを開けた。煮込んだトマトの少し酸っぱい香りが、ふわりと強くなった。




※※※




 冬の気配が近付いて、ソファで編み物をしていたユースはノックの音に顔を上げた。

 キッチンで仕込みをしていたヴァルが、扱っていた鍋を置いて出てくる足音がする。


 白い髪に白いコック服がまるで保護色のような容姿をしたヴァルは、かつて離宮で厨房に勤めていた青年だ。

 彼は、有名な牧場主の四男で離宮の下っ端料理人で、賄いを作る時は好んで奇妙な材料に手を出しては失敗し、その癖何故かパスタ料理だけは異常に上手いというよく分からない人物である。

 気さくな人柄でユースとも仲が良かったが、ざっくばらん過ぎてよくセルジオには怒鳴られていた。


「ユースさん、人が来たみたいっス。ちょっと見てくるんで、動かないでくださいねー」

「うん、分かった」


 編み棒を置きながらそう返すと、ヴァルの足音が遠ざかっていく。ほどなく玄関のドアが開く音がして、ヴァルの声と知らない声が一つ、会話を交わしているのが分かった。


 些か時間を置いてから、二つに増えた足音がこちらに戻ってくる。その片方が部屋の入り口から、ユースの方へと声をかけた。


「あのー、ユースさん。ちょっと良いっスか? なんか旅人とかいう人が来て、一晩泊めて欲しいって言ってるんっスけど……」

「ええ? どんな人?」


 両目に包帯を巻いた顔を上げ、ユースが問いかけると、ヴァルはあまり気の進まない様子で旅人の特徴を述べた。

 まだ三十歳には届いていない、背の高い男だそうだ。怪しい雰囲気ではないようで、ようやくユースの肩から力が抜けた。


「あの、お邪魔しています。薬草を探していて道に迷ってしまいまして……今から山越えは無理なので、今夜だけ宿を貸して頂けたらと」


 旅人にも丁寧な挨拶の後名乗られて、ユースはこくりと頷いた。ヴァルが如何にも渋い感情を乗せた声で、「えー」と呻く。


「構いませんよ、色々お話も聞きたいですし、一晩くらいならゆっくりして行ってください」

「泊めるんっスか、ユースさん? あーもう、ホントお人好しなんスからー!」

「すみません、あまり屋内は歩き回らないようにしますから……」


 大仰に嘆くヴァルにくすくすと苦笑しながら、ユースは繕うように旅人へと笑いかけた。


「俺はユース、彼はヴァルといいます。ヴァルの作るパスタ料理は凄く美味しいから、今夜の夕食は期待していてくださいね」

「――彼、」

「あ、ユースさん、そのカップお代わり要ります?」

「いや、良いよ。これ以上食べたら夕飯が入らなくなる」


 ユースの前にお茶の代わりとして置いてあったのは、薄い色のスープに泳ぐスープパスタだった。食欲がなくて昼食を食べられなかった彼に、ヴァルが作ってくれたのがこれである。

 空になったカップを回収し、ヴァルがいそいそと部屋を出て行く。


「ヴァル、今日はキノコのパスタだって言ってたよね? 悪いけど、今から量を増やせる?」

「勿論っス。まあ味付け控えめだから、お客さんには物足りないかも知れないっスけどね。

 んじゃー、オレはこの人に部屋の位置案内して来まーす。――アンタ、あの人に余計なこと言うなよ?」


 ぼそりと付け加えた一言は、ユースの耳には届かずに。


 ただ、何かを悟ったようにそっと頷いた旅人を連れて、彼は廊下を遠ざかっていった。




※※※




「時に我が友よ、先日急に客が来たとヴァルが洩らしていたが、商人でも通ったのか?」

「ううん、違うよ」


 綺麗な女声に似合わず男らしい口調の問いかけに、ユースは首を横に振ってみせ、編み上がったマフラーを膝に置いた。

 離宮にもよく顔を出していた薬師のシィギは、珍しいウルトラマリンの頭髪を持つ美貌の娘だ。今日も調合用の薄い手袋に薬の匂いを纏わせて、ユースの傍に座っている。


「旅人さんだったんだ。色々話も聞かせてくれて、楽しかったよ」

「……むう、やはり目新しいものには気を惹かれるものか。我らの顔触れは一年近く変わらんからなあ」

「何言ってるのさ、俺はシィギたちに不満なんかないよ」


 毎日毎日、誰かが顔を出してくれる。だからこそ、ユースはこんな山奥でも、寂しがらずに暮らしていける。

 祖国を追われ、一人では日常生活すら営めない少年を変わらず支え続け、何の陰もなく笑いかけてくれる彼らに、一体どんな不満を感じるものか。


「そのマフラーは誰に贈るのだ? やけに凝った作りではないか」

「これはノエルにだよ。シィギの分だって、随分デザインにはこだわったつもりだけど?」

「ふむ、確かに。暖かくて重宝しているぞ、我が友よ。しかし、編み棒を手放さないということは、友はまだ何か編むつもりか?」

「あはは、正解」


 最近は具合が悪くて、あまりベッドから離れられない。お陰で家にはシィギがやって来ることが増え、手持ち無沙汰なユースは編み物に没頭するか、眠っていることが多くなった。

 シィギが溜め息をついて、毛糸玉を詰め込んだ籠を取り上げた。


「手作業は控えろと言っても聞かんのだろうな。次は何色が欲しいのだ?」

「オレンジ色のを取ってもらいたいな。それから、緑で模様を入れたいんだ」

「我が友のマフラーと揃いの色だな。マフラーは全員分が出来たと思ったが、今度は手袋でも編むのか?」

「いや、これはリリの分」


 ユースの言葉に、シィギの動きがほんの少し止まった。ユースは苦笑して付け加える。


「まだ、見つかってはいないけどね。でもあの子は賢いし、死んだと確認されたわけでもない。ノエルたちも探してくれてるから、俺はマフラーでも編みながらあの子を待つよ。……リリは寒がりだったから」

「……そうか」


 短く相槌を打って、シィギはユースに毛糸玉を渡してくれた。


「リリも喜ぼう」


 ぽつんとそう呟いて、彼女は椅子を立った。家の掃除をしてくる、と告げて身を翻したシィギを、ユースはいつものように礼を言って送り出した。




※※※




 ――がたり、と体が崩折れたのは、春も近いある日のことだった。


 ベッドから起き上がろうとして床に倒れ込んだユースの体を、その朝彼を起こしに来ていたセルジオが抱き抱える。


「ユースさん!? ユースさんっ!!」

「――セルジオ」


 分厚いコートと手袋に遮られた、セルジオの体温が僅かに届く。

 焦った声でユースの名前を叫び続けるセルジオに、ユースは火傷に覆われた両目を向けた。

 するりと滑り込むようなその声色に、セルジオが息を呑む気配がする。ぐっと腕に力を込めた彼はユースを抱き上げ、丁寧にベッドに寝かせた。


「ユースさん、お薬を」

「良いよ」


 言いかけたセルジオを、ユースは短く拒否した。


「冬の半ばから、もう大分効き目が薄れてたんだ。そろそろだと、思ってた」

「ユースさ、」

「ねぇ」


 またセルジオの声を遮って、ユースは微かに笑いかけた。


「傍に、いてくれる?」


 見えない目で見上げた少年に、セルジオは少し沈黙し、はい、と泣きそうな声で頷いた。



 ユースは急速に弱っていき、それから七日も経つ頃には、彼はもう指も満足に動かせなくなっていた。

 ベッドに横たわったまま静かに呼吸音を小さくしていく少年を、隣に張り付いた人影がずっと見守っていた。


 影が囁き続ける声は、一時も休まずユースの耳を撫で続け。

 少しずつ少しずつ、心臓を止めつつある少年の世界を満たし続けた。


『ユースさん、しっかりしてください! ほら、あなたの好きな香りの花ですよ!』『ユースくん、痛いの? 頭撫でてあげる』『ユース様、苦しくはありませんか? 手を握らせて頂いても、宜しいでしょうか』『……ユース様、頼まれていた本、持って来ましたよ。読んで欲しかったら、早く目を覚ますことです』『ユース様、ねえユース様……リリのマフラー、渡せなくて良いんですか……?』『ユースさん、また起きて、オレの作ったパスタ褒めてくださいよぉ……』『我が友、眠いのか……?』







「ずっと傍にいてくれてありがとう。君は――――どうか、いきて」







※※※




 ひんやりと冷たい風が木々を揺らす、その日。


 掠れ切った声でささやかな言葉を吐き出したその少年は、もう二度と息を吸い込むことはなかった。


 柔らかな強さで少年の手を握り続けていたその人物は、少年の心臓が永遠に鼓動を止めたことを確認すると、ゆるゆると唇を吊り上げた。

 形の良い眉を情けなく下げ、今にも溢れ出しそうな雫で双眸を曇らせたそれは、ひどく歪んだ不格好な笑みだった。


「――おやすみなさい、ユースさま。あなたの眠りに、優しい夜がありますように」


 囁いた人影は――猫のそれと同じ形の白い耳と尻尾と、白銀に近い真っ白な髪を持つ、リリという名の若い娘は。

 瞳孔の細いその両目に、どこまでも優しい祈りを込めて少年の手に口付けた。


 深海色の瞳から、ほろ、と雫が零れたのを切っ掛けに、壊れたように次から次へと涙が頬を滴り落ちる。

 思考が焼ける。心が冷える。声が出なくなって、代わりに嗚咽が込み上げた。

 ひぐ、と喉を詰まらせて、リリは奥歯を噛み締めた。

 初めて紡いだ自分自身の声を、聞いて欲しかった人はもういない。彼女の手に巻いた小さな小さな、小柄な猫のために編まれたオレンジ色のマフラーに、涙の雫が点々と落ちた。


「……ごめんなさい」


 静かに眠るその人の顔は、悲しいほどにいとけなかった。こんな寂しい山奥で、それでも不満も恐怖も何一つないのだと、微笑み続けた人だった。


 ――本当は、もっと生きさせてやりたかった。

 自分が演じた偽物の声なんかじゃなくて、本物の彼らに会わせてやりたかった。


「騙してばかりで、何もしてあげられなくて、ごめんなさい、ユースさま……っ」


 ――けれど、獣人だということを隠し、ただの猫として拾われたリリに、出来ることなど何もなかった。

 意識を失ったユースを離宮から連れ出し、もしもの時のためにとセルジオが用意しているのを知っていた、この家に匿うことが精一杯で。


 ――ユースの乳兄弟で側近だったセルジオは、既に生きてはいなかった。彼は離宮で起きた事件の直後、ユースの長兄であるクラウスの手の者に殺されたそうだ。ユースの死体が確認されなかったこともあって、誰よりユースに過保護だったセルジオは、危険因子と判断されたらしかった。


 将軍家の双子は、内乱の激化に従って家中を二つに分けられた。ヒィラの強硬な主張により、弟のリーズイーシュは最有力候補だったクラウスの陣営へ。そしてヒィラは、特に権威ある貴族家を味方に付けていた三兄エーリウスの元へと行った。

 クラウスが即位する少し前、ヒィラは戦場で死亡した。戴冠式の日、遠目に見かけたリーズイーシュは、ぴくりとも動かない能面のような表情をしていた。


 文官のアズディーエもまた、職場をクラウスの下に移したという。己の感情を度外視し、ただ淡々と国を支え続ける有能な文官は、幸いクラウスにも冷遇されていないようだった。

 あれなら努力次第でいつかは上に上がることも可能だろうし、その選択を棒に振ることをユースもアズディーエも望みはしないだろう。そう考えれば、今更リリが彼に接触など出来るわけがなかった。


 しばしばリリの世話と、飼育小屋の面倒を見てくれていたメイドのノエルは、離宮の火事に巻き込まれて死んだ。逃げ遅れた新米メイドを助けようとして、落ちてきた天井に潰されたらしい。

 朗らかで面倒見の良かった彼女らしい最期だ、とリリは思う。ユースの友人たちの中では、彼女の死がリリには一番悲しかった。ノエルに助けられたという新米メイドは、ノエルの葬儀で棺に縋って、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


 下っ端料理人のヴァルに関しては、あの国にこそ留まらなかったものの無事に生きているようだ。彼はユースとの交流を追及されることを危惧した両親に、火事の直後に呼び戻され、今は他国の実家に戻っているらしい。ただし本人は大分ごねたようで、兄たちがわざわざ迎えに来て、嫌がる彼を引きずって帰ったそうだ。


 薬師のシィギは、ヴァルの帰郷と時を同じくして、ユースの次兄の陣営から召還命令を受けたと聞いた。その後のことは分からない。


「ユースさま……」


 冷たい少年の手に頬をすり寄せ、リリは彼の名を呼び続ける。

 リリの声色を変えていた魔法薬は、一度でも自分自身の声色を発すれば効果を失ってしまうものだった。

 一瓶しかない薬をとうに使ってしまった今、リリはもう、ユースの愛した人たちの声を作れない。


「ねえ、ユースさま。私、名乗れなくても良かったんですよ」


 どうせ、今更人の姿など見せられない身だ。何処へ消えたかも知れない白猫を、ユースがずっと気にかけてくれていただけで、リリは充分満足だった。


 ――だから、自分は媒介でも構わなかったのだ。

 全てを失った少年が、せめて愛した人たちの声に囲まれ、優しい夢を見られるならば。


 最期の一言を、ユースはどんな想いで口にしたのだろう。いきてと望む柔らかな願いを、澄み切った微笑に添えた彼は。


「もしも来世があるのなら、またあなたのために生きたいなぁ……」


 弱り切っていた小汚い猫を、抱き上げてくれた温もりを忘れない。初めて自分を守ってくれた人の、腕の感触を忘れない。


 リリはただ、この優しい少年の傍にいたかった。ユースが失った全てを、リリはもう一度、ユースに贈ってやりたかったのだ。

 たとえ――――


「――――そこに私が、いなくても」


 囁いて、リリは静かに目を閉じた。初めて素肌で触れる大切な少年の頬は、人形のように白かった。


「――さよなら、ユースさま。また――いつか、どこかで」


 ユースが望んだその通りに、もうしばらく生きようとリリは思った。

 手首に巻いたマフラーがリリの涙に触れて、また少し、色を変えた。



【登場人物】

※リリ

 白猫の獣人。勿論本名は別にあるが、彼女はこれからもユースに与えられた名前を自らの意思で名乗っていくものと思われる。ユースに対する感情が恋であったのかは不明。

 ユースに拾われた当時、色々事情があって非常に弱っていたらしい。実はその「事情」のせいで、一度人型になると二度と獣型に戻れなくなる呪いを受けていた。ユースを助けるために人型を取ってしまったので、もう白猫の姿には戻れない。

 山奥の家でリリがずっと手袋をしていたのは、素手では別人の手だとバレてしまうかも知れないから。また、声は変えても容姿自体は半獣の少女のままなので、ヴァルの振りをするリリをユースが「彼」と表現するのを聞いて、何も知らない旅人が首を傾げたり。



※ユース

 元々病弱だったけど、事件以来ますます体が弱くなった元王族の少年。山奥で一年少々の隠遁生活を続けた後、主に精神と身体の衰弱により死亡。

 離宮で拾った白猫のリリを、獣人とは知らずに可愛がっていた。山奥に通い続けてくれた友人たちの正体がリリの一人多役だったことにはとうとう気付かなかったけど、最後の最後で死に際の勘か本能が働いて、「きみ」という単数形で言葉を遺す。

 ただ優しくて穏やかで、友達とペットが大好きだっただけの、きっと生まれる場所を間違えてしまった少年。


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