エピローグ
事件解決から三日後、無縁坂高校から降りる坂道で、霧矢は意外な出会いを果たした。陽炎の揺れるアスファルトの向こうに、ひとりの少年を見つけたのだ。それはまちがいなく、ひとりの少年だった。なぜなら、霧矢におのれの性別を告げた本人が──九鬼智孟が──目の醒めるような純白のシャツと、紺のズボンを履いて、木陰に立っていたからだ。
風が吹き、木の葉が揺れる。そのたびに、ちはるの肌に舞う光の破片が、さまざまにかたちを変えた。霧矢はこれが白昼夢でないことを確認して、彼に駆け寄った。
「ちはる……だよね?」
「うん」
「どうして、ここに?」
「きみ、学校の名前を言ったよね」
そういう意味ではない、と、霧矢は答えた。
Howではなく、Whyを尋ねたつもりだった。
ちはるは、答えを返す代わりに、ちょっと歩こうか、と言った。
ふたりは並んで、坂を降りた。
途中、向こうから登ってくる女子生徒から、手を振られた。
ちはるはそれに応えて、振り返した。おどろくほど、爽やかな笑顔で。
霧矢は、ちはるがそういうシチュエーションに慣れているのだと、あらためて思った。そして、人魚の都でおこなわれたあの茶番に、思いを馳せ、謝罪のひとことを告げた。
「あのときは、ごめん」
「なんの話?」
「人魚の都で、男装させたこと」
ちはるは、なんだ、そんなことか、と答えた。
両腕を後頭部にまわして、空を仰いだ。
「あんなのは、慣れっこだよ」
「アカネさんも、同じことを言ってたよ」
バカにされるのは、慣れてる、と。
ちはるは、悲しげな笑みを浮かべた。
「ねえ、霧矢、ボクらはキーテジ号で、どうすればよかったのかな?」
それがちはるの用件だと、霧矢は確信した。
それをたずねるために、ちはるはここへ来たのだ。
どれくらいの距離を、どうやって来たのだろう。
東京に住んでいるのかどうかすら、霧矢にはおぼつかなかった。
「ぼくは昨日、アカネさんの夢を見たよ」
霧矢の言葉に、ちはるは足を止めた。
どんな夢? そんな簡単な質問が、口に出せないようだった。
霧矢はすべての責任をひきうけて、先を続けた。
「最初の夢は、彼女が死んだときの夢だった。キーテジ号で、作者に撃たれて……とても苦しそうだった」
霧矢は眉間にしわを寄せて、目をつむった。
流れる血、苦悶の表情、薄れていく、瞳の光。
すべてが死に向かう瞬間を、霧矢はありありと思い出した。
霧矢もまた苦しげに顔をしかめ──そして、おだやかな表情にもどった。
「でね、昨日また夢を見たんだ……アカネさんが、ペットの犬と遊んでる夢」
「スマホで、きみが見た動画?」
霧矢は首を左右にふった。
「ふたりだけで遊んでた。草原に風が吹いて、フリスビーが舞って……犬がそれを追いかけるんだ。まるで夢を追っているみたいにね。犬がもどってくると、アカネさんは頭をなでてやる。そして……」
霧矢は口を閉ざした。
なんだろう。言いたいことがある。
あの夢を見たとき、霧矢はなにか、とてつもない感情におそわれた。
その証拠に、起きたときの霧矢の両目は、涙を浮かべていた。
けれども、それがなんであるのかについては、ついぞわからなかった。ひとつだけ言えることがあるとすれば、アカネが望んでいた世界と、あの作者が創った世界とが、チグハグだったということだ。もしアカネがもっと邪悪なキャラだったら、そのチグハグさは、罰というかたちで解釈することもできただろう。その解釈が妥当なのかどうかは、別にして。しかし、事態は逆であり、邪悪な世界に放り込まれてしまった純朴な少女は、世界を変える力もなく、死んでしまった。
それとも、無力は罪なのだろうか。だとすれば──
蝉が鳴く。雲が遠くに凪ぐ。
電影町は物語の地平の彼方に消え去り、答えるものもいなかった。
ふたりのあいだに、しばらく沈黙が流れた。
その沈黙を破るように、ちはるは嘆息した。
「答えは、すぐに出せるもんじゃ、ないんだろうね……最後まで出ないかもしれないけど……ところでさ、このあとヒマ?」
「今日はなにもないよ」
「そっか、じゃあ、どっかで遊ぼうよ」
唐突な申し出だったが、違和感はなかった。
生死をともにした仲なのだ。遊ぶことが、どうしておかしくなるだろう。
「霧矢って、なにして遊んでる?」
「いろいろあるけど……一番はスマホゲーかなあ」
「課金とかしてる?」
「多少は。ちはるは?」
「ボクはゲームやらない。バッティングセンターとか行ってる」
困ったな、と霧矢は思った。
自分がインドア派なのに対して、ちはるはアウトドア派のようなのだ。
「ボクがゲームダウンロードしようか?」
「あ、うーん、課金してキャラ鍛えてないと、難しいかも……」
「そっか、じゃあ霧矢にバット振ってもらうしかないね」
三振になりそうだな、と霧矢は内心苦笑した。
かっこ悪いシーンを回避するために、なにかないか考えた。
ゲームセンター、テニス、将棋、バスケ。ちはるにできることは霧矢にできず、霧矢にできることは、ちはるにできないのだった。
世の中には、万人向けの遊戯なんてないんだな、と感じた。
そしてその瞬間、霧矢はハッとなって、立ち止まった。
ちはるは、数歩行きすぎて、それから振り向いた。
木漏れ日に照らされた霧矢の顔をのぞきこむ。
「どうしたの?」
「そうか……木葉の衣装」
いろとりどりのクレヨンが、霧矢の思い出に浮かぶ。
ふたりで作り上げた、おとぎ話のなかの衣装。
霧矢はあのとき、なんてつまらない遊びなんだろう、と思った。
うまいもへたも、勝ちも負けもなかった。
そしてその意味を理解したとたん、霧矢はなんだか、泣きそうにしまうのだった。
【完】
ザーッ……
ザーッ……ザッ……
アカネくん、聞こえとるか?
このボイスレコーダがみつかる可能性は、ほぼないじゃろうがな。
もし聞いているのなら、ひとつ質問させてくれ。
アカネくん、神は殺せたかね?
きみがこの船をさがしてくれて、わしはほんとうにうれしかったよ。
母船はわしとこの船を捨てた。それはしかたがなかったのかもしれん。
アカネくん、きみはだれにも求められとらんと、そう言っておったな。
だが船はきみを求めていたよ。もういちど翔ぶために。
それとも人間でないといけなかったか? だとしたら残念だ。
アカネくん、神は殺せたかね?
なに、じつはどちらでもいいんだ。
しあわせにな。




