ことこと
里芋を煮る。
剥いて切って、塩でぬめりを取って、二度ほどゆでこぼして。
化粧箱の中で香水のふたが少しだけ開いていたらしい。それに気付かずにいて、化粧箱を開くたびにひどく香るようになってしまった。今朝慌ててふたをきつく閉めたけれど、香りはすぐに消えることもなく、わたしの粗相を責めるように笑うように、狭いアパートの部屋の中でただよう。
紅いミニボトル。
昔の恋人が好きだった香り。
もう顔も声も思い出せないのに、香水だけが残った。
深い水と太陽の匂いがする柑橘類のしずくを混ぜたような香り。
あの子が来たら、変な顔をするだろう。
里芋を煮る。
本当はじゃがいもが必要だったのだけど、うっかり切らしていたから代わりの里芋。代わり、なんていったら里芋が機嫌を損ねるだろうか。だけど玉ねぎとにんじんと糸こんにゃくと、豚肉はあって肉じゃがを作ろうと思っていたのだ。いつも不意に食べたくなる肉じゃが。だけどじゃがいもの代わりに里芋。
わたしの住むアパートは二階建てで、ちょっと古くて近くに公園と小学校と保育園がある。隣の隣に住むあの子は高校二年生で、黒ぶちのメガネをかけている。いつも細い目にやるせないような光を宿していて、影がある感じで可愛い。わたしよりずいぶんと背は高いし、もう男として完成にほぼ近い姿かたちなのに、どうしてもわたしには「可愛いあの子」になってしまう。
お父さんとふたりで住んでいるというあの子。
あの子とお父さんは、あんまり仲が良くないらしい。
ゆでこぼした里芋はとりあえずザルに退避していてもらい、糸こんにゃくの下処理をしてにんじんも玉ねぎも豚肉も切る。包丁はそろそろ研がないとよく切れない。砥石を買おうか、それともお茶碗の裏で騙し騙しやっていこうか、一度プロの研ぎ師(ちょっと歩いたところにある大きなスーパーの一階に合鍵だの包丁研ぎだの傘直しだのをしてくれる店があるのだけれど、そこまでどうやって包丁を持って行っていいのか悩んでしまい一度も行ったことがない)こに頼んだほうがいいのか。
でも今日も結局お茶碗の裏で気休めにこすってみるだけになる。
鍋で煮ると焦げ付いたときに洗うのが面倒ので、フライパンで煮物を作る。そういえば前にあの子が見ていて、そんなの煮物じゃない、と変な顔をしていた。あの子は眉を寄せて嫌そうな顔をしたり、ちょっと不機嫌な表情のときのほうが男らしい顔になる。その顔が好きだけれど、機嫌はいいほうが嬉しいので、どちらがいいのか時々悩む。
六時に仕事が終わって、六時半に帰宅して。
里芋を煮る間に、キャベツを千切りにしてツナ缶と一緒にマヨネーズで和える。鶏肉を一口大に切って、中にチーズをはさんで塩コショウをしてお酒を振っておく。焼くのは食べる前に。
洗濯物をたたんだり、炊飯器のスイッチを入れたり、ちょこっと片づけをしたり。八時過ぎて、玄関のチャイムが鳴った。はあい、と発した声が自分でも甘かった。
恋、だとかそういうのではなく。
ただ果物の蜜を集めたようなねっとりとした甘さ。
甘やかしたい可愛いあの子。
「お腹空いてない?」
紺色のブレザーに、緑と茶色の斜めストライプ柄のネクタイ。
隣の隣に住む、男の子。
「ご飯たくさん炊いちゃったから、食べていくといいよ」
「……なに?」
「うん?」
「飯」
飯。
男の子の言葉。
わたしは飯なんて言わない、言ったことがない。だけど意味はちゃんと分かる。
「肉さと」
「……肉さと?」
「うん。肉じゃが作ろうと思ったらじゃがいもがなくって。代わりに里芋なの。だから、肉さと」
「……変なの」
「でも味見したら美味しかったよ、里芋嫌い?」
好きとか嫌いとか考えたことない、と言われて驚く。好きでも嫌いでもない食べ物なんて、わたしの中では存在しない。好きか嫌いか、なのに。食べられるものはみんな好き。口に出来ないものは嫌い。食べられるものの中でもより好きなものは大好きなもの。
「でも、食べられる?」
「食えないものってそんなにないから」
好き嫌いのない人は尊敬の対象。
高校生にビールを出すわけにはいかず、自分ひとりで飲むほどお酒が好きなわけでもないので、ふたりであたたかい麦茶を飲む。ご飯と鶏肉のチーズソテーと、ツナマヨキャベツと、肉里芋。
「あ、お味噌汁作るの忘れた」
「いいよ、別に」
「せっかくもやしのお味噌汁にしようと思っていたのに」
もやしは足が速いから、使ってしまいたかったのに。
小さなちゃぶ台の向かい側にすわっている彼が、あ、と小さな声を上げた。
「なに?」
「食べられないもの、っていうか、嫌いなもの、あった」
「なに、なに?」
「ナスの味噌汁」
色が汚くなるところとかぐずぐずの食感が苦手、と眉を寄せて言う。わたしの好きな顔だから、ちょっとにやにやしてしまう。
「なに笑ってるの」
「え、」
「人の食えないもの聞くの、楽しい?」
「ああ、そうでなくて。え、でもこの前ナスの味噌そぼろ炒めは食べてたじゃない」
「ナスは好きなんだよ、ナスの味噌汁だけが嫌いってだけで」
長い指が丁寧にお箸を持って、里芋をつまむ。口に運ぶ。ゆっくりとした沈黙と咀嚼の後で、ふうん美味いね、と静かに言われる。なんだか照れるほど嬉しい。
「……学校、辞めたい」
「どうして」
「早く働いて、自分で稼いで、親父と別々に暮らしたい」
「お父さんとケンカしたの?」
また、の言葉は飲み込んだ。彼がこっくりと頷く。
「家にいたくなかったらここに来ればいいんだから、高校は出ておきなよ」
「なんで?」
「君を好きな子とかが、一緒に卒業できなかったって悲しむと思うから」
就職のために高校ぐらい出とけ、とかじゃないんだ、と彼が息を吐きながら笑った。歯並びが綺麗。そう低い声でもないのに落ち着いたトーンで、静かに話す。キスをするときはあのメガネ外すのかしら、とものすごく見当違いなことを唐突に思った。
「学校って楽しいよ、働くのも楽しいけど。だから働く楽しみはお楽しみでもうちょっと取っておいたら?」
「働くの、楽しい?」
「うん。自分の労働がお金になるのってなんか面白いよ。失敗してどうにか挽回しようと頭使ったりするのとか。わたし、ただの事務員だけど」
「事務員ってどんな失敗するの?」
「計算間違いとか、発注ミスとかかな」
今までわたしがした発注ミスの内容は、そう面白い話でもないだろうに彼は楽しそうに知りたがって、話してやるといつもより幼い顔でよく笑った。前言撤回、この子の不機嫌な顔も好きだけど、笑った顔も好きかもしれない。
特にどうという会話でもないけれど、相手がいるとご飯が進む。ふたりとも三杯ずつ麦茶を飲んで、彼はご飯をおかわりして、里芋をうんとよく食べた。鶏のチーズソテーは少し塩を振りすぎたらしく味が濃かったけれど、彼は気にならなかったらしい。
「ところでさ、なんかこの部屋、いつもと違う匂いしない?」
「え? ああ、香水のふたをね、」
開けっ放しにしてしまった話をすると、彼は呆れた顔でもったいないと言った。
「でもなんか、あんまり塩さんには似合わない感じの匂いだ」
わたしは塩原という苗字で、彼はいつからかわたしを塩さんと呼ぶ。
「そう?」
「香水自体が似合わない」
「なに、失礼な。大人じゃないってこと?」
「ご飯の匂いが似合うよ。ご飯作ってる匂い」
「大人の女じゃなくて、おばちゃんみたいってこと?」
そうじゃなくて、と焦ったような彼が可愛い。意地悪をした気分になったので、満足した。別にいいけど、と言ってあげる。
「明日も来る?」
「飯だけ食いにきて悪いみたい」
「悪くないよ、ひとりで食べても美味しくないし」
彼は静かに笑って、肯定も否定もしなかった。元々毎日来るわけでもないし、次の約束をするわけじゃない。ふらりと続けて来る日もあれば、一週間くらいまったく来ない時だってある。
同じアパートに住んでいるのに気配すら感じないときもあれば、姿は見えないのにきっと今日は会えると変な確信があるときもある。
「……塩さんは香水とかよくつける?」
「そんなにつけないよ、友達の結婚式とか、合コンとか、デートとかにしか」
「……デート、とか、すんの?」
するよ、と言ったらこの子はどんな顔をするだろう。単純な興味から言ってみたい気はしたけど、相手もいないのにデートする、なんてなんだか嘘をついているようでもあるので、少し考え込む。
この子はわたしが好きなんだろうか。
わたしはこの子が好きなんだろうか。
世の中は白と黒ではっきりさせないといけないのだろうか。
灰色のまま、居心地がいいような悪いような、お互いを意識したようなしてないような、そんなままでいたいと思うのは間違っているのかいないのか。
分からないけど。
「デートしてる暇があったら、今はなんかことこと煮てる方が楽しいかも」
「ことこと?」
「うん。ことこと、って煮るのにすっごくぴったりな擬音だよね、わたし、ことこと煮るって言葉好き」
「ことこと?」
「そう。今度お豆とか煮ようかな、好き?」
「ことこと?」
「なに、壊れたみたいにことことことことばっかり」
唇が自然に持ち上がって、微笑がこぼれる。しょっぱい豆は好きだけど、甘い豆はおかずにならないから、と言われた。おかずにならないから嫌い、だろうか、おかずにならないから好きでも嫌いでもないけど食べる、だろうか。
言葉が通じる犬とか猫といる気分。
「塩さんは好きなの?」
「うちのお母さんが豆煮るの好きだったから、家にいたときは食べる専門だったけどね。今は自分で煮ないと食べられないし」
「売ってるじゃん」
「売ってるのは甘すぎるんだもん、もっとさらっとした甘さのが好きなのよ」
さらっとした甘さってよく分からない、と言うので、食べてみれば分かるのよ、と答える。だから今度煮といてあげるね、と付け足す。
「金時にしようかな、花豆がいいかな、白いんげんにしようかな」
「豆の種類?」
そう。
母親が煮るのは金時と花豆が多かった。
薄ピンクと茶色を混ぜたような可愛い色の金時と、黒の濃い紫色の大きな花豆。思ったらすぐに食べたくなって、スーパーに豆を買いに行きたくなる。一晩たっぷりの水に漬けて、乾燥した豆がふっくらと戻るのを見るのは楽しい。
「なに考えてるの?」
「え?」
「楽しそうな顔してる」
「わたし? 楽しそうな顔してた?」
「してた」
「じゃあ楽しいんだよ」
「なんだよそれ、他人事みたいに」
麦茶もう一杯ずつ飲んで、彼はそれじゃそろそろと帰る。
隣の隣の部屋に。間取りはきっと同じだけど、中はこことまったく違うだろう。わたしは彼の部屋を覗いたことがない。だけど不公平な感じはしない。
「塩さんがなんかことこと煮てると、」
うん。
玄関まで見送る。
彼の足はわたしの足よりはるかに大きいらしく、並んだ靴が笑ってしまうほどのサイズ違いだ。
「煮てると?」
「なんとなく誘われてくるから、また何か煮てて」
「わたし、おばさん通り越しておばあちゃんみたいね」
ばあちゃんってそういえばなんか煮てるイメージだ、と彼はわたしの言葉を否定せず、遠くを見るような顔をした。
ことこと。
時間をかけて、ことこと煮る。
きっと、わたしと彼の関係も、美味しくなるのか煮崩れるのか、焦げてしまうのかふっくらするのかは分からないけれど、時間をかけてことこと煮るのだ。
じゃ、また。
うん、また。
明確な約束はないけれど、また、は未来の言葉。
未来の君に、また会う言葉。
お父さんとケンカしないでね、の言葉は飲み込んで手を振る。彼は振り返したりしないけど、小さく頭を下げる。ドアが閉まる。
とりあえず明日の会社帰りに豆を買わないと。
明日の予定ができて、わたしはささやかな未来の予定を手に入れる。