あばずれ令嬢と噂されている私ですが、それを広めていたのは最愛の婚約者でした
「今日も綺麗だな、ビッチ令嬢」
「おい馬鹿! 違うだろ。あばずれ令嬢だよ」
「あはは、そうだった!」
夜会に集まった男たちが楽しそうに会話する。
陰口のつもりはないのか、私の耳にもハッキリと聞こえてくる。
男性だけじゃなく女性はもっと辛辣だ。
「婚約者のいない夜会では、男と家に帰って股を開くのが趣味みたいよ」
「じゃあ、今夜はどうするの? ハイド様がいるじゃない」
「ええ、だからハイド様の目を盗んで、他の男に連絡先を渡すのよ」
「……最低っ。もうハイド様は婚約破棄するべきよ!」
夜会に赴けば、いつしか私は最も目立つ伯爵令嬢になってしまった。
どうしてこうなったのだろう。
私は神に誓って、男あさりなんてしたことがないのに……。
「エルシー。気にしちゃダメだ。あいつらは、君の事なんてなにも知りはしない。噂好きの性悪たちなんだ。……でも、止められなくてごめん。僕の力不足だ」
王都でも指折りの美貌を持つ公爵令息、ハイド様は沈鬱な顔で私を抱きしめた。
彼の腕の中は温かくて、微かに香る香水が私の強張った心を少しずつ解していく。
ここ数ヶ月、私は社交界で最悪の渦中にいた。
夜会に出るたびに男を誘惑する、倫理観のないあばずれ令嬢。
そんな謂れのない悪評が急激に広まり、誰もが私を嘲笑して遠ざける。
最初の頃は、声をあげた。
事実無根だと。
でも誰も信じてはくれなかった。
不思議なことに、私と関係を持ったという男が次々と現れて、噂話を広げるからだ。
領地経営の補佐で私が泥臭く働いている間、可憐で愛想の良い令嬢たちがヒソヒソ話を広める。
そして気づけば、社交界ではつまはじき者になっていた。
「謝らないでください、ハイド様。私は気にしておりませんわ」
「でも君が傷ついていると思うと、苦しくて仕方ないんだ。……いっそ、こんな残酷な社交界からは離れて、僕の領地の別荘で二人きりで暮らそうか。僕が一生、君を守り抜くよ」
熱っぽい瞳で見つめてくる彼に、私は困ったように微笑む。
自分が理不尽な目に遭うのはまだ我慢できる。
けれど優しくて繊細な彼にこんなに心配をかけていることが、私にはよほど心苦しい。
噂のせいでハイド様の評判まで落ちかねないのに、彼だけは私を信じてくれる。
いつだって、私に愛を囁いてくれてきた。
私だって彼を心から愛していたし、この温かい腕さえあれば、どんな理不尽にも耐えられる。
——そう、本気で信じていた。
あの日がくるまでは……
☆
夜会から数日後。
ハイド様に渡す書類があり、彼の執務室を訪ねていた。
彼は急な来客で中座しており、私は一人で終わるのを待っていた。
その時、開け放たれた窓から急に突風が吹き込む。
いたずらな風は、彼の机の上にあった書類を数枚床に舞い落とした。
「いけない……」
私は慌てて拾い集めた。
他人の書類を盗み見る趣味はないが、事務作業が身に染み付いている私は、無意識にその文字の羅列を脳で処理してしまう。
(……情報ギルド・黒犬商会からの請求書?)
そこに記されていたのは、相当な金額だった。
そして名目欄に書かれていた小さな一文に、私の動作がはたと止まる。
『例の令嬢に関する、流言飛語の拡散および工作費として』
例の令嬢……?
心臓が嫌な音を打ち出す。
例の令嬢とは誰だろう。
その令嬢が工作で悪者に仕立て上げられている?
心当たりは、一人しかいない……。
きっと、見間違いだ。
あるいは、彼は私の噂を消すために動いてくれていて、名目が間違っているだけだ。
絶対に、あの優しいハイド様が私を陥れるはずがない。
そう自分に言い聞かせても、体の震えはなぜか止まらない。
念のためその請求書の隅に書かれていた口座番号を震える頭で暗記し、書類を元通りに戻した。
彼が部屋に戻ってくる前に、逃げるように執務室を後にした。
屋敷に戻った私は、すぐに最も信頼の置ける部下を呼び出す。
「この口座のお金の流れと、情報ギルド・黒犬商会の最近の動向を洗ってちょうだい。……誰にも知られないように、極秘でね」
部下は私の異常なほど青ざめた顔を見て、なにも聞かずに深く頷いた。
調査を命じたものの、部屋でただ報告を待つことなどできなかった。
どうしてもソワソワしてしまう。
愛する彼の潔白を証明したい。
あの請求書は、私の悪評を打ち消すための工作費をギルドの人間が間違えて記載しただけなのだと。
その日の夜、私は目立たない平民の外套を羽織り、自ら王都の裏通りへ足を運んだ。
危険を承知でギルドの周辺を探り、出入りする情報屋たちの動向を追い、彼らの会話の端切れを拾い集める。
領地経営で培った帳簿の知識を活用して、部下が持ち帰る断片的な裏帳簿の数字と、ハイド様の手がける事業の資金繰りを夜通し照らし合わせた。
彼は絶対にそんな人じゃない……!
祈るような日々だった。
どうか、私の勘違いであってください。
彼の愛は絶対に本物だ。
そんな彼が、私を陥れる理由なんてどこにもないのだから。
ところが。
調査を始めてから五日後だ。
部下が提出した最終報告書と、私が身を削って集めた証拠の数々。
それらはあまりにも残念なことに、たった一つの真実を浮き彫りにしていた。
ギルドへの大きな送金日は、私への悪質な噂が社交界で爆発的に広まった時期と完全に一致している。
そしてなにより、情報屋に渡されたという秘密裏の指示書——
筆跡は意図的に崩されていたが、公文書の代筆を何度も手伝ってきた私には、字の跳ね方や独特の癖でハイド様のものだとわかってしまった。
最悪なことに、私は筆跡鑑定で間違ったことは一度もない。
……完璧な証拠だった。
私の悪評を捏造し、社交界にばら撒き、さらに私と寝たと噂を広める男性たちを雇った人物は——
最愛の婚約者だった。
「……こ、こんなの、嘘よ」
自室のデスクでその報告書から顔を上げた瞬間、私は力なく呟いた。
視界がぐにゃぐにゃに歪む。
胃の奥から、経験したことのない強烈な吐き気が込み上げてきた。
「オェッ……」
私は口元を押さえながらトイレに駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
涙と胃液で顔をぐちゃぐちゃにしながら、冷たい床にうずくまる。
——どうして? なぜ? なんで?
あんなに優しく私を抱きしめてくれたのに……!
君には僕しかいない。僕が守るから。
そんな風に、甘い声で囁いてくれたのに。
私が覚えのない噂で孤立し、傷つくのを見て、彼は内心でなにを思っていたのだろう?
絶望する私を抱きしめながら、計画通りだと嘲笑っていたのだろうか?
本当に信じていた。心から愛していた。
私には彼しかいないと、そう思っていたのに。
その孤立すらも、彼が私を閉じ込めるために作り出した罠だったなんて。
胸を鋭い刃先で何度も突き刺されるような激痛に、私は泣き叫んだ。
裏切られた絶望はあまりにも深い。
なぜ私は……。
彼を信じ切っていた自分への惨めさ。もうすべてが信じられなくなり、世界が泥沼に沈んでいく感覚。
その日から三日三晩、私は部屋に鍵をかけ、誰の顔も見ずにベッドの中に沈んだ。
食事も水も喉を通らない。口にしても吐き戻す。
ただただ、涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
彼の優しい声の記憶が脳裏に蘇るたびに寒気と激しい吐き気がして、シーツを握りしめ、体を丸めて震えることしかできなかった。
四日目の朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めた時、私は自分の中に、もう流す涙が一滴も残っていないことに気づいた。
弱り切った体を無理やり起こす。
三日間まともに水分も取らず泣き続けたせいで、喉はカラカラに乾き、頭もまともに働かない。
ふらつく足取りで洗面台へ向かい、鏡を見た。
なんて顔だろう……。
目の下にくどい隈を作り、頬が痩せこけ、髪もボサボサになった、酷く惨めな女の姿が鏡に映っていた。
「……誰なの、これ」
これが領地経営をこなし、伯爵家の娘として誇り高く生きてきたエルシー・ロゼスなの。
たった一人の男に裏切られただけで、ここまで無様に壊れてしまうなんて。
鏡の中の虚ろな瞳を眺めているうちに、ある考えが頭に浮かんだ。
——あの人は、私をこうやって壊したかったのではないか?
誇りを奪って、友人を奪って、居場所まで奪い取る。
そうして私が誰からも疎まれ、泣き叫び、身も心もボロボロになった末に、「あなたしかいないの!」とすがりついてくるのを、彼はあの美しい笑顔で待っているのでは?
「……冗談じゃないわ」
パキパキに割れた唇から、魂のこもった声がこぼれた。
「そうか。私は、ずっと騙されていたんだわ……」
その事実をはっきりと口にした刹那、あれほど胸に貼り付いていた絶望と悲しみが、嘘のように消え去った。
代わりに冷えきったような、それでいて沸騰しているような、表現の難しい複雑な怒りが、全身を巡り始めた。
嘆くのはもう終わりにしよう。
彼の身勝手で狂った遊戯の盤上で、これ以上踊らされてやる義理はない。
彼に人生を握りつぶされて、このまま悲劇のヒロインぶって朽ち果てるなんて、私のプライドが絶対に許さない。
ましてや、ここで彼に泣きついて一生守ってもらうなんて、死んでもごめんだ。
私は頬を何度か強く叩いて、鏡を睨みつけた。
ずっと麻痺していた脳から痺れが取れていく。
長く、強い息を吐き出す。
そして、三日ぶりに自室のベルを鳴らし、扉の外で心配そうに待機していたメイドを呼び入れた。
「お、お嬢様……!? ああ、よかった、やっとお声がかかって……」
「心配をかけてごめんなさい。まずは、温かくて消化の良いスープを持ってきてちょうだい。それから、湯浴みの支度も」
驚いて涙ぐむメイドに指示を出し、私は再び鏡の前に立った。
先ほどまでの虚無の目はもうない。
抜け殻のような顔も消えた。
熱いお湯で身を清め、無理やり胃に食べ物を流し込む。
そしてクローゼットの中から一番美しく、彼が「君には少し派手すぎるかもしれないね」と言って好まなかった、豪奢な真紅のドレスを選び取った。
荒れた肌と泣き腫らした目を、分厚く完璧な化粧で塗りたくり、惨めな自分を完全に隠蔽する。
これは、心の鎧だ。
愛した男を自らの手で切り捨てるために必要なもの。
「……ハイド様へ使いを出してちょうだい。大切なお話があるので、大至急私室まで来てほしいと」
身支度を終えてソファに深く腰掛けた私は、落ち着いた声でそう告げた。
冷めた紅茶を見つめる私の中には、もはや彼への甘い愛情の欠片もない。
「——エルシー! 三日も顔を見せないから心配したよ。具合でも悪かったのかい?」
ノックの直後、忙しい足音と共にドアが開いた。
部屋に飛び込んできたハイド様は、いつものように甘く、柔らかい声色で私に駆け寄ろうとした。
しかし、ソファに腰掛ける私の姿を見て、すぐに足を止めた。
私が纏う真紅のドレスと、微塵の隙もない完璧な化粧。
これは彼が期待していたであろう、涙に濡れて縋り付いてくる哀れな女とは正反対だからだ。
彼の美しい顔にほんのわずかな戸惑いが走るのを確認した。
「……そ、そのドレスは……君には少し派手といったものだよね? 今の君の繊細な心には似合わないよ。さあ、僕のところへ」
おおらかに両手を広げる彼を、私は冷えきった目で見据えたまま、微動だにしない。
「そんなことより、お掛けになって」
感情の消えた声でそう促すと、彼は一瞬だけ不快そうに眉をひそめ、向かいのソファに腰を下ろした。
私は手元のテーブルに置かれていた、分厚い調査報告書の束を彼の方へと滑らせた。
「……なんだい、これは」
「私があなたにお渡しする、最後の手紙ですわ」
ハイド様は訝しげに顎を引き、その束を手に取った。
ページを捲るかすかな音だけが、静まり返った部屋に響く。
一枚、二枚。
視線が文字を追うにつれて、彼の顔色がどんどん悪くなっていくのが見て取れた。
そこに綴られているのは、情報ギルドへの莫大な送金記録、ギルドマスターとの裏帳簿。
なにより、意図的に崩された、彼自身の筆跡による『例の令嬢の悪評拡散の指示書』の写し。
沈黙が部屋を包む。
「これはなんなんだ……? 例の令嬢とは?」
「私です。それしか考えられません」
彼の手から報告書の束がバサリと床に落ちた。
それから両手で顔を覆い、小刻みに肩を震わせ……静かな部屋に、ひどく歪な笑い声を広げる。
「……ふふ、かははは! ……ああ、隠し通せると思ったのに。やっぱり君は賢いな」
顔を出した彼の瞳には、もう完璧な婚約者の理性はなかった。
あるのは、どす黒く汚れた、ひどく身勝手な執着だけ。
「そうだよ、僕だ。——だって君は完璧すぎるんだ! 顔も美しく、スタイルも抜群で、その上聡明で、どんな公務も完璧にこなしてしまう。このままじゃいつか、君は僕の手の届かない高みへ行ってしまう気がした。いや、離れていってしまう! だから……」
彼はテーブルに身を乗り出し、恍惚とした表情を浮かべた。
「君の美しい羽を全部折って、泥を塗って、誰からも石を投げられるようにして……僕しか頼れないようにしたかった! 僕だけを見て、信じてほしかったんだよ……!」
醜悪で、哀れな独占欲。
それを言葉で聞くと、かつて彼に向けられていた私の純粋な愛は、完全に燃え尽きて灰と化した。
もう怒りすら湧かない。
ただ、深い失望だけが胸を満たしていた。
「……呆れたわ」
私の凍ったような声に、彼がビクッと肩を跳ねる。
「そんな回りくどいことをしなければ繋ぎ止められないほど、私たちの絆は薄っぺらだったの?」
「……えっ」
「私は、あなたがなにもしなくたって、ただそばにいてくれるだけであなたを愛していたのに。……あなたは私の愛を、一つも信じていなかったのね」
ゆっくりと立ち上がり、彼を見下ろした。
私の胸を最も抉ったのは、もはや彼に陥れられたことではない。
エルシーが僕から離れていく、と彼が私の愛を疑ったことなのだ。
「婚約は破棄よ。もう二度と、私の前に姿を見せないで」
背を向け、扉の方へ歩き出す。
「待ってくれ!! 嫌だ、絶対に嫌だ!!」
鬼気迫った声に振り返った私の目に飛び込んできたのは、驚くべき光景だった。
ハイド様は懐から護身用の豪奢な短剣を抜き放ち、自身の首筋に押し当てていたのだ。
鋭い刃先が皮膚を僅かだが裂き、一筋の赤い血が首筋を伝って白い衣服を汚していく。
「君を失った人生なんて、ゴミクズにも劣る! 君が僕を捨てるというなら、僕は今ここで死ぬ!」
完全に目が血走っている。
ハッハッと荒い息を吐き、狂気に満ちた顔で本気で刃を押し込もうとする彼を見て——私の頭の中で、なにかがプッツンと切れた。
パァンッ!!
私はドレスの裾を激しく翻して駆け寄り、全力で彼の手首を引っ叩いた。
自分でも驚くほど速いビンタだった。
キレの良い音と共に短剣が虚空を舞い、遠くの床へと弾き飛ばされた。
「痛っ……! エル、シー……?」
呆然と手首を押さえる彼に向かって、私は自分でも驚くほどの怒鳴り声を上げる。
「馬鹿にしないでちょうだい!!」
瞳から、流し尽くして消えたはずの悔し涙がひとしずく滲む。
それはもう、彼への悲しみの涙ではない。
こんな男を本気で愛し、それでいながらこんな男の命を見捨てることすらできない、自分自身への歯痒さだった。
「……私が愛した男の命を、私の目の前で勝手に捨てないで! 私を愛しているなら、私を手に入れたいなら、もっと真っ当な方法で愛しなさいよ、この大馬鹿者!!」
彼の胸ぐらを乱暴に掴んで力任せに揺さぶると、ハイド様は目を見開き、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら強く訴え始める。
「愛したって届かないだろ……! 僕は、なんにもない偽物なんだからッ!」
「あなたのどこが偽物なの? 家柄から容姿から能力まで、すべてを手にしている。男性が欲しいものをすべて備えているじゃない!」
「だからそれが偽物だろ! 僕はどんなに頑張ったところで空虚でしかない。金箔を貼られたとしてもそれは黄金じゃない。でも君は本物だろ! だから偽物の僕とじゃいずれ合わなくなる。だから君も偽物にしたいんだよ、わかるだろ——ッ!!」
……そうか、この人は恐ろしく自己評価が低いのだ……。
なにが、彼をそう評価させているのだろう。
彼を愛していたはずの私は、本当はなにも気づいていなかった……?
ハイド様の心の奥底に深く広がっている闇になに一つ気づくことはできなかった。
泣きじゃくる五歳児みたいな彼を見つめていると、怒りや憎悪は消えて、不思議な気分に陥る。
「だからって、やり方があるでしょう?」
「……どんな手を使っても失いたくない。さっきのは冗談じゃないんだ。本当に、君を失うくらいなら命を捨てた方がマシなんだ」
先ほどの流れを見ても、これは本心だろう。
彼の愛はもっと穏やかで包むようなものだと感じていたのに、まったく違う形のものだった。
綺麗な包装の中に隠していた、剥き出しの欲望こそが真実。
ハイド様は、立ち上がってゆらりと揺れる。
「もうダメだよな……。エルシー、僕を捨てるんだろう?」
「……そういう表現はあまり好きではないわ」
「もし、許してくれるなら……心を入れ替えるよ」
「……もし本当に顔も見たくないなら、とっくにお父様に証拠を提出して、あなたを社会的に抹殺している」
私は大きなため息をつき、彼を突き押した。
弱々しくソファーに崩れ落ちた彼の銀髪を、愛ではなく、もはや支配の意志を込めて冷たく撫で下ろす。
「いいこと? あなたのした事は間違っている」
「……ああ。さすがに、わかっていたよ」
「私が悪者になるのは御免よ。婚約は継続してあげる。ただし、絶対に守るべき3つの条件があるわ。一つ、今後は私に嘘をつかないこと。二つ、私の許可なく勝手な行動を起こさないこと。三つ、少しでも条件を破れば即座に別れる。……命を盾にするのも二度と禁止よ」
「そ、そしたら、やり直してくれるのかい?」
完全に許したわけではないので、わずかにうなずく。
ハイド様の顔色が一気に明るくなった。
「誓う! 誓うよエルシー、僕の愛しい婚約者様!」
あまりに嬉しかったのか、ハイド様は涙でさらに顔をぬらし、私の足元に崩れ落ちるように跪き、ドレスの裾に恭しく口付けた。
「三日後、王家主催の夜会が開かれるわね」
「そうだね」
「私への愛が本物か、そこで試させていただくわ」
私は、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
☆
王都の権力者たちが集結した三日後の夜会にて、ハイド様はとある告白をした。
ホールの真ん中で、隅々まで響き渡る大きな声で。
「——以上が、私の犯した大罪のすべてです」
いままでは誰からも羨望の眼差しを集めていたはずの公爵令息が、自身の狂気的な活動を語り終えたところだった。
「つまり僕は、愛するエルシーが自分から離れないよう、彼女の悪評を捏造し、社交界にばら撒きました。金で工作員も雇いました。彼女は被害者であり、アバズレなどという噂は完全な嘘です。彼女は潔白で一度も僕を裏切ったことはない。裏切りは僕の方で、それは醜く浅はかな独占欲のためです」
前代未聞だろう。
夜会での婚約破棄は、それなりに起きることがある。
しかし今回のような暴露謝罪は例がない。
周囲の貴族たちは、あまりのことに言葉を失い、青ざめて立ち尽くしている。
噂に乗じて、私に嫌がらせをしてきた令嬢たちも、同情してすり寄っていたはずの『憧れのハイド様』の恐ろしい本性を知り、怯えていた。
もう誰も、私を嘲笑う者はいない。
同時に、狂気に染まった彼に近づこうとする者も、当分は現れないだろう。
この場には、彼と私の父親も参加している。
公爵である彼の父が、ハイド様の頬に全力の張り手を喰らわす。
「この恥さらしめがッ!」
息子に向けるものとは思えぬほど、憎しみがこもっていた。
彼の闇の原因の一つは、家族にあるのかもしれない。
そう感じた。
公爵はすぐに意識を外に向け、集まった有力貴族や王族に息子の非礼をわびた。
王族も有力貴族も黙っていたが、私の父親だけはそうはいかない。
「いくら公爵家だからといって、やって良いことと悪いことがある! エルシーとの婚約は破棄させていただく!」
これに関しては当然だ、という雰囲気が流れる。
公爵もそれを受け入れざるを得ない。
この空気を壊せるのは私だけだった。
「いいえ、お父様。私はハイド様との婚約を解消しません」
「ハ!?」
父だけではなく、集まった全員が似たような顔だった。
「ハイド様の間違いを受け入れ、今後はより改善した関係性を保っていければと考えております」
「頭がおかしくなったのか!? お前を陥れていた男だぞ!」
「その通りです。私を陥れていた酷い男です。それでも彼の間違いを私は一度は許そうと思います。理由は婚約者だからです」
父は絶句していた。
普通は逆だろうと。
婚約者だからこそ、そのような非道な好意は許せないのだろうと。
一般的にはそうなのかもしれない。
でも私はそう感じない。
もはや私も狂っているのだろうか。
「私のハイド様への愛は一度壊れました。いまも直ったわけではありません。でも彼は修復したいと申し出たので、一度は受け入れます」
「なぜ受け入れる!?」
「婚約者だからです」
「意味がわからんぞ、エルシー!」
父が怒号する。
この場の全員、きっと私のことを情に流された哀れな令嬢だと思っているのだろう。
そこで怯まず、堂々とした声で答える。
「意味ですか? とても簡単なことですわ」
青くなった顔で私を遠巻きに見ている貴族たち、そしてハイド様を殴り飛ばした公爵を私はぐるりと見渡す。
「ハイド様はご自身を、金箔を貼っただけの空虚な偽物だと仰いました。……確かに、そうかもしれません。彼は弱く、とても臆病で、私を陥れることでしか愛を繋ぎ止められないほどに壊れています」
「エルシー……」
足元でハイド様が、縋るように私の名前を呼ぶ。
「ですが、壊れたからといってすぐに捨てるのは、あまりにも無責任ではありませんか? だって、私たちは婚約者なのですから」
私はしゃがみ込み、ハイド様の赤く腫れた頬に優しく手を添えた。
私の手にすり寄る彼は、捨てられた子犬のように哀れだった。
「彼が私を檻に閉じ込めようとしたのなら、今度は私が、壊れた彼に一生首輪をかけて世話していく。純粋な愛情が失われたのなら、義務と責任、そしてほんの少しの同情でこの手を引いていく。……それが、一度は未来を誓い合った者の、誠意というものではないでしょうか」
ホールではもはや、私以外誰も話さない。
ようやく理解してくれたのだ。
ハイド様が狂っているのと同じくらい——いや、もしかするとそれ以上に、私の思考もまた常軌を逸していると。
「ねえ、ハイド様。愛がなくても、あなたは私のおそばにいたいのですよね?」
「もちろんだよ……君のそばにいられるのが僕の幸せなんだ……!」
泣き虫に戻った彼の頭を撫でながら、私は静かに口を開く。
「ええ。それなら一生、私の隣でその罪を償って。義務と贖罪のかけ算の先に、愛が存在しないと証明した人が一人でもいた? その答えは、私たちが見つけるしかないの」
「エルシー……君は最高だ……!」
ドン引きというのだろうか。
もう家族ですら、口を挟もうとはしない。
呆然と立ち尽くす父や公爵を背に、私はハイド様を立たせ、その腕を組んで夜会のホールを後にした。
彼を見上げる私の胸に、かつてのような甘い愛情はもうない。
けれど、見えない鎖で繋がれたこのひどく歪で冷たい絆こそが、今の私たちには恐ろしいほどお似合いだった。
それに、その先に本物の愛がないとは、まだ証明されていない。




