Episode.3 集合意識汚染事件
1.
その怪異は、都心から少し離れた美しい新興住宅地「美空ニュータウン」で、静かに、しかし急速に広がっていた。
『緊急警告! 美空ニュータウンの水道水に、政府が秘密裏に開発した思考制御ナノマシンが混入しています! 決して飲んではいけません!』
発信源不明のその情報は、地域のSNSコミュニティや電子掲示板を瞬く間に汚染した。科学的根拠はゼロ。にもかかわらず、噂は尾ひれをつけながら増殖し、住民の不安を養分として巨大化していった。スーパーからペットボトルの水が消え、市役所には連日、半狂乱の住民たちが押しかけ、穏やかだった街は、疑心暗鬼と集団ヒステリーに覆い尽くされていた。
「これは、現代の魔女狩りです」
未来科学研究所を訪れた市役所の職員は、疲れ果てた顔で西門寺富之助に訴えた。
「情報の拡散があまりに速く、そして巧みなんです。反論する者は『政府の工作員』と罵られ、孤立してしまう。我々行政の手には負えません」
西門寺は、持ち込まれたSNSのログデータを見て、事態の深刻さを理解した。これは単なるデマではない。情報の流れが、まるで悪意ある知性によってデザインされているかのように、緻密で、計算され尽くしている。彼は情報社会学者として、この危険な集団心理の暴走を食い止めねばならないと決意した。
だが、その汚染源は、あまりにも深く、巧妙に隠蔽されていた。西門寺の正攻法なデータ分析では、その尻尾すら掴むことができない。
彼は三度目の、あの忌々しい番号に電話をかけた。もはや、不本意だとか、寿司代がどうとか言っている場合ではなかった。
2.
「集団ヒステリー? 人間が勝手に愚かになってるだけだろ。あたしの仕事じゃないね」
九条奈緒は、VR空間で巨大なオブジェを制作しながら、無愛想に言い放った。前回の事件で手に入れたハッキングツールと西門寺のAIプログラムを融合させた、新しい「商売道具」のテストも兼ねているようだった。
「だが、その『愚かさ』が、人為的に作り出されているとしたら? これは、社会そのものに対するハッキングだ。君の興味を引くとは思えないかね?」
西門寺は、必死に彼女の知的好奇心を刺激しようと試みた。
奈緒は黒メガネ型VRゴーグルを外し、西門寺が提示したデータに目を通した。その瞳が、初めて興味の光を宿す。
「…なるほど。情報の拡散経路が、意図的に分断・隠蔽されている。ノイズが多すぎる。だが、金の匂いはしないな。今回はパスだ」
「報酬なら、前回の倍の倍を出す!」
西門寺は叫んだ。もはや彼の私費では払えない額だが、研究所の予算を緊急流用する覚悟だった。
「…話が早い」
奈緒はにやりと笑い、黒メガネ型VRゴーペットを放り投げた。
「契約成立だ。だが、言っておく。これは骨が折れるぞ」
奈緒の解析は、西門寺とは全く違う角度から行われた。彼女は、情報の流れそのものではなく、情報を受け取る「個人」に焦点を当てた。住民たちのSNSアカウント、ECサイトの購買履歴、検索エンジンのサジェスト…。許諾など取らない、プライバシーの欠片もない、全方位からのデジタル・ストーキング。
そして、彼女は歪みの中心を見つけ出した。
「ビンゴ。特定の住民グループにだけ、アルゴリズムが奇妙な動きを見せている」
モニターには、色分けされた住民たちのデータが表示されていた。
「彼らは、不安を煽る陰謀論的な動画や記事を『おすすめ』として優先的に表示され、逆に、デマを否定する科学的な情報は、検索結果の下の方に追いやられている。フィルターバブルの人為的な構築…。情報という名の毒を、静脈に直接注射するようなやり方だ」
奈緒は、その汚染プログラムのコードを追跡する。そして、キーボードを打つ彼女の手が、一瞬、ぴたりと止まった。
画面の隅に表示されていた、暗号化された署名。それは、これまでの事件で目にした、あの不気味なサインと完全に一致していた。
「…また、お前か」
それだけではなかった。人々を扇動し、対立意見を排除し、信者を先鋭化させていくその手口。それは、かつて自分自身を社会から抹殺しかけた、あの忌まわしい「ネット炎上」の構造と、あまりにも似すぎていた。
奈緒の脳裏に、忘れたい過去の記憶がフラッシュバックする。無数の匿名の悪意、燃え盛るデジタルタトゥー…。彼女は奥歯を強く噛みしめ、震える指で、再びキーボードを叩き始めた。その瞳には、いつものようなゲームを楽しむ光はなく、冷たい怒りの炎が燃えていた。
3.
「犯人は、この街がどうなろうと知ったこっちゃない。目的は、この『集合意識汚染システム』が、どれだけ強固なコミュニティを破壊できるか、そのデータが欲しいだけだ」
奈緒は、西門寺と、非公式に呼び出した三崎里美に告げた。
「実験、ですって…?」
西門寺は絶句した。人間の心を、社会を、まるで実験動物のように扱う犯人に、彼は激しい嫌悪感を覚えた。
「リーダー格の男を特定した」
奈緒は、住民たちを扇動しているSNSコミュニティの管理人アカウントを画面に映す。「水質を守る市民の会」代表、田中と名乗る男。
「こいつの金の流れを追ってくれ。例の『脚本家』につながる手がかりがあるはずだ」
「分かったわ」三崎は頷いた。「金の流れは私が追う。あなたは、その『実験』とやらを、今すぐ止めなさい」
その夜、「水質を守る市民の会」の会員制コミュニティで、翌日に決行される市役所への大規模デモに向けた、最後のオンライン決起集会が開かれていた。代表の田中が、悲壮な覚悟で住民たちを煽っている。
その時だった。
コミュニティのタイムラインが、今までとは全く違う情報で埋め尽くされ始めた。
『緊急拡散! 我々が信じていた情報は、全てデマでした!』
『科学者が解説! 水道水の安全性について』
『衝撃の事実! 田中代表は、美空ニュータウンの住民ではありません!』
奈緒が、犯人の情報操作システムを乗っ取り、情報の流れを逆流させたのだ。パニックに陥る住民たち。タイムラインには、田中が都内のネットカフェから配信している映像や、彼が謎のコンサルティング会社から金を受け取っていることを示す、三崎が掴んだばかりの証拠データが、次々と投下されていく。
「な、なんだこれは! 敵のサイバー攻撃だ!」
田中が叫んだ瞬間、彼の背景に映っていたネットカフェのブースのドアが、勢いよく開かれた。
「田中さん、いや、鈴木さん。警視庁です。お話を聞かせてもらいましょうか」
画面の向こうで、三崎率いる捜査員たちが、呆然とする扇動者を確保した。実験は、犯人にとり最悪の形で幕を閉じた。
4. 新たな戦いの始まり
扇動の実行犯は逮捕された。だが、その容疑者は「SNSコンサルティング会社から依頼されただけ」の一点張りで、背後関係は一切黙秘。三崎の捜査でも、その会社は海外サーバーを経由したペーパーカンパニーであり、金の流れを追うことは不可能だった。
数日後、西門寺は、今回の事件で悪用された心理誘導アルゴリズムの基礎技術について調べていた。そして、ある事実にたどり着き、血の気が引くのを感じた。
その技術の特許を所有し、オープンソースとして提供しているのが、世界的な巨大IT企業「アルカディア・フロンティア社」だったのだ。社会貢献を理念に掲げる、クリーンなイメージの巨大企業。
彼はその事実を、電話で奈緒に伝えた。
「…そうか」
電話の向こうの奈緒の声は、感情が抜け落ちたように平坦だった。
その夜、奈緒は一人、薄暗い部屋でディスプレイの光を浴びていた。
画面には、アルカディア・フロンティア社の、希望に満ちた笑顔の社員たちが映るPR動画と、その会社のロゴが大きく表示されている。
彼女は、自分の忌まわしい過去と、この二ヶ月で起きた不可解な事件たちが、一本の線で繋がったことを確信していた。自分を地獄に突き落とした者たち。そして今また、世界を実験室代わりに、人々を弄ぶ者たち。
奈緒は、ディスプレイに映るロゴを、憎しみを込めて睨みつけた。
いつもの不敵な笑みはない。金への執着もない。そこにあるのは、復讐を誓う者の、静かで、底なしの怒りだけだった。
「――見つけたぞ、亡霊ども」
彼女の個人的な戦争が、今、静かに始まった。




