粉暦512年 ― 灯りの幅
――雪がまだ尾根に噛みついていた冬の終わり、僕は火薬袋を抱えて山道を登っていた。肩紐は濡れ、袋の底が少しずつ解けかけた雪で黒ずんでいる。鐘が鳴るたび、村の広場から列が伸び、子どもも女も老人も、誰もが同じ方向へ足を向ける。砲座へ。
二十四門の口が、山頂で白い息を吐いている。砲兵長が短い号令を切るたび、鉄の筒は震え、谷の向こうへ響きが転がっていく。遠いどこかを叩いているはずなのに、僕の胸骨の裏側の方が先に痛んだ。
「腕をまっすぐに、腰で受けろ」
背中で怒鳴られ、僕はうなずく。うなずき方にも癖がついた。うなずいている間だけ、叱責から身を守れる気がするから。
妹のミオは、僕より小さな袋を抱えて、列の三人後ろを歩いている。彼女は字がうまく、村の誰かの名を書いては荷の順を整え、老人たちに水の配り方を教えた。ミオがいなければ、きっと列はもっと遅れ、僕らはもっと怒鳴られていただろう。
砲が鳴るたび、雪は崩れ、時に砲弾が自ら転げ落ちて谷へ消えた。偶然のように、遠くで黒い煙柱が立ち上がったという報せも、幾度かやって来た。その日だけは、広場の空気が少しだけ軽くなる。けれど翌朝には、また鐘が鳴り、また列が伸びる。
春が土を柔らかくすると、道は泥に変わった。背の低い僕らが最初に泥を踏み固め、背の高い男たちが後ろから乗って来る。泥の重みは、言い訳の重みとよく似ていた。誰もが言い訳を背負っていて、けれど誰も口に出してはならなかった。
夜、焚き火の周りで、こっそり話す声が増えた。
「どうして戦える奴だけでやらない」
「どうして村ごと巻き込む」
火の粉は雪より軽く、空に消えた。僕らの言葉は、その逆だ。重く、胸の底で沈んでいった。
ある日、山麓に布を広げる商人が現れた。塩と乾いた草餅、薬草。その男は誰にでも笑い、でも誰の目も真っ直ぐ見なかった。ミオは彼の置いた紙片を拾った。薄い紙に、細くて読みにくい字でこう書いてあった。
――山を下りるなら、北西。月の無い夜。古い獣道。
「読める?」と僕が問うと、ミオはうなずき、指で地図を描いた。僕の知る道ではない。砲兵長の罰は苛烈だ。命令に背いた者は、山頂の風に晒される。凍えた手足が朝日に晒され、やがて名前だけが広場の掲示板に残る。
その夜から、僕は眠れなくなった。砲声が止むと、代わりに心臓が鳴り、心臓が疲れると、遠くの犬が吠えた。吠えない夜は、風が唸った。唸らない夜は、雪解けの雫が石を打った。静かな夜はいっそううるさく、僕の中で何かが擦り切れていった。
白い外套を着た商人たちが、夜に消えていくのを見た者がいたという噂が回った。翌朝、砲弾庫の一角が湿っていた。火薬袋は重く、いつもより焚き火の火花が湿った音を立てた。その日、砲はいつもより少なく吠えた。誰かが安堵の息を漏らし、誰かが怒鳴られた。怒鳴り声が響くと、安堵は気配を消した。
「ここは、誰の山なんだろうね」
ミオがぽつりと言った。砲座へ続く道の半ば、先頭の背中が遠くて、後ろの列が泥で止まるとき。僕は答えられなかった。
春の終わり、空気が急に重くなった日のことだ。北西の丘の向こうに、三つの色が浮かんだ。赤、白、黒。村の老人が目を細め、名前を言った。黄砂隊。鋼翼隊。灰塵傭兵団。
最初に空が動いた。雲の縁から、小さな影が滑る。翼のない鳥のような船が、音もなく近づいてくる。砲兵長が叫び、山頂の何本かが空へ火を吐いた。けれど刃は風を斬るだけで、鳥は影を落として去った。
その隙に、砂の色の男たちが山道を駆け上がり、別の谷から灰色の影が這い上がる。村の女たちが背負った箱が、いつもより早く空になり、いつもより遅く満ちた。ミオが足を取られて転び、抱えていた袋が泥に沈む。僕は彼女の腕を引き、泥の中から袋を引き上げた。袋の縫い目が裂け、火薬が黒い土と混じり合った。
夕方、山の斜面に篝火が点々と点いた。敵も味方も境目なく、同じ色で暗闇を照らす。その小さな灯を見下ろして、僕は初めて「ここ」という言葉の輪郭を掴んだ気がした。僕が生まれ育った村は、山に抱えられ、砲の影に置かれ、数で数えられてきた。その全部が、夜の灯に溶けていた。
その夜、商人はまた現れた。焚き火の向こうで、彼は僕にだけ目を合わせた。目は笑っていなかった。
「月は明後日、細い。北西だ」
「あなたは、誰だ」
「誰でもない。ただ、道を知っている」
僕はうなずいた。返事をする前から、体が決めていた。
明け方、砲座に向けて最後の荷を上げる列に紛れ、僕はミオの手を握って離さなかった。砲兵長の号令が背中を追ってくる。振り返れば、その怒声の先に晒し場がある気がして、振り返れなかった。
合図は、遠くの丘で黒い旗が一度だけ揺れること。僕らは広場の隅の雑木林に入った。小枝が頬を掠め、泥が足首を掴む。鳥の鳴き声の真似が、少し離れた林の中から返ってくる。商人の仲間だろう。僕はその音に向かって歩いた。
獣道は、思ったよりも獣の匂いが少なかった。長く使われない道は、草の匂いと土の匂いが混ざり、わずかに鉄の匂いもした。鉄の匂いは、血にも似ていた。
道の曲がりで、僕らは一度立ち止まった。ミオが息を切らし、指先を震わせる。
「戻ろうか」
「いや、もう少しだけ」
「一体、この土地は誰のものなんだろう?」
「……僕らのものにする」
自分の口から出た言葉に、僕自身が驚いた。約束というより、呪いのようにも聞こえた。
背後で、空が裂ける音がした。鋼の翼が再び旋回に入ったのだろう。山はうなる獣みたいに震え、前へ進むしかないと僕の足を押した。
やがて獣道は石畳に変わり、石畳は草原の縁にほどけた。北西の空は広く、風が合図のように吹いた。そこに、ぼろ布を巻いた四、五人の影が立っていた。商人の仲間だ。彼らは手を上げ、声を潜めて言った。
「よく来た。ここで別れる」
「別れる?」
「山の向こう側へは、あんたたちだけで行ける。道はもう、君らが知っている」
僕は振り返った。山の稜線の向こうで、細かい光が瞬いている。砲か、焚き火か、誰かの合図か。ミオが僕の袖を引いた。
「戻らないの?」
「戻るよ」
「え?」
「大人たちに、道を知らせる。誰に強いられるでもなく、みんなで決めるために」
商人のひとりが鼻で笑い、もうひとりが真面目にうなずいた。僕は草原に片膝をつき、指で土に線を引いた。獣道、石畳、崩れやすい斜面。木の生え方、風の向き。ミオがその上に、小さな印を丁寧に重ねた。
「僕らは駒じゃない」
誰に向けてでもなく、声に出して言った。風がそれを千切り、どこかへ運んでいく。千切れた言葉の端を、ミオが拾って顔を上げた。
戻り道は、行きよりも短く感じた。息を合わせるように、砲声の合間に走り、息を止めるように、怒声の合間に潜んだ。
村の外れの納屋で、僕たちは仲間を集めた。白い外套を着る者、肩に泥を貼り付けた者、手のひらが火薬で黒い者。誰もが同じ顔をしていた。疲れて、でも目が覚めている顔。
「北西に道がある。月の細い夜に動く」
僕が言うと、反対する声も、賛成する声も出た。議論は長く続かず、代わりに沈黙が長く続いた。沈黙が終わる直前に、僕はミオの手を握った。
その夜、僕らは二つの列に分かれた。年寄りと子どもを連れて下る列、砲座の近くに残って灯りを増やし、目を欺く列。僕は後者に残ることを選んだ。ミオは前者に行くと言った。
「行って。必ず」
「必ず」
約束よりも短い言葉で、僕らは別れた。
夜の山は光で飾られ、僕らはいつもより多くの篝火を焚いた。焚き木に水をかけ、煙を濃くし、火の粉を高く飛ばした。空の鳥が、炎の揺れを数え間違えるように。
そのとき、砲兵長が現れた。彼は僕の顔を見て、名前を呼んだ。怒りの色は薄く、疲れの色が濃い。
「お前は、どこへ行く」
「ここにいます。ここに、います」
「……ならば、灯りを絶やすな」
命令とも嘆きともつかない言葉だった。僕はうなずいた。うなずき方は、やっぱり癖のままだった。
夜明け前、山の端が灰色に濡れたころ、遠くで小さな列が動くのが見えた。ゆっくり、でも揃って。僕は焚き火に薪を足し、煙をさらに濃くした。鳥は煙の向こうに消え、砂の色の男たちは煙の手前で足を止めた。
朝日が、晒し場の杭を金色に塗った。何本かの杭の影が、短くなり始めている。あそこに立たされるはずだった名前たちが、今は山の向こうで別の光を浴びていると想像し、僕は息を深く吸った。
戦いが誰のためのものか、僕はまだ答えられない。だけど、灯りの数を決める手が、今夜は僕の手であることだけは確かだった。
やがて、空が青くなり、砲は再び鳴り出した。けれど今日の音は、昨日と少しだけ違う。谷に跳ね返る響きの端に、小さな余白があった。その余白は、きっと誰かが通れる幅だ。僕はその幅のために、薪を、また一つ焚べた。
徴発の朝のことを、僕は何度も思い出す。あのとき僕らの戸口を叩いたのは、槍を持った兵士ではなく、筆と板を持った役人だった。名前、年、家族の人数、畑の広さ、持っている鍋の数まで、全て板に刻まれた。刻まれた溝は黒い粉で埋められ、黒い粉は雨に流れないよう油で固められた。
「兵は十二万」
誰かが言った数字は、広場でひとり歩きした。十二万という言葉は巨大で、でも僕らの生活にはまるで触れない、遠い石のようでもあった。やがて数字は衣替えをして戻って来た。「半分は影だ」と。どこからか届いた噂では、遠い都の地図の上で、偉い誰かがそう言ったらしい。影である半分に、僕の顔が含まれるのだと知ったのは、ミオの頬についた泥を指で払ったときだった。
晒し場に立たされた少年の名はカドといった。僕より一つ上で、斜面を駆け下りるのが誰より速かった。彼は母親が倒れた日に、列から離れて薬草を採りに行っただけだった。砲兵長は規律を守るために命じたのだと、広場で言った。僕には、その言葉が自分の喉を締める縄の形をしているように見えた。
夜、誰も見ていないと思ったとき、僕は晒し場の掲示板へ行き、カドの名の上に細い線を引いた。彼の名が、少しだけ、山から自由になるように。翌朝、線は泥と霜で滲み、もう読めなくなっていた。けれど僕はそのにじみを覚えている。にじみは、僕の手の震えの形だった。
三色の旗が現れた日、砲座の下の洞で老人のひとりが言った。
「本当の戦は、数えることじゃない。決めることだ」
誰かが笑った。笑ったのは僕かもしれない。僕はまだ決めることが何か分かっていなかった。列に並ぶこと、怒鳴られないようにすること、火を絶やさないこと。そういう小さなことの積み重ねが決めることだと思い込んでいた。
白い外套の者たち――後になって白凰社だと知った――が夜に来て、火薬に水を掛け、布をめくり、静かに去った。翌朝、砲がいつもの数だけ鳴らなかった。鳴らないことで、僕らは初めて何かを選びうると知った。音が少ないことは、誰かの余白だった。余白は恐ろしい。そこへ何を書くのかが、問われるからだ。
鋼の翼は、ほんとうに翼のように見えた。空で旋回する影の腹に、光が斜めに走った。僕らの焚き火の煙が風に流れ、影の目が迷っているように見えた。黄砂の色の人々は、砂の上を走るみたいに急斜面を上った。灰色の傭兵は、灰のように群れてかたちを作り、また崩れた。
砲座の脇の平地で、ミオが膝を抱えた。
「怖い?」
「怖いよ」
「僕も」
「でも、怖いって言えるのは、まだ余白があるからだよ」
彼女の言葉を、僕はすぐには理解できなかった。けれど、怖いを口に出せたとき、胸の中で固く交差していた棒が、少し緩んだのは分かった。
逃げる列が山の背を越えるころ、残る列の中で、僕は火を扱う係になった。薪を細く割り、湿らせ、煙の流れを読んで、敵の目が一番迷う角度に焚き火を置く。砲兵長はそれを黙って見ていた。彼が黙ると、怒りは寒さのように薄くなった。
炎の間に、僕は何度も父の背中を思い出した。畑を耕す背中は、山よりゆっくり動いた。父は言った。「石は邪魔じゃない。石は畝の形を決める」。そのときの意味を僕は山で理解した。敵も、砲も、命令も、全部が畝で、畝があればそこに自分の足場を刻める。
夜が深くなるほど、鳥の船は低く飛んできた。僕らは炎を二重にして、熱の層で鳥の目を狂わせた。砲座では熟練の男たちが息を合わせ、二十里先の闇に向けて火を送っていた。二十という数は遠く、でも僕の手元の薪の本数に似ていた。どちらも、一本一本だ。
やがて、草原の向こうから狼煙が上がった。短く、間を置いて、長く。約束していた印だ。ミオたちが渡ったのだ。僕の膝が力を失い、座り込んだ。火の粉が膝に落ち、熱が痛みを追いかけて広がった。痛い、と僕は口に出した。痛いと言えることは、やはり余白だった。
朝が来る。晒し場の杭の影が短くなりはじめるころ、砲兵長は僕の肩に手を置いた。骨の上に直接置かれたような軽い手だった。
「お前の名は」
「ユキト」
「ユキト、灯りは任せる。お前の灯りで、ここを見せろ」
彼はそれだけ言って去り、誰かに怒鳴り、また黙った。
僕は灯りを増やした。明るさではなく、場所を増やした。誰かが通れる幅を、煙で描いた。足跡が残らないよう、濡れた杉の葉の上を選んだ。小さな判断が積み重なると、いつの間にか大きな決定になる。決めることは、決心よりも細かい。
三色の旗は、昼には二つになり、夕にはまた三つになった。彼ら自身も迷い、数え、決めあぐねているのだろう。数えることは、誰にでもできる。決めることは、誰かが引き受けなければならない。僕は自分の分だけ引き受けた。焚き火の位置、煙の角度、薪の太さ、そして、名に線を引くこと。
日が落ちる直前、斜面の外れで、泥にまみれたカドの母に会った。彼女は息を切らしながら、僕の手を握った。
「見たよ。あの線」
僕は首を振った。けれど彼女は頷いた。涙は出なかった。涙のかわりに、彼女の手のひらの温度が、僕の掌に移った。
空が最後の明るさを残す中、僕は山の縁で深く息を吸った。砲の音は遠く、でも確かに続いている。焚き火の煙は風に乗り、谷でほどけた。ほどけた煙の向こうに、僕は草原の輪郭を見た。そこには、もう僕たちの決めた道がある。旅は、道が先にできるものじゃない。歩いた足の裏で、少しずつできていく。
「ミオ」
呼んでみる。返事は風に紛れた。けれど、返事がないことで、僕は初めて安心した。彼女が、もうここではないどこかで、自分の呼吸を数えているのだと分かったから。
夜がまた始まる。灯りを絶やさぬ番は続く。僕は薪を割り、湿らせ、くべる。遠い都の地図の上で誰かが言った「影」の半分の中で、僕は僕の輪郭を少しずつ濃くしていく。
そして、いつかこの山の灯りがいらなくなる日を想像する。誰も数えられず、誰も晒されず、誰も命令されない夜。もしそんな夜が来たら、焚き火の灰で、僕は晒し場の杭の根元に大きな円を描こう。あそこで途切れた名が、ぐるりと繋がるように。
朝が来るまで、あと何束。僕は黙って指を折る。一本、また一本。数え終えるころ、決めなくてはならない何かが、灰の下で静かに温まっている。僕はそれを抱え、最初の光へ運ぶ準備をする。