粉暦511年 ― 吸収と影
空は春の色を帯び、北西の草原に雪解け水が走っていた。
天鳴会の本陣は、その水脈の近くに築かれた石造りの会議堂を中心に広がっていた。
粉暦510年の白天戦から一年。勝敗なしのあの戦いは、兵の数と物資の多さを示しただけで、領土は動かなかった。
だが、静かな一年など訪れなかった。
天鳴会は「次の戦」を考えていた。
それは剣や矢ではなく、言葉と契約の戦い。
小規模勢力を取り込み、白凰社に対抗する土台を広げるための動きだ。
第一の吸収 ― 烈火騎士団
烈火騎士団は天鳴会の同盟側にいたが、正式な編入はしていなかった。
兵力一二万人、重槍と馬鎧で有名な彼らは、中央突破の名手。
天鳴会は彼らの隊長に、広い牧草地と年ごとの馬供給契約を提示した。
契約書には金貨一万枚の前払いと、彼らの赤旗を天鳴会の旗の左に掲げる条項が記された。
三日後、烈火騎士団は正式に天鳴会所属となり、地図上でその旗の位置が一つ北へ動いた。
第二の吸収 ― 砂塵隊と砂漠の鷹隊
砂塵隊(六万人)と砂漠の鷹隊(三万人)は砂漠戦の達人だ。
補給線を敵より先に切る彼らは、白天戦でも舟焼却で成果を上げた。
天鳴会はこの二隊をまとめて引き入れるため、南の交易路を丸ごと使用権として与える提案をした。
条件には、彼らの得意な砂漠補給路の守備を天鳴会名義で行うことがあった。
砂塵隊の長老と鷹隊の首領は同じ席で契約し、砂漠の道は天鳴会の色で塗られた。
第三の吸収 ― 龍尾砦守備隊
龍尾砦守備隊(二万人)は、山岳砲と砦防衛に特化した部隊。
彼らは暁影団との古い関係を理由に、中立を保ってきた。
だが、砦の補修資材が不足し、天鳴会が提示した鉄材三百トンと弾薬一千箱が決定打となった。
契約は静かに交わされ、砦の上に天鳴会の旗が新たに上がった。
影の動き
吸収が進む中、会議堂の石壁の裏で、別の動きがあった。
天鳴会の総帥「鳴神 景虎」(兵法家・統率者)は、春分の日に暗殺されかけた。
朝の評議が終わった直後、会議堂の柱の影から、刃が静かに伸びた。
景虎は肩をかすめられ、血が床に落ちたが、警護の槍が犯人を押し戻した。
犯人は顔を布で覆い、声も発さぬまま自ら喉を突き、正体を明かさなかった。
彼の腰には、白凰社の印章と暁影団の小さな紋が一緒に縫い込まれていた。
景虎はその場で治療を受けたが、肩の傷は浅くとも、胸の奥に残った疑念は深かった。
「誰が敵で、誰が味方なのか」――その境界は、契約書よりも脆いものだと知った。
春分の暗殺未遂から三日後、天鳴会の本陣は音を潜めていた。
石畳の上を行く兵の足音は短く、会議堂の周囲には三重の槍壁。
夜になると、灯籠の光が影を裂くように並べられ、門には弓兵が二人一組で立った。
景虎は肩の傷を布で覆い、片腕を吊ったまま、地図の前に立ち続けた。
粛清
まず動いたのは、内部の洗浄だった。
景虎は直属の諜報隊に命じ、全将校と隊長の交友記録、交易先、家族の往来まで調べ上げさせた。
三日間で二百を超える報告が届き、その中には白凰社の密偵との接触記録が十二件、暁影団との物資取引が八件見つかった。
結果、計二十六名の隊長格が職を解かれ、一部は地下牢に送られた。
兵力の減少はわずかだったが、空気は重くなり、笑い声は消えた。
新たな吸収 ― 黒風盗賊団と碧眼海賊団
景虎は傷の痛みを押して、次の手を打った。
黒風盗賊団(三万人)は砂漠の夜襲で名を馳せる集団で、碧眼海賊団(四万人)は海沿いの補給路を握っていた。
これらを吸収するため、天鳴会は大胆な手を使った。
まず黒風には、盗賊行為の免責とその戦術を正規軍に導入する約束を与えた。
碧眼には、新造の港と三十隻の小型船を提供する契約を結んだ。
黒風は二日で合意、碧眼は一週間で旗を変えた。
白凰社の妨害
だが、白凰社も黙ってはいなかった。
彼らは直接の軍事行動を避け、商会と修道会を通じて天鳴会内部に毒を流し込んだ。
銀狼商団が運んだ医薬品の一部に、極小量の腐敗毒が混ざっていたことが、密かに発覚した。
被害は軽微だったが、景虎はその報告を受け取った瞬間、港湾の警備を三倍に増やした。
港の灯は夜通し燃え、海に影を落とした。
影の報復
粛清で生き残った諜報隊は、白凰社の密偵の一部を逆に取り込み、虚偽の情報を流す役目を与えられた。
白凰社が天鳴会の次の狙いを「鋼翼隊の奪取」だと信じ込むよう、綿密な文と証拠が仕込まれた。
実際には鋼翼隊には手を出さず、その裏で別の吸収を進める――それが景虎の構想だった。
夏至の頃、大陸の地図はわずかに色を変えた。
天鳴会は春から続く吸収策で、ついに兵力一一〇万人に達した。
烈火騎士団、砂塵隊、砂漠の鷹隊、龍尾砦守備隊、黒風盗賊団、碧眼海賊団――
その旗は草原、砂漠、港、砦、そして海へと広がり、一つの線で結ばれた。
新たな吸収 ― 鉄鱗商会と黒鉄工匠団
鉄鱗商会(五万人)は武器と金属の取引を生業とし、黒鉄工匠団(三万人)はその製造を担う技師集団だった。
天鳴会は二つを同時に吸収するため、金属税の免除と鍛冶場の拡張許可を与えた。
契約は港町で結ばれ、その場で鉄製の新しい長槍の試作品が披露された。
景虎はそれを手に取り、重さを確かめ、ただ一度うなずいた。
別勢力の台頭 ― 群青砲兵隊
群青砲兵隊(四万人)は、これまでどの大勢力にも属さず、山岳地帯に砲台を築いていた。
そこへ、霜牙猟団(二万人)と焔牙戦団(三万人)が合流し、新たな軍勢を形成。
旗は深い青に銀の砲身を描き、山の稜線を背景に翻った。
彼らは「自らの領域を守るのみ」と公言したが、その砲の射程は谷を越え、隣接する補給路に届く。
天鳴会も白凰社も、この新勢力の動きを見て、地図上に新しい境界線を引き直す必要に迫られた。
白凰社との非公開交渉
天鳴会は夏至の夜、港町の奥の石造りの館で、白凰社の使者と会った。
灯りは少なく、会話は低く、記録は残されなかった。
議題は「群青砲兵隊をどう扱うか」。
互いの軍が直接動くことは避け、代わりに補給契約と情報取引で揺さぶる方針が仮決定された。
交渉は夜明けまで続き、合意文書は双方の印だけが押された。
夏の空は高く、風は乾いていた。
しかしその風の下で、人は再び旗を掲げる準備をしていた。
地図は色を変え、数字は増えた。
だが、増えた数字が人を守る保証はない。
それは、次の戦いをより大きくするだけの道具にもなり得るのだ。
「力は、守るために集められ、奪うために使われる。」