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夕に溶ける

作者: 糖分

 海辺の崖上にある灯台は、私のお気に入りの場所だった。

 それは純水を思わせる透き通ったガラスに、世界で最も高級な青い絵の具を塗り込んだような空だった。優雅に広がる雲は堂々と空を漂い、夏の暑い風に流されて泳いだ。煌々と輝く日光から伸びた幾本にも及ぶ線が、天を裂くように力強く筆を走らせた。それはどこまでも遠く、永遠を想う私の心まで染め上げる煌めきだった。

 海は一面に晴天を映し出していた。穏やかな波が海面を揺らすと、空まで揺れるようだった。境界線がひどく曖昧だった。視界いっぱいに広がるその光景に、私の胸が締め付けられるように圧倒された。

 優美な景色は、容易に私の心を浄化していった。私はずっと不思議だった。人のない景色が、どうしてこんなに孤独でないのだろう。

 ふと思い立ってiPhoneを手に取る。控えめなシャッター音が鳴り、機械的に記録された写真。私には、それがひどく陳腐で情けないように感じた。

 強い風が吹き上げ、私の頬を撫でる。汗が伝って落ちた。私は、こういう景色が好きだ。


 カメラロールをスクロールする。

 たとえばそれは、春に咲く桜の並木道。整然と立ち並ぶ健気な桜の木々、桃色の花びらが舞い、春の香りにくすぐられる。

 たとえばそれは、秋に歩く広大な花畑。爽やかな秋空の元、麗しい蒼に色とりどりのコスモスが咲き乱れる世界は、まるで絵本の世界のよう。

 たとえばそれは、冬に積もる一面の雪景色。肌を刺すような寂しさと対照的に、日光を反射した眩い白銀が、何よりも温かい感触を私に伝える。

 どれも私の頭の中では鮮明に呼び起こされるのに、写真はどこか味気ない。私が感じるふわりと形にならない何かが、シャッターを押した途端にどこかで隠れてしまうのだった。私にはセンスがないのだな、と少し憂鬱になってしまうのだって、やっぱりいつものことだった。


 しばらくの間、私はぼやりとその景色を眺めていた。のんきに流れる雲を追い、時々現れては去るカモメを見守り、船が通ればその姿が見えなくなるまでじっと見送った。この場所で、時間という概念から解放される感覚を覚えるのは、私のひそかな自慢のひとつだった。ここでは一時間も、一分も、一秒だって、存在しないのだ。太陽が海に沈んでいくことも、雲が姿を変えた別人になってしまうことも、私と世界が一緒になって溶けだすことも、それには時間がそうするのではなく、きっとただそうあるだけのことなのだろうと思った。私たちは橙色になった。静かに佇む夕日だけが、その色を知っていた。


 彼女が現れたのはそんなときだった。永遠のような不思議な感覚が音を立てて崩れる。私の中で一気に時間が取り戻されていく。加速する時間の流れの中で、彼女だけが浮いていた。

 崖を上るのにひどく苦労したらしい、蒼白の頬で彼女は私を見た。つやつやの黒髪で、ウルフカットの小柄な少女だった。不健康そうな真っ白な肌で、大きな丸い瞳が私をじっと見続けた。不機嫌そうに眉を潜め、しばらくするとぷいと視線を逸らした。白いTシャツに、黒いショートパンツを履いていた。少女はギターを背負っていた。

 少女は猫背の姿勢のまま這うように灯台まで歩くと、ぺたっと真っ白の壁に背を預けて座り込んだ。水を取り出してちびちび飲んだ。華奢な肩が揺れた。

 ちく、たく、と、私の頭で時計の針が音を立てて鳴った。


 視線を外し、少女のいない景色を見た。緩やかに、けれど確実に、淡々と時間が景色を追いやるようだった。ちくちくと少女の姿を意識してしまうばかりで、私はしばらく戸惑った。私もどこかに追いやられるようだった。

 けれど不思議と、あまり不快に思えなかった。小柄な女の子だから気にならないのかしら、なんてことを考えているうちに、また夕焼けにばかり目を奪われるようになった。時間が、ゆっくりと、沈んでいく。

 だから、優美なギターの旋律も、少女の健気な歌声も、自然と私の中に潜り込んできたのだろうか。




 夕に焼ける 海辺の空

 私は消える 消えてしまうの

 風に吹かれ どこにもいけない

 私は 私は どこへゆくの




 それは海の波のような、穏やかな音色だった。




 傍にいてね いつまでも傍に

 私は揺れる 揺れてしまうの

 夜が来れば 私もいなくなるから

 私は 私は どこへゆくの




 水晶玉のように透明で、純粋な歌声だった。




 あぁ このまま私が見つからなければいい

 あぁ このままここで 一人でいさせて




 橙色の空と、雲と、風と一緒で、淡くせつない夢のような旋律だった。




 夕に溶けてく 夕に溶けてく

 私も溶けてしまうの




 ぐらぐらと、地面が揺れているような感じがした。視界がちょっとおぼつかなくて、どうにかここに私がいることを確認するのは、丁度、景色に飲み込まれるときと似ていた。

 振り返ると、少女はぼやりと空を眺めていた。ちょっと指で擦ったらぼやけて消えてしまいそうなくらい、儚い雰囲気だった。病的なまでに白い肌も、生気のないだらけた黒い瞳も、全てが虚ろだった。今、私は夢を見ているのだろうと、本気でそう思った。夢の少女はふいに私を見た。やっぱり不機嫌そうな、ちょっといやそうな顔だった。私は申し訳なくなる。私が人間だから、少女にとって私は邪魔なのだ。

 ずっとそうしていた。時間はなくなっていた。時計の針はとまったまま、世界が時間ではなく、別のなにか、おおきな原動力で動いていた。少女にも時間がなかった。だから私にとって少女は無害だった。世間とは異なる法則を持っている人、というのが、実際世の中にはいることを私は知っていた。

 少女は立ち上がった。猫背でいそいそと、崖を降りて行った。ゆっくりと、現実が私を引き戻す。あんなか弱い女の子が崖を降りて大丈夫かしら、と心配になったけれど、覗き込んだ時、少女は既に見えなくなっていた。

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