第九話 逃亡者
スケートリンク場に響き渡る歓声と悲鳴。それは歓喜ではなく、血の匂いが混じった恐怖の叫びだった。氷上では雷王丸が金本を相手に残虐な処刑ショーを繰り広げ、その狂気に満ちた相撲は、見る者すべてを絶望へと叩き落としていた。
だが、その裏で、静かに逃走劇が始まろうとしていた。
沖田壮一は荒い息を吐きながら、車椅子に乗ったオリビアの肩を押し、スケートリンク場の従業員出口へと急いでいた。
銃声が止んだことで、今なら抜け出せるチャンスだ。
だが、それも長くは続かない。
「ソウイチ、急がないと……」
オリビアの声に焦燥が滲む。彼女の額には汗がにじみ、その手は緊張で震えていた。壮一もまた、背後を気にしながら足を速める。だが、
「おい、待て! 逃がすな!!」
鋭い声とともに、廊下の影から数人の武装した男たちが現れた。尾上 彰義隊の残党狩りの部隊だった。
その中心には、風間彰が薄ら笑いを浮かべながら立っていた。
「よう、そんなに急いで逃亡者さんよ。どこに行こうってんだ?」
壮一は舌打ちをし、オリビアの肩を軽く叩いた。
「オリビアさん、僕がここで、後駆の足止めします。あなたは先に行ってください!」
「ソウイチ、ダメよ! あなたが死んでしまうわ!」
オリビアの目が揺れる。だが、壮一は微笑みながら、まるで冗談でも言うように言葉を紡ぐ。
「僕は死にません。あなたが、好きだから。」
某有名な恋愛ドラマの台詞のようなセリフを口にし、壮一はオリビアの車いすの手をそっと放した。
オリビアは驚いた顔をしたが、すぐに唇を噛み締めた。そして、決意のこもった目で壮一を見つめると、短く
「ごめんね、ソウイチ 愛してる」
と囁いた。
彼女は両手で車椅子のタイヤを力強く回し、一気に出口へと向かう。
だが——
「フンフンフンフン、ウンコだねぇ〜♪」
陽気な鼻歌が、薄暗い廊下に響いた。
目の前に立ちはだかったのは、かつて相撲界で疾風の風神と呼ばれた風間彰。警備員の服装の襟を正しながら、どこか優雅な仕草で彼はオリビアの行く手を塞いだ。
「逃がさないよ、子猫ちゃん。悪いけど、死のフラメンコダンサー、オリビア・デル・リオ。ここで死んでもらうかねぇ?」
「……ッ!」
オリビアは息を呑み、すぐに手を伸ばして懐からフリスクナイフを取り出した。目を鋭く光らせ、車椅子のまま姿勢を低く構える。
「ワタシの運命は、ワタシが決める。それがワタシのディスティニー(宿命)。」
それを見た風間は、くつくつと笑いながらゆっくりと歩み寄る。
「ほぉ……いいねぇ。その目、その姿勢。だったら見せてもらおうか、お前のディスティニー(運命)ってやつをさ。」
スケートリンク場の裏側、氷よりも冷たい死闘が、今、幕を開ける。




