第2話 剣だけが、すべてだった
以蔵は、武市瑞山(半平太)に見出された。
それは、拾われたというよりも、
初めて“名前を呼ばれた”という感覚に近かった。
瑞山は、土佐勤王思想の中心人物でありながら、
下士である以蔵を、最初から対等に扱った。
見下ろさない。
命令ではなく、問いかける。
剣の腕ではなく、在り方を見ていた。
以蔵にとって、
それだけで、剣を預ける理由になった。
以蔵は、中西派一刀流・麻田直養に師事し、
剣の基礎を徹底的に叩き込まれる。
構え。
間合い。
呼吸。
一つ一つは理に適い、武士としては正しい剣だった。
だが、以蔵の胸の奥には、常に冷たい違和感が残っていた。
「この剣で、 本当に守れるがか」
安政三年(1856年)。
瑞山と共に、以蔵は江戸へ向かう。
桃井春蔵の士学館。
剣の名門であり、
鏡心明智流。試合剣の極致。
そこにあったのは、
正々堂々という名の様式だった。
礼に始まり、
礼に終わる。
互いに名を名乗り、
構え、
技を競う。
勝てば喝采。
負けても、武士の名誉は保たれる。
周囲はそれを「美しい」と言った。
だが、以蔵には、その美しさが空虚に見えた。
ある日の稽古で、
以蔵は相手を完璧に捉えた。
踏み込みは速く、
刃は喉元に届いていた。
だが、試合は止められる。
「そこまで」
相手は笑い、
互いに礼をして終わる。
以蔵は、
剣を下ろしながら、思った。
(今の一太刀で、この男は、次の瞬間に俺を斬れる)
止まったのは、
剣ではなく、ルールだった。
その夜、以蔵は瑞山に言った。
「先生……
この剣は、本当に人を止める剣ですか」
瑞山は、すぐには答えなかった。
しばらく黙り、やがて静かに言う。
「止めるとは、どういう意味だ」
以蔵は、即答した。
「二度と、刃を向けられんようにすることです」
その言葉に、瑞山はわずかに目を伏せた。
以蔵が求めていたのは、
勝敗ではなかった。
名誉でもなかった。
称賛でもなかった。
結果だった。
相手が立ち上がれないこと。
二度と誰かを踏み潰せないこと。
それが、
彼にとっての「止める」だった。
以蔵は理解していた。
正々堂々の剣は、
強者のための剣だ。
負けても命を奪われない者。
敗北を許される身分の者。
だが、下士には違う。
一度の敗北が、
人生そのものを奪う。
だからこそ、以蔵の剣は、自然と変わっていった。
目を狙う。
喉を断つ。
暗闇で、背後から。
卑怯だと、誰かが言った。
だが、以蔵は思った。
(生き残るために、 正々堂々など、必要か)
彼の正義とは、悪を裁くことではない。
悪が、二度と刃を振るえなくなることだった。
誰かの名誉のためではない。
誰かの理想のためでもない。
ただ、
踏み潰される側が、
もう一度、踏み潰されないために。
剣だけが、すべてだった。
そしてこの剣が、
やがて「天誅」と呼ばれることを、この時の以蔵は、まだ知らない。




