クレープみたいに俺を包んで。
水木は顔を上げ、先ほどよりも大きな声で、やけっぱちのように言い渡した。
「合格、ってんだよ。明日から俺のクレープを叩き込んでやる、覚悟しておけ」
幸直は、その言葉を飲み込むのに一拍かかった。
弟子入りを疑ってすらいなかったが、やはり実際に合格を言い渡されるのは心持ちが違う。
思わず派手な音を立てて立ち上がってしまった。
「ほ、ホントっすか!!!?」
「なんだ? 冗談であって欲しかったのか。じゃあふ――」
「い、いやいやいやいや!! とっても嬉しいですハイ!」
慌てて倒した椅子を立て直す幸直。
水木はそんな彼の様子に、視線を伏せた。
「……俺はもう二度と、ばあちゃん以外の他人なんか信用するもんかと思ってたんだぞ。それを思えば、破格の扱いされてるってことを自覚しろ」
それはきっと、今の水木の偽らざる気持ちなのだろう。
そんな彼を幸直は、心底愛おしく思った。
恋心とは似て異なる領域。きっとそれは愛に近いところにあるものなのだろう。
立てた椅子に座らず、水木の足下に跪いて見上げた。
「大丈夫っす。俺が師匠を裏切るなんてあり得ねえ」
水木は、何かをこらえているような表情で見つめ返してきた。
「師匠以外の上司も、師匠以外の恋人も、ほしかぁないです。あの学祭のとき、テンチョーが妖精さんなんだと分かってから、俺は師匠と同じ店で働けてることが嬉しかったんだ。俺は師匠のクレープに、あのときからがっちり胃袋掴まれてる。俺が師匠を裏切るなんて、100パーあり得ねえ」
幸直は水木が自分を信用してくれるなら、何度も何度も自分の気持ちを伝え続けるつもりだ。
その時々で節回しや言葉遣いが違ったとしても、その芯となる意思そのものは全く変わっていない。
僅か3歳にして、無自覚に初対面の相手とそのクレープに初恋をした。
16歳の秋、クレープへの情熱そのままに、初恋の相手への想いを自覚した。
20歳の春、それらの想いは昇華され、愛の領域に移ろうとしている。
それらがある限り、幸直は折れずにクレープ道を邁進できる。どのような困難や壁も、この拳で粉砕してみせる。
これ以上、臆病で繊細な師匠に傷ついて欲しくないから。
その思いも籠めて見上げていると、まるで泣きそうな顔をしていた水木が、忌々しげに呟いた。
「……どうだかな。人間なんていつどうなるか分かったモンじゃねえってのに」
「……っすね」
水木の中では今でも、両親と弟の悲劇、かつての職場で受けたことが根強いトラウマとなって残っている。それを受けての言葉だろう。
だがいかんせん、幸直の家系、特に祖父からの直系だけで言うなら、心身共にやたら頑丈だ。
だから少しでも安心してほしくて、幸直はあのバックヤードでしたように、恭しく水木の右手を取り両手で包み込む。
手が振れた瞬間、動揺したようにびくりと揺れた。
だが、そこで思いがけないことが起こる。
怖々と震えていた指先に、躊躇うようにゆっくりと力が籠もっていったのだ。
まるで、この手を離さないでほしいと言うように。
(……ああ、そうか。師匠は、本音を口で言えなくさせられた人なんだな)
その推測が浮かんだ瞬間、幸直はたまらなくなった。
導かれるように片手を外し、露わになった水木の右手甲に口づける。
ふわりと、触れるか触れないかのキス。
水木が息を飲んだのが聞こえ、顔を上げると。
「……っ」
じわじわと、水木の頬に熱が集まっているのが分かった。
涙の膜に濡れた瞳に、赤く色づく頬。それが耳や首元までをも染め上げていく。
(……うわ、)
思わず、幸直の中の獣性が顔を覗かせた。
(……師匠、完熟のイチゴみてえだな。……美味そう)
ついつい舌なめずりしてしまう。
それを見て水木は、更に手に力を篭めた。
「……本当に、俺でいいのか」
幸直はその言葉に目を丸くした。
「俺は人間不信の気があるし、正直言って平凡な人間だ。恋愛経験もないし、誰かにそういう意味で迫られたこともない。……でも、どうしてだろうな。お前になら、別にいいかという気にもなる」
幸直は、水木の独白にじっと耳を傾ける。
「……たまに、お前から渡されたあの手紙を読み返していたんだ。書いてあることが今も変わってないんだとしたら、俺はどうすべきなんだろうってな。俺は今日、それを確かめようと思っていた。……そうする前に、まあ、お前がペラペラ喋ってくれたわけだが」
そして、水木は椅子から立ち上がり――。
「……だから、これから何年何十年かけても、証明してくれよ。俺より早死にしない、裏切らない、……ずっと俺だけしか眼中にないんだってな」
幸直の肩口に額を押し当てるようにして、そう言ったのだ。
言い終わると水木は立って、店じまいの準備を始めた。
幸直は動けなかった。体中を荒れ狂う歓喜を抑えるので精一杯だったのだ。
逸る心臓と熱い脳を宥めるように、何度も深呼吸をしながら立ち上がる。
そして、その場で勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします、裕斗さん!!」
言い終わってから顔を上げると、水木と目が合った。
困った奴だと言いたげな、薄い苦笑。
「……おう」
たったそれだけの短い返事。だが、幸直にとっては望外の喜びであった。
幸直は駆け寄る。そして思い切りその、自分よりは細い体を抱き締めた。
水木は一瞬身を強ばらせたが、すぐに力を抜いて両腕を幸直の背に回す。
スーツの襟と背に強く、縋り付くような皺が寄った。
「――……お前だけは絶対、裏切るなよ……。……幸直……」
小さくか細く、頼りなさげに呟かれたその声を、幸直はしっかりとその耳に捉えていた。
春の風が揺らした木々の声に紛れていたのに。
幸直はたまらず、自分の胸元に額を押し付ける年上の彼の頭を撫でる。
「はい」
水木の声量に合わせるように、小さく、だが確固とした芯のある強い声で、こう返した。
すすり泣き始めた水木の髪を梳くように、幸直は撫で続ける。
二人はそのまま、互いの存在と気持ちを確かめ合うように抱き締めあっていた。
ざぁ、ともう一度、春風が吹く。二人を祝福するかのように。
次回、最終回です。
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