大事件 7
首を左右に倒した私が準備運動を終え、床に飛び込もうとしたまさにその時! むくりとソフィアが起き上がる。
「夢じゃなかった。こんな所嫌だわ、帰りたい」
「気持ちはわかるわ。でもソフィア、私達は攫われてしまったみたいなの。だから、変な動きで犯人を刺激しないでね?」
私は小声で義妹を窘める。
ソフィアはわかっていないようで、私を責め始めた。
「だいたい、ヴェロニカが道を間違えるから! 間違えたって素直に認めれば良かったのに」
「いえ、それは……」
驚いた。ソフィアったら、誘拐を私が仕組んだとは考えないの?
「こんな汚い所は嫌~。喉が渇いたしお腹も空いた。トイレにも行きたい。ねえ、これ外してよ」
無理よ、ソフィア。私もさっき言ったけど、ダメだったんだもの。
「トイレか。それならあっちだ。その間だけなら外すから、逃げるんじゃねーぞ」
え、いいの?
ソフィアはあっさり足と手の縄をほどかれている。
それなら今だわ!
私はソフィアに身体をくっつけて、彼女の耳に小声で囁く。
「ソフィア、今よ。魔法石を取り出して、思いっきり床に投げつけて」
「前に渡されたあれ? ドレスに合わないし、家に置いてあるけど」
「はあ!?」
どうして、ソフィア。
貴重な物だって言ったでしょう?
ヒロインなのに、ヒーローからもらったものを身につけてないの?
「何をコソコソしてるんだ。行くのか行かねーのか」
「もちろん行くわ。もう漏れそう!」
いろいろヒロインらしからぬ言動に、どっと疲れた。
――いいや、ソフィアが帰ってきたら、私の分を投げつけてもらおう。
ところが、戻って来たソフィアは怪しい動きをしたとかで、身体の前できっちり手首を縛られていた。
――仕方がないわね。それなら私も。
「お願い、私もトイレに行きたいの」
「本当か? そっちの娘と同じように、逃げようとするんじゃねーだろうな? まあ、無駄だが」
「違うわ、ねえ、早く!」
ソフィアの時はあっさりだったのに、私の時はなかなかほどいてくれないなんて、差別だと思う。
『ブラノワ』では――って、そもそもヴェロニカは加害者側だった。攫われた経験などないから、私のラノベ知識は全く当てにならない。だけど、手が自由になったら魔法石を投げつけよう。
「おおっと、変な動きをするんじゃねーぞ。硬いな、切らねーと無理か?」
ナイフを取り出す男に気を取られていた私は、入って来た人物に気づくのが一瞬遅れた。
「いいよ、僕が代わろう」
「ボス!」
「お早いお戻りで」
「お疲れ様です」
その人物を見た途端、私は言葉を失い後ずさる。
「こんなことって……」
「どうしました、ヴェロニカ嬢。まさか僕の顔を忘れてしまった、とか?」
「なっ、でも……あれ、ええっ!?」
どうして?
手配だけだったはずでは?
彼は今、ボスって言われていた。
信じたくはないけれど、それなら世間を騒がせている人攫いって……。
「ふふ、驚いているようですね? でもまあ、仕方がありません。この僕も、まさか誘拐の手配を頼まれるとは思っていませんでしたし」
「フィル!」
彼こそソフィアを誘拐するために手を貸してほしい、と私が頼んだ人物だった。可愛らしい顔をしているのに、悪党の仲間だったなんて。
違う。ボスと言われていたから、悪党の上に君臨しているのね。
「ねえ、ヴェロニカ。彼とは知り合い?」
「ええ、一応」
「ひどいですね。綿密に打ち合わせた仲なのに」
「まあ! それなら、助けてもらえるわね」
純粋なソフィアが眩しい。
これは全て私が招いた結果だ。
見せかけの悪事を頼んだ相手が、本物の悪人だったなんて……。
攫うだけでなく売り飛ばすと言っていた。
このままでは、私もソフィアも二度と家には戻れない。
ヒロインがいなくなれば、父も義母もあの人もひどく悲しんでしまう。
「さあ、それはどうでしょう? 君のお義姉さん次第かもしれませんね」
「ヴェロニカ次第?」
フィルは唇を噛む私を面白そうに見ている。
こんな時なのに、私はラファエルの同じような表情を思い浮かべてしまう。
紫色の瞳は、もっと優しく温かい。
少なくとも、彼は人を見下すようなこんなに冷たい目をしたことがない。
私は心の中で彼に語りかけた。
――ねえ、ラファエル。ソフィアをお願いね?
愚かな私に巻き込まれたソフィア。
彼女だけは、絶対に助けよう。
「いいわ。貴方は私に何を望むの? 言ってちょうだい」
悪役令嬢たるもの、悪人の前でびくびくしてはいけない。常に堂々としなければ。
「さすがだね、美しい人。話が早くて助かるよ。僕が見込んだ通りだ」
「はぐらかさないで。要求は何?」
「睨まないで。綺麗な顔が台無しだよ。そうだな、貴女が僕のものになるのなら。それなら、大事な義妹さんを今すぐ解放してあげよう」
「へっ?」
予想していなかった答えのため、素っ頓狂な声が出る。自分で言うのも何だけど、ソフィアではなく私を欲しがるなんて悪趣味だ。
「まさか、私のことが好き……」
驚きのあまり言葉が先に出た。
失言に気づいたのは、口から出た後のこと。
「そうかもね。僕は貴女のことが、好きなのかもしれない」
「なっ」
まさか本物の悪人から、愛の告白をされるとは思わなかった。こんなの、ラノベのどこにも載っていない。
だけど私の心はジルドのもの……っていうより、義妹の解放と引き換えに脅すなんて、人としてどうかと思う。でもここで私が了承しなければ、ソフィアは逃げられない。それなら当然答えは一つ。
「そう。だったら貴方のものになるわ。ソフィアをすぐに解放してあげて」
「喜んで」
フィルは言うなり、なぜか懐に手を入れた。
薄ら笑いを浮かべた彼は、ナイフを取り出す。
「どうして!」
「おや、どうしたの? 美しい人。納得がいかないような顔をしていますが、解放してほしいんでしょう? 魂を」
「違うっ」
私は驚きソフィアの前に走り出た。
いざとなれば、身体を張って彼女を守ろう。
手は動かなくても、足は自由だ。
フィルは一歩ずつ、私達の方ににじり寄って来た。ソフィアは私の背中に隠れると、一生懸命手を動かしている。そうか!
「邪魔ですよ。どかないと貴女が傷つきます」
「待って。一つだけ聞かせてほしいの。なぜ貴方は、こんなことをしているの?」
間に合ってほしいと思いつつ、無理な時は義妹だけでも助けようと心に決める。
「なぜ? それは、女性が嘘をつくからですよ。迎えに来ると言ったのに……」
寂しそうに笑うフィルは、こちらを向きながら遠くを見ているようだ。彼は誰のことを言っているのだろう。もしかして、大事な女のこと?
「ああ、貴女は彼女に似ているかも。嘘つきな赤い唇がそっくりだ。気が変わりました。貴女を僕のものにしましょう。永遠に――」
縄が外れた!
彼がナイフを振り上げるのと、私が魔法石に手をかけるのは同時だった。
「いやーーー!」
ソフィアの絶叫が聞こえる。
辺りは赤に包まれた。