僕の可愛い婚約者 1
とうとうこの日がやって来た。
今日は婚約前の初顔合わせで、僕は公爵家に王子として正式に挨拶に来ている。
さすがに「まともな恰好をニカに一番に見せたい」と悠長なことは言っていられず、金糸の入った紺色の上着にクラバットを締め、白いトラウザーズに黒いブーツという本来の姿だ。
公爵家の皆は、僕が部屋に入るなり深く頭を下げている。その中にニカの姿を認めた僕は、嬉しくなった。
「本日は当家にご足労いただき、喜びに堪えません」
「よい、楽にしてくれ」
公爵の挨拶に片手を上げて答えると、ニカがすぐさま顔を上げた。
控えめな紺色のドレスが、彼女の美しさを際立たせている。十歳になった彼女の白い肌と小さな赤い唇が、特に目を引く。視線が合った瞬間、僕は彼女に微笑みかける。息を呑むニカの表情は、以前より上品で大人びて見えた。
「どうして? エル、なぜ貴女がここに?」
今日来ることは伝えておいたはずだから、どうしてかと聞かれても困る。茶色のかつらを外して白いドレスを着ていないのに、王子がエルだとすぐに見破ってくれたことが嬉しい。
まあ、ソフィアを通じて渡した手紙に、エルは男性だ、と書いたからヒントになったのか。
「良かった、ニカ。覚えていてくれたんだ。だって、こうでもしないと会ってくれないでしょう?」
ニカが王子としての僕にしか用がないのなら、王子らしく振る舞おうと決めていた。けれど彼女は、僕をエルと呼ぶ。
「ちょっと! 貴女のいたずらに付き合うほど、私は暇じゃないの。今日は大事なお客様をお迎えするはずで……」
「そうだよ。今日会うって約束していたよね?」
この期に及んで何を言い出すのだろう。
エルがラファエルでこの国の王子だと、君は気づいていないのか?
「誰と? 私が約束していたのは、貴女じゃなくって王子なの!」
だから僕だろう?
図らずも僕は自分自身に嫉妬することに……やはりニカは王子という肩書きにしか、興味がないのか?
「そこまでだ。ヴェロニカ、言葉を慎みなさい。ラファエル殿下、娘が大変失礼致しました」
「お父様!」
目を丸くするニカは、本当にわかっていなかったようだ。
『先日は済まない。魔力があって狙われるためにわざと女装しているが、僕は男でエルと言うのは小さな頃の愛称だ。そのことも含めて、会って直接話がしたい』
手紙にはそんなふうに書いておいた。
でもニカは今、父親に責められている。僕は彼女を庇おうと、すぐに口を開く。
「ローゼス公爵……いえ、義父上。今後末永く付き合うのです。堅苦しい態度はやめて下さい」
「恐れながら申し上げます。まだ婚約が成立したわけではありません」
「おかしいですね。快く了承して下さったはずでは? ねえ、ニカ」
「な……なな、な……」
口を開けたり閉めたりして驚くニカ。
そんな表情も久々で、やっぱり可愛い。
「もしかして、エルが王子様?」
ソフィアが疑問を口にする。
彼女の方が、ニカより察しが良いようだ。
「そうだよ。今までごめんね」
「ふえ? ま、まま、まさか!」
「ヴェロニカったら、変な声を出してどうしたの?」
公爵夫人が優しく問う。
まあ確かに、婚約する相手を迎える態度ではないよね? だけど、ようやく理解したニカを見ているのも楽しいから、これ以上口を挟まないでくれるとありがたいな。
「お、お父様! わ、私、エルに庭を案内してきますわ」
「いきなり何なの? まずはお茶をお勧めするのが礼儀でしょう?」
「私も行く~」
ニカに続き公爵夫人、ソフィアの順に言葉を発した。公爵がその場を取りなす。
「控えなさい、ソフィア。今日はラファエル様とヴェロニカの顔合わせだ。よろしいですか、殿下」
「もちろん喜んで」
早くニカと話しがしたい。
僕は素早く、彼女に手を差し出した。
「行こうか、ニカ」
重ねられた彼女の指は、白くて細い。
仲の良かった一年前に戻ったようで、僕はその手を握りニカに笑いかけた。
つられて微笑みかけた彼女だが、これではいけないと思ったのか、急に真顔に戻る。その変わりようがおかしくて、僕は噴き出しそうになるのを一生懸命堪えた。
「それでは少しだけ、表に出てまいりますわね」
澄ました顔のニカは父親に断ると、僕と一緒に庭に出た。
初秋の庭は爽やかに晴れて、気持ちがいい。キンモクセイやコスモスが咲き始め、良い香りを運んで来ている。木の葉も色づき出しているし、噴水には光が当たって輝いていた。
ニカとこうして歩けるから、色んなことを頑張った甲斐があった。魔力が安定して成長期に入ったせいか、今では背もニカを追い越している。気を効かせた護衛が離れて歩いてくれたため、この庭に二人だけでいるような、そんな錯覚まで覚えてしまう。
ニカが黙っているのをいいことに、僕はわざとゆっくり歩く。繋がれた手の温かさと柔らかさは、彼女がここにいるという確かな感触。ただそれだけで心が弾む。
聞きたいことがたくさんあるのか、ニカがチラチラ僕に目を向けてくる。気づいているけど気づかないフリ。だって彼女が僕のことを考えてやきもきしているなんて、可愛いすぎるだろう?
痺れを切らしたニカが、突然くるりと向き直る。
「ねえエル。やっぱり貴方が王子なのね。女装して、 今まで私達を騙していたってこと?」
「そう、僕がラファエルだ。騙したわけではないけれど……おかしいな、手紙に書いたはずなのに」
「手紙? いったい何のこと?」
ニカに届けてくれるよう、ソフィアに頼んでおいたのに。ソフィアは「渡した」と言っていたが、この様子だとニカは受け取ってないらしい。それとも読んでいないのか。
「騙した」と言われて、ちょっと心が折れそうだ。
近くにベンチがあったので、ニカを座らせ自分も腰かける。どうせ読んでいないのなら、僕の事情を詳しく話そう。
「どこから語ればいいのかな。まずは、君と初めて会った日よりずっと前のことから……」