君に会うために 3
次に公爵家を訪れたのは、ニカの十歳の誕生日。
この時にはもう、天宮内で僕とニカの婚約は、ほぼ決まったものとして扱われていた。
最後まで反対していたのはローゼス公爵だが、国王である父の度重なる要請に、とうとう折れたようだ。
僕は一足先に十歳になり、外出時は女装をしなくなっていた。
ここでは一番に本当の姿をニカに見せようと思っていたので、今日も女の子の『エル』の恰好をしている。
以前はくるぶしまであったドレスの裾が今は膝丈だから、実はすごく恥ずかしい。
ニカへのプレゼントと男性用の服を、馬車に積んでいる。彼女が僕に会う気になったら、すぐ着替えるつもり。
さすがに自分の誕生日に、部屋に籠りきりではないはずだ。
――ニカに会ったら何から話そう?
馬車の中でそんなことを考えながら、僕は公爵家の門をくぐった。
「ヴェロニカ様ですか? 今なら庭においでです」
「ありがとう」
執事に聞いたが疑問は残る。
「こんな暑い日に? でも、一人の方が話がしやすいか」
まずは女の子として接していたことを謝って、それから僕らの話をしよう。
久しぶりに会えるのだと、緊張しながら庭に向かう。緑の庭には、お茶の用意がされていた。円形のテーブルに肘を付き、物思いに耽る綺麗な横顔は……ニカだ!
「ニカ!」
喜びのあまり思わず声が出てしまい、ドキドキしながら足を踏み出す。けれど僕が声を出した瞬間、彼女は弾かれたように立ち上がると、そのまま屋敷の中に入ってしまった。
「待って……ニカ!」
ようやく会えたのに、一瞬だなんて信じられない!
慌てて彼女の後を追うけれど、揺れる長い黒髪がどんどん遠ざかっていく。
ここに来る直前まで魔法の修行をしていたせいで、体力が持たず追いつけなくて情けない。うっかり声を出さなければ、もっと近くで君を見ることができたのに。
「ニカ、少しでいいから話がしたい」
いつかのように部屋のドアを叩くが、返事はなかった。部屋の前で粘ってみるが、物音一つしない。
「ここまで嫌われていたとは……」
はっきり言ってショックだ。
扉が開いた瞬間、期待を込めて顔を上げた。残念ながら出てきたのは侍女で、僕にこう告げる。
「お嬢様は、体調が優れないとおっしゃっています」
引き取らせるための言い訳だろうが、ずっと外にいたせいで、本当に具合が悪いのかもしれない。ソフィアに託した手紙は受け取っているはずだし、婚約の挨拶でニカとは近日中に顔を合わせる。
無理強いしたら嫌がられてしまうかな?
「わかった。お大事に、と伝えておいて」
冷たい侍女は、僕の言葉を伝えてくれるだろうか? けれど正体を明かしていないため、この場はおとなしく引き下がる他なさそうだ。
階下では、ソフィアが僕を待っていた。それならいつものように、彼女からニカの様子を尋ねよう。
ソフィアが語るのは主に自分のこと。でも合間に少し、ニカの話が聞ける。
「あのね、私、最近たくさん勉強しているの。でもね、ヴェロニカの方がすぐに終わって涼しい顔をしているから、お義母様が怒ってしまって。もっともっと勉強しなさいってことだと思うわ」
「勉強を? どうして?」
「えっとね、ヴェロニカが王子様と婚約するから」
ソフィアの答えに頬が緩む。
ニカは婚約に向けて、色々なことを学んでいるらしい。
――ソフィアも一緒で似たような内容なら、賢いニカには簡単すぎる。
大人と同じ内容でも、彼女は理解できるはず。
でも、課題を早く終わらせたのに怒られるってどういうことだろう? もしかして、ニカは継母と上手くいっていないのか?
「あとね、私はダンスが好きだけど、ヴェロニカは苦手なの。私の方が上手よ。エルは? ちゃんと踊れるの?」
「もちろん」
とっくに学んで完璧だ。どんな曲でも困ることはないように、幼い頃から叩き込まれている。
「ニカがダンスが苦手、とはね」
「私は得意よ!」
ニカにも苦手な物があると知って、少し嬉しい。公爵家の令嬢だから、ダンスの基礎は出来ていると思うけど、どうなのかな? 手取り足取り教えてあげるのも面白そうだ。だから、踊れなくても問題はない。
舞踏会でニカの実母を見初めたという公爵が、娘にきちんとダンスを教えていないのは意外だった。
まさか僕と踊らせないため、わざと、か?
「ねえ、だったら踊って? エルは背が高いから、先生みたい」
「そうかな? まあいいけど。君達はいつもどこで練習しているの?」
ニカがダンスが苦手なら、僕が直接教えよう。下調べをしておくのも、いいかもしれない。
「こっちよ。ほら、早く」
ソフィアに袖を引っ張られた。
――ニカがこの半分でも僕に愛想が良ければいいのに……。
考えるだけで胸が痛い。
気持ちが顔に出ていたのか、踊りながらソフィアが僕を慰めてくれた。
ソフィアは自分で言うだけあって、かなり筋がいい。
――ニカのいたずらから逃げ回っていたせいで、軽やかに踊れるのだろうか?
「元気出して。あのね、私はヴェロニカよりもエルの方が好き」
ソフィアに慕われるのは嬉しいけれど、ただそれだけだ。僕が好きなのはニカだから。ニカとソフィアに仲良くなってもらいたい。
「ありがとう。だけど、お姉さんのことも好きになってあげて」
言い聞かせるように優しく答えた。
顔をしかめる彼女に、もう少しはっきり伝えよう。
「ソフィアのことは好きだよ。でも、ニカへの好きとは違うんだ」
ソフィアは妹のようで可愛いと思う。
けれど、ニカへの気持ちとは全く違っている。ニカのことは考えるだけで嬉しくなったり落ち込んだり、手の届かない後姿を見ただけで、何とも言えない感情が込み上げてきてしまう。
興味を抱き、心が揺れるのは彼女だけ。この先も、ニカ以上に気になる存在が現れるとは思えない。
――ニカ、もうすぐだから覚悟しておいて。
思わず微笑む僕は、ソフィアとのダンスに集中しようと顔を引き締めた。