野営の夜、初恋を知る
侯爵家当主だった私が引退を決めたのは、数年前のこと。
後継の長男には既に男の子が二人いて、すくすくと育っている。
王宮に勤める次男も一児の父だし、末っ子の長女も無事嫁いだ。
有難いことに、憂いのない隠居だ。
まだまだ健康には自信がある。
それで飛び地のひとつを預かり、伯爵を名乗る身分となった。
領地は田舎で、王都から遠い。
しかし、引退後の高位貴族は爵位に関わらず、夜会などの社交は基本的に免除されるので問題なかった。
若い時から仕えてくれた使用人も、まだ働けるとごっそりついてきたので、王都からの道のりは賑やかなものになった。
季節は初夏。
途中、景色の良い場所もいくつか通過する。
せっかくの機会だから、野営もしてみてはどうかと護衛団長が提案してきた。
妻に打診すると、思いもよらないほど喜ばれた。
嫁いだ時から完璧な淑女ぶりを崩すことのなかった彼女の反応に、私はかなり驚かされた。
護衛団長は、ずっと侯爵家を護ってくれた騎士一家の出だったが、若い時は武者修行のため傭兵になって国中を回っていた男だ。
野営にも慣れていて、侍女やメイドといった淑女方にも不安がないよう、万事取り計らってくれた。
宿に泊まる時は、当然同じ部屋に入る私たち夫妻も、野営のテントは別々になった。
これは妙に新鮮な体験で、まるで、妻となる女性を遠い生家まで迎えに行った新郎であるような気がしたのだ。
賑やかな夕食の後、寝る支度をして一旦はテントに入ったが、外は満天の星空。
せっかくの野営の夜を少し楽しもうかと、焚火の側に戻ることにした。
すると丁度、女性用テントから妻も出てきて、鉢合わせた。
「眠れないのか?」
「ええ、まだ眠くなくて。ですから星を見ようと思いましたの」
「一緒に見てもいいかな?」
「もちろんですわ」
しばらく星を見た後で、焚火の側に腰を下ろす。
火番の者が気を利かせて、ワインを温めてよこした。
「ホットワイン! 懐かしいわ」
デビュタントもそこそこに、十五歳で嫁ぐことになった彼女はアルコールにも不慣れだった。
初夜の緊張を解すために振舞われた少量の温かいワインに酔ってしまい、一晩中眠ってしまったのだ。
「そんなこともあったなぁ」
翌朝、真っ青になったり真っ赤になったりして謝る彼女を宥めるのが大変だった。
しかし、その小さな事件のおかげで肩の力が抜けたのだ。
私たちは誰にも急かされることなく、夫婦として自分たちのペースで歩み寄ればいいと。
私と彼女の年齢差は十歳。
やや離れ気味なことには理由があった。
実は本来の私の婚約者は、彼女の姉だったのである。
彼女の姉もまた美しく、なかなかの才媛であった。
子供のうちに婚約したが、お互い特に相性の悪さも感じず、順調な付き合いを続けていた。
ところが才媛であるがゆえ、彼女は他人との交流の機会が多かった。
そんな中、遊学中の大国の公爵家子息と知り合い、恋に落ちてしまったのだ。
幸いにも、駆け落ちだとか国際問題だとかに発展する前に、関係者一同で冷静に話し合う機会を設けることが出来た。
その結果、婚約は解消された。
好きな相手に嫁ぎたい、という元婚約者を笑って見送れたのはいいのだが、その結果、新たな婚約者探しが必要になった。
父の病のせいで、私は既に侯爵位を継いでいた。
いきなり、その重責を共に背負ってくれる相手というのは、なかなか見つかるものではない。
そんな時、元婚約者の家から、彼女の妹を婚約者候補としていかがか、と推薦された。
姉妹の父親である伯爵は、あんなことがあったのに図々しくて申し訳ない、と深く頭を下げた。
しかし、伯爵家の姉妹と言えば、共に才媛であると有名だった。
こちらにしてみれば含むところも無いので、願ってもない縁である。
見合いの席に現れた彼女は、十四歳とは思えないほど大人びて落ち着いていた。
私は一目で気に入った。
すぐに婚約を打診すると二つ返事で承諾され、一年弱の婚約期間の末、私たちは婚姻を結んだ。
初めて会った時から、凛としてハッキリものを言う彼女は、常に侯爵家のことを考えてくれたし、人前では私を最大限に立ててくれた。
裏では少々ダメ出しを受けることもあったが、そのおかげで私は孤独にも傲慢さにも無縁でいられたのだ。
十歳も年下の彼女であるが、時にはまるで姉のように私を導いてくれた。
今にして思えば、いくら才媛の彼女でも十五歳で、いきなり十も年上の男に嫁ぐことは不安だったはずだ。
だが、彼女は来てくれた。
苦楽を共にしてくれた大切な伴侶だ。
隣に座る彼女の顔をまじまじと見た。
炎に照らされた顔は、存外若い。
これで、二人の男子と一人の女子を立派に産み育てた母親だ。
ふと、目尻のほくろが気になった。
「どうかなさいました?」
さすがに彼女に気付かれた。
「いや、そういえば、今まで、あまり君の顔をじっくり見たことがなかったと思って。
目尻にほくろがあるのだな。知らなかった」
「あら。この歳になって、旦那様が顔に興味を持ってくださるとは、妻冥利に尽きますわ。
ほくろは、メイクで隠していました」
「そうなのか?」
「生家からついて来てくれた侍女が、メイクの達人なのです。
姉から、幼いわたしに婚約者が代わったことで舐められてはいけない、と大人っぽいメイクをしてもらっていましたの」
高位貴族の夫人は、寝室に入る前にも侍女やメイドによって、それなりな化粧が施されるのが常だ。
「野営の時くらい、すっぴんでいいわ、と今夜は押し通したのです」
「薄化粧もしていないのか?」
「ええ。お見苦しかったら……」
「綺麗だ」
「え?」
「私の妻は、化粧無しでも、こんなに美しい人だったのだな」
「あなた……」
炎のせいなのか照れたのか、それともワインに酔ったのか彼女の顔が赤い。
火番は、ちょっと困った空気を醸しながら、知らぬふりをしている。
「しかし、そのほくろには見覚えがあるような気がする」
とても古い記憶の中に、ほくろのある可愛らしい少女の姿がある。
「小さな女の子だったな。遠い昔の話だ」
「もしかして、その女の子に、お菓子をあげませんでしたか?」
「お菓子?
そう言えば、新しいハンカチに焼き菓子を包んであげたかもしれない」
妻はクスリと笑う。
「なぜ、君が知っているんだ?」
「その子は、わたしですもの」
「そんなはずは……。あの子はメイド見習いだったはず」
鮮明になって来た記憶の中のエプロンドレスは、メイドが着るような地味なものだった。
「姉のお見合いに興味があって、内緒で覗いていたんです」
妻の姉と初めて顔を合わせたのは、妻の実家だった。
見合いを後押しした妻の祖母の体調が悪く、見舞いも兼ねて家を訪ねたのだ。
顔を合わせたばかりの相手と気の利いた話をできるほど大人でもなく、手持無沙汰な私は退屈していた。
周りに誰もいなくなった時、ふと、エプロンドレスの小さな少女と目が合った。
てっきり、見習いのメイドだと思い込んだ私は、その子にお土産に持って来た焼き菓子を包んで渡したのだ。
「わたしは紹介される予定は無かったので、お土産のお菓子を食べそびれるかと、ちょっと心配でした」
お転婆な少女は、すぐに服を汚すからと、その頃は地味なエプロンドレスを着ることが多かったらしい。
「そしたら、貴方がお菓子をくれて。
素敵な人だなぁ、って思ったんです」
「お菓子が美味しかったから?」
「小さい時のことなので、そうかもしれません。
それで、姉が婚約解消になった時、自分から父に、貴方とお見合いできないか頼みました」
驚いた。あの見合いは、妻が望んでくれたことだったのか。
「君をメイド見習いと勘違いして、お菓子をあげてよかったよ。
そのおかげで、こうしてずっと君に支えてもらえた」
「あら、じゃあ、わたし、お転婆でよかったわ」
「これからも、よろしく頼む」
「こちらこそ」
若い時なら、ここで口付けだろうが、年相応にそっと肩を抱く。
しっとりした夜気の中、薪のはぜる音だけが……
と思っていたら、どこからか拍手の音がした。
「いや、安心しました。
最近は熟年離婚や、引退後別居が流行っていると聞きますからな。
我々のご主人様は相思相愛で安泰だ!」
低音の美声を、無駄に響かせるのは護衛団長だ。
この男は、ずっと私たちの会話を聞いていたのだろうか?
護衛団長を睨んでいたら、拍手はだんだん大きくなっていった。
周りを見れば、早々にテントに引っ込んだ一団がほとんど出てきている。
「まあ、皆に行きわたるほどワインはあったかしら?」
早速、ワインの量を気にした妻が立ち上がろうとする。
しかし、肩を抱く手に少し力を込めて止めた。
「今夜は、側に居て欲しい」
「まあ、あなたったら。……ええ、喜んで」
妻は私にもたれかかる。
若くもない一団は、ワインを一杯ずつ飲む間、囁くように談笑していた。
少しだけ煩わしく、しかし気の置けない仲間たちは、やがてテントに収まって行く。
私と妻は、静かな騒めきの中で、長く互いの体温を感じ合っていた。
「ねえ、今からお転婆ぶりを発揮したら嫌いになる?」
「今まで知らなかった君に会えるのが、むしろ楽しみだよ」
満天の星が密かに行く手を照らす。
ここからまた、君と歩いて行ける私はとても、幸福だ。