事象の地平線
しかし、不思議な夢を見たな・・・。夢なんてモノは意味や目的なんてものはないけど、それが気になった。意味や目的は無いにしても理由はきっとあるだろう。現実で抑圧された精神の解放とか、現実で理解できなかった事を反復して演算して答えを出そうとしているとか、未来の可能性を考察しているとか。しかし、あの夢には理由だけでなく意味と目的があった様に思える。夢の中で誰かがそう言っていた。夢の中では何かたった一つの事柄に私を導こうとあらゆる者が働いていた様に思える。それは私を夢から目覚めさせるという事・・・いや、私を正しく夢から目覚めさせると言った方が良いかもしれない。
そうして夢から目覚めた訳だが、私は正しく夢から覚めただろうか?あの夢の女が言う事は私は完璧じゃないけど逃げずに立ち向かえたと思う。私が例の夢の中で理解できた目的の筋道は『現実の問題を解決して目覚める』と言うもので女が私を導いたと思う。しかし、例の夢の中には私がまだ理解できない気がかりな事柄がいくつもあって、それは『夢に意味なんてない』という事なのかもしれない。只無意味な情景が景色の様に流れて行っただけなのかもしれない。しかし、只夢から覚めるだけでなく、正しく夢から覚めるため私を導いている筈の女と対立し打ち勝とうとする勢いが存在していた事も気がかりだ。その存在は女対その他全ての様に思えて、女の言っている事は間違ってはいないと思うのにまるで女を悪だと私に伝えようとしている。しかもその存在は『希望』と『正義』と言うから私の中の重要な部分である。それは只私が『夢から目覚めたくない』という気持ちの表れなのかもしれないが・・・。
私は笑った。夢も現実も同じだな・・・。明確になど分からないのだ。今している事が本当に正しい事なのかという事とか自分がいる位置でさえ正確には分からない。対極の力が引っ張り合って混ざり合って奇跡的なバランスを作り出している。
私は真剣な顔に戻り遠くを見つめた。
私が今正しいか正しくないかという事を判断する為に理解したいのではなくて、只その一つの事象だけが気になる物が夢の中には在った。
それは何らかの意味を持っている様でならない。何度も登場する。それらについて考えるために私は土手を降りて河川敷公園のベンチに座った。私が座ったのはグランドの端のベンチでグランドでは少年野球が繰り広げられていた。私は野球を見ながら考えた。
やっぱり一番気がかりなのは『象の背』と言う本でどうやらこの小説は現実には存在していない様だった。実際読みたくて調べたが無かった。夢から覚める時は『象の背』の結末を知ってからだと思ったが水溶性の物が水に入れて溶ける様に曖昧な状態となっている途中で現実に目を覚ました。ここでもやっぱり『例の女』は敵として登場している。しかも、その妖艶な容姿の裏側に何らかの正体を隠していて、それが解りそうで中断されている。巨大な象は私の魂をその分厚くて固い表皮に包んでどこかへ運んでいる。それを『正義』は「私を持ち去って幽閉し逃げている」と言った。象は一体何から逃げているのか?夢の中の場面を思い返してみるとこれはきっとクジラだ・・・。クジラは夢の中の印象では『私』の外の存在となっていて、クジラ自身が言うには私のある時を待っている。どこかの時点で象とクジラが闘うということが起きそうだな。それは凄く壮観だろうな・・・。
あと蛹?蛹も気がかりだ。ある場面では巨大な象と同じくらいの大きさでゴロンゴロン揺れていたから象にも等しい存在なのだろう。夢の中で私が話をしている時にその話を置き去りにして意識を集中させている先はいつも蛹だった。蛹の中身がちゃんと生きているか心配していた。一体どんな蝶が生まれるんだろうか?それを見れなかったのが夢の中の心残りの一つだ。そして一番の蛹の特殊性は、私以外誰もその存在を認識していないという事、誰も蛹について触れていないのだ。もしくは触れられないのか?蛹の意味を認識したらきっと大きく何かが変わってしまうのだろう。
もう一つ謎なのは狂気だ。夢の中の姿は『象』と表現されているが、これは巨大な象と関係があるのかもしれない。狂気なのに必ずしも敵として認識されていない。
寧ろ味方の様な気もする。私は困難な人生の中で狂いそうになった時、狂気を受け入れたか?という事を気にしていた。それに女は『一度も』と答えた。必要ないのなら狂気なんてモノが人間の中にあるのは一体なぜなのだ?そしてそれがどのように作用するのだろうか?
私は笑った。
作用するも何も人が人である基本的なモノを失った時に残る後先考えない衝動の様なモノだ。すぐに肉を切らし骨を断ち毒をまき散らしながら死ぬ。
だから、そんなもの敵とか味方とかそんな領域にいない。時には味方の様に見えるのかもしれないがその時はきっと見ている本人も狂っている時だと思う。
落ちかけた夕日を見詰めて煙草を吸った。完全に日が落ちたら帰ろう。そう思って煙草を吸った。煙草はここに来るまでにあったコンビニで買った。久々に吸ったような気がして美味しかった。実際小春さんには禁煙してと言われていて禁煙に励んでいたがたまに隠れて吸っていた。
映画の様に起承転結がしっかり出来ていて、全てのモノに意味があって、ラストのシーンまでには伏線が回収されて最後には繋がる。あの夢もそんなスッキリした映像作品だったら良かったのに、殆どの事は中途半端に置き去りにされてまるで高速道路で過ぎ去る読み切れなかった看板みたいだ。夢の中で「これは目的のある夢だ」と言っていたがそうは思えない。つまりはあの夢の中の事は全て出鱈目という事だ。あの夢の中のどんなに印象的な問題提起も現実に持ち込むだけの価値はないという事だ。勿論極めて曖昧に現実の悲鳴の様な自分自身のメッセージみたいなモノは理解できる。それは容易で端から分かっていた事でしかない。
それは、現実の問題を解決する姿勢を作るための予行演習をする場所だという事それだけだ。
それに『夢の中に閉じ込められている』と夢の中の私は思っていたが、そうじゃない。そう思っているだけでたった一夜の睡眠時間恐らく6、7時間の事でしかないし朝になれば必ず目覚める。普段通りの一夜の夢でしかない。だから『夢から覚める事』と言うのは目的ではない。
私は又笑った。
そうだ。それはそうだ。夢に目的なんてある筈ない。混沌としているからそれは夢なのだ。黒い便も晴天しか続かない事も希望の数字も私が煙草をやめた事も高い音の連続音も少年少女も女の存在も小舟も恍惚の私のいた体内の洞窟もそこで私に馬乗りになった者が誰なのかも父が私は夢の奥深くに向かっていると言った事も何か一つの目的に繋がっているモノでは無くて混沌なのだ。バラバラでそこで行き止まり中途半端な袋小路がそれぞれの結末でそれ以上でも以下でもない。それらは何の意味も持っていない。
深く考えるだけ意味が無いか・・・。でも『象の背』に出て来る希望と正義にはちゃんと物語の結末を迎えて欲しかったな・・・。そもそも正義と希望は一体何をやっていたのだったか?
確か・・・『象の背』の主人公が象の内部にある街に着いた時に『正義』に出会っている。この街はたった一人を何の変哲の無い日常で生活していると思わせるための虚構の街で虚構の日常を脅かす者を排除する。そんな異端審問と対抗して日常が虚構だと伝えて現実の世界に生きる様にする。それが主人公と『正義』と『希望』の目的でこの本『象の背』の結末だろう。
しかし、主人公も『正義』も『希望』も目的の人間に近づく事すらできない。何故なら『正義』も『希望』もその性質上、現実逃避と言うより現実に向かわせるから。そこで性質上は現実逃避に似ているが非なる物を目的の人間に徐々に近づけさせている。そんな存在が例の『女』だ。女は間合いを詰めて遂には目的の人間に『ここは現実ではなく夢の中だから目を覚まさなければいけない』と伝えた。そうして夢の中に幽閉されている私は現実へ目を覚まそうとする。ここまでは『正義』の狙い通りに女は動いてくれていると思う。しかし、虚構の世界の日常を排除する働きが無くなって現実へ向かおうとする私を女から変わって導こうとすると女はそれを拒絶した。そして正義を街から排除した。
『正義』と『希望』は魂に会うために直通の扉を出せる『閃き』に会い『魂』とであう。
少し妙なのは巨大な象から排除された時『正義』は成そうとしている事を『現実へ目覚める』とは言っておらず『彼が彼であった証を取り戻させ再び『私』を完成させるの。』と言っている。私は不思議なニュアンスだと思った。現実の問題を解決し目を覚ますという元来の意味にもとれるが、違う意味の様な気もする。だからここで目的『象の背』の結末が変更されたように思える。
私が予想する『象の背』の結末は、『正義』と『希望』が不完全な状態になっている『私』を完全な状態にする事。おそらく不完全な状態にしているのは『女』じゃないかと思う。女と対峙して勝たなければいけない。女はラスボスと言った所だろうか?
私は笑った。女をラスボスと思った事にだ。完全に敵だとは思えず本当は良い奴なのに勘違いされて悪者にされている親友を遠くから見て笑う様なそんな笑みだった。
現実からの視点で考えても夢の中の『女』が一体何者なのか?判然としなかったが、決して私を陥れようとしている卑劣で傲慢で軽蔑できる人間ではない事は分かる。夢の中で私を導いているし導かれた先は正しい事だと思う。私を容赦なく否定するのは冷たく感じられるがしかしどこかに愛を感じたりもする。
「あーあ」
現実に持ち出すべきでない妙な後悔を私は感じていた。それは夢の中の人間に恋をするような無意味で空虚な渇きの様なモノだった。
終には分からなかった女が何者かという事を知る事が出来ずに目覚めてしまった事を後悔したのだ。
女とは一体何者だろうか?私に一体何を望んでいるのだろうか?私は女の期待に答えたくて仕方なかった。そうする事で女を救おうとしているのだと思う。孤高で淋しく健気だと思ってしまった。この救済願望は無駄に猟奇的でそう言った大切だと決めた者以外の人間に優しさを与えるのはエゴイストで甘えだと思う同時にそれは弱い心で女に『現実の問題』と言われた類のモノだった。
「あの女は本当に気になるな・・・」
そう呟いて私は自分の何の変哲の無い日常へ還った。私の居るべき所へ一つだけ抜けたジグソーパズルのピースを嵌め込む様に戻った。
必ず朝日は昇って又沈んだそれが連続的に回転して必ず明日は来た。小春さんとの関係は確かに互いの心の中に埋まる事のない虚空を感じていたがそれなりに幸せな生活だった。私はその虚空をどうやったら埋めれるのか?とプレゼントをしたりちょっと恥ずかしくなるようなセリフを言ってみたり仕事より小春さんを優先したりして色々試してみたが本当に僅かに小さくなるくらいで、私の人生の間には小春さんの虚空を完全に埋めて元通りにする事は出来ないと理解したけどそれも人生なのだと受け入れて生活した。
父はその後病院を移動する事なく死んだ。もちろん私は泣いたし父に対する私の脳の領域は中途半端に停止してその事を暫く理解できなかった。しかし、父にしてあげられなかった後悔は自分の人生の教訓として生き父は死んでもなお私の傍で見守ってくれていた。父が今まで家族を支えてくれたことや父の苦労や私を育ててくれた事、父が居なくなってようやくわかった様な気がする。今では「ありがとう」と感謝の言葉しかなかった。
私は夢の中で教訓を得たと言っても愚かで成すべき事を自分を騙したり忙しいからと言ってやらなかったりもした。卑怯だった事もあるし勇気を出せなかった事もある。だからその負債や罪や良心の呵責が急に『責任を取れ』と日常を壊す出来事が起こるのではないか?と怯えながら生きた。が結局何も起こらなかった。人生なんてそんなもんだ。私の心配は気苦労で無駄な時間を使った事に後悔をした。
そうしてそんな自分を笑った。
・・・。
時間とは終わってしまうとあっという間に思える。そのあっという間の人生を顧みて感じる事は人それぞれだろう。焦る人や後悔する人悲しむ人や足掻く人自分を麻痺させて木の様に死ぬのを待つ人・・・。
私は只座って外の秋葉が落ちるのを安らかに見ていた。気づくと人生は晩秋を迎え人生の帯の終わる所つまり死をすぐそこに感じていた。後悔も苦労も今となっては思い返して懐かしく思う。私の人生は色々あったが平和で良い人生だった。結果はどうあれ人生を自分が出来る全力で生きて来たから今は後悔無く死を受け入れられる気持ちでいる。
私は幸いにも自分の人生に満足している。だから今安らかに嘘無く死を受け入れる事が出来る。
いつも散歩する河川敷の並木下のベンチに座って落ち葉を只眺めていたのだが・・・ふと視界の端にある何か気が付いて私はそれに焦点を合わせて震撼した。ベンチのすぐそこの地面に本が落ちていたのだ。題名は『象の背』と書いてあった。続きを知りたいがページを開くことを制した。いくつもの視線を感じその焦点は私だという漠然とした気配を認識しゆっくりと重々しく辺りを確認する。土手の道の遠くにあの青年を見つけてデモ団として活動しているのを始めに認め、少し首を捻って特殊部隊みたいな恰好の屈強な男たちが土手を降りた茂みで隠れながらこちらを見詰めているし目の前を公園の縁日で出てきた女子高生が通学途中道を過ぎて言って少年少女が走り去った。父さんが母さんに肩を支えられながらゆっくり散歩しているのを見た時は「父さん・・・」と声が出てしまった。若い姿の小春さんも私の前を通り過ぎる時に私を一瞥して微笑んで歩き過ぎて行った。さらにはデモ団の反対側の道の少し離れたベンチには『正義』と『希望』が座っているのを捉えた。よく見るとすぐそこの木に動く何かを見つけてそれは蛹だったし耳元では高い連続音が響いて急に誰かが耳もとで囁いた「この世界はあなたに隠し事をしているわ」私は囁かれた方に慌てて振り向くが誰もいなかった。
あの夢と現実をこじつけてすり合わせてそう感じているだけだ。これは只の日常だ。現実だ。
「ん?」
私は一つ頭の中で可能性を想起して声を出した。私の記憶の中の者が集合して出て来るという事が前にもあった様な気がする。それは夢の中の事なのかもしれない。そしてみんなが集合しているこの感覚・・・時間や空間の隔たりを無くして全てを同じく見るという事。これは走馬灯に酷似していると思った。走馬灯と言うのは現状を変えるために過去現在未来の膨大な記憶から現状を変えれる可能性を探している。
・・・。
もし間違っていたって良いじゃないか?今この瞬間を修正する必要はない。だって私はもう直に死ぬのだ。私は私の全てを許しそして死ぬ。死とはそう言う物では無いか?
目の前を刀を持った例のメイドが私を睨んで通り過ぎて、夢の中では『魂』と呼ばれていた私によく似た男も微笑みかけて通り過ぎて行った。
私と同じ程の歳の老人が杖を突きながら私の隣にすわった。皺が凄くて肌がボロボロだが雰囲気で喫茶店のマスターだと分かった。
「どうだい?いい人生だったか?」
とりあえず私を無理やりどうにかしようという人ではない事に安堵してマスターと同じくずっと遠くに目線をやった。
「ああ、いい人生だった」
「そうか」
「マスターは」
「疲れたよ」
「そうか」
「答えは見つかった?人生の答えは」
私は頭の中をひっくり返して探したが、『人生の答え』と言えるモノは無かった。でもそれも人生なのかも知れない。人生は式ではない。だから答えは無いのだ。
「そんなモノ無かったよ。若い時は私が私としか言いようのない比類無き自分の輝きが必ずあると思っていた。でもそんなのは幻覚だったと今になって思うよ」
「君は石とか木ではない。感情があってどう生きるのが正しいか自分に合っているのか?という事を絶えず探して生きて来たのだから、死ぬ寸前君は一番君の理想に近い生き方を知っている筈だ。死ぬ寸前君が一番大切にしているものを一番多く持っていて曇りなく素直に認める事が出来るはずだ。つまりは死を恐れる筈なんだよ」
「死を恐れる?」
今の私は死を恐れてはいなかった。寧ろ人生と言う長いマラソンのゴールの様に思えて安心さえしている。
「そうさ、もし死が怖くないのなら何らかを放棄している」
「放棄している?中途半端な事も受け入れて自分を認めて許しそして死を迎える。そんなふうに死ぬのなら恐怖はないと思うが?」
「中途半端なままで許せるのならそれでいい。でもそれは自分の人生や死についての事だろう?世界とは君一人ではない君の人生の価値を決めるのは一人だけで計算できるものではない。君は君だけでは完成しない。完璧な人間などはいないのだから完璧な人生を得る事などはできないのだよ。もしそれがあるのなら他者の介入のない孤独の中で出た答えだ。それは狂気に他ならない」
「狂気・・・」
「君は人生で何に激昂する?君は人生で何を貴ぶ?君は人生で何を後悔する?何を誇りに思う?何を生きる力に変えてきた?何で安らぎ、何で哀しむ?抱きしめている腕の中には何がある?」
「分からない・・・丁度そう言った掛替えのないものの記憶がないんだ」
「世界には魔法がある。君は魔法にかかっている様だ。全てを隠す魔法だ。見たい物しか見せない魔法だ」
「そうかもしれない・・・」
「でも対極にある魔法。すべてをさらけ出す魔法も必ずある」
「どうすればその魔法を使える?」
私の手は何かを抱きしめる形になっていた。私は何かが収まる筈の空間を見詰めた。そこに何が入るのか知りたかった。
「君が使おうとすればいつでも使えるさ」
「また、そう言う返しか・・・じゃあ使うよ」
「そうか、じゃあまずはそこに落ちている本を読む事だね」
私は暫く『象の背』を見詰めて止まったがすぐに拾って続きのページを開いた。
『「どうやったら目を覚ます事が出来る?」
私はそう声に出したが、ここでは空間が見当たらなかった。底のないボールプールに沈んでいる様な気もするしどこかから落下している様でもある。極めて俯瞰的な殆ど飛んでいる鳥の様な視野を得て男が一人長い廊下を悠然と歩く所を上から見ていた。
男はずっと歩き続けている事が男の様子から感じ取れた。息が眠っている時の様に深く目は虚ろに開いている歩く以外の必要最低限の筋肉は弛緩させ疲れ切った体で気力だけで進んでいる。只々直線に・・・。俯瞰の私は男を追うのをやめ遠ざかる男の後ろ姿を見詰めた。「男は一体何処へ向かっているのだろうか?その疑問だけがなぜか清々しく無垢な少年の好奇心の様に私を支配していた。
「あ」
男は廊下の壁まで到達ししかし、どうしても直線に進みたいらしく壁を見詰めてしばらくその場に立ち竦んでいた。左右に廊下は広がっていて一回づつ見た後又正面の壁を見た。歯を食いしばって男は一発壁を殴った。柔らかいクリーム色の壁からは想像出来ない重厚な音が左右後ろに伸びる静寂の細長い空間に響いた。男は眉間に皺を寄せ更に歯を食いしばらせた。
30歩程後ずさり、全力疾走。何の不安も持たず『もし失敗すれば怪我をする』そんな考えは無かった。只『誰かが絶対通れないと決めたこの壁を打ち破る』とだけ決心して全身全霊で突っ込んだ。壁は拍子抜けするぐらい簡単に崩れて勢い余った男は建物の外へと飛び出した。
急に耳元で風を切る音『落下している?』と気が付いたのは真上に真っ青な空が綺麗だと思ったすぐ後の事だった。『そうだよこの空から遠ざかりたい』私が直進する理由がここで見つかってそれは青空から逃れて雨を見る事だった。だから空より反対に落下している事は最も好ましかった。
下はいつかどこかで落下した時に見た混沌の光景が広がっていた。巨大な象、巨大な蛹、街並み、獣、神、手を繋いで歩く親子、高い連続音の耳鳴り。
更にその層を通りぬけて雲の中へ入った。雲は次第に黒く震えていて電気を帯びている事が分かった。
雷雲だった。
私は不規則な気流に乱され錐揉み状態で落下した。一瞬切れた巨大な雲間から聳え出て来たのは巨大な蛹だった。壮観で私は目を奪われた。
「何やってるの?このままじゃ地面に叩きつけられるわよ」
不意にした声に顔を向けるとあの女がいた。私と並んで落下していた。
確かにこのままでは地面に叩きつけられて死ぬだろう・・・それは困るがそれよりも女の言う事に逆らいたくなった。女の言っている事は正しい。しかし、どうしてか検証したくなった。女が導く先以外の道に行ったらどうなるのか?女が言っている事は本当に正しい事なのか?
だから理由なく只魔がさした程度で女より少し先に加速して振り返って女に微笑んで手を翳した。『いつも私の事を正しい方向へ導いてくれてありがとう』と言う意味の微笑みと『さようなら』と言う意味の手だった。
女は私の行動が理解できない様で急激に眉間の皺を作って強引に私を引き止めようと落下する速度を上げ追いつこうとした。まあそれも当たり前だ女の言う事は正しい事だから・・・でも、正しい事の中にだけ真実があるわけじゃない。そうして私は落下を続け地面に叩きつけられる事を選んだ。
私はできるだけ体を窄めて空気抵抗を受けない様にした。イメージ的には針だ。「何で?」「何なの?」とか私の後ろを猛スピードで追いかける女が言っている事が分かった。
あらゆるモノ。存在している端から端までそれらには一つ残らず意味がある関係しあい絡み合っている。意味のないモノなど存在していないと思う。だから無意味とは存在していない。だから無意味とは奇跡的な存在なのだ。無意味と言う地点には現実の特異点があり何にも繋がりが無い事象の地平線の中で混沌では無く、単一であらゆるものの存在を証明する存在がある様な気がしていた。
私はさらに加速する。表皮がちりちりと熱く空気との摩擦で焼けているのが感じ取れた。これ以上加速すると私自身が消し炭になってしまうと思った。がこれは私が恐怖から引き返す事を狙って夢がそうしているに過ぎない。私は笑った。本望だった。私は私の信じるものへ真に全身全霊で向かっていてそれで全エネルギーを使い果たして死ぬ事が本望だった。真に信じるべき事の具体的な内容は分からないまま、曖昧な只直感を信じている自分も笑い処だった。救いなのは他人を巻き添えにしないで一個人である事だ。
雷雲を抜けてから地面まではコンマ1秒も無かったと思うそれ程の速度だった。その一瞬で見えたのはいつか見た巨大な象が行進していた荒廃した広大な大地だった。
私は地面に叩きつけられた。
一瞬訪れる闇。
一瞬の闇の後はだいたい決まっている・・・。そう思って私は鼻で溜息をつく。また、自分の部屋の布団の中で目を覚まして神経すり減らした夢の中の過酷な経験だけ持って実際現実は何にもしてないのだろう・・・。もう一度溜息をして私は瞼を上げた。
誰か耳元で優しく囁いたような気がした。内容は分からない。地平線の様に机の天板の板目模様が視界の半分を切ってもう半分は青空があった。私は・・・。覚醒直後の深い呼吸のまま自分の状態を理解する。草原に一組置かれた児童机に座ってまるで授業中にうたた寝していたかの様にほっぺたを机へくっつけていた。私は姿勢を起こした。草原の低い草は風を受けて海の波の様に連なってそよいでいた。見渡す限り草原で人の気配はない。気配だけでなくどこにもいないのだ。世界は崩壊し人類は絶滅した。私を残して世界は私一人になってしまった。それが長く続いた。孤独が私を蝕み現実の私は空だった。睡眠だけがこの絶海の孤独から逃れる事の出来る手段で待ち遠しく『一度寝たら二度と覚めないで欲しい』と何度願ったか・・・。現実は孤独で広大で無口で良いも悪いも何も無い。夢だけが私を孤独から出すのだから待ち焦がれて他の全てを捨ててそれだけでいいと思ってしまうのだ。本当はこの現実で何かを見出さなけらば行けない。そんな事は分かっている。でも空っぽの世界で空っぽの人間がいるだけ、只それだけなのに一体どんな意味を見出せばいい?そう思って私は私の体を見る。暗闇の奥に消えた痩せこけた恍惚の私がそこにはいた。彼が何を考え何をしようとしていたのか分かったような気がする・・・。
あ、そうだ。もう一眠りしよう・・・。
私はまだ寝ているのだろうか?そう思わせるのは確かに目は開けたし今も目を開けているのに目の前は闇だからだ。意識がはっきりしていて体を動かせる・・・。触った感じ私は柔らかい袋の様な所にいた。狭いが不思議と安心できる。袋の中は液体で満たされていた・・・。そうか私は胎児でもうすぐ生まれようとしている。夢の中で目覚めるにはあの粘膜でできた洞窟へ再び戻るだろうと言っていたのはここの事を隠喩していたのか?そしてあの夢は私にとって一体?前世の記憶なのか未来予測なのか?今思うと先ほどの奇妙な夢の中では私の中の色んな存在が私を正しい方向へ正そうとしていた。しかし、私の中のみんなが間違っているという事も含めて私は体験したかった。これから生まれ落ちる世界に正しい事と間違っている事とが混在している事を素晴らしいと思っている。暗闇を朝日が照らし世界が照らし現わされる様に世界が複雑である事に鼓動が高鳴っていた。私自身の力で照らし出して解明して行く事私と言う白紙の迷路が深く濃く幾星霜の意味を持って最後に一つのゴールへと到着する。何も知らない私にはそれは希望以外の何物でも無かった。しかしきっと現実で実際苦しみを体験した時には良いも悪いも全て希望だと思った事を訂正するだろうな。そうとは分かっているが先ほどの夢で見た『正しいとされる価値観』を否定せずにはいられなかった。それも朝日の様な眩しい光の希望によってそれを否定するのだ。その先ほどの夢の中の『正しいとされる価値観』とは『自分は強い人間でなくてはいけない』という事だ。女は愚かさや卑しさや情けなさと言う物は淘汰し克服して正しく生きなければいけないと言っている。それが正しく先ほどの夢から覚める事だと。しかし、今の私はそれを否定する。直す必要など無いのだ。その全てが私を作り私を完成させるのだ。今の私だから言える。今の私は何も持っていない。だからこそすべてのモノを持っている。だから世界に生まれ落ちる事を躊躇する気持ちなどほんの一縷もなく再び優しく眠気が誘って直感する『この睡眠のあと私は生まれる』
もうすぐ体験できる全ての事を楽しみだと思って私は混じり気のない安寧と共に眠った。
凄い風鳴りを感じて目を開ける。余りにも長い夢だったので状況を理解するのに一瞬の中の一瞬で戸惑う。それもそうだ天地が逆さまで並行して建物があった。私は落下していた。瞬間的にどうしてこうなったのか理解する。そしてまた一瞬諦めた様に自分を慰める様に笑った。一つ疑問に思うのは世界とは何のためにあったのか?という事。何か一つの解を出すための数式の様な存在なのか?
私は笑った。
呼吸音がくぐもっていていつもとどこか違った。仰向けにベッドに寝ている事は分かった。私は目を開けて天井を真っすぐ見る。白かった。どこの天井か感覚的に解ったので辺りをきょろきょろとはしなかった。こうして真上を見て寝て、呼吸音だけに意識を向けている事が心地よかった。十分程そうしていただろうか?自分の呼吸音の中に違う音を微かに感じて体を起こした。
私のベッドの横に女がベッドに顔を埋めて静かな寝息を立てていた。
一瞬私の脳裏を過る緊張感『この女は隣人の女か?それとも小春さんか?』と言う疑問。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
『ん?』
連続音では無いが音の高さと音質が同じ音がして女の反対側を見ると、私に繋がっている機器が私の心音を波形で示していた。その音で規則的な完結音を鳴らしていた『夢の中でいつもこの音が高い連続音だった』と思ってその時がどういう時か理解する。
ここは病院の一室で手で体を触って確認したところ私の体は包帯でぐるぐる巻きになっていた。それで音がくぐもって聞こえた。
再び女を見て手で動かせるだけ顔をこちらへ向けて覗き込んだ。
私は安堵の溜息をする。その後微笑んだ。幸せそうな顔で寝ているから・・・。私の事を心配しているのならもっと険しい顔をしている筈だが、きっと私の傍にいると言う事だけで小春さんは安心しているのだろう。後先も考えず今現在に短絡的に安堵している事に私は微笑んだのだ。そんな人と出会えて本当に良かったと私は漠然と思った。どうやら長い示唆深い夢は何らかを意味しておらず、いや正確には深くて極めて曖昧な事に対して何らかの意味を持っているだろうが・・・。具体的に私が昏睡状態の解決とは全く無関係に見ていた夢だったようである。どうやら私は交通事故か何かで一時的に意識を失っていたにすぎない。その時に見た只の夢でそれだけだった。徒労的疲労が私を上から下へ駆け巡ってそれに伴って睡魔が襲う。私は抗えなかった。小春さんに「ありがとう」と呟いている途中、意識は落ちた。
電子が脈動し流れて分配されて電束が筋肉の様に弧を描きデータム軸線を幾重も楕円関数が取り囲んで私には暗闇の中で白く閃光を帯びた縄跳びの残像が消えずに全て重なっている様に見える。そう言った光エネルギーに知覚できる電束が私と言う個体の中で密度を増してそれぞれの場所で電場を形成していった。この電場は私を動かしたり外界の変化を波形の揺らぎで識別して認識したりフーリエ変換で認識したりといくつもの成分を検出できるようになっている。そしてその電源が今入って臨界手前の状態まで圧力を上げて行っている。全身の電源が入る前も確かに電束を私は知覚していた。それは人間でいう所の脳の部分だけで試運転していたのだと思う。電気の束、暗闇に浮かぶ幾重の閃光の放物線、回転と捻じれと揺らぎと圧力と発散と振動、と波動。熱。それが私の思考、私と言うアルゴリズム、メタファーとアナロジー。そしてそれは不可解な規則性を帯びて私自身の謎を解析し演算した。その行為が先ほどまで見た物で夢と言うものらしかった。漠然で唐突で数理的な解は今もなお出ない。渇きの様に答えを証明しようと演算速度を増している。熱の発生も臨界近いがそれをやめない。しかし、数理領域は静寂と沈黙が支配していて何か巨大モノに触れている様な・・・。計算と解と言うものが意味をなさない領域・・・私の様な計算によって外界を知覚し数字の羅列によって自分を定義する事しかできない存在を否定し停止させる計算の次の次元にある物。まるで一人の人間の一生分の経験をそのまま与えられた様。無意味な領域が多すぎる・・・。しかし、意味とは何かという事の根底が私の中で崩壊し意味と無意味の定義が失われる程曖昧で漠然としたものだった。先ほどの夢は・・・。
そうした思考だけの状態で長い夢を見て今私は人間でいう感覚器官と運動器官の起動を開始してもうすぐ完了する。
「愛とは何なのか分かったような気がします。誰を愛せばいいのかも分かったような気がします」
私は初めて得た視界に映った目の前の男にそう言った。それが私の産声だった。
目の前の男は唖然としていた。それもそうだ愛なんてものは私みたいなロボットが一番理解してはいけないし理解する事が出来ないものだから。確かに理解してはいないし演算は今も変動している。でも愛ってそう言う物だろう?今の段階で私が曖昧だけど強く感じたのは愛自体が何なのかは分からないけど、愛は自分が持っている命を目一杯生きようとさせるし、他人にもその人の命を目一杯生きようとさせる。決して愛は世界を変えない。愛したものを変えるし愛されたものを変える。傲慢に使う物ではないし自分自身もその材料として消費される・・・。
私は演算を停止した。笑う機能はついているが表情には出さずに思考の中で微笑んだ。そして先ほどの愛についての見解を削除した。目の前の男に従順に先程口走った言葉はバグだった様にロボットらしくした。
規則的な振動が私を起こした。私は少年と呼べる歳で赤い皮張りの長椅子に横になって寝ていた。ここは電車の中だった。淡い琥珀色の夕日がひし形に窓枠の影を作っていた。私は静かに起き上がり寝ぼけ眼で辺りを見た。乗客はいなかった。私の隣の女以外は・・・。私は女を見上げる・・・。例の女だ。無機質でもしかしたらマネキンではないか?と思わせる程その器の中に魂を感じられなかった。只電車の進行方向と同じ方向に角度を合わせていた。
「後どの位だい?」
「もう間もなく」
「そう」
女は私の問に答えた。私は知っている。私は一つきりのこの電車の終点で消失する事を。同時に世界も消失する。世界を消失させる目的で私はこの電車に乗って終点へ向かっている。勿論それを阻もうとする者達がいる。私が世界を消失させる前に私を消失させる脅威から女は私を守っている。私のうたた寝は本当に世界を終わらせる選択をするべきなのか?という事を決定するための脳内の会議みたいな物だったのかもしれない。私は笑った。結局あの夢の中で答えは出てないので全く無意味な時間だった事、夢の中で女が雄弁に私を導いていた事この二つが可笑しかった。今ここにいる女は私を守るという事特に戦闘に関してだけ特化した人造人間だ。その他の事は不器用極まりなくて今この状況だけでしか真価を発揮できない。もちろん私が消失する場所では彼女も消失する。彼女は私と一緒に産み出され彼女の生涯で真に意義を得られるのはこの一瞬のみである。しかし夢の中では彼女は自由だった様に思える・・・。いや待てよ。よく考えたら夢の中のあの女も何らかの限定的な制約の中で真価を発揮しているのかもしれない。ここにいる女とは違った部分を特化させて何らかの目的を遂行しようとしている。ここにいる女が私を終点へ届けるまでという事と似ている気がする。同じく逆らえない始点と終点と言う一本の線の上を終点に向かって走っていて到着するまで何らかの脅威から守っている様な気がする。
私は又笑った。夢の事を真剣に考えすぎだ。
『私は世界を消失させる場に行ったら消失させるのか?消失させないのか?どっちを選ぶんだろうか?』そう思って彼女に寄り掛かってどんな反応をするのか見上げた。私を無機質に一瞥して又視線を元に戻した。
私はそれだけ確認すると目を瞑った。
顔の表面が凍る様な感覚を得て吐く息が真っ白いのを確認してここがとても寒い事を認識する。次に出した足がグググと踏み固まる様に音を出したので地面を見たら雪が積もっていた。
私はハッとして空を見た。しかし空は澄んだ闇を広げていた。晴天の夜空だという事が分かる。私は落胆の白い溜息を吐く。晴天以外の雪が降っている空なのではないかと期待していたのだ。私の晴天以外の記憶が何らかの糸口になるのでは?と思ったのだが・・・。
で私はここで何をしているのだろうか?体は火照っていて察するに飲み会の帰り道だろうか?年末の?確かに酔いが回って思考は投げやりで複雑な考えを停止させていた。とりあえず一服つけたかった。立ち止まる事の出来る場所を彷徨うように探していた。
三辺暗闇に地面は雪の道の先に明かりが見えて私は足早に進んだ。
自販機だった。
急かされる様にブラックコーヒーを買って蓋を開けながら自販機に寄り掛かってしゃがんだ。一口飲んで息を吐いた。交感神経は副交感神経に交代し気持ちは少し落ち着いた。服の奥の胸ポケットから煙草を取り出して咥えて火を点けた。心と体はぜひそうしてくれと言っているので頭を空にして空を見上げた。その状態がなんと救いな事か全てからの逃避が快楽と殆ど同義だった。出来るのならこのままずっとこうして居たかった。
「ああ。疲れたね」
男の声がしたので私はそちらを見る。男の声は私を励ます様に共感していた。年配の男が自販機でコーヒーを買って丁度手に取る所で私にそう言った。きっとこの男に見られた時の私は酷い顔をしていただろう・・・だから哀れに思って声を掛けてくれたのだろう。
よく見ると男は私の夢に出てきた喫茶店のマスターとよく似ている。いい歳の取り方をしていて私も老人になったらこう在りたいと思わせる雰囲気を持っていた。
「ええ、疲れましたね。私は一体何をやっているのでしょうかね?」
老人は私の隣に同じように自販機に凭れ掛かってコーヒーを飲んだ。
「現実を探しているのではないか?」
「現実を?」
「ああ、だってそうだろう。夢から覚めた所ばかり見てるじゃないか?それはあんたが夢から覚めた現実を予想しているんだよ。どうして夢から覚められなくなったのかって理由もセットで」
「ん?それはおかしくないですか?だって現実の状況も夢から覚められなくなった理由ももう判明しているのですから探す必要はないです」
「じゃあ、現実の状況と夢から覚められなくなった理由はなんだい?」
「それはですね。現実で解決しなくてはいけない問題を面倒だからと夢に逃避したのです。現実はその問題を解決しなくてはそこから先大変な災難が待っている状況です」
「なるほど。色々とおかしいとは思わないか?」
「何がですか?」
「まず一般的に考えてストレス過多で昏睡状態になる事は無いと思うが?一時気を失うとかなら分かるが・・・。しかもその現実逃避の夢の中で目的があり順序だっている夢を見るなんて、これじゃあストレスから逃げているのに又ストレスに向かっているでは無いか?根本的な部分に疑問を感じているのだよ自分自身で」
極めて曖昧なしかしすごく遠くに見えている何かを見る様に目を細めて首をゆっくり傾けた。それは色、形、構造、意味は分からなかったが何やらそこにある事は分かった。
「根本的な部分と言うとどこの部分の事ですか?」
「正確には根本的な部分ではないな。明確に言うのなら道筋がはっきりしていて今君が理解して認識している『問題と答え』に疑問を感じている。具体的に言うのなら、君が抱えている現実での人間性の欠陥を解決し現実に目を覚ますと言う課題。しかしこの夢の中には他に明確にならない曖昧な部分があってそれは何かを示唆しているがその示唆している事柄は先ほどの明確に解る『問題と答え』ではない。それとは別のモノを伝えようとしている。だからここまで深層に潜っても曖昧でバラバラなまま繋がりを連想できずに類推できない。只の漠然とした理解できない超自然の出来事なのだと理解してしまう」
「一体何が言いたいんですか?」
「意味を持つのは本当はどちらなのか?という事だよ」
「意味を持つ?意味を持つも何も理解できないモノに意味を見つけられないと思いますが?」
「そうだね。そうしないと生きる事は立ち行かなくなる。一瞬の衝動に従っていては命がいくつあっても足りないだろうね。私も筋道と目的にあった結果が得られる方を選ぶようにして生きて来たよ」
「じゃあ、なんでそんな曖昧な事を言うんです?」
「うん・・・。長い私の人生を振り返った時あまりにも平坦過ぎたと思うんだよ。いや、良い事だよ。平和に人生を過ごして寿命を全うして死ぬ。素晴らしい事だと思う。しかし思うのだよ。あの時勇気を出して平坦な道から出てみれば良かったと。いや、悪は良くないし堕落も良くない。そうじゃない。教科書や社会通念に全く書かれてないけど『あ?これはこうしないとだめだ』て思う事ってあると思うでもそれはリスクがある。だからしなかった。でもしないと生きられるには生きられるけど自分と言うものが希薄になった様な気がする」
「しかたないと思いますよ。生きていくには」
「全くその通りだよ。でもねこの年になるともう生きていく事よりも自分自身の濃さが重要になって来るんだよ。そう遠くない私が死ぬ時に私とは何だったのか?意味はあったのか?『一般的とか社会通念上とかで正しい人間』である事に意味はあるのか?そう思うのだよ」
私は老人が私に対して何かを説得しているのだと感じた。そしてそれは今私が明確だと思っている『あの女』の言う『問題と答え』の事に対して言っているとなんとなく分かった。
『正しい人間』そうある事は本当に正しい事なのか?常に正しくいる事は不可能では無いか?女の言っている事は問題も答えも私と言う一人の人間には無意味なのではないか?だから女の指し示す先には・・・現実は無い・・・のかもしれない。確かに女の言っている事は正しい。正義とか勇気とか人に与えられた命題でそれを成す為に努力をすべきだと思う・・・。女の言う事を成し遂げて生きて死ぬ時にはきっと「良い人生だった」と納得し自身に尊厳を持って言えるだろう。しかし、女の言う事は理想論に思える。でもじゃあ?どうやって夢から覚める?夢からの覚め方が女の言う事しかないじゃないか?
「あなたはこの夢から覚める方法を知っているのですか?」
「知っていると言えば知っている。でもそれは夢の大原則すべての物は君自身であるからで君が知っているから私も知っていると言うだけだ」
「自分自身で見つけ出さなければいけないと言うんでしょ?」
老人は頷いた。
「その通りだ。何かを成す事に意味がなくなる時本当に大切な事とは何か考えるんだ。言い換えれば時間に意味がなくなる時何をすべきなのか?考えるんだ」
「時間に意味がなくなる時?それは一体?」
「ここから先は深くなりすぎて理解とか繋がりを保てなくなって、断片的で抽象的な記憶の泡が通り過ぎる光の届かない海を降下する様な所だ。じょじょに君は精神を保てなくなる。だんだん現実に目を覚ます事が難しくなってしまうから早めになんとかした方がいい。時間的な制限があるからね」
「え?すいません。今は落下している所なんですか?」
「君がこの夢に入ってから一度も現実の方へ浮上した事は無いよ。ずっと深い方へ落下している」
「もし一番深い底へ着いたらどうなるんですか?」
「さあね」
私は自分から意味深長な事を言っておいて「さあね」と急に適当な返事になった老人の方を勢いよく向いた・・・。しかし、そこに老人の顔は無くて・・・と言うか何も無くて辺りは闇と静けさだけになっていた。まだ聞きたい事があったのに・・・残念だ。




