現実
一瞬、閃光の様に光ったような気がして手で目を覆った。次第に瞳孔が現実の光に慣れて現状を把握する。
おかしい・・・。私は自分の部屋の玄関から出たはずだが、今はまだ自分の部屋にいる。でも今までの私の部屋とは何か違う様な気がする。それぞれの線がはっきりとしていて無機質だった。先ほどまでの夢の中は全てが私その者であって本も棚も家具も壁も窓の外に映る景色も何処か私を心配そうに見詰めている温かさがあったという事に今気が付いた。今ここは私の周りの空間や造形物は私に無関心に私以外の法則に則ってそこにあった。つまりはここは現実だという漠然とした感覚を帯びていた。
私は台所へ行って水を飲んだ。
ここは現実だ。夢ならば失敗してもそれは虚実で繋がっていないし続かない。しかし、今ここで失敗はできない。いやいや・・・。私は頭を強く振る。そう言った弱い心が私を陥れたのだ。着地できるかどうか分からない程の高さから飛ぶのだ。未来がどうとか、大切な人を失うかもしれないとか、これ以上戦えば自分が壊れてしまうとかそんな事らはどうでもいい。そう言う恐怖や不安を越えた先に未来とはあるのだ。
『解き放て・・・』
不意に聞こえた声に後ろを向く。何もない無関心な空間があるだけで私は落胆する。あの日本刀を持ったメイドの女がいて代わりに解決してくれればいいのにと思ってしまった。
「はぁ、もうどうでもいい」
現実の問題を解決する、より良い方法などは思いつかなかった。しかし、結果がどうあれば良いのかは分かっていて、弱い自分も当たり障りのないようにしようとする自分ももう面倒だった。そう思うと問題は酷く簡単に思えて、私の中心から末端へ向かって熱い血が送り込まれ始めた。何者も敵わぬ、何物の言葉も届かぬ臨界状態のエネルギーを帯びて目は最大限見開かれ瞬きを必要としなかった。
「解き放て」
自分自身にそう言って、獣が唸る様に喉を鳴らした。
目は血走って来て早くこの矛先を何かに突き立てたくて仕方なかった。
私は包丁を一本ズボンに挟んでブルゾンを上から羽織って隠した。
そうして玄関を出た。
私を乗せたバスは埠頭近くのバス停で私を降ろした。熱く荒い息を抑えられなかった。埠頭の中を探して見つけた。あのワンボックスだ。きっと夜中酒盛りをして今は中で寝ているだろう。私は近づき音を出さずにノブを引く。私は『こんなに恐ろしい笑顔を作る事が出来るんだ』と思った。鍵がかかっていなかったのだ。
一気に扉を開けて、中に居る全員を何度も刺した。血飛沫が目に入っても目を逸らさなかった。
私以外の音が静まってさらに念を入れてしばらく刺してから扉を閉めて、顔を確認する。ビデオ屋であった友達と私を売った坊主の先輩はいた。心臓の鼓動がうるさくてきっと弱いままの私だったら動悸に耐えられず卒倒していただろう。しかし今はそれをエネルギーに変える事が出来る。思考はもう兵器だった。
心臓の音と呼吸が少し落ち着いて私は車を出て海に飛び込んだ。海水で血を洗い流さなければ不審がられるからだ。泳ぎながら現場を離れる。私を解体したあのビルにいる人間も全員殺してしまおうか?と泳ぎながら思ったが、それは事が大きくなりすぎてしまってしかもまだ起きていない事なのでやめた。2、3キロ泳いだだろうか?埠頭近くの浜に泳ぎ出て波打ち際で横たわった時に急に疲労感が襲ってきた。
どうしてそんなに泳げたのか?私は特殊部隊か何かか?
息が整うのに30分もかからなかった。
私は立ち上がり只只歩く。次の目的に向かって。
冷えた体に日差しが心地よかった。街へ入った頃には服は撚れていたが乾ききっていた。
街を歩いていると高級趣向の海鮮丼屋が目に留まって中の客が食べている海鮮丼をガラス越しに見た。食べたい訳ではない。私は泣きながらあのシラス丼を食べていた事を思い出していた。
私は海鮮丼屋を歩きすぎてコンビニでパンとホットスナックの唐揚げと500mmのスポーツドリンク買った。全くと言っていい程食欲は無かったが相当なエネルギーを使ったので栄養を補給しないといけなかった。只それだけだった。
バスと電車を乗り継いで、父の入院している病院に到着する。
私は立ち止まって病院の外観を見上げた。なんだかんだ言訳を言って父が死ぬまで閉じ込めている悪の城の様に思えた。
病室へ入った時、父は私の夢の中と同じくベットで正仰向けに寝ていた。
「父さん・・・」
「ん?」
父が起きている事は知っていた。そして今ここが最後のチャンスだという事も知っている。
「今すぐ先進医療をやっている病院へ移るよ。そこがだめなら他にも違う治療がある。たらい回しにされるより静かに最後を迎えたいと思っているかもしれないけど、そうはさせない。俺は父さんを絶対に死なせない。やれる事は全てやる。医者や他の人間にどう思われたって良い。恥をかいたって良い。必ず又一緒に笑い合える日が来るまで他の何者も気にせず俺は動く。それが例え父さんだったとしても」
私はそう言って父の返事を待たずに荷造りを始める。今気鋭な私の精神でも私は残酷な事を言った罪悪感を感じていた。それは父を否定し父の気持ちを無視しているのだから、それでも生きていて欲しい・・・。
先生には丁寧に退院する事を伝えて車椅子を持って病室へ入った。父は物寂しそうに外の青空を見詰めていた。私は歯を食いしばって父を車椅子に乗せ強い気持ちを持って病院の玄関を出た。
家には次の病院へ移るまで父がいられるよに設備をレンタルしてある。父は一週間家へ居いる。
私は歯を食いしばって笑って泣きそうだった。父が家にいる間嫌と言う程笑わせてやろうと決意していた。
父が転院して暫くは父の病院の近くにアパートを借りていた。一カ月ほどして母に治療生活を任せ私は戻った。
もうずっと取り残している小春さんの問題をいや・・・自分の問題を解決するため私は戻ったのだ。
この薄い鉄扉の向こうには小春さんがいる・・・。私は外廊下で自分の家の扉を見詰める。鍵をカギ穴へ差し込みむ時に滑らかな連続音をカギ穴から感じ取る。二つの個別の機構がかみ合って回る様になった。私は部屋へと入る。
「ただいま・・・」
「おかえり」
小春さんは床に掃除機をかけている所だった。あまりにも日常的な小春さんに私は気が抜けて話を切り出せなかった。とりあえず部屋へ行き服を着替えた。
「あのさ」
「ん?」
服を着替えて帰ってきて言おうとするが次には料理を始めていて忙しそうに家事をしていた。それに私に不信感のかけらも懐いているそぶりも無かった。
「いや何でもない」
私はソファーに座ってテレビを点けて茫然と眺める。『私は何やってるんだ?』別に現状を変える必要がないという事が本当にここに償うべき罪があるのか分からなくさせていた。
忙しそうに動く小春さんを目で追って小春さんが今何を考えているのかを考える。
そうか・・・。
私に言って欲しくないのだ。私が小春さんを裏切った事から目を背けているのだ。
小春さん自身が私に謝って欲しくないと思っていたとしても私は謝らなくてはいけない。小春さんでも私でも誰も私が謝る事を望んでいなくても歯車が正常に回る様に修正しなくてはいけない。
気づくと私は小春さんの前で土下座していた。恥もプライドも捨て一人の大人の男だという事も捨て只一つのすべき事をした。
「すまなかった」
小春さんは眉間に皺を寄せて私を見下ろした。きっともう知っているのだと思う。どんなに隠そうと僅かな痕跡を私は纏って帰って来ていただろうから・・・。知っていても私は私がなぜ謝っているのかを説明する。
「私は浮気している」
だからどう反省するのかなんて事は自分から言うべきではない。事実を述べて後は小春さんに委ねた。
重苦しい沈黙が私たちを化石として石の中に閉じ込めた様に身動きが取れなかった。床と接している部分、体が重なっている部分が大量の汗を掻いていた。惨めで体が痒くて、それでも私は身動き一つする権利が無い。小春さん何か言ってくれ。
「そう・・・」
「・・・」
「それで?あなたはこれからどうするの?」
私は顔を上げる。
「今すぐに相手の人とは別れる」
「そう・・・」
小春さんはコップに水道水を汲んで私を置いてリビングのソファーに座って、喉をごくごく鳴らしながら水を一気に飲み干した。私は土下座の恰好のまま首だけ小春さんを追って様子を窺った。
「分かってたわ。ずっと前から・・・。でも私からは言えなかった。怖かったから、もしあなたが私じゃない方を選んで私に別れ話をされたらと思って・・・」
「すまない・・・」
「どうして?私の事が嫌いになった?」
「そうじゃない」
私は首を強く横に振る。
「じゃあ何で?」
「私が愚かだった。只君以外の刺激が欲しくて魔が挿したんだ」
「私は刺激が足りなかった?」
「いやそうじゃない。そうじゃないんだ・・・。君との生活は満ち足りていて幸せだった。只きっとみんな少なからず心の中に持っている事なんだと思う。猟奇的な自分がいてそれは君に迷惑をかけてしまう。だから・・・違う所でそれを発散させてしまった・・・」
小春さんは私に聞こえない様に配慮してくれたと思うが溜息と眉間の皺を作った。
「あなたのその猟奇的な部分は、今回の事が終わった後も又私と違う場所で私に内緒で発散するの?」
なんの証拠もない。私の口から言った所で信じてはもらえないだろう。私は困った顔に悲しさを混ぜて表情を作って数秒押し黙る。その後只言うしかないと思った。
「同じ過ちを繰り返したら人生の最後にきっと後悔すると気が付いたからもう絶対にしない。私は人生の最後に必ず君を思うからその時に微笑みたいから・・・」
こんな言葉「口だけでしょ?」と突き返されてしまうだろう・・・。でも本心だ。今私が小春さんを裏切らないという事を説明するのはこんな只の言葉しかなかった。
何年も小春さんを裏切って来たのだ。それをこんな短い言葉で許してくれるはずはない。私に愛想を尽かして別れを言われる事を私は覚悟してそれが切なくて強く合わさった上下の唇が震えていた。私が悪いのだから今頃後悔したってしょうがない。私は最低な人間だ。
頭の中では夢に出てきた。ニュースの一つが流れていた。老人の孤独死が見つかったというニュースだった。
私はもう諦めて、きっと拒絶の言葉であろう小春さんの言葉を待った。
小春さんは溜息をした。音の感じから笑った様に思えた。
「そう・・・分かった。信じるわ。私もきっと最後にはあなたの事を考えると思う。その時に色々あったけど良い人生だったて思いたい」
夢の中の通り小春さんは優しかった。今は私に許しの笑顔を向けていた。私は罪悪感と感謝がごちゃまぜになったぎこちない笑みで小春さんと目を合わせて言った。
「ありがとう」
『これで全て解決した』と安堵した瞬間視界は暗闇に落ちた。
闇は目の前にあったが薄かった。音はまるで静寂に浮いている。その静けさが私を落胆させていた。私は今どこにいるのか理解していてゆっくり目の前の闇を開ける。
私は瞼を開けた。いつも目覚める布団の中で時刻は朝7時だった。
「はぁ・・・」
寝た覚えもないのに急に布団の中で目覚めるという事はそれより前は夢だったという事だ。狂気にも似た気鋭を無理やり行使して、全ての問題を解決したのにあれは夢だったのだ。夢の中での強張った精神が今重苦しい疲労を与えていた。現実なんて物はそんなものだ。
現実を始める事が難儀でしょうがなかった。何度も溜息をして起き上がった。カーテンの前に立って暫く開けずに息をした。カーテンの向こうはどんな天気だろうか?
カーテンを開けて私は微笑んだ。外は清々しい晴天で雲一つなかった。
先ほど見た長い夢は本当に一夜の事だったのだろうか?考えただけで疲労が湧き上がってきた。私の中で私たちは戦っていて壮絶に正常な精神とは保たれているのだと茫漠と理解する。求めるべき精神とは陰極と陽極の限りなく中間でその中間はさらに違う方向へ深い谷の様に決して接しない限りなく中間へ交わろうとする直線二つの延長の交わる所でその接点は人が到達できない崇高な領域ではあるが自身の生きるという事を阻害しない。人が生きる答えとはそんな所にある様な気がする。
私は一つの物語の主人公の様な気がしていた。それも波瀾万丈の物語を終えて、生き延び只平坦に生きてきた人間では持っていない大切な教訓や重要な世界の秘密を持っいる。この青空を見た瞬間私は静かに泣き、生きるという事の重要さ私が今生きているという事の奇跡的確率に身を震わす程感動していた。生きる事の苦労から来る疲労を越えて魂が熱く血脈が巨大な太鼓を響かせるように巡って夢の中の狂気に近い気鋭が溢れる程に湧き上がっていた。鼓動は行進する巨大な足音の様に聞こえ「進め」と呟いた。巨大な足音とはきっとあの巨大な象だろう。
私は勇み武者震いしながら服を着替え顔を洗い朝飯を作って食べて髭を剃って玄関で靴を履き鳴らした。早くこのあらゆるものを薙ぎ払う気概を使いたかったが日常の生活を蔑ろにしてはいけないと思った。私と言う人間の生活を無視して只世界を変えると言う力を使ったら私はそれに征服されてそれそのモノになってしまう。何のために禁忌に近い力を使うのか?それは私と言う人間の生活を守るためだ。
私は玄関の扉を閉めた。
外の世界は何故か少し息苦しかった。
特に約束をしているとかではないが、会える気がした。だから私は向かった。
暫く歩いて目線の先に出てきた『GOビデオ』の看板に焦点をつけて進む。この地点で問題への解決策は夢の中と同じだった。単純明解ですっきりとした強固な自信を帯びていた。
「あ」
「あ」
予見した通り私は大人向けコーナーで友人に会った。どうした?用意していた解決策を行使する事が出来なかった。それどころか体が震えていた。現実の自分とは何と情けない事かと嫌気がさしてくる。確かに正義と私の中ではあんなに鋭利だった日本刀の女も今私の中にいる。それらの力は本の些細な物で殆どセルフサービスに近かった。しかし微かでも彼らがいてくれたから私は勇気ってやつに飛び込めたのだと思う。
「飯どう?」
「やめとくよ」
「そう」
はっきりと私に断られたのは初めてで不思議そうにして友人は去って行った。
夢と違って現実では物事を変えようとするには膨大な力がいる様である。夢ではあんなに容易く劇的に物事を変えれるのに・・・。
私のありったけの勇気が只断るだけだなんて情けなくて涙が出てきたけど私よ頑張った。
一人になって緊張のピーク状態だった事を遅れて認識する。急に力が抜けて荒く息をする。大した事じゃない。でも頑張った。
これだけで私のストレスは臨界状態に近くて視野が狭窄していた。今すぐに部屋へ帰って横たわって眠りたかった。しかし、私は次のなすべき事柄へ向かった。
病院のロータリーで正面玄関から最上階まで見上げた。決してこの巨大な建物は悪人の集まりではない。根底には苦しんでいる人間を助けたいという理念が病院と言う組織の存在意義だ。だから決して父はここに閉じ込められている訳ではない。父を助ける為に多くの人が動いてくれている・・・。それを否定していいのだろうか?私は本当にあっているのだろうか・・・。
夢の中でどうすれば良いのか問答して答えは出たはずなのに不安だった。夢の様に鋭利に気概を行使出来たら良かったのに現実って奴は何が正しい事なのかどこまで行っても正解がない事柄が多い。只私が後悔しないだけの答えが本当に父の為になるだろうか?
分からなかった。
しかし、今のままではだめな事は分かる。だから私は一度俯いて鼻で溜息をして正面玄関に入った。
夢の様な気概は無く、医者と話しをするのは後にしてまずは父を納得させなければと思った。
父の病室のノブを握って勿論開くのを躊躇した。ここが一番困難な問題かもしれない・・・。私を変えるのではなく父を私の力によって変えるのだ。他人を変えるのは困難だという事は周知の事実で、そういう時に一般的には自分が変わった方が簡単で早いとアドバイスされるだろう。一瞬私の中の怠惰な部分が『自分が変わればいい』と呟いたがそんな自分がいる事に激昂しそうだった。その怠惰な私が言うには『父の考えを尊重し父の死を受け入れろ、父がまだ死ぬ前から父が間違っていても』と言っている。
『ふざけるな!』
自分自身の中で生まれた怒りだけどその力は確固たる意思を持って躊躇していた扉を開かせた。
父は夢と変わらず私がいる向かいの面の大きな嵌め殺しの窓の外の晴天をベットで仰向けに横たわって首だけ窓に捻って見詰めていた。予想出来ているからこそ父に気づかれない様に溜息を吐いた。
何と声を掛ければいい?やはり父の意思を踏みにじって強引に転院するのは現実の臆病な私にはできない。だから、父を説得して父が行くと言えば私も大手を振って協力できる。父の性質を利用して父を動かすのだ。どう言えばいい?
どう言えばいい?どう言えばいい?どう言えばいい?
絶対どこかにピッタリと合う言葉がある筈だがそれが見つけられない。
こういう時に限って頭は回らない。いや、そもそも私の頭など器用に物事をこなす方法を思いつく事が出来ない。いつも不器用な思考で生きて来た。
だから仕方ない今思いつく事から始めるしかなかった。
自分への落胆の溜息をしてから父の傍らへ椅子を出して座った。
「父さん」
「ん?」
父が起きていて今日は調子がよく話ができる事を知っていた。
「新しい治療法を試してくれないか?お金の心配はいらないんだ」
「先生がそう言っているのか?」
「いや、病院を転院して違うお医者さんの所でする事になるよ。他の治療でダメだった人も効果が出ているらしいんだ」
「・・・」
「父さん・・・頼む」
「すまないな・・・。俺は今の先生に任せるよ」
私は歯を食いしばって噴火する様に溜息をして、分かりやすい説明とか、嫌われない様にする言い方とか相手を尊重した決定とか、そう言う物を放棄した。
「ダメだ!!」
目線はぎこちなく父の所まで届いていなくて途中の虚空を見ていた。思い通りにならない事に癇癪を起こした子供みたいだった。だって巧妙に父を支配する言葉が何処にもない。私の言葉を司る筈の場所には伽藍洞の巨大な空間があるだけで、そこには今人間的な複雑な領域の『言葉』と言うものが無くて、あるのは極めて自然的なこの伽藍洞を吹き抜ける風の音、肌を触る風の感触、少し冷たい温度、遠くから入った薄暗い光。そう言った明確な言葉を持たず組みあわせて何かを作れるようなものでも無くて、只感じる。言葉以前の魂の揺らめきとでも言ったらいいか?そんな物が只々あった。余りにも素朴で有り触れているので気の抜けたサイダーみたいに劇的な感覚に乗せる事が出来なくてなんとも言えない気持ちで無理やり言葉を出した。現実に思いのたけを伝えるって言うのはそんな物なのかもしれない。
「俺は父さんに死んでほしくない!他の全ての物を代償にしても生きていて欲しい。俺が代われるなら代わりたいよ!これからじゃないか、今までいっぱい迷惑をかけたからそれを返させてくれよ。ようやく父さんと同じような大人になったんだから一緒に遊びたいよ一緒に腹を抱えて笑い合いたいよ!まだだよ・・・。なんでだよ」
私にはそれ以上言葉が残っていなかった。巧妙でも勇敢でもない言葉だった。
只単純に思った事を言ってしまった。そして、その後何も出てこなかった。声すら出せなかった。
夢の中の様にこちらを見ないでいて欲しかった・・・私は男らしくなく泣いていたから、でも父は私の顔を見て一瞬微笑んで又外を見た。それから父は言った。
「良い人生だったよ」
顔は見えないがきっと微笑んでいたと思うし何かに満足そうな声色だった。父がどうして良い人生だったと言ったのか私には分かってしまった。夢の中では聞いても答えてくれもしなかったのに、現実では聞いてもいないのに言うんだな。父は私と言う息子がいたから良い人生だったと言ったのだ。臆病で非力で情けなくてでも何が正しい事なのか考え続けて藻掻き恐怖や嘲笑に支配を任せず純粋な所は平和を望んでいる。そんな私を理解したのだろう。自分の息子の中に正義を見たのだろう。だから戦っていて今の自分がいる場所まで辿り着こうと必死に時間を生きている息子を見て懐かしくも誇らしく人生の帯いっぱいに生きる事がどれ程困難でどれ程奇跡的な確率で過酷だったか顧みてしかし、最後には色んな事があったからこそ良い人生だったと思えるし、途中何度も『人生を諦めてしまおうか』と思った事もあったが今はそれ全てを含めて良い人生だったと思える事を息子に伝えたくて、父なりの息子へのエールだった。父は夢現判然としない茫漠な意識と現実の中でそれを思った。父に私は心の中で『ありがとう』と言った。父の魂に近い部分では素直に私の事を愛していてくれている事が知れたのだ。私の流す涙の温度は温かく変わった様に思えた。
父との問題の解決とは父を死なさない事では無かったのだと思う・・・。父の支配に逆らい自分の気持ちを父に向って口に出すという事だったのかもしれない・・・。
結局父を転院させる事は出来なかった。
現実とは何と明確な答えの無い物なのか。気持ちはすっきりしてはいるが現状を変える事が出来ていない。しかし『これで良い』とどこか納得している自分がいた。後は父の問題で父の命だ父が決めるしかないのだ。と思ってそれを答えとした。
しかし、帰りのバスで無意味に床の一点を凝視している自分に気がついて、やはり、無理やりに強引に転院させるべきだったと悔やんでいる私も確かに燻っている事が分かった。その私は今納得している私を責め立てて『今すぐ戻って転院させろ!』と言うが、実際父の前に立ったら引っ込んでしまう卑怯な気概だと分かっていたのでその卑怯さを問いただしたら黙った。『どうしたいのか』という事と『どうすべきなのか』という事は似て非なる物で欲と現実とを見極めて分別しなくてはいけない。そうしないと自分自身の欲に身を亡ぼす事になる。
すべき事とは一体何だ?なぁ正義とか希望よ。いるんだろう?私の中に・・・。
私は自分を憐れむように一伏せ笑ったがもう開き直って楽しいぐらいだった。
「ただいま」
「おかえり」
小春さんは一瞬こちらを見たがすぐに家事に戻った。
私は料理の支度をしている小春さんを上着も脱がず荷物も降ろさずに玄関を開けた格好のまま眺めた。日常の小春さんを少しでも記憶に収めておきたかった。だって現実は夢とは違うから別れると言う結果を迎える可能性の方が大きい。私がした事は許される事では無い事は分かっている。
小春さんは私の視線に気づいて「どうしたの?」と家事の手を止める事無く聞いた。私は溜息を一つして「すまない」と言おうとしたが「すま」まで言って突然叫んだ小春さんに静止した。
「どうしたんだ?」
「いえ・・・別に」
「そうか・・・。話があるのだけど」
「いいえ、私はないわ」
「え?どうしても聞いて欲しいのだけど」
ここで小春さんはまた叫んだ。
「絶対聞かない!!」
こんなに取り乱した小春さんを見るのは初めてだったので、私は口を開けて唖然としていた。目の前にはお玉を握りしめて肩で荒く呼吸をする小春さんがいてその呼吸音以外は全て静止して小春さんは静止した世界に取り残されている様だった。私は小春さんを収めたその世界、(きっと球体の膜の中だろうか?)を外から覗いていたが是も非も無くすぐにその膜を破った。
「聞いてほしんだ。聞いてから決めて欲しい。そうしないと君にした全てがばれないように偽装した嘘になってしまうから、君にした優しさも君の魂に触れた様な微笑みも君のためならなんだってできると思った自由も愛してると言ったあの瞬間も・・・」
「結果がどうなっても言うの?世の中には言いたい事でも言わない方が良い事や知らなかった方がよかった事があるの」
私は打ち明ける事を躊躇する。小春さんは示唆している。私が言う内容をもう知っている事は間違えない。そしてそれを私の口から言うという行為をしてしまったら悪い結果が待っていると私に伝えている。つまり『言うな』と言っているのだ。しかし、ダメだ。結果が問題なのではない『私が正しくあろうとした』という事が重要なのだ。このまま小春さんに言わなければ又夢の中に幽閉される事になる・・・。
「私は他の女と関係を持ってしまった」
「あー!もう何で言うのよ!最悪」
全く予想できなかった小春さんの反応に私は戸惑っていた。どうしてそんなに怒る?いや怒って良いのだけど私が浮気をしたという内容では無くて、言うのか?言わないのか?という事に対してどうしてそんなに怒る。静かに泣くか、拍子抜けするくらい冷静に今後について話せるか、いなくなってしまうか・・・私の予想はそんなとこまでで小春さんが今何を考えているのか分からなかった。思い通りにならない焦燥感も虫が蠢く様にあったが、それが返って現実味を感じられて安堵感も同時にあった。
「すまない」
「私はあなたと別れる気はないから、だからこそあなたを見るたびにムカつくのは嫌だったのに!」
「すまない」
「一生よ!一生嫌な思いが続くのよ」
「すまない」
「私は一生あなたが死ぬ寸前まであなたを許さないから、いえ死んでも許さない。でもあなたと別れる事はできない。あなたと一生一緒にいるって決めて私の全てを見せてあなたの全てを見てきた、だから今更他の男と生活するなんてできないのよ。あなただけが私が安心できる場所だったのよ」
「すまない・・・」
小春さんは巨大な溜息を私に向けてして暫く睨んだ。私は目を合わせる事も出来ずその場から居なくなる事も許されず情けなさと恥ずかしさで何処か穴があったら入りたくて怯えた小動物の様にそこにいるしかなかった。
頭の中で『おい待てよ?』と声がしたような気がして、よく考えると『私を許さない』という事が罰として付いただけで他には何も小春さんと私の日常に変わりはなかった。小春さんが私の浮気を知っていて認めようとせずに日常生活を続けたいと思っていたのなら例え『許さない』という事が付加されたとしても日常生活は何も変わらない事になる。正確に言えば微妙に変わるのかもしれないが・・・しかし、私は結果として小春さんを失わずに済むという事だ。私は小春さんに気づかれぬように心の中で安堵した。もちろん償いの気持ちは一生持ち続ける決意はある。それしか不貞を働いた私に対しても変わらずに心の深い部分で愛してくれていた小春さんへの謝罪と感謝を示す方法は無い。
「次はないからね」
「分かった。ありがとう」
「ありがとうじゃないから」
・・・。
これで、私が現実で抱えていた問題を解決したのだろうか?重ね重ね思うが現実とは明確に『これであってる』とは言ってくれないのだ。しかし、生きなければ、正しく、只々生きるのだ。
そう思いながら近所の河川敷の土手を私は歩いていた。落ちそうなくらい澄んだ青い空が頭上に在って夏の温度調節にやっと慣れた体は熱を帯びている様に感じてでも風はひんやりと冷たく心地よかった。必死に自分の中で藻掻いていたので季節なんて気にもとめなかったが季節はどうやら秋になっていたようだった。
鮮やかで騒々しくしかし静寂で他人の夢の中に入った様に自分と言うものの実感が無くて、世界とはどうしてこうも綺麗なのか?と感動できるけど巨大な虚しさが共にある。秋と言う季節は私が感じる人生の様な季節で私は笑ってそれを受け入れる。受け入れるしかないし、快適で失敗せず思い通りに行く人生の何と希薄な事かと思った。複雑怪奇未知解明な世界とやらを私は一歩一歩人生を踏みしめて噛み締めて進んでいる事が喜怒哀楽苦楽因果運命全て含めて快楽に変換されている様だった。
私は遠くを見つめてこの晴天の河川の景色を自分の人生の事と共に『綺麗だ』と思ってまだ完結してないのに『良い人生だった』と快楽物質に酔う様に身を任せていた。
この先困難やどうしようもない出来事にぶつかるだろう。しかし、そう言う事が人生の帯上にある事を喜ばしく思った。
「ああ、人生よ複雑足れ」
私は世界と私自身にそう言い放った。しかしそんな事を美徳と思っている自分の哀れさに気がついて疲れ果てた様に一伏せ笑った。複雑な人生が好ましいのではなくてそう思わざるおえなかったのだ。困難で過酷な人生をそうでなくす事が出来ないので世界を変える事を諦めて自分を変容し困難を快楽へ変える様に適応してしまったのだから。
好ましい人生とは本当は思い通りに進んでストレスのない事なのだろうか。
私は生きるのだな。未知でまるで闇の中を進む様に。目の前にある世界は善い物なのか?悪い物なのか?分からなかったが綺麗だった。空は澄み渡った晴天を私に見せていた。
景色を見て止まって、そんな事を思ったが再び歩き出し先日の長く妙で気がかりな夢について遊ぶように思考を巡らせた。




