理由なき衝動
その衝動はまるで生理的欲求の様に自然で当たり前に解消すべき事だと体は認識している。しかし思考ではおかしいと分かっている。その衝動の解消行動を始めようとする指令が今にも発せられそうで、しかし思考がそれを必死に止めていた。衝動解消と静止的思考が半々ぐらいで脳の中は揺らいでいた。
そして奇妙なのはその衝動には理由が無いのだ。『それをしたい』と言う気持ちだけが強く在って思考で『何故それをするのか?したいのか?』という事が理解できないのだ。
私は自分の太ももを見詰めてそこにナイフを刺したいという理由なき衝動と葛藤していた。
それは直ぐに収まった。
私は安堵の溜息を呼吸と共に荒く何度もした。「一体今のは何だったんだ?」と呟いてひたすら理由を探す。理由が分からなければまたこの衝動が襲って来た時防ぐことが出来ないからだ。どんなに探そうとも茫漠とした果てしない砂漠の様な途方もない不毛があるだけで原因を突き止めるための情景や因果関係、物的証拠は見当たらなかった。人間もいなければ建物も人工物は何も無かった。
それは恐怖でしかなかった。その衝動を抑えるのは本当に必死で闇の上を綱渡りしている様な危ういバランスを保ってようやく抑えられた。
『次は衝動に従ってしまうかもしれない』と思う不安が私を覆い包み脂汗を掻いていた。早急に解決策を探さなければいけない。
4、5時間理由と解決策を探したが何も見つからなかった。時間が経った所為か、恐怖は薄れ、不安は薄く消えた。『きっとこれは一回きりの奇妙な事だろう』と思って引き攣って笑った。私は心配性な所があって悪い方に考えればまだ見ぬ未来もどんどん暗く深く潜ってしまう質だという事は分かっていた。だから深く考えない癖をつけていた。だって人生には恐怖に打ち勝って震えを抑えて目の前が何も見えなくとも前に進まなくてはいけない時があるから・・・。
私はそう言った勇気や正義を行使した時を思い出そうとする。しかし、記憶の中にそんな場面が無かった。いや・・・あると思ったのだが・・・。
私は笑った。もし一度も勇気や正義を持ち出した場面が無いのなら私は只臆病で情けなくて非力で只それだけだ。しかし、使ったような気がするが・・・。もしかして映画か何かでそう言う場面に感化され、あたかも自分自身が偉大にも正しく力ずよく勇気や正義を使ったと妄想しているだけだろうか?しかし、私の中のどこかで只情けないだけの人生を認めないでいる。
私は所在の分からない心の熱い焦熱と深い闇とを理由も分からず交互に緩急させながら吐き気を催す程錐揉み状態の意識を何とか抱えて今できる応急処置をした。それは寝る事だ。
意識は螺旋に墜落し気づかぬ間に寝入った。
・・・。
朝は同じように始まりその日が平和なのか混沌なのか起きた瞬間には分からなくて関係が無く夢の後ろ向こうの事は『いつか見た映画の記憶か何かだろうか?』とぐらいにしか認識できない。だから、あの衝動も気がかりではあったが遠く昔の事のように思えて『そんな事もあったな』と言いう自分の引き出しにしまった。
伸びをして起き上がり窓を開けた。空は依然晴天であって私は「よし!」何が良しなのか分からないがそう言った。きっと出勤前に軽く気合を入れただけだと思う。
バス停に向かう途中女がいた。気慣れないスーツにまだあどけなさが残っていてきっと新入社員だろうと思って人生の先輩としてエールを送る気持ちで目線を送って女を歩きすぎようとしたが、急に私の息が荒くなった。
震撼したのだ。理由は分からない・・・。女の背中に乱暴にぶつかりたいと言う衝動が暴走に近く込み上げてきて私の中の殆ど8割はそれに従おうとしていたのだ。女の肩に手を伸ばして触れそうな所で何とか制した。
女は私の気配に気がついて後ろを振り返った。女も同じく震撼して明らかに私の中の敵意を見つけていた。息を荒げて必死に脂汗と共に眉間の皺を作っている中年の男が自分の事を凝視していたら誰だって不審に思うから仕方ない。
女は恐怖の顔を作って小走りに私から逃げて行った。
違うのだ。私は君に声援を思い浮かべていた善良な人間で君に悪意を持ってぶつかりなどしない。この衝動は私本来の物ではないんだ。そう思って女を引き止めるように手が伸びて、自分でも理由がわからない物を弁開しようが無くて、何も言えずに伸ばした手を力なく下に落とした。
私は大きなためい息をしてデスクに座った。
パソコンの画面を虚ろに見ながら指はキーを叩いていなかった。円周率の計算の様に答えの確定しない長い式を頭の中で何十個も同時に演算し続けていて現実が入ってこなかった。仕事と言う概念が認識できず『私はいつもここに座ってどんな事をしていたのだろうか?』と記憶喪失者の様にまず初めの動作をする事が出来なかった。
これはまずい・・・。
これでは働くという事が立ち行かなくなる。延いては何も理由や意味を認識できず生きるという事すらままならなくなる。
強く頭を振ってとりあえず現実に集中しようとする。
「えっと何をしていたんだったか?資料か?」
資料を集めてプレゼンして仕事を取って来て会社に貢献して金を貰う?どうしてそんな事をしているんだ?なんの意味があるんだ?
当たり前だと思っていた社会通念が急に私を作る基本から脱落し暗闇へと落ちた。私とは一体何だ?
気づくと目の球をぐるぐる際限なく回していた。一体なぜ?そんな眼球運動をしたのか?理解が出来なかったが今もなお続けている。よくわからないが酷く寒くて体が震え始めそんな異様な姿て自分のデスクに座り続ける私を心配した鈴木が声を掛けた。
「どうしました?」
回転の慣性力で徐々に止まった目の玉はきっと血走っていたかもしれない。鈴木は目が合ったら一瞬たじろいで「大丈夫ですか?眠れてますか?」と聞いて来たからだ。
『バカにするな』
いや違う!!危なく発音する所だった。鈴木は純粋に私を心配してくれたのだ。私が弱っていて仕事が出来ない事を皮肉ったのではない。分かっている。鈴木はそんな人間ではない。一度たりとも鈴木の事をねたんだり矮小な人間だと蔑んだりした事はない。そんなこと思った事もない。
どうしてそんな事を思った?理由が無かった。しかし、音もなく色も形も重さも無い高圧縮の何らかのエネルギーの塊がもしかしたら私の中にあるのかもしれないという知覚をした。しかしそれは今起きている私の意に反した衝動が起こる原因を推測したに過ぎない。原理的にはそうと思うが、その気配が全くない。私の中にそんな臨界状態の塊を見つけられない。しかし確かに容量をオーバーして吹き出るようにして衝動と化している。そして一番不安なのは、その塊が一体どういう類のモノなのか?という事だ。それが解れば発散方法が分かるのだが・・・。
伽藍洞の嫉妬をなんとか時間をかけて呑み込んでやっとの事で「ありがとう」と言った。忙しいのに私の返答を待ってくれている鈴木がそこには居たので、やはり鈴木は私の事を真剣に取り合ってくれる私にとって大切な人の一人だと自覚くする。しどろもどろで意気消沈の私に鈴木はさらに気遣って「後の仕事は私がやっておきます。今日は休んだ方が良いです。部長みたいに仕事詰めだとやられちゃいますから」
今は伽藍洞の嫉妬は私の中には居なかった。親身になってくれる鈴木に純粋に感謝の気持ちとになり「ありがとう」と言えた。
前兆なしに突如沸き立ち、いつの間にかふっと消える恐ろしいこの衝動は私以外の存在が私を脅かしているとそう仮定する。だって私の意思とは無関係に襲って来るから順当な仮定だ。何らかの超能力を持った人間が私に危害を加えている。そうとしか考えられない。
不意に私は目の前のペンを見詰めている事に気が付く。そしてまた突如として衝動が襲って来る。このペンを鈴木に刺したいと強烈な渇きに歯を食いしばって早く過ぎ去ってくれと耐える。
『違うんだ。どうしてそんな事を思うんだ?これは一体何なんだ?』
どこかで羽根がふわりと地面に降り立った様な音がした様に思えた。羽根が地面に付く時音なんてしない。音より気配に近い。私は視線を走らせ見つけたものを凝視する。
私の真後ろに無重力空間の中で酷くゆっくりな風に髪が撫ぜられていた。ゆっくりとそれぞれの束が慣性を受け神秘的な程に女が降り立っていた。それは羽根が地面に降りる様だった。私の職場に突然現れたあの女だ。
「それはあなたの魂は本当はそう言う姿をしているから」
「そんなはずない!」
そう叫んで私は立ち上がった。周りの人間の視線が私を不審そうに凝視する。
「大切な人とは柵だから」
「おい!何てこと言うんだ!」
女は悪魔だ。でもどうしてが天使だと私は認識している。きっとそのどちらでもないのだろう・・・。
「私が大切に思っている人を大切にしたいんだ。そんな事当たり前だろう」
どうしてか?私は泣いていた。
「その為に自分を堪えてすり減らしている」
「・・・」
「あなたに取って大切な人に身を賭す事は真の喜びじゃないことぐらい分かってるでしょ?」
私は言い返せなかった。世の中には、自分を犠牲にして大切な人を大切にすること自体が喜びの人がいる。そう言う思考を社会は尊敬するし素晴らしく偉大な人間だと定義している。それに憧れ、そうなりたいと思ってしまっていても魂が違う所にあって自分が何者なのか?と言う所へ迷い込んでしまう。
「いいのよ。大切な人から逃げたって、罵倒したって、自分の我儘を言ったって」
「でも、そんな事をしていたら壊れていしまうよ。笑っていて欲しんだ」
「あなたが壊れたら?あなたの大切な人は笑うかしら?」
「じゃあ受け入れろって?この破滅的な衝動を?」
「そうよ。それがあなた自身なのだから」
私は馬鹿らしくて笑った。
「鈴木をペンで刺す事を?社会に希望を持って進む若者に不安を当てる事を?一体何の意味があるんだ?」
「意味なんてない。全部壊すの。そうしたかったのでしょ?」
私は一瞬押し黙った。今まで人生は思う様にはならなかった。理想の道から遠ざかって今は変えられなかった現実がおぶさって思い描いた理想の未来とは全く違う道を抗う事も出来ず焦燥と苦痛と共に歩いている。そのまま只々呆然自失と彷徨うように歩て死ぬ。私の人生とは何と理解に容易く酷くつまらない物だと今唐突に理解した。だから私の歩んできたこの道を壊したいと思う者が私の中に居た。理由も目的も正義も希望も無く只壊したい。だからすぐに女の言葉に反論できなかった。
そして一瞬の深い広大な闇の中で一人呟いた。
『そうか、本当は私は私を殺したいのだ。私は私を壊したいのだ』
でもできなくてシンプルに壊したいという衝動だけ認識してしまっていたのだ。
卑怯だ。私とは卑怯極まりない。醜悪で横暴で情けない臆病者だ。自分自身が間違ってきた道を修正する事が面倒だからそれを諦めた事のみならず。自分で選んで来た道に嫌気がさして自分自身を殺そうとしたけれどそれが出来ないから自分以外の全てを壊せば結果将棋の様に自分自身を壊せると思って人に迷惑をかけている。
しかし・・。
私は私が選んで来たどうしようもない柵から解き放たれたかった。だが人に迷惑をかける事は同じく苦しい事でそうなるとする事は一つだった。この衝動を一度でも実行してしまったらきっと征服される。麻薬の様に後戻りはできない。そうなってしまう前に・・・。今も私を蝕み進行速度は思っているよりも早いだろう。時間が無い。
私は鈴木に『すまない』とだけ言って早退した。色んな思いをできるだけ抑えて言ったが気持ちが溢れて言葉に色んな思いが籠ってしまっていたかもしれない。
私はその足で実家を訪ねた。
天気は清々しく田舎の草が太陽の光を浴び風に揺れて元気よく育っていた。
「ただいま」
「あら、おかえり。あんた仕事は?」
平日の真昼間に行き成り来たので母は私を心配そうに見たが「仕事で近くに来たから寄っただけだ」と言うと純粋に私に会えた事に微笑んだ。
母は家の仕事をしていて私は出されたお茶と漬物をポリポリと食べた。生まれ育った家を眺めて感傷に浸った。私に一人でお茶を飲ませて母は家事をやめず座らなかった。なんて事はない。他愛ない言葉を2、3言話しただけだった。私は家事をするいつも通りの母の背中を見詰めてそれで満足だった。
「じゃ行くよ」
「もういくの?」
「仕事中だからね」
「そう、体に気をつけるんだよ」
そう言って菜の花とふき味噌とむかごとマゴチを私に持たせた。「こんなに食べれないよ」と言ったが母は強引に私に持たせた。
大きな新聞包みを持って電車に揺られながら私は柔らかく笑った。
私はマンションの扉を見詰めていた。銅像の様に目の玉一つ動かさずに30分くらいはそうしていたと思う。小春さんと私が住んでいるマンションだった。
笑いたいけど深い皺を顔面いっぱいに作って泣いた。
落ち着いてから扉を開けた。
「お帰り」
小春さんは変わらず私を笑顔で出迎えた。
「いや・・・まだ・・・仕事の途中で・・・」
小春さんは何も返事をしなかった。声はないけどそこに言葉があった。言いどもっている私が何か深い所へ落ちている事を理解したのだろう。私を優しく抱きしめて、『どうしたの?』そう伝えていた。だってもう何十年と一緒にいるのだから何十年と互いの内側を嫌と言う程見て喧嘩して支え合って笑い合ってきたのだから小春さんは私が途方もない闇に落ちそうになったら自分が落ちてしまう危険を顧みず私の手を掴んで必死に引き上げようとする・・・そして絶対に手を放そうとしないだろう。自分も一緒に闇の中に行くとでも言いそうだ。
私はため気を吐き『私は良い妻を持ったな』と密かに耐えるように笑った。
しかし、だからこそこれ以上小春さんに迷惑はかけられない。小春さんを傷つけでもしたら私は耐えられない。
「どうしたんだい?」
私は演技をする。小春さんは分かっているのに、今ここにいる私は普通の私で小春さんが急に抱き着いた事に逆に心配しているという演技だ。
小春さんは私の胸から顔を放し顔を真っすぐに見る。私の目の中にある真実を探す眼だった。わずかな挙動で悟られてはいけないと私も小春さんの目を真っすぐに見る。本当は逸らしてしまいたかったが。
何と純粋無垢に私を心配してくれる綺麗な目か・・・私はその目に今にも裸にされそうだった。泣き崩れて助けを求めてしまいそうだった。しかし、堪え切った。
そうして、自分の部屋に行き必要のない書類を持って「じゃあ、仕事に戻るね」と言って玄関を閉めた。小春さんを私は騙せただろうか?「分かった」としか小春さんは言わなかった。
玄関の扉を見詰めて心の中で言う『良い男を見つけて幸せになってくれ』
歩くことがやっとで視界はもちろん涙で見えなかった。止まったらその場に崩れ落ちてしまいそうでどことなく歩いていたら、会社の前についていた。私は会社を見上げて一つ溜息をしてすぐに歩き去った。
何か一つ心残りを忘れている気がする。マスターのコーヒーを飲みたいのか?父に会いたいのか?『象の背』を最後まで読めなかった事か?まあ父はもういないから会う事は出来ないのだが。今思いついた事だった様な気もするし、全く違う事だった様な気もする。しかし、まあもういいだろう。そう思って私は『ここじゃないどこか』へ出来るだけ遠くへと進んだ。殆ど放浪に近く何日もバスに乗ったりヒッチハイクしたり自転車だったり歩きだったりで只々進んだ。蓬蓬と髪と髭が伸び、喋り方さえ忘れてしまっていた。私は空っぽでそれが只歩くというプログラムを実行していた。喜びも悲しみも恐怖も愛も無駄だと思った。それらがあるから苦しみ本当にすべき事をできない。感情があるから人は惑う。欲があるから果てしなく渇く。人を傷つけてしまう。
良い方も悪い方も捨ててしまえば驕らず悔いる事もない。只、成すべき事を成せる。
私は空っぽでこの表皮ほんの1mmも無い厚みだけでまるで空虚をどこかへ運んでいる様だった。しかし、薄く透明で脆いが強靭な誇りに似た感情を帯びていた。これは空っぽの殻の様なモノであるが同時に鎧なのだ。善悪を持たず感情を持たないという事は外界から私を守り私から外界を守っている。その代償が孤独だけと言うのなら安い物だ。大切な人を守れるのだから。
もうどの位歩いただろうか?気づくと私はトンネルの前にいて立ち止まっていた。トンネルと言うより隧道の方かニュアンス的にはあっていた。
私はその穴を虚無に見詰めた。何時間か何日か何年かもしれない。そして決意も無く意気込みも無く。変わる事のない量の虚無を持ってその穴に入った。
隧道も語弊があった。穴に入ると地面には水が流れていて、壁には地下水が流れ出ていた。水路と言った方が近いかもしれない。出口はそう遠くなくて100メートルほど先に円の光が見えた。出口の方から生ぬるい風が吹いていた。明かりなど無く静寂があって仄暗かった。でも妙に心地よかった。ここは私と同じく虚無だった。だから、私の内側と外側が同じ虚無でこの穴の空間に私が溶け行ってしまいそうだった。
私はここを知っている・・・。現実でここに来た記憶がある。
私はトンネルを抜けた。トンネルの終わりと共に道が続いていなかった。流れていた水が瀧になり急に道が切り落とされた様に断崖の先へ出た。
私は下を覗く、恐ろしい程の高さで落ちれば間違いなく死ぬだろう。
目線を上げ遠くを見つめる。かなり山奥まで来てしまった事にここで気が付く。眼下に広がる森林、遠くに見える山の稜線と接している空は青く澄み渡ってこの上なく綺麗だった。
私は同じ目的をもってここへ来た事があった。しかし、それを達成したのかは思い出せなかった。
躊躇や後悔ではない。本の一瞬静止した。生まれてから今までの全ての映像、音、匂い、感触、味、それらと共にある思考、感情がコマ送りで映写機を回す様に凄い速さで映し出され、感じた。走馬灯と言う奴だろうか?私は過去の記憶の中で私を引き止める事の出来る事象を探している。『ありがとう』私は私にそう言った。私が提示したものは全て私の大切な物ではあるが、だからこそ私はここに来たのだ。私がいなくてもこの世界は勝手に回って行く。だから私がいなくても大丈夫。
「ありがとう、みんな、愛してる」
壮観な景色にそう呟いて飛び降りようとした。
本当にまね事とかでもなくて迷いも無かった。だから偶然真横の岩に蛹が二匹いるのを見つけられなければ私は飛んでいた。
何の変哲の無い蛹で二匹とも淡く内側から光っていた。二匹は必死に生まれ出ようと微動を繰り返していて、互いに気遣い合っている様に思えた。二匹の微動はなぜか私にその存在を気づかせようと必死に動いている様に思えた。不思議だった。私は彼らに心奪われた。この蛹が何を意味しているのか?彼らはどうして私の前へ来たのか?二匹の蛹は何らかの理由を持って私の前に現れたようにしか思えなかった。その正体を理解しようと何故か必死に思考していた。他のあらゆる事象は私がここへ来ることを止められなかった。しかし、何の変哲の無い蛹が私を引き止めた。
私はいつかの雑踏の中の声を思い出す。
『世界はあなたに隠し事をしているわ』
世界が隠す程の事だから、隠し事とは世界と言う構造物の根源的で重要な事なのだろう。今世界とは私そのものなので、イコール私の根源的なものでそれなしでは私を証明できないものだ。
思い出せない。
しかし、その思い出せないものは私の世界の全てよりも重要で・・・いや、私自身でさえも越えて重要な物なのだと思う。きっとそれをこの健気な二匹の蛹に見ているのだろう。
不意に湧き上がってくる。無責任だけど正義と呼べる熱い決意。
それを無意識に発音した。
「生きなければ・・・」
世界のためでもなく自分自身のためでもなく唐突に茫漠と霹靂と強烈にそう思った。
奇妙だった。私は空っぽだったはずだ。流れを持たず静止し温度を失っていたのに今血液が熱く圧力を増して体中を駆け巡っていた。『動け体よ。考えろ思考よ。抗い道を作るのだ』私は歯を食いしばり拳を握って何度も繰り返しそう唱えていた。
私はあの衝動と闘う決意をした。それは本当に恐ろしい事で自分自身が自分自身の大切な物を傷つけてしまう恐怖だ。それは自身の死よりも怖いものなのだ。それを知っているから今死のうとしたのだ。
内容も分からないのに只それがあるという事だけであらゆる物が反転した。
これを希望と言うのだろうか?
私は私を取り巻く柵の中に還った。
困難で不条理な事に立ち向かおうとしている私へのサービスなのか?恐る恐る出勤した会社は平然としていて、鈴木に聞くと私が休んだのは一日だけだと言った。しかもちゃんと病欠早退の報告をしており、日常生活に支障はなかった。
これで良かったのだがとこかやり切れない思いが残った。
生活は何とかできた。しかし、あれほどやりがいを感じていた仕事に感情が入らなくなっていて全自動で社会生活をする私と言うロボットのスイッチを入れっぱなしに任せている感じで生きるという事に私自身いなかった。
平坦で退屈な人生だと感じるのも又あの衝動の一つであると理解していた。時間が経つにつれて私は暗い森の奥へ奥へと進んでいった。狂ってしまう事だと分かっているのにそれを止める事が出来なかった。勝手に行ってしまうのだ。人と話す事が酷く疲れて会社では殆どしゃべらなくなった。夜の寝つきが悪くて一睡もできない日が増えてきて、行ってはだめだと分かっているのに赤信号を無視して渡った。人を見る度他人の不幸を願ったり、綺麗に並んでいるスーパーの陳列を端から床に落としたくなったり、トマトとか簡単な力で潰れる物は叩き潰したくなる。非道なニュースを見ると『よくやった』と思ってしまったり、子供とか年寄りとか華奢な女とかを見ると力いっぱい殴りたい衝動を抑えるのに必死だった。
不意に私は道端に落ちているガムを拾って噛んだ。家に帰るまで噛み続け混じっている小石を噛んだ時『嫌だな』と言う気持ちと自分を粗末にする事に快楽に似たものを感じた。自分の存在定義が危うくなている事に脂汗を掻いて急いで玄関の扉を閉めた。
時間が経つにつれて正気で居られる時間が短くなっているのを感じる。しかも非道な衝動は徐々に濃く長くなっている事を自覚して恐怖で全身が怯え震えていた。
そう思ていると不意に自分の太ももを見つけてこれを何かで刺したくてしょうがなかった。歯を食いしばって腕に力を入れて耐えた。例えば長距離マラソンの後の精も根も尽き果てた時の様な脱力感と阻害されたスローの思考を帯びてとりあえずベランダへ行って煙草を吸った。
一本目を吸い終わるまで焦燥感と共に足を刺したくてしょうがなかった。二本目を吸って少し落ち着いた。
この暗い森では煙草を一本と気持ちよく吸わせてはくれない様である煙草を吸いながら又不安が襲って来ていた。
今日一日私はおかしな事をしていなかったか?という事が分からなかった。記憶を反芻して確かめるが『正しい事』と言うものが何か分からなくておかしな事をしなかったか?どうか判断が出来なかった。間違えに気が付けないのである。それは恐ろしい事である。間違えを間違えと認識できないという事は私が間違えを犯すまでそれを制すことが出来ない。昏睡状態から目を覚ましたら死体の山と罵倒の耳鳴りと襤褸雑巾みたいな自分がいるだけでその過程を知らない。そんな所へ突如起きる。恐怖でしかないだろう。
耳元で血流がジュルジュルと音を立てていた。血管が狭窄し、でも心臓が過剰に血液を送り出し圧力を高めていた。私は過呼吸と動悸でその場で倒れ込む。意識はある。
意識がある内は良いが一度でも意識を失ってしまえば、私をあの衝動が支配するだろう。暗い森の奥は下なのだ。私は奥へ進んでいるのではなくて落ちているのだ。止めようにも止められない。
私は震撼する。
私は怪物になってしまう。
耳元ではいつもの耳鳴りがしていた。この暗い森の行き着く先はいつか見た三様の領域の神と日常と獣の一つで、私が獣になるという所だと漠然に理解する。日常をバリバリと食うのだ。そして良いも悪いも全て壊していく。
私は恐怖に支配されていた。子供の様に震えて鼻水さえ抑える事が出来ずに泣いていた。
キンッと高い金属音が眼前でして目の前の床に日本刀が突き立てられているのを凝視する。私の職場に日本刀を持ったあの女だ。
「獣になればいいのよ。そうして常識を持ったあなたが変えられなかった事を変えればいい獣として」
私は息苦しさの中答える。
「それじゃ意味がない」
女は首を傾げた。
「どうして?あなたの理想を叶えるのよ。色んなモノに邪魔されて諦めてきたあなたの理想を」
「私は・・・」
「恐怖を怒りへ還すの。私はあなたの恐怖あなたが身を委ねればこの刃をあなたの理想を邪魔してきた者へ振るうわ」
「思い通りになんてならない」
「それはあなたが初めから諦めいているからよ」
「人を導き理想の世界を作ろうとする者、強者を求め闘い続ける者、真理を求めて人智を越えようとするもの。そう言う理想に取りつかれ、自分の求めるエゴに生きる者なんかはすぐに死んでしまう」
「別にいいじゃない。あなたは理想を叶え完成する。その先に求めるもなんてない」
「私は言いたいんだよ」
「何を?」
「ああ、良い人生だったって」
「馬鹿々々しい、知性を持って生まれ落ちたからには何か比類なき完成が何より喜びのはず」
「私にはそうじゃない。いや、そう言う部分もあるが、それよりも・・・」
「個人の完成よりも価値のあるものなんてない」
「きっと君の言っている事はあっているでも私はそうじゃない」
「じゃあ、あなたは何がしたいの?他人に虐げられて情けなく非力な今のままで良いの?」
「只、思うんだ・・・」
「何を?」
「私は自分の人生いっぱいに生きたいと」
「なぜ?」
「分からない。そうさせない様に理由が隠されている。私は『大義を成し遂げて完成する』そうさせる様に理由が隠されている様な気がする」
「チッ」
女は舌打ちをし冷淡な表情を曇らせた。
「好きにすると言いわ。でも一つ決まっているのはあなたは一生あの非道な衝動と戦って生きなければいけない。一度でも負ければ絶望に沈む」
息苦しさは無くなって今までになく気持ちが澄んでいた。女の言葉は聞こえてはいるが気にならなかった。それよりも重要な事が今できた。
「私は確認しなくてはいけない。襲って来る非道な衝動と戦う事が出来るのかどうか。私は会わなくてはいけない私の魂に」
いつの間にか象の背の上で扉を持った女が同じく扉を持って私の傍らにいて私を見詰めていた。その目は心配そうだが優しく笑っていた。
私は扉の女に視線を合わせすぐに扉を見詰めた。
扉のノブに手を掛け一瞬止まって扉の女に聞く。
「この扉はどこへ繋がっているんだ?」
扉の女は答えずに優しく笑った。女の笑顔を微かに捉えて私も笑みを作って扉を潜った。
扉の先は暗闇だった。無意識に引き返そうと手がノブを握り直した。暗闇は濃くて噎せ返る程蒸し暑いようにも見えるし時が止まっている様に冷たくも見えた。音が無くて光も何もないのに、細かな素粒子が激しく情報交換している気がした。マイクロチップのあの黒い塊の中に居るみたいだと私は思う。
私は意を決して扉から手を放して進む。どの方向へ進めばいいのか?目印も無いし私自身の体も見えないので自分の存在すら危うい。
2、3日歩き続けただろうか?私は本当に進んでいるのだろうか?物体に触れないし正確には床も無い。私は歩いているのだから床はどんな感触だろう?と手で触って見たが無いのだ。手で触る事が出来ないのだ。しかし私は歩いている。床があるのではなくて私の歩くという事があるだけに過ぎないようである。きっと上下左右も無いし空間も無いのかもしれない。私と言う情報群が目的の方向へ移動している。ここは只それだけの場なのだろうと漠として理解する。
出口までずっと真っ暗だと思ったが一度だけ暗闇以外のモノが見えた。途中光のスリットを見る3人組とそこから少し離れた所に3人を見る男がいて私と男との間は10メートルほどの距離があり、その間の闇を、猫背の裸体の男が通った。この男二人はどこか私に似ている様な気がした。
あれ?
猫背の男?私が初めに見た夢の男ではないか?彼が私の魂だと思っていたが?そう思って猫背の男を追おうと思って方向を向けるが闇に溶ける様にふっと消えたしまった。
私は立ち止まって暫く考えたが今私が向かう方向は又違う方であると直感的に感じたので私は何もない闇の方を見据え進んだ。
闇の際限は突然訪れた。『きっとこの闇は私を閉じ込めておく為の罠か何かだろう』と思い始めて扉の女は行く先を私に言わなかった事がその証拠だ自分の中で悟ってこの闇に出口など無く永遠に広がり続けていると理解してしまったと思い始めた時行き成り壁にぶつかったのだ。
光は何処にも無い。ぶつかった壁は弾力を帯びて私を弾き返した。手で触ると感触は大福の皮を分厚くした様で僅かに脈動していた。温度はない。私は無意識に耳を当てる。遠く分厚い大福の向こうで声がした。なんと言っているのか?分からなかったがその声は妙に必死で鬼気迫っていた。
私はこの分厚い大福の皮の向こうに行こうと手で引っ掻いた。しかし、切れ目一つできなくて殴って見ても噛んでみてもダメだった。ナイフの様なモノは持っていなくて暫く途方に暮れていた。
溜息をしてこの先に行く事を諦めた。しかし、壁があった事は冷静に考えれば喜ぶべき事だ。迷路の攻略方法が使える。遠回りになるかもしれないが壁に沿って進めば必ず出口に辿り着けると言うものだ。そんな道理の通用する所かどうかは置いておいて。私は壁に片手を擦らせて進むもうとして10っ歩程歩いただろうか?『また長い事この暗闇を歩き回らなくてはいけない』と言う覚悟を徒労にさせる発見があった。弾力を帯びた壁に固い物を指先が触った。それは交互に並んでいて冷たかった。縦に真っすぐ伸びていて上は触り切る事が出来ない程伸びていた。おそらく金属でだから冷たく感じたのだと思う。
この感触に心当たりがあった。ファスナーだ。スリットを開くための機構。でも問題は開け口の金具が上についているか?下についているか?だ。上なら私は届かないので開ける事は出来ない。下なら・・・。そう思って私が立っている床程の高さの所を手で触った。
あった。
私はゆっくりと噛み合ったファスナーの結束を解いていく。光を漏らしてスリットが目の前に現れた。ずっと暗闇の中だったので眩くて光の先の造形を認識できない。声はまだずっと遠くで聞こえて聞き取る事は出来なかった。この壁が相当な厚みだという事が分かる。
今まで気を張りつめていた事にここで気が付く闇から抜けた事に安心して全身の力が抜けて行った。ここでへたり込んで暫く休みたいと思ったが、私は進んだ。
こんにゃくに一本包丁を入れただけの様に切れ込みはあるが空間の無い隙間を体をねじ込み進む。
「あ!」
急に空間に飛び出てその勢いで倒れ込んだ。
「やっと来たわね」
この声は・・・そう思って顔を上げるとそこには正義がいた。希望も傍らにいて私を見詰めていた。いや声や姿は分かり様も無い筈なのだ。だって彼らは本の中の登場人物なのだから。でも、私の中の『正義はこうあるべきだ』という荘厳で孤高な優しさを持った面持ちの女だったので彼女は正義だと認識できた。希望も又同じくイメージ通りの容姿だった。
私はもう一人を探す。目的だ。目的は正義と希望と行動を共にしていたと思ったが見当たらなかった。
数秒の後自分が目的だと気がついて立ち上がる。
「ここは?」
私は正義に聞く。
「魂の居る所よ」
「そうか・・・」
「さあ、目的を果たすのよ」
そうか・・・。ここに来るまでの一切が走馬灯の様に駆け巡る。象は私なのだ。他の全ても私・・・。私は私の中を彷徨って目的を失っていたと思ったが今ここですべき事が目的だった。確認するのだ。私とは何者か。私の人生に課された命題である。
私は目の前を凝視する。私の視線の先には男が一人佇んでいた。まるで海の中を浮遊している様に柔らかく漂っているかのようだった。
男の前まで来て、暫く見詰める。まあ容姿は私なのだが炎に近い物質的な性質を持っている様で揺らめいていた。男は目を瞑って優しく笑んでいた。
私に気がついて「やあ」と言った。
「君は一体私のどんな部分なの?」
他の物が魂だと言っているがちゃんと確認しなければ行けなかった。
「君の魂さ」
グラスに注がれた液体が表面張力を押し切って溢れた様に私を安堵感が満たしていく。ようやく私は目的地に着いたようである。
「最初君が淋しいと思って隣で話し相手になってあげようと思っていた」
私の魂は私の考えに微笑んだ。
「それもいいね」
「でも、今となっては私は私の闇の部分、負極が殆どを支配しようとしている。そして完全に支配されてしまう日が目前なのでは?と恐怖を禁じえない。更にどうしてなのかこれまで生きて来た記憶の中で正極、私の光の部分を思い出す事が出来ない。だから現状私が完全に闇に支配されて獣になってしまうかどうか?を予測するには私の根源的な魂が正極なのか負極なのかを確認するしかない。君の答えが私の欲しい答えなら、その一言で全ての混沌は整理され限りなく中間に近いバランスを保つ事が出来る。もちろん幾らかの戦いは避けられないだろうけどね」
私はここに来た目的を私の魂に説明してしかし、目的を果たす問を出さなかった。怖かったのだ。
「いいかい。闇も又君自身なんだ。もちろん安易に身を委ねてはいけない。でも、君を救おうとする精神活動の一部でもある。闇を恐れるのは正解だと思う。どうして闇が訪れる事になったのか?という事に目を向ける必要がある。もちろん思いだす事を許しがたいが、自分自身を理解しようとすれば、自ずと闇の中に居たとしてもすべき事は分かる筈だよ」
私の魂は後ろで見守る正義と希望を一瞥する。
私も正義と希望をまだそこにいる事を確認する様に一度見て向き直った
「どうして最後に正義が残ったか、君だって分かっているだろう?君は今までの偉い他人が構築した社会が自分には向かない。という事を随分若いうちに理解していたのだよ。それもそうさ社会を作ったのは他人なのだから、でも自分に合っていなくてもそこで生きなくてはいけない。社会の中で決められた善悪を守りそれを価値観として生きる事が生涯を全うするもっともな理念だと考えた。知性の体現者になったり理想の世界を統べろうとする王や快楽の徒は短命だ。どんな事にも囚われずに生涯を見、聞き、嗅いで味わって触れ、旅人の様に生きたいと思った。しかし、自分に合わないものの中で生きて行けば『ここじゃないどこかへ』と騒ぎだしてくる感情が溜まっていく。だから合っていようが合っていまいが社会通念上の善悪『正義』と言うものを焼き付けてもし闇に支配されても勝手に正義が自動運転する様にしたんだよ」
「でも、今その自動運転している正義を越えて闇に支配されそうな気がしているんだよ」
「大丈夫」
「どうして?そう思うんだ。今にも意識を失って獣に体を奪われそうなのに」
「目的の質問はしないの?私が何者なのか確認しないの?君がここに来た目的だろう?」
話を逸らして無駄な講釈の問答で長引かせようと思っていたが、私は質問する。私の根源、魂が光なのか?闇なのか?
私は緊張を帯びながら発音する。
「私の魂よ。お前がしたい事は何だ?」
「平和だよ」
また私の中は安堵感に満たされ、最良の結果で目的は達せられた。
しかし、さらに聞かなくてはなるまい。
「平和なんて困難なモノ本当に実現できると思うのか?それに世界を平和にしようと何の行動もしなかった筈だ?」
「実現できるとは思ってない。根源的に平和であって欲しいと思っているだけで世界を平和にしようなどと大それた事など微塵も考えていない。私が私である事の最小単位が平和であって欲しいと願っている炎の様な儚いが命ある限り消える事無く変わる事のないモノだという事、只それだけだ」
「そうか・・・それは良かったよ」
「こちらこそ、知ってもらって良かった」
「もし、私の中の闇が大きくなりすぎて君を書き換えてしまうなんて事はあるのかい?」
「ない」
「そうか」
「でも、闇や欲に負けてしまう事はある」
「そうなのか?」
「私は最も深層の根源的な部分で幾重も階層を重ね複雑に考慮されて私が世界と接触する領域の思考と認識と行動となる。だから私が直接的に私自身だと言えるわけではない。私は魂であって私と言う人生を生きるのは他にも多様な感情や思想や経験でそう言う物を全てひっくるめて『私』と言うものが出来ている。だから『必ず最後には平和であろうとする考えが支配するだろう』と高を括っていると闇の思う壺だよ」
「そんな不安にさせる事を言わなくても」
「闘い続けるんだ。それが人生だよ。自分を戒め、自分を自由にする法則を見つけ出すんだ。その法則は密やかに世界を自由にするものでなくてはいけない」
「ありがとう。少しだけ気力が出たよ。私は戦うよ」
「君は大事な事を忘れているよ」
「忘れている?」
「何のために戦う?」
「・・・・」
気概はあるが理由が無かった事に今気が付いた。私は正義として生き抜く為に死力を尽くして生きなければいけないと思っているが、確かに何の為に私は尊厳ある私で居ようとするのか?幾つか心当たりはあるのだが、そのどれも違う気がする。漠然としているがもっと他にある気がする・・・。
魂は笑った。理由を即答できずに沈黙している私をだ。
「今は無理だよ」
「どうして?」
魂は又笑った。
「でも大丈夫。私は決して忘れないから。ほら『私』は現実に目を覚まさなければいけない。そう簡単な事では無いけどね。そこの正義と希望が居ればきっと大丈夫だ」
私は溜息をして顔を曇らせる。
「もう分かっているだろう?現実で立ち向かうべき問題は」
「分かっている事には分かっているが・・・」
「なら、後は解決するだけだ」
「・・・」
「怖いかい?」
「怖い」
「じゃあもう一人連れて行くと良い」
金属が床を叩く甲高い音が響いて私は後ろを向く。正義と私との距離の間に日本刀を持った女が鋭く私を睨んでいた。
「方向を間違わなければそれは勇気にもなるだろう」
「彼女は?一体何なんだ?」
・・・。
その後魂は答えなかった。いや、答えなかったのではなくて聞けなかったのだ。私は突如として目を覚ました。眠った記憶などないのに自分の部屋でいつもの朝の様に布団の中で目を覚ました。カーテンの下から波打った外の光が漏れていた。どうやら、ここで目を覚ますまでの全ては夢だったようである。
私は今までにないくらい苦労の溜息を長く重くした。
半身起き上がって暫く呆然とする。どこからが夢でどこまでが夢なのか?判然としなかった。今起きたここも夢の中なのだろうか?
静寂の中布団を畳んで窓を開けた。外は晴天で心晴れやかにしてくれたが荒れた天気を見たいような気がしていた。
「あ」
居間の扉を開けると、あの女がいた。いつもの如く自分で入れたお茶を啜って机へ座っている。
私は溜息をして女の対面に胡坐をかく。
「何か悟った様な面をしてるわね?」
「ああ」
「それで?」
「まあ、現実に目覚めて解決するよ」
「そう」
「さっき、魂に会って来たんだが、何か妙だったよ」
「何が?」
「どうしてあの場面に君がいないんだ?確か『象の背』では正義と希望と目的が君と戦う為に魂に会いに行ったという事になっていたが?君は魂が私に戻る事が不都合なんじゃないかと思ってたから、私と魂が会うのを阻止すると思っていたんだが?」
「そう」
「私の一部はどうして君を否定する?」
「さあね」
「そうか。どうして雨の日とか雪の日とかを見せてくれないんだ?」
「さんざん見て来たじゃない」
「そうだな」
話している間に私の側には横並びに私を中央にして『正義』と『希望』と凶器を持ったメイドが座って女を睨んでいた。彼らは私に無限に近いと思えるほどの気力と力をくれていた。
対面の女は私を笑った。声には出さないが『良かった』そう言う様に安心した表情で笑ったのだ。今でも女が何者なのか私に分からなかった。私を陥れようとしているのか?幸せを願っている者なのか?一体何者なのだろうか?
私も笑った。もう殆ど呆れた笑いだった。
「どうすれば良い?目を覚ますには?」
「この部屋から出ればいいだけ」
私は「そうか」とだけ言って、躊躇なく玄関へ向かった。下駄箱に『象の背』があるのを見つけたが手には取らなかった。
私は玄関の扉を潜った。




