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現実の消失  作者: 微睡 臚列
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ゆっくりおやすみ

女は灰皿に煙草とライターを乗せて私の前に置いてすぐに手を引っ込めた。

私の吸っていた銘柄でちゃんとソフトボックスだった。

私は煙草を取って火を点けた。


煙を吸う時目を瞑って酷く忙しい日の仕事を終えた一日に布団に沈み込む様に煙を吐いた。


煙草が妙にうまかった。

もう戦う事を諦めて開き直ったから気持ちが楽になったからだろうか?私は首をゆっくり傾げる。それだけではない様な気がする・・・。煙草を指で回しながら見詰めた。きっと私は煙草をやめていたのだと思う・・・。自分の記憶なのになんとなくそう思うとしか感じられなかった。禁煙のストレスから解放された瞬間だから煙草がこんなにうまく感じられたのだと思う。しかし、どうして禁煙していたのか・・・。


・・・。


まあもういい・・・。

深く考える必要はない。きっと現実に私を戻そうとするトリガーか何かだろう。


フフフウハハハッハハッハハ


私を必死で勧誘する現実に対して全く興味が無い私。この二つの立ち位置がどうしてか面白くて大笑いしてしまった。


夢の中の方が良いに決まっている。どうしてわざわざ苦しい事をする?現実なんて戻るわけないじゃん。


私が大笑いしている間に女は静かに玄関から出て行った。部屋の外もいつの間にか象の頭からの景色から、元の7階に戻っていた。


私は続けざまに煙草を吸う。戸棚からお菓子を持ってきてそれも3つも同時に開けてとめどなく口に運んだ。


そうしてもう一度大笑いする。


窓も開けっぱなし煙草も灰皿に点けっぱなしお菓子も開けっ放しで服もだらしないままにつっかけで玄関の扉も閉めずに私は外へ出た。


天気がいいので天を仰ぎ見て笑って通り過ぎる人は皆ハイタッチしてくれた。どこかから良い香りがして花を摘んだ。暫く散歩して血流もめぐって来たので体が火照った頃に店先にビール瓶ケースを椅子にするような店で酒を飲んだ。


猫背に机に体を預け酒をちびちび飲んだ。今日一日は大変充実して心地よい疲労があった。



「あんた一人かい?ココいいかい?」


「え?マスター」


店内で酒とコップを貰って私の前に男が座った。「話しかけるんぢゃない。俺は一人が好きなんだから」といぶかった眼で見てやろうと思って顔を確認したら半地下の喫茶店のマスターだった。


「は?あんた誰だ?」


人違いの感じの反応をするが容姿は完全にマスターだ。

どう言った理由で私を知らないふりするのかは知らないがそんな事はどうだってよかった。今は只々心が軽くて楽しくってしょうがなっかた。只自然と酒を酌み交わしていた。いつの間にか二人でへべれけになり尚も酒を煽っていた。


「俺は何で勇気を出さなかったんだろうな?」


唐突に私は呟いた。

互いの仕事の話や境遇や生い立ち、名前や年齢、婚姻歴や好きな女性のタイプなど話し終わって今は漠然と人生観や理念に話が言い及んでいた。

そんな流れが一瞬途切れた時にふと呟いてしまった。マスターには事の次第を話していないのでばくとして出た私の言葉に戸惑っただろうと顔を窺う。


以外にも疑問では無くてマスターは穏やかに笑っていた。『ああ、俺もそんな事があったな』と懐かしむ様でもあった。


「正しい事を正確に描いた説明書か教科書がありゃ良いのにな。そうすれば迷いなくやるべき事ってやつを行使できるのに」


「本当に全くです」


互いの苦労を想像し2人で苦笑いして酒を飲んだ。


「でもそうしたら勇気って概念が無くなってしまうのかな?」


「あ~。そうかもしれませんね。それだけじゃなくて色んな物が平坦になって人間は『正しい事』と言う指令を実行するだけのロボットみたいな世界になってしまうかもしれませんね。でも悲しい事も辛い事も後悔も無いし平和で何事もない日常が続いていくと考えるとそれで良いように思います」


「え?そいつは逆に悲しいよ。それって無意味に近いんじゃないかな?結局は最終的に消滅してしまうよ。勇気が無くなるのは嫌だな勇気って俺は嫌いじゃないからあれは快感に近いね。後から後悔する事もあるかもしれないけど」


「そうですかね?」



「いや、そうだよ!やっぱり正しい事の説明書なんてあっちゃいけないんだ」


「そうですか?私はあった方が良いと思いますけど」


マスターはあの女の様に私を憐れんで笑った。


「完璧ではない自分を軽蔑しているようだが人生に答えなんて存在しないし、間違ったりあっていると思ったりして進んできた道があんたと言う人生なんだよ」


私は上から目線のマスターの微笑みに少しむっとした。


「あなたも私を現実に起こそうとする類の存在ですか?」


「いや、私は誰かに話を聞いてもらいた只の孤独な爺さんだ」


「そうですか」


「ここは夢だ。理屈や合理性なんて存在しない。一つとして真実が無い可能性だってある。どうしてそんな中の証明を信じる?君を操ろうとして提示している証明かもしれないだろう?」


確かにその通りだ。ここは夢なのだ・・・。何一つ正確な事などない・・・。しかし、夢はきっと現実で私が体験した記憶を材料に作られているのは間違いなくて、その点では信憑性があるともいえる。もし、閉鎖された私の中で私の記憶以外の物があるのならもうすでにそれは私ではない。既に私は死んで宇宙に混ざり飽和されているという事だろう。だから私は私が死んで分解されない限り私の現実に関係した夢を見る訳だ。


「彼女は・・・。もし嘘を付いていたとしても間違った事をしていたとしても、私の為にしてくれている気がするんです」


何故だかマスターは誇らしそうに私を鼻で笑って「そうか」と言った。

その後マスターは何も無い空間に何かを見ている様に視線をずらした。


「絶対的に全身全霊で何かを信じるって良いよな」


「ええ、全く」


「彼女を信じてるんだ?」


私は首を傾げた信じるとは少し違う様な・・・只何故か気の置けない存在で私は彼女の前では体裁つくろわず正直に感情を出してしまう。


「いえ・・・。只私に似ているなと思って」


『信じている?』と聞かれた事に対しての答えがどうとも見つからなくて、なんとなくそう言った。


「似てるって?」


私は軽く微笑んだ。


「若い頃は理想を求めて藻掻いて非力に打ちのめされて必死にここまだ生きて来ました。彼女は私に道を示してくれてはいるけどその道が本当に正しいのかきっと彼女自身も疑心暗鬼だと思います。彼女は私に教える側ですが教える側もきっと藻掻いているんだと思います。今思うと彼女も藻掻いていたのだと思います」


「彼女やあんただけじゃない人間みんな藻掻いて生きている」


「そうですね」


自分自身は誰よりも辛いと感じていてもそれが普通だったりする。そんな事は分かっている。分かっているよ。分かっているけど「耐えられないっ」て叫んじゃダメなのか?泣いちゃだめなのか?苦しいって言う事は恥ずかしい事なのか?普通の事だから?普通ってなんだよ。普通が苦手な私はそう思いながらも『普通で居なければいけない』とはいつも思って今まで生きて来た。もちろん普通と呼ばれる人間よりも得意な事はある。

どの頃からかは覚えていないが、社会は普通を押し付けてそれはどうやっても私の周りから無くす事が出来ない。だから『人には得意な事と不得意な事があるだけの話だ』と

割り切って生きて来ていた。だから今となってはマスターが皮肉って言った「あんただけじゃなくて皆苦労してるんだよ」と言う言葉に何も思わなかった。只鼻で笑って言った相手もそんな社会の強引な流れに従うしかなかった事を哀れに同情した。


「でも悪い事ばっかりじゃなかっただろう?」


「何がですか?」


「人生さ。悪い事ってのは記憶に焼き付いちまうから人生の大部分を占めてる様に思うけど、決して悪い事ばかりじゃなかったはずだ。同じだけ良い事もあったはずだ。それこそ今あんたが夢の中に引きこもると決める位衝撃的な良い事も同じだけある筈だ。そして人生の大部分を占めているのは『何の変哲の無い平穏な日』てやつだ。時間的な割合で考えたらそうなると思うよ。だってそうだろう?嫌な事で埋め尽くされた人生だなんて思いたくないし」


私は目玉を左上にやり人生で楽しい事があったか思いだしてみる。それが不思議な事に一つも出てこない。確かに私も良い事が一つもないなんて無いと思っている。不思議なのはもう一つあって。確かに私には良い思い出がある筈であるという事は紛れもない事実で確かに、記憶の中にはそれ専用の場所がある事が分かった。がその場所があるという事は分かるが内容は分からなかった。


「思い出せないのは今の君を変える程大切な事柄だからだよ」


記憶の消失に困惑する私の仕草に気が付いたのかマスターは急に私を君と呼びそう言った。


「大切な事柄?」


「そうだよ。君にとって大切なものだ。もしかしたらそれは君が君の命よりも大切にしているものかもしれない」


「自分の命より大切な物なんてあるだろうかね?」


何がツボに入ったのか?マスターは急に大笑いした。


「今君はだね。自分の生命よりも一時の快楽を優先したじゃないか?」


私も笑って「そうですね」と言った。


「あるよ。その一つで他の全部ひっくるめた全てと同価値のモノあらゆる物を捨て去っても只一つを守りたいモノ。そう言う個人的な価値に置いて常識や時間、質量、宇宙法則さえ超越してしまう神秘の存在。それが幸運な事に君にはある。いやあったと言うべきか。今それを君は持っていない」


「どうして持っていないのですか?」


「もう迷わなくなってしまうから」


「迷わなくなる事は良い事じゃないですか?」


「良い事か悪い事かは分からないが人生ってのは迷うもんなんだよ。迷うから色んな事を知って良い事も悪い事もできる様になる。どうして迷っているのか?と考える。意思や目的が無ければ迷うという概念すら存在しないから、迷うとはそこに自分がいるのだよ」


「何を言っているのかよく分からないですが?」


マスターはさらに詳細な説明をしなかった。荒唐無稽に自分の話したい事だけしゃべり続けた。それもそうだ只の酔っ払いなのだから。


「魔法って本当にあると思うか?」


「魔法ですか?」


「あらゆるものを好きな様に変えてしまう力だよ」


そう言われるとトンチ見たいに無理やり魔法とこじつける事が出来る物事は世の中にありそうなものだ。と私は思いながら「無いと思いますよ」と言った。


「俺はあると思うな。そしてそれは誰もが持っていてでもみんな信じてないから使えないんだよ」


マスターの目が据わって来て何も刺激が無いと寝てしまう程酔っている事に私は微笑ましく笑った。


「君は今シュレディンガーの猫だ。中を覗く事は出来るかな?」


「はい?シュレディンガー?誰です?」


微睡んだマスターは2、3分開けて奇声を上げ始めたので「これはだめだ・・・」と私は呟いて家に帰る事を勧めた。マスターは「そうだな。子供達が心配してるからな」と言ってむくっと立ち上がったが又座り直して今度は子供の事を自慢し始めようとしたので軽くあしらって無理やり席を立たせ道に押し出した。


マスターはしかたなそうに家路を歩き始めた。


マスターの背中が見えなくなるまで見送って私ももう一杯流し込んで家へ帰った。

『たまにはいいか』と思って服を道みたいに脱いで熱いシャワーを浴びた。表皮がじんじんするぐらいの熱湯の痛みが気持ちよかった。まるで贖罪の様だった。


私は目の前の壁をドンっと叩いたが、何故そんな事をしたのか自分でも理解できなかった。無何有むかうな衝動と言う他なかった。


そんな私を俯瞰で感じている私がいて、まるで映画の1シーンみたいで悪くはなかった。


映画の主人公みたいに波乱万丈な出来事が起こる事を憧れていたりもしたが、いざ現実でそう言った辛い経験に打ちひしがれてしまう時なんかは只々苦しくて狂おしい程に早く抜け出したいだけだ。という事を人生経験の中で知っている。そうしてその苦しい中でいつも思うのは何もない平凡な日常と言うものが如何に有難くて素晴らしいという事。そして今の自分を映画のワンシーンと同じように良いと感じてしまうのはやはりここは夢の中だと再認識する。


風呂を上がって上裸で首にタオルを下げてソファーに座った。正面に大きなテレビがあるのだが、私はテレビを点けづに真っ黒な画面を無意識に見つめた。脳のバックグラウンドで私には内緒の何らかの計算が活発に行われている様な妙な無意識の時間だった。自分の脳なのに演算能力を他人に勝手に使われている感じで自身では理解できな膨大で複雑な計算だった様に思える。


一時間程だろうか?そんな感覚から抜け出せなかったがハッと我に返ってリモコンを弄ってテレビを点けた。


番組表を見ると丁度映画がやっていたのでチャンネルを合わせる。キッチンから酒とお菓子をあさって来て酒を飲んで「ふー」と気持ちいい声が出てしまった。


どうも一人の男の生涯を描いた作品の様だった。とてもいい映画だった。映画を見終わった頃には酒の缶を5つも開けてお菓子のふくろは8つも空にしていた。始まり方も社会の喧噪に疲れた私には心地よくって引き込まれた「幼い頃私には愛があった」そう言って几帳面な母と器のデカい父に育てられる。笑いが絶えなくて子供への理解があった、勿論ユーモアのセンスも父は持っていて、なんといってもあれが良い。父は息子を幸せを与える様に抱きしめるのだ。そんな陽だまりに私は笑んで息をついてしまった。

同級生とのいざこざやいじめ、近所に住んでいる笑顔が素敵なお姉さんが引っ越してしまったり、自分のコンプレックスに悩んだりしながら、主人公は成長して時には悪い事をしてしまったり、羽目を外したり初めて女性を知ったりしながらモラトリアム期間を終える。ここまでが第一章と言った所だろうか。

この期間に人間性の根幹が形成されたような印象を受ける。善悪の判断基準や大切な物とは何かそんな様な事だ。

そうして少年は男になって親元を離れ一人都会で生活を始める。希望や期待不安や後ろめたさを抱えてどこか物寂しく新生活は始まる。

社会の中の暗黙のルールを恥をかきながら知って正義ではないと分かっていてもどうにもならない事を呑み込んで成長していく。自分自身が何者なのか分からなくなって葛藤し生きる希望を失いそうになるが一人の女性に救われて、家族を持って歳をとって故郷へと帰って来る。昔からの知り合いがいなくなり、時代が男を置いて行ってラストシーンは夕方の淡い光がさして外の椅子に座って顔の皺を作って一人の老人が穏やかに笑っている。


エンドロールが静かに流れて私も穏やかに笑っていた。


「良い映画だった」


そう呟いて静かに頬を伝った涙を拭って残りの酒を飲み干した。

満足が籠った溜息をして布団に入った。


穏やか過ぎていつ眠入ったのか分からなかった。そんな疑問を持って次の日の朝にタイムスリップしたような妙なスッキリさを持って私は目覚めた。時計を見ると午前7時5分前だった。気持ちよく伸びをして起き上がった。顔を洗て目玉焼きをおいしそうな音でフライパンの中ではじける様に焼く。サラダとみそ汁がついて整った色合いの朝食に充実感を覚える。ニュースを見ながら朝食を取っ手食器を洗って所定の位置にしまった。スーツに着替えて鏡の前で身なりを確認する「良し」と自分自身で点呼して家を後にした。


天気は清々しく立ち止まって澄んだ青空を見上げて微笑んでしまう程だった。なんだかこの靴の歩く音を聞くのが久しぶりの様な気がする。コツコツと軽快で快活と仕事に向き合うこの気持ちは久しぶりだった。どうも他の事が邪魔して仕事に集中する事が出来なかったので仕事のやりがいから来る達成感を久しく味わっていなかった。その達成感を得るために今全身全霊で仕事に向かっているという事がこの靴音と共に私の気持ちを高揚させていいた。

通勤のバスに乗ってその後歩いて会社に入った。途中で何かに邪魔されないだろうか?と不安の気配を感じたが無事に会社へとたどり着いた。

エントランスには他にもスーツを着た人間が忙しなく歩いていて私は安堵の笑みをこぼす。もちろん回転草なんかは転がってはおらず。会社には血が巡っていた。

受付に会釈をして私の部署へと向かう。


「おはようございます」


「おはよう」


部長はコーヒー片手にパソコンの画面を睨んでいる顔をこちらに向きもしないで私のあいさつに返す。

私も負けてはいられないと自分のパソコンの電源ボタンだけ押してコーヒーを入れに行く。

席について一口飲んだ後部長を一瞥する。私は部長より早く着た事が無かったし遅く帰った事も無かった。残業の時は「私も手伝だおう」といつも言ってくれるので私だけ残るという事は無かった。もしかしたら会社に住んでいるのかも・・・。そう思って部長には失礼と思いながら密かに笑った。部長は歳も歳だというのに独身で仕事一筋に生きて来たタイプの人間だった。私も気づけばいい歳になってしまって部長に私の未来の姿を見てしまう。


そうなってはいけないと生物的本能が言ってはいるが、現実と言うものは思い通りには行かないもので嫌気がさしてしまうのも無理はない。その点仕事は努力すればしただけ思い通りになる。私生活に絶望し仕事にかまけてしまうのも無理はない。


そう思って孤独な道から逃れられない非力な自分を鼻で笑った。

そんな運命が見えているのに哀れにも生き続ける自分を心地よく感じて何かに耐え忍んでいる静かで密やかな強い人間だと思うとそんな自分を気に入ってしまった。

そうして仕事への意欲が湧いてくる。


今日は昼から客先でプレゼンがあるので資料のまとめとカンペの作成をサクサク取り掛かる。客の質問を想定して回答を用意していく。


「おはようございます」


若い声に私は振り向く。今日一緒にプレゼンに行く後輩の鈴木だった。私は「おう!おはよう」と返し椅子ごと回転して体を鈴木の方へ向けた。


「どう?今日のプレゼンうまくいきそう?」

私は鈴木の教育係に当てられていた。鈴木は私の付き添いでプレゼンに何度か参加していたがどれも発言はせず見ているだけだった。しかし、今回は半分を鈴木が担当し実際客の前で立ち振る舞う事になっている。一応鈴木の分も私は押さえているのでフォローに入れるようにはなっている。

でも、鈴木なら大丈夫だろう。そう思うのは私の若い頃に似ている気がするからだ。不完全で何処か抜けているけど負けず嫌いで諦めないし、困難だと言われる事を好んでやろうとする。困難な事を成し遂げる事が格好いいと思っているけど打たれ弱い。


「分かりません」


そう言ったが鈴木の目は気鋭だった。私の鈴木への微かな心配は杞憂であった事にフッと自分の中で笑った。


鈴木の方の資料も確認し時刻は午前を終えようとしていた。


「良し、行くか」


「はい」


私と鈴木は席を立った。

客先までの道は二人とも会話を交わさなかった。私は鈴木の気持ちを和らげようと冗談の一つでも言おうかと思ったがいざ言おうと思って顔を見た時、鈴木の顔は良い意味で心ここになく、プレゼンを頭の中で何度もシミュレーションしていた。だから私も初心に帰って緊張感を思い出し気持ちを整える時間に使った。


客先の玄関を潜る時鈴木と無言の視線と頷きを交わした。


2人とも落ち着いて分かりやすくプレゼンできたと思う、途中客の痛い所を付いて来るような質問に端的に答えられなかった所もあったが私達は最善を尽くした。


玄関を出る時には同じく無言の視線と頷きを交わし帰社する。


会社に戻って自分の席にドスンと座ると同時に緊張していた糸が切れて沈み込むような安堵の溜息をした。


同時に快楽に近い達成感が襲って来る。これだよこれ。これだから困難で出来るかどうか分からない事への挑戦はやめられないのだよ。微かな疲労が心地よかった。まあ、今回は大した事の無い仕事だったのでもう慣れてしまった程の達成感だが、今までに人が「無理だろう」と言って来た事を成し遂げた事もあった。その時はこんな微かな疲労では無くて地球の30倍くらいの重力に圧し潰されたみたいに家に帰ったら倒れ込んだ。あの時は至福だった。


とはいえ巨大な快楽を求めすぎてはいけない。遠回りこそ良質な達成感を得られる。だから私は今回の様な小さな仕事も大切にする。日々の仕事から少しずつ積み上げられているのだから膨大な快楽は・・・。


金のために仕事をしていたら空虚だろうな・・・。仕事とは客が出来ない事を成さねばならない。常に困難が立ちはだかる。勿論、金は貰えるに越した事は無いが、何もしない人間が自分より金を貰っていたりするからやるせない時もある。しかし価値観を金から外せば苦労は遣り甲斐に変わる。


金と言う価値観を無視せよ。そうすれば金を払って得られるものと同じものを貰える。いや、何を払っても得られない物を貰える。自分自身と言う人生を得られるのだ。やるべき事を知り、それを成しえる力を得られる。


私は溜息をして一つ静かに微笑んで退勤した。


今日一緒に戦った鈴木と酒を飲み鈴木に自分自身の過去や未来を鈴木に見て又笑った。


火照った体で街頭を歩いて家に帰った。

家に帰って酒の缶を一本飲んでお菓子を食べた所までは覚えている。

そんな事を思い出しながら今は休日の朝だった。


軽く朝食をとってベランダで一本煙草を吸って電車に乗った。

海岸沿いに走る鈍行で私は細く窓を開けた。外は晴天で海岸線は低く白波を立てていた。陽光は強く日向と日陰の濃淡を鮮やかに私に見せていた。まるで瞑想でもしているかのように気持ちは穏やかだった。今ここに私を留める鎖は無かった。


もし妻がいたら私は妻を喜ばせようと商業施設や観光地に向かっただろう。しかし、私は2時間も座席に座り続け、どことも知れない田舎の無人駅で下車した。どうもこう何もないうら寂しい自然が猛威を振るっている様な場所が好きだった。

何も考えず駅から出てしばらく歩いた。温かい風が稲穂やススキやセイタカアワダチソウを揺らしている何の変哲の無い自然の作用反作用を眺めながら時には目を閉じてそれを感じた。『何もない』という事の不思議さ、複雑さ、静かに密かに膨大な物と繋がり循環しているという巨大な流れ、でも微かに流れている。


いつの間にか私はどこかの山を登っていた。舗装された道を過ぎ砂利道を後にして獣道を辿って進んだ。自分がまるで人間界から逃げている様に思える。


『そして私はどこへ行くのだろうか?』


私は私でありながら私の向かっている行く末を知らなかった。私は私を制御していない様に思えた。只々人間界からできるだけ遠ざかる方向へ向かっていた。不思議にも私は私が向かう先が死でないければいいなとそう思うだけで自分の行く先を彼の赴くままに任せた。


・・・。


着いたのは只雄大な孤独の真ん中だった。そこに声はない。只音があって無作為にざわめく自然を見下ろした。山の頂上近く。辺りの木が丁度低く眼下には鬱蒼とした森が、遠くには海が見えるだけの気持ちの良い所だった。ここは隔絶された孤独に違いないが辛く苦しく淋しく悲しく情けない孤独とは違った。それらを合わせて尖らせ統合した孤独だった。大小全てが関係し循環するための巨大な流れが目の前を悠然と複雑にせわしなく脈動しているがそれは私を必要とせず干渉しなくて、私が私である事を無条件に許されている様だった。


世界からの隔絶。いや私は世界と対になる程の私と言う世界を持って既存の概念や法則、次元や感情を失い私と言う永久機関がここにあった。


『私は自由に成りたかったのだ。そして自由は孤独とよく似ている』


無心に、だが目的がある様にして自分自身も分からずに進んだ先の綺麗な場所でここまで私を動かした不明な物の正体が分かった。それは無意識下の願いだ。


私は遠い昔からそんな自由を願っていた事を思い出す。壮観で意味付けられようもないこの大自然の蠢きに魅入られた感覚によって干渉されず取り残された事によって具体的に思い出した・・・。いや、気づいたの方が良いかもしれない。


「私は・・・自由に成りたかったのだ」


私は唐突にもう一つ気づきを与えられる。いや閃きの方が近いかもしれない。それはずっと目の前にあったのに気が付かなかった。物事を裏側から見なければ見えない物できっと表から裏へ行くにはその狭間に扉があるのだと思って頭の中で象の背の上で女が大事そうに抱えていた扉が闇の中に浮かんでいた。閃きとは世界を変える。あらゆる事象を反転し絶対を覆す。


一個体の存在が与えられている使命は只一つだけでしかない。命の使命は『生きる』とゆう事だけだ。他のあらゆる事象は虚構に過ぎない。


そう気がついて私以外の全てが消失し無意味でちり芥に思えた。私の苦悩や不安や恐怖は理由と目的の無い虚構であると思えた。生命には生きるという目的只一つしかないと言う気づきを与えられたから。


「生きるのだ私よ。只々生きるのだ」


何か敵がいる様な鋭い眼光を目の前に向け私は力強くそう言った。

まるで絶頂に達した様な快感に近い感覚なのに涙が止めどなく流れ出ていた。『生きる』只それだけがどうしようもなく泣けるのはどうしてだろう・・・。


私はしとしとと涙を流し続け震えながら煙草を吸った。


私は人知れず小一時間そうしていて、煙草の吸い過ぎと涙の出し過ぎと脳内の激しい物質交換で軽く脱力感を感じて下山した。


駅へ向かう途中の田舎町の中に年季の入った暖簾を風にはためかせているラーメン屋を見つけて『見た目は汚いが中身はしっかりと魂の通った店だ』と唐突に感じ取って暫く見詰めたあとガラガラと鳴る曇りガラスの引き戸を開けた。


厨房を囲う様にカウンター席がコの字型に並んでいて席はカウンター席だけだった。厨房と席との間の長い開口は暖簾がその開口の3分の2まで下がっていて、丁度中でラーメンを作っている人の顔が見えなかった。私は席に着いた。中の調理をしている人間は腰を入れて全身を使い丁度麺の湯入りをしている所だった。しなやかで力ず良い湯切り姿を見て『私の目に狂いはなかった』と満足そうに私は微笑んだ。

恐らく調理場にいるのが店主でレジには爪を弄っている若い女が立っていた。客はコの字の端に一人スーツの男が居るだけだった。入口はコの字の中央にあって私はスーツの男とは反対側の端にいた。厨房の湯気を挟んで男を見詰める。店主と同じく顔は見えなかった。


「すいませーん。中華そば一つと焼き飯お願いします」


私は店主に向かってそう声を張った。店主は「はいよ」と呟くように言った。

持ってきたお冷が汗を掻いていて手を濡らしながら水を飲んだ。良く冷えた良い水だった。

私はラーメンが来る間店の中を眺めた。妙に風が入る店でスーツの男の方から私の方へ風が流れていた。昼間だからだろうか?照明はついていなくて外の強い日差しが店内をチラチラ遊んでいる。レジの女の頬を汗が流れるのを静寂しじまの内に見詰めている自分に気がついて目を逸らす。



私は鼻をひくひく動かして匂いを知覚した。良い匂いではない。汗と油とコーヒーと特定のシャンプーの匂い。その匂いに覚えがあった。良い匂いではないが好きな匂いだ。


「部長?」


驚き共にそう呟いた。向かいには聞こえない程の声で。

部長の匂いを感じ取って又目の前のスーツの男を凝視する。確かに背格好や雰囲気は部長に似ている。しかし肝心の顔が見えなかった。


「あいよ」


そうしている間にラーメンがカウンターに置かれて私は箸を割った。しょっぱ過ぎずも無く甘過ぎずも無くうまみが強過ぎずも無い。丁度中間のバランスが巧妙かつ繊細に調整され一つの器の中に仕上がっていた。一口食べて「あ~」と溜息して続けて啜りあげる。ありそうでなかった。私が欲している味だった。焼き飯も出しゃばらない程の味付けだが、チャーシューの満足感も得られるほどのコロ厚でコメの固さ焦がし方などまるでピアノの調律しと同じレベルで仕上げてくる店主を二度見して私は頷いていた。


私が頷いている間にスーツの男はラーメンを食べ終えたらしかった。拝む様に手を合わせて口元は見えなかったが「ごちそうさま」そう言ったに違いない。そうして立ち上がって真後ろの出口から外の陽光の中に溶ける様に出て行ってしまった。


声を掛けようと思ったがわざわざ一人でこんな所に来るくらいだから、一人になりたかったのだろうと思ってやめておいた。だって私だったらそっとしておいてほしいから。


私は器を持って最後の一滴まで飲み干し勢い余ってドンと器を置いた。火照ったからだから熱い満足の溜息を吐いて立ち上がった。


「ごちそうさん」


「おう」


上着を抱えて店の戸を閉め日差しを眩しく見上げた。まるで刑務所から出所した様なこの上なく清々しい解脱感とでも言おうかそんな気持ちで満たされていた。


自分の部屋へ帰った頃には夜になっていて今度はビール缶を片手にベランダで煙草を吸った。車の流れや人の動き会社や家の明かりが点いたり消えたりそんな夜の喧噪を只眺めていた。


ふと、まだ少しもつかれていない事に気が付いた。あれだけ山道を彷徨ったのに疲労に伏せってはいなくて寧ろまだまだ余力がある。


『行くか?』


夜の街にわくわくしている私が私にそう誘った。

部屋着に着替えていた服を黒の私服に着替えて帽子を目深に被り夜の街に繰り出そうとしていた。猟奇心が高鳴っていた。


外は冷気を斑に混ぜた風が微かに吹いていて酒で火照った体には気持ちよかった。公園で喧嘩をしている若者や高架橋で車の往来を只眺めて佇む女や着乱れたスーツで酒を片手にベンチで寝ているサラリーマン、色欲じみたオーラを纏った血色の良い若い女、真っ黒のコートにバケットハットで顔を隠したきっとあれは機会をうかがう辻斬りだろう。昼間をゆっくり棒で混ぜて夜は次第に混沌を深めていく。昼間の秩序が失われていくさまを見物しながら私は夜を楽しむ。


「あはっははははっはっは!」


ビールの自販機で500mmを買って半分ほど飲みながら歩いた頃には楽しくってしかたなかった。だからずっと笑っていた。壊れていくんだよ。いや、本来の状態と配置に戻って行くと言った方が良い。強引に乱雑にまるで全人類参加の祭りの様に騒々しい。そして絵の具の色を全て混ぜたて必ず決まった一色になるように、世界も個人や差のない一つの闇のスープになろうと蠢き向かっている。


世界が闇のカップスープになってしまったら静寂が訪れ無意味が支配するから面白くないだろう。そこまで行く間の盛大な祭りをしがらみなく興味の赴くまま回れる事が嬉しかった。

そして最後に訪れる無意味。無意味と言うものは今の世界には存在していない。それほど貴重な物なのだ。最後の締め括りに無意味になる瞬間を見て私自身もその一部になる。ああ・・・なんと素晴らしい祭りだろうか?

今の世界には無意味が絶対あり得ないと言うのは、物事全てが因果関係を持っているからだ。一つ言うが無意味と情けないとは全く次元の違う話しだ。つまり他者が存在し関係を持たなくてはいけないのであればそこに必ず意味が生まれる。無意味が貴重で実現しがたいモノだという事はこれすなわち一つの条件でしか無意味と言う概念は成立しないからである。それは他者と言う存在の消失、しかし何らかの存在が居なければそれは無意味ではなく虚無になってしまうので、単一只一つの存在だけしかいない世界。因果関係を持たない世界。今の世界が混沌に混ざり切って最後に行き着く一つの塊しかない世界。そんな絶対的静寂で締めくくられるこの祭り、そして心置きなく楽しんだ後そもそも無かったかのように、ふっと消え去って静まり返る・・・。

何故だろう?それがとても美しく思えた。心の中は無音なのに快哉かいさいに飛び回っていた。無意味になる事が快哉だなんて私はきっと死にたいのだ。自覚は無いけれど。でも寒さに震えながらではなく貧困に苦しみながらでもなく抗えない物に虐げられながらでもなく最後に私以外の何者にも指図されず全身全霊で踊り狂うみたいに魂を花火の様に燃やして尽き果てて意識の闇に一瞬で落ちるみたいに死にたいのだと思う。


私は誰もいない夜道で両手を広げ目を瞑って夜空を仰ぎ今の夜への猟奇心を満たす一つの事象の完結までを想像し殆絶頂に達しながら立ち止まっていた。


そっちの方が快楽的で面倒がない。まるで映画見たいだ。見るモノを楽しませるモノだけで造られた簡潔な快楽。


ここで私は「ふっ」と自分を笑った。人生は映画とは違うのだ。その先もずっと続いていく情けなくも必死に・・・。私は耐えられるだろうか?いや耐えられない。


又私は笑った。良いのだ。私は映画の中の登場人物で良い。


道の少し先に淡い明かりが見えて少し揺れていた。明かりの所につくと公園で縁日が開かれていた。私は時計を見て「もう十二時だぞ」と呟いた。


私は吸い込まれるよに祭りの屋台の列に入って行く。

懐かしさと共に道の左右に並ぶ屋台を微笑ましく眺めてどの屋台に並ぼうかと考えながら歩いた。時間が時間だというのに人混み程とは言わないが大勢の人間の流れがあった。浴衣の男女ややんちゃそうな若者、立ち話の学生。


「お」


後ろから走ってきた少女と少年が私にぶつかってそのまま走り去っていった。親無しではこんな時間の祭りに来てはいけないくらいの歳で少女が少年の手を振っぱってまるで何かから逃げている様だった。二人の揺れる後ろ頭を私は見えなくなるまで見つめた。どんな顔をしているのか見たかったが彼らが振り向く事は無かった。顔が見えなかった事が少し残念に思いながらでも顔は綻ばせていた。彼らはこれから色んな事を体験して成長していく殊幼少期とは全て未知で世界が二転三転と輝く時期なのだから羨ましい。

君たちはすべからく全力で走るべしなのだ。


ようよう私は射的をして無駄に駄菓子をポケットに詰め、お好み焼きを頬張って子供に紛れて綿飴の屋台に並んだ。


ひょっとこのお面でも買って斜め被りでもしようか?と思ってお面やを見た私の表情は止まった。お面やでは小春さんが例の俗臭漂う男と楽しそうにお面の変な顔を見て笑っていた。嫉妬とかそう言う感情で私は静止したのではない。小春さんが幸せそうにしている事が純粋に嬉しかった。私は声を掛けずに一伏せ笑ってまた屋台見物を続けた。祭りと言うものは同じ屋台が何軒かあって二つ目の射的やでは隣の部屋の女が紫の目を片方瞑って真剣に的を射抜こうとしていた。これにも私は笑った。あの女は私と同じく孤独で強気だがどこか淋しそうに思っていたが祭りを楽しんで居るので可愛い所もあるんだなと思ったから笑った。たこ焼きを頬張るデモの青年も今は社会と戦う事を休戦し個人を楽しんでいたしヤンキーの知人は仲間の輪の中で笑い話が盛り上がっていてフライドポテトの屋台で会計しているのはバスの女で今度はちゃんと支払いが出来た様である。喫茶店のマスターは焼きそばの屋台の中で焼きそばを丹精込めて掻き混ぜていた。

私は誰にも声は掛けず遠目に見て微笑ましく思っていたが休憩所で豚汁とおにぎりを仲良く食べている父と母を見た時は涙がこぼれて走り寄りたくってしかたなかった。しかしそれも結局は下を向いて心意気こころいき笑って遠目に見詰めただけでやめておいた。



涙目に私は只歩いていた。悲しいわけではない。虚しいわけではない。だって顔は綻んでまるで娘の結婚式の父の様に穏やかででも激しい感動が襲っていた。皆私がいなくても幸せそうに生きている事が嬉しかった。私は弱く情けなく勇気を持っていない。だけど家族や愛している人、出会った人には幸せであって欲しいと思って限りなく悩み限りなく助けてきたと思っている。しかしそんな事しなくても彼らは幸せだし幸せであったのだ。という事が『本当に良かった』と純粋に嬉しかった。誰も私を必要としない事など取るに足らないエゴイズムでしかない。実際皆が幸せでいて幸せでい続けるのならこれ程に素晴らしい事はない。


幸福感が高まって来て真昼をさらに超えた様な白い光が縁日の外側からか輝いていた。まるでこの公園以外は消え失せ光に包まれる様に。光は広がってまばゆく心地よかった。そしてこのまま終わってしまうと思った。そう私は無意味になるのだと思った。


又高い連続音がピーと遠くでなっているのが幽かに聞こえた。


手を繋いで走り去っていった少年少女が少し気になったが『まあいいか』と思って両手を広げその優しい光を受け入れる様にゆっくり目を瞑った。


「終わりで良い?」


「ん?」


不意に私に話しかけた声に目を開ける。

私を気にせずそれぞれ幸せそうに流れる縁日の人の群れとは違って少女が私に向かい合って立ち止まっていて特に強引な感じも無く嫌悪感も感じず少しだけ優しい口調で私に聞いた。年は高校生ぐらいだろうか?学校の制服を着ていた。

私は首を傾げ少女の顔を見詰めた。少女は今までの私の夢に出てこなかったし記憶の中にも見当たらなかった。しかし、なんとなく知っている様な気がする?この容姿が私に特別なのでは無くて女子高生の映画やアニメの主人公の像が多くの作品で共通していてそんなイメージの産物の様に思えたのできっと私の中の『何かを伝えたい存在』が私の中の名詞を持たない抽象的な女子高生の姿で現れたと思った。


「どうしてそんな事確認するの?」


「あなたが何かに騙されながら消えてしまうのが嫌なの。それがたとえ自分自身が自分自身の為に自分自身を騙していたとしても」


「嫌?それは私の中のプライドとかそんな物が『カッコ悪い』と思うから嫌なのかい?」


少女は私を揶揄う様にニッコリした。


「いいえ、あなた以外の存在が『嫌』だって言ってる」


「私以外の存在?たぶん私を必要としている存在なんていないよ。もしいるとすれば熱帯魚とかが私が餌をやらないから困っているとかかな?」


「あなたの光も情けなさも全てが必要なのよ。私達には」


「私達?君は一体誰なんだ?私の中のどういった感情なんだ?」


「感情?どちらかと言うと記憶に近いと思う」


「じゃあ?私は現実の世界で実際君にあった事があるの?」


少女は又笑って私の質問には答えなかった。


「あなたのしたい事は何?」


私はその質問に強い皺を眉間に作る。


「一体何なんだその質問は?何の意味がある?何か重要な事なのか?」


「余す事無く全てと引き換えにしても譲れないものって何?全てを敵に回しても決して言い張れる事って何?」


私が少女の目を見詰めていた目の玉は左端に逃げた。

そんな物は見当たらないのだ。他人に翻弄ほんろうされ生きる事だけに精一杯で確固たる個人なんてものは社会に溶けていて明確な輪郭を持たなかった。私は必死に自分の中の少女が言う物を探していた。だってそれが無い事は感情の無いロボットが只生涯を生きたというだけの虚しい事実があるだけになってしまうから。


「あったんだろうか?私にそんな物が」


少女は又笑った。


「良い人生だった?」


何でため口にそんな事が言える?年上の人間に敬意を払わない少女に急に腹が立った。いやそれもそうだがどうしてそんな言葉が言える。私にとっては簡単な言葉じゃない重苦しくてでも聞かなくてはいけない言葉だった。誰とも分からない少女が簡単にそう言った事に怒りが湧き上がって沸騰しそうだった。


少女は又笑った。でも悲しそうに笑った。まるであの時父さんの前にいる私みたいに思えた。


溢れかえっていた私の体内の怒りは溶ける様に消えた。少女も又何かを抱えているのだと思ったからだ。


「じゃあね。また来るよ」


そう言って笑って背負向けて少女は人混みの中に消えた。

気づくとあの眩い光はどこか遠くへ消えていた。私は縁日に一人取り残されて複雑な気持ちで立ち尽くしていた。


「帰ろう・・・」


睡眠を欲するほどの疲労を帯びて私は家へ帰った。

電気を点けて今の真ん中で座り込んで寝たい気持ちとまだ収まらない遊びたい衝動があって丁度釣り合って私は静止していた。テレビのリモコンを見詰めて、『きっと私はとりあえずテレビを点けたいのだ』と思った。いや・・・。人間は3つ以上の事を考えると脳に過度の負担がかかるそうだが、私の今の釣り合った様に止まっている感じは只眠いと遊びたいだけでは無いのだろう。一つは眠りたい。もう一つは心置きなく楽しみたい。三つ目、これはずっと思考の一部を乗っ取っているのだが。このままでいいのだろうか?と言う不安とその解決策。明確な解決策は見つからずきっと一生悩み続ける命題なのだろうから仕方ない。もう一つは『あの少女は一体誰なんだろうか?』と言う疑問と継続されている記憶の中の照合と捜索だった。思考がオーバーワークで体を動かせなかった。


そういう時すべきは寝る事だ。良い夢を見る事を願って逃れられない疲れから逃れるのだ。


そう考えてもまだ一時間程体は動かなかった。どうにか起き上がって布団をかぶった。一つずつ考え詰めて解決していければいいのだが全てが同時に解決を迫られているので一つを停止できない。それにもう一つ何かを考えている気がするのだが何の事なのかさえ分からない事がさらに思考回路に負荷をかけている様でならない。



何かを明確にしようとこうしていても全てが静止している状態と同じ事なのであえて全てを停止してとりあえず布団に入るという行動だけを強制的に行使した。


布団に入って私は一つだけいや、一つの言葉だけが引っ掛かって発音した。


「良い人生?」


分からなかった。


楽しくて苦労の無い一生を過ごしたとして確かに楽しい良い人生だったのかもしれない。でも、死ぬ寸前最、後の息を吐く寸前、私の3/4オンスが無くなる寸前本当に人生の最後に楽な人生を送って来た時「ああ、良い人生だった」って言えない気がする。私は人生を自分に与えられた帯いっぱいに全うして「良い人生だった」と言いたい。

そんな理想通りに死ねるだろうか?いやきっと無理だろう。最後なんて訳も分からず死んでいくんだろうなきっと


私は眉間に皺を寄せて笑って目を閉じた。





次の日私はいつもの通り出社した。


「ん?」


私が部長と出会ってから初めての事だった。部長の席が空だったのだ。珍しい事もあるもんだ。きっと有給か何かで休みなのだろう・・・いや、もしかしたら体調を壊したのかもしてない。まだ定時には時間だあったので『電車が遅れているだけかも』とかたずけた。

他の社員の席は埋まって行き私は入口の上に掛けられている時計の秒針の動きを見詰めていた。後10秒針は部長の席を空にしたまま定時を過ぎて行った。


「おはようございます」


コーヒーを片手に鈴木が私に挨拶したので聞いてみる。


「部長って今日は休み?」


「ああ、部長ですか?なんか無断欠勤みたいですけど、詳しくはわかりません」


「そう・・・」


私は部長の席を暫く見詰めた。一体どうしたのだろうか?


その後部長の姿を見る事は無かった。部長の席は3週間程空っぽのまましかし部署は正常に動いていた。


私は虚しさを懐きながら部長の席を見詰めていて、あのラーメン屋から先の部長は一体どこに行ったのだろうか?と毎日考えるようになった。部長に自分自身の将来の姿を見ていた所もあったので残念でならない。仕事だけでは人間ダメなのだろうか?不意に何かの虚しさに気がついてふっと消えてしまうのだろうか?大音量を耳元で行き成りつけられたように不安が襲って来る。私も不意に居なくなってしまうのだろうか?もしも仕事以外の何か大切な明るい物を見つけて生きがいだった仕事を捨て大切な物の為に歩く方向を変えたという事ならこれは素晴らしい事で私も部長に未来の自分を見ていた事不安を感じる事では無くて寧ろ明るい未来の証明である。


しかし、もし部長がふと虚しさに気がついて何が何だかも分からなくなってそれを探しに冥冥めいめい只々彷徨って不毛に苛まれているのなら、私は未来の自分に闇しか見えない。まるで『象の背』の様に永遠に彷徨わせるための目的をもって渇き続ける様でならない。


しかし、よく言うだろう?未来の事なんか考えても不安になるだけだと。今現在を生きるべきだと。


そう思って私は遠い将来の事は深く考えない様にしようと思った。今現在は充実しているのだからそれで良い。解決しなくてはいけない人生の難問という奴も考えなくてはいけないが、でもそれは逃げたって良い事だ。自分が耐えられない程頑張る必要はない。人生の難問の殆どは自分以外のための問題だから私に責任などない。


私はそうして平穏で確実な日常を享受していた。何年かはそうしていたと思う。


しかしある日、現実を作る何らかが臨界を迎えたのだと思う。私が享受している平穏なな日常はおそらくそれを維持するのにこれまた何らかを消費して成り立っていて、続けていくと現実の形にひずみが出来てまるで地表のマントルが無理に力を掛け過ぎて地震が起きる様に何らかの発散が起きてしまう物らしい。


私はいつものようにデスクに向かって資料をまとめていた。ふと壁掛け時計に目をやった時に女が歩いていた。若くて肌は白くて人形の様な綺麗だけど冷たい顔立ちで歳は20代前半くらいだろうか?只の女なら別に歩いてたって不思議はない。見慣れない顔でも人事部の人間が用事で来ているのかな?と思うくらいだろう。でもその女は明らかに異質な雰囲気を纏っていて白いエプロンに胸が丁度乗るタイプのメイド服を着ていつものデスクの並び、同僚の定位置、私の日常を水の中を歩くように悠然と歩いていた。他の人間はきっと女の事が見えていない。平然と仕事をしている。私だけがメイド服の女に釘付けにされ首で進行方向を目で追った。何個も開けられた穴に金のピアスが揺れているのを唖然と見続けた。


女は私に対して横向きに歩いていてその細工美しい冷淡な横顔を見せていて私とは関係ない方向へ向かっているのだと思った。。その時は同僚のデスクと棚があったので腰から上しか見えなかったが、今は全身があらわになり腰より下で日本刀が握られていた。私はその日本刀を見て再び顔を見ると、今度は両目ともに目が合った。明らかに私の所へ向かってきている・・・。


それはそうだよな。メイド服のデザインも私が好きなのだし、職場で嫌な事があると綺麗なお姉さんが行き成り来て私に用あって現れないかなと妄想した事もあった。


女は私の前まで来るとグロスの塗られた唇を私の耳元まで寄せて囁いた。


「壊しに来たわよ」


私は聞く。


「どうして壊す必要がある?」


女は答えず躊躇なく私に日本刀を振った。


私は悲鳴と共によけたが日本刀の先がギリギリ頬をかすめて直線の傷から血が滴っている事が分かった。すぐに走って逃げて振り向いた女はゆっくりとした所作で私に振り返って歩いて私を追った。


走っているのだから私の方が速い筈なのに女は着実に私との間合いを詰めていた。動悸が苦しくて運動量に対して酸素が足りなくて息が空回りして必要な量は吸えなかった。私は必死に逃げた。会社を出て通りの人混みを抜けた。電車を潜るトンネル、昼間なのにオレンジ色の光が筒内を淡く飽和していた。体力がもう限界で後ろを確認してから膝に手をついて荒れた息遣いをなんとか整えようとする。


血の味がする唾を一つ呑み込んで進行方向に顔を上げると女がいた。

私は片手を翳して『これ以上近づかないでくれ』と訴える。女は無視して本の1メートル程まで来て立ち止まった。


「別に押さえつける必要なんてない。衝動を受け入れてあなたがしたい事をすればいい自分以外の何者も考慮せず本能の赴くまま。それがあなたの魂なのだから」


女が一体何の事について言っているのか理解できなかった。


「君は一体何者なんだ?」


そう言った時には女の刃が私の首でピタリと静止して薄く血が流れた。私は追い詰められていた。


「怒りを笑いに変換させる事は出来ない。ストレスを笑い変える事は出来る。溜まった怒りは何になると思う?恐怖よ。だからちゃんと怒りを吐き出さなくてはいけない。正しい形の怒りとして糧としてエネルギーにするの。怒りは現状を変えようとしている君に力をくれる物、他人と自分を分かち合える物」


「あの?一体何を?」


女の言葉は荒唐無稽過ぎて全く理解できなかった。殺されないように女の目的を文脈から探し現状を好転させる何らかの糸口を頭をフル回転させて貪るように探すが、全く類推るいすいする余地が無かった。


「恐怖は理解できないまま溜まって行き呑み込んで押さえつけ表に出さない様にすると今度は叫ぶ事、泣き出す事すらできなくなって、あたかも恐怖を克服し感じない様にできたと思うかもしれないがそんなに生易しい物ではない。最後には理由なき殺人が待っている。自分自身を殺すのだ」


「君の目的は一体何なんだ?」


「私はあなた自身。あなたはあなた自身を殺そうとする所まで来ているの」


「一体何を言っているんだ?」


「それに気が付けない事が一番の問題」


「もういいじゃないか。辛くて苦しい事に立ち向かっていくのは。私は夢の中で平穏に暮らすと決めたじゃないか?『問題』とかもういいよ。どうして人間とはそんなにも迷う?行ったり来たり。もう疲れたよ」


女は刀を下ろし私の目を見詰めた後背を向け去ろうとしたが数歩進んで立ち止まった。


「解き放て」


そう言って去った。私は細い首の切り口を弄って「何だったんだ?」と呟いた。なぜか女が最後に言った『解き放て』と言う言葉が妙に頭の中でこだましていた。


あの女がまだどこかにいて私を切りつけに来るのではないか?と言う恐怖を拭いきれないまま家路を帰った。


私は玄関の扉を閉めた。

安堵の溜息をつきそのままベランダへ出て煙草を吸った。

私はどうすれば良いのか分からなかった。

今まで私の中の私達が皆一様に『このままではいけない』と何度言っただろうか?

唐突に『象の背』の続きが気になった。確か正義と希望と目的が魂の所在へ行く所だったな。


「あれ?」


不意に私は強い衝動を認める。



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