消失の証明
女は悲しそうな顔だった。
確かに正義とは正しい筈なのに私は答えられなった。みんなや世界を含めたら間違えなく『最後は正義でありたい』と答えただろう。しかし自分自身のための真たるものと考えたら答えは出なかった。
「分からない・・・。分からないけど・・・空が綺麗だな」
そう言って私は景色を見た。女も同じく景色を見たのを横目に確認した時女は嬉しそうに笑っていた。
「君がしてくれているのだろう?」
「してくれてるって何を?」
「君がこんなに綺麗な空を私に見せてくれているのだろう?」
女は動揺したように「え?」と私を顧みてしかし、私が言った事に根拠などない事を理解してすぐ冷静になった。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなくさ」
そう・・・根拠などない。只そう思った。女は上から目線で気に入らないがそれは私の為でそうなってしまっている様な気がするからだ。女の口から出る嫌味は誰も教えてくれない事を言ってくれているだけで私を嫌いなわけではない。だってもし嫌いだったらいなくなってしまうだろう?でも女は今ここにいる。現実に打ちひしがれている私にどうしても甘やかす様な事が言えなくてでも救いを与えたくて、自分だと気が付かれない様にいつも空を気持ちよくしてくれている様な気がした。
女は鼻で笑った後「人生全てにおいて空が晴れているわけないじゃない」と呟いた。
?
玄関から幽かな音がして私の脳内で玄関扉の鍵を映した。私の脳内の鍵は回った。僅かな金属の稼働音、温度を纏った幾ばくかの塊、気配、そんな微かな情報を集めて私の脳内の玄関錠は回ったのだ。
私は振り向いた。
振り向いた先を見てビクッとする。
小春さんがビールを両手に振って私に見せてベランダの窓の向こう側にいた。私は微笑みながら安堵の溜息をして、そして女がもたれていた隣のベランダを一瞥する。女の姿は無かった。
小春さんは『もう、飲もうよ』とガラスの向こうで口パクして笑った。私も笑って部屋の中へ入ったがどこか一抹の不安を抱えて笑顔はぎこちなかったと思う。
ソファーへ落ちる様に座って間髪入れずビールの缶を目の前に翳してプルタブを引く。缶は凄くよく冷えていて『早く喉に流し込みたい』と思った。すぐに喉を鳴らして半分程をいっきに飲んだ。
「くー!」
私の上げた歓声に小春さんは笑ってすぐにつまみと共に私の隣で同じように歓声を上げた。夏のビールはたまらなかった。
燻っていた不安は消えていた。私は無意識にテレビをつける。
「一体いつまで会社はストライキを続けるのだろうな?」
「ストライキ?なんの事?」
「何の事って?ほら前に会社で会っただろう?俺が保険証を取りに行った時、あの時エントランスに回転草が転がってたんだよ。西部劇の荒野で見るあの草だよ。それで人の気配も無くて『ああ、まだストライキやってんだ』て」
「何言ってんの?なんか変な夢でも見たの?」
・・・。
一瞬思考が停止して先ほどの隣の女との会話の内容の通り、記憶と『象の背』の内容を明確に分類しようと再度試みるが無理だった。お酒も入っていた所為か今度は真剣に取り合わず『まあいいか』と自分を皮肉って笑って、残りの半分のビールを飲み干した。
・・・。
再び思考が停止する。気持ちのいい天気に好きな人がいる夏の午後暮れ、私を誘ってビールを掲げた。そんな不安を忘れさせるような微笑まざるおえない時間がここには在って、そのせいで何かを忘れていた。いや忘れようとしていた。と言う事に気が付いた気がした。
小春さんはお酒を飲まない。飲まないどころか酒を飲む私をいびって『飲み過ぎないでね』と顔を曇らす。私は私の至福の時間を邪魔する小春さんに困り顔を作る。理由を聞きはしないがきっと小春さんはこう答えるだろう『健康でずっと一緒にいたいから』それを分かっているから私は苦笑いと溜息を同時に出してほどほどにする。
さっき買ってきたビールがどうしてこんなにキンキンに冷えているのだろうか?
『おかしい』
私は二本目のビールを持ってベランダへ出た。
『おかしい事なんて何も無い』
そうだよ。好きな人と楽しく過ごしているだけだ。最近疲れている私を気遣って『たまにはいいか』と小春さんは私の気分を害さない様に配慮してくれているのだろう。そうだよ。たまにはいい。私はそう思った。
一人でベランダに行った私を追いかけて小春さんは私の肩に顔を凭れた。酒に火照って眠るようににんまりした幸せそうな笑顔を私に見せる様に身を任せて私も小春さんも『何と満ち足りた時間だろうか?』と安らぎの時間が流れて、それがどうしてかこそばゆく恥ずかしくなるタイミングもそろって二人でハニカンだ。
私は三本目の缶を開けぼんやりと町並みを眺めた。
「ん?」
不意に連立するビル間から見える、あるアパートがなぜか目に留まった。距離はかなりあって翳した親指大程の小ささであったがそのアパートのとある窓から目が放せなかった。
何てことはない。只開け放されている窓で人の姿は見えない。僅かに見える中の生活感はどちらかと言うと大衆的だった。
しばらく見ているとベランダもない窓枠に膝を立てて女が座った。疲れ切って気怠そうに溜息を吐いた。
『なんだか可哀相な女だな』そう思った瞬間に女は遥か向こうの何者かの視線に気が付いたのか?視線をゆっくり上へ見上げ始め『あ、このままだと私と目が合う』と思った時にはもう私の視線の実線と女の視線の実線が交わった。つまり目が合ったという事だ。両頬を押えられて視線を逸らす事を禁止されている様な妙に抜け出せない感覚と力が働いて、私は女を凝視し続けた。
女は私を認めた時眉に皺を作ってでも怒りからでは無かった。主に困惑と悲しみと懇願そんな物で女の顔は作られていて私に救いを求めている様に感じた。
「ねえ?何見てるの?」
そう言って絡みついてきた小春さんによって視線は外れた。
『一体何だったのだろうか?あの女は・・・』
小春さんは私と一緒に見たかった映画を借りてきたそうで、私の腕を引っ張ってリビングへ入った。私をテレビの向かいのソファーに座らせるとまずベランダのカーテンを閉めた。それからプレーヤーを弄って映画を再生させ私の隣へドスンと座った。
どうしてか小春さんがカーテンを閉めた事が気になった。もう夕方近くなっているのでごく自然な事でもあるが順番が気になった。映画のセットよりも先にカーテンを閉めた。まるでベランダへ行ってほしくない様な印象を漠然と受けたが、きっと私の気のせいだろう。映画を見るのにまず映画館の様な空間を作りたかったのかもしれない。きっとそうだ。私の思い違いだ。年を取ると疑り深くなっていけないな・・・。
小春さんは映画のシーンごとにまるで映画の中に入って主人公になったみたいに大げさに怖がったり喜んだり怒ったりして私はそれを隣で微笑ましく見ていた。映画に集中して見たいという気持ちもあったが、そんなのはいつだってできる。私がいない様にして素の自分を出してくれてその素が可愛い。何が可愛いって普段のそこはかとない小春さんからは想像もつかないくらい感情に正直な所がギャップがあっていい。
私は小春さんの映画のリアクションを観察していて映画は殆ど見なかった。実はもう見た事のある映画であったので映画など興味はなかった。それより小春さんと出会えて一緒にいるという現在が満ち足りすぎて安寧の溜息が出てしょうがなかった。
映画も終盤になった頃小春さんは画面から目を離さずに私に聞いた。
「来週の木曜日結婚記念日だけどどこか出かける?」
ギクリとして小春さんの顔を少し覗き込む。もしかして怒っているのではないか?と思った。なぜなら私は結婚記念日を完全に忘れていたからだ。それで私が結婚記念日の内容を用意しておかなかった事を今鎌かけられたのだと思った。
しかし、小春さんに怒っている雰囲気は見受けられなかった。
ここで即席にデートプランを作ってさも『事前に用意してましたよ』としてもいいのだが、後で襤褸が出るのは目に見えているしそっちの方が情けないので、正直に何も考えていなかった自分を偽らない事にした。
「そうだな・・・どうしようか?」
これで私が結婚記念日を忘れていた事を小春さんは確信したと思う。仕方ない。怒られる事を覚悟しよう。私が悪いのだから。
「何も考えないで街に出るのも楽しいかもね」
小春さんはそう言って楽しそうに微笑んだ。
何と寛大な心だろうか?確かに怒ったってしょうがない。仲が悪くなるだけだ。だか・・・怒られる事に身構えていた私は拍子抜けして小春さんを見詰めた。殆ど疑いの眼差しで流石に『小春さんが違う人間とすり替わっている?』とまでは思わないが『何か?企んでいるのか?』と小春さんが私に優しい理由を探した。
私は小春さんを微かでも何かぎこちない瞬間をとらえようとして殆ど睨んでいたと思う。どんなによく見ても私を欺いて何かを企んでいる気配が全くなかった。今の小春さんは正真正銘その根幹裏腹まで優しく、私と共に生きる事は喜びで満ち溢れていて揺るぎない自信をもって嘘はなく楽しそうに微笑んでいた。
小春さんが嬉しいのは私も嬉しいと思って笑ったが何か引っかかるものがあった。
そんな筈は無いのだが、まるでロボットの様だと思った。古典的なロボットでは無くて高度な知能を持っていて感情を忠実に真似して外見も何らかの新発明されたハイポリマーとか、とにかく人間と見分けがつかない程でアンドロイドと言った方が良いだろうか?小春さんの皮膚から端子がぴょんと飛び出ているのを見たわけではない。だからどうしてそう思ったのか?自分自身でも根拠が明確ではない。
アンドロイドは多少邪険に扱われても雇い主の利益を考えて笑顔を絶やさない。自分自身の立場を守るために感情を使ったりしない。ましてや自分と対象の二人で幸せになるためにマイナスの感情を使ったりはしない。
つまり目の前にいる小春さんがアンドロイドだと感じるのは、私が小春さんにマイナスの事をしても、私自身に私がマイナスの事をしても受け入れて微笑んでくれると思ったからだ。それは人間的包容力だろうか?いや、違う。只目の前のプロセスを相手が快く感じるにはどうすればよいかと言う演算の結果でしかない。
つまり言うと私は今目の前にいる小春さんに小春さん自身を感じられなかったのだ。魂を感じられないのだ。目の前にいるのは『私が喜び機嫌を損ねない』と言う目的を継続して維持するという目的だけを持った存在で全ての判断は『私が喜ぶ』か『私が喜ばないか』、『機嫌を損ねる』か『機嫌を損ねない』単純にその二つの要素だけで己を持たない。
・・・。
何と言ったらいいのだろうか?とにかく目の前の人間の形をしたものは、精工で忠実に小春さんを模してはいるが小春さんではないように思えた。
でも不自然ではなくて・・・。
小春さんと言う存在は一体どういう物だったのか改めて明確に定義しようと頭の中で箇条書きに並べ立てようと思ったがどうもこれと言って特徴が正確に出てこなかった。
私は小春さんを理解していない事を今理解した。
「すまない」
唐突に私は謝った。
「え?どうしたの?」
私の中で勝手に理解した事を急に謝られて小春さんは困惑している様だった。
「いや、何でもない」
「そう」
心配そうに私を見詰めた後今の小春さんは理由も聞かず寄り添ってくれた。
今の小春さんは小春さんではないにしても良くできた人間で私の事を何よりも大切に思ってくれている事が分かったので私は小春さんが本物かどうかと言う事がどうでもよくなってしまった。私は小春さんに埋もれる様に甘えていつの間にか眠ってしまった。
気づいた時には朝日が陽光をカーテンの下から反射して眩しく私を起こした。
半身起こした時に腕に絡まった小春さんの腕に気がついて寝ぼけ目に小春さんを見た。なんと安らかな寝顔だろうか?薄く笑っていて幸せそうに私の隣で眠っている女性を見て私も幸せに微笑む。
起こさない様に慎重に腕をほどいて私はトイレに立った。
私の方が先に起きてしまったから朝ご飯を作って「朝ご飯出来たよ」と言って起こすのもなんだかいいな。
そんな事を考えながら用を足してトイレから出ると、窓が開いて風がレースのカーテンを優しく揺らしていた。一体誰が開けたのか?と考えながらカーテンが揺れるのを見詰めた。
「朝ご飯出来たわよ」
声のする方を見ると小春さんがぼーっとしている私を『何やってんの?』と言う様に笑ったので私も笑い返した。
私は食事の席について、目の前の朝食を眺めた。
皿が5つあって、ふっくら焼けた鮭と卵焼き付け合わせは大根おろしで小鉢に小松菜のおひたしそしてご飯とみそ汁が作り立ての温かみを出して湯気を上げていた。よくできた朝食だった。
私は目をパチくりパチくりして呆気にとられる。私がトイレに入ったのは本の5分程だと思ったが・・・。小春さんはついさっきまで私の隣で寝ていた筈だが・・・。いや・・・別に悪いという訳ではない。寧ろ待ち時間なく朝食を食べれる事は嬉しい限りである。そうだよ。結果的に私は幸せなんだから些細な疑問に不安になる事はない。
小春さんも私に幸せであって欲しいからそうしているのであって、実害の無いのに疑ってはいけない。
「ありがとう」
私はそう言って箸を持ち朝食を食べた。
整った味と火の入り具合と温かさを保った朝食に私は唸る程感心して、しかも朝揃った和食を食べる事は私の理想でもあったのでストレスなくスムーズに物事が運んでいる様な気がして安寧と言って申し分ない朝だった。
今日は日曜日で、窓から私の髪を撫ぜる風が私を外へ誘っていた。
「どこか出かけようか?」
「そうね」
小春さんには小春さんの家のやる事がある。そんな事も気になって頭の中で『一緒に出かけようか?』と誘うのをやめようか?と過ったが今日の小春さんは全てを放棄して私を優先してくれそうな予感があったのでその気概を通した。
いつもなら「お風呂場の扉のレールの掃除をしてしまいたいから」とか「今日は天気がいいから布団とか色々洗濯して干したい」とか「出かける前にあなたも手伝って終わらせてから言ってくれる?」とか言って2人で出かけるという事に微笑む私の気持ちを情けなくさせて、なんだか惨めな気持ちになってしまう。私はいつも溜息をして気怠そうに忙しくしている小春さんに気分転換の息抜きに誘っているのにその気持ちを理解されないのだ。別に私は遊び呆けている人間と言う訳ではない。仕事をして金を家にいれているのだから少しは敬って尊重してくれてもいいと思うが、確かに家事をする事は少ない。でもしない訳ではないし・・・。
きっと私が小春さんを遊びに連れ出すのは小春さんにとって現実逃避に他ならないのだろう。目の前の事に追われて気持ちに余裕がない事は良くないと思って私はたまには息抜きに出た方が良いと思っている。しかしそれはきっと私の理想であって小春さんの理想ではない。日常の事を一緒に楽しんでやって欲しいという事が小春さんの理想なのかもしれない。
ん?いや待てよ。いつも通り私の誘いを突っぱねてきた小春さんに私は沈黙して心の中で小春さんに文句を言ったが・・・今私の誘いを微笑んで受けてくれた?
逆に拍子抜けして出かける準備をする小春さんを立ち尽くして見詰めている自分に気づいて「あれ?私は何やってんだろうか?」と私も出かける準備をする。
服のセンスとか言うのは皆無であるが一応クローゼットの中からズボンとワイシャツを出してきて特に悩まず「まあいいや」と呟いて着た。
もう自分は準備万端で戸口で待っている私の服装を見て「ふっ」と小春さんは笑った。「何だよ」と怒ったふうに言ったけど私の抜けた所を笑ってくれた事が私自身でも嬉しかった。だってそれは私が小春さんを笑わせたのと同義だからだ。
突然雷鳴の様な一瞬の、そして濃く深い今いる場所とは絶対的な隔たりを挟んだ違う世界の様な映像が見えた。特になんて事はない。
ガラスの分厚いウイスキーでも飲むようなコップがほんの一部しか見えない程のドアップでその中には透明な液体が入っていて、音も無くどちらかと言うと殆ど黒の赤黒い液体が丁度見ている時に垂れた様で透明な液体をゆっくり降りていくだけの映像だ。どうしてそんな映像が発作的に見えたのか?理由も分からないし、この映像が意味する所も分からなかった。なんとなく感じるのは『私が』と言うよりも『私に関係ある誰か』を意味している様な気がするが、直感的で何の根拠もない。
暫くそんな事を考えていたが小春さんの準備が終わる頃には『きっといつか見た映画のワンシーンが無意味にも浮かんだのだろう』と言う結論を出して考えるのをやめた。
街を歩く小春さんはどうしてかいつもより綺麗で少し遠くに見えた。姿勢悪く溜息を吐くいつもの小春さんとは全くの別人の様に思えた。
しなやかでピンっとして自信と希望と未来があった。まるでテレビの中の女の人を見ている様で『本当に私のつれだっただろうか?』と一瞬疑ってよそよそしく思ってしまう程だった。
昼に入った定食屋で私はサバ定食を食べた。それはまあ美味しかったのだが・・・『勘定はどうする?』とどっちが払うかまたは割り勘か?問目で小春さんを見詰める前に「先行ってて払っとくから」と言ったので私は呆気にとられながらも楊枝をシーシーして店を出た。店先でいつもなら『もっとガッツリしたのを食べなよ』とサバ定食を否定されるが今日は気持ちよく食べれたな・・・』と考えた。
出てきた小春さんは金の事は言わず「美味しかったね」と私に笑顔を向けた。
服屋では私が小春さんに着せたい服を素直に喜んでその日は一日着て外を回ってくれた。
海で並んで座った時いつも私は私に体を預けて欲しいと思っているけれど恥ずかしいのか人前ではべたべたしてこないのだけれども・・・どうして今は・・・。小春さんは私の肩に頭を乗せて視覚以外の感覚で肌触りや匂いや呼吸音を気持ちを澄まして私だと改めて理解して安心した溜息を鼻からしてた。私の位置からでは顔は見えないがきっと幸せそうに微笑でいるに違いなかった。その理由は『私がここにいるから』それだけだ。なんと私を満たしてくれるのか?
透明な飴細工で閉じ込めたベリー系の果実を乗せたタルトを濃い艶やかなグロスの女が齧って溶かした砂糖が抵抗を持って咀嚼するのに負荷がかかっていた。歯の間や舌裏など口の中や唇の周りの殆ど頬などに散らかって纏わりついて食べ方は汚かった。周りのトーンは重暗く『嫌だな』と思うより『面倒だな』と言う印象を受けた。どうして『面倒だな』なのか?女の口の周りに付いた水あめをふき取るのが大変だと思ったのだろうか?私の頬でも私の唇でもないのにどうしてそう思ったのだろうか?
そんな映像が又発作的に鮮烈に突如として見えて吐き気に似た嫌悪に襲われた。
どうして私がこの上なく幸せを感じていてこの満足な感情に何も混ぜたくないと思っている時に限ってその全く反対を連想させる映像が頭の中で映るのだろうか?
きっと私が私自身に向けた何らかのメッセージを意味しているのだと思うが・・・。
私が幸せになる事を邪魔している?もしくは幸せに囚われて見えなくなっているモノがある事を伝えようとしているのか?
別に良いじゃないか?今が幸せなら。どうして自分自身の幸せを許せないのだ?どうして自分自身に嫉妬しているのだ?私は幸せになってはいけないって言うのか?
一体どんな罪を犯したって言うのだ?
「はぁ」
私は溜息をしてしまった。もちろん小春さんの所為ではない『小春さんに嫌な思いをさせてしまったか?』と思って小春さんを窺う。
・・・。
小春さんは静かに「ごめん・・・」と言った。私は何も言えなかった。説明すればかえって小春さんの罪悪感を増させてしまうと思ったからだ。私は只無言で首を振る事しかできなかった。小春さんは悪くない。決して今の小春さんに満足いってない訳ではない。寧ろ大満足なのだがどうしてあんな喜びとは全く反対の印象を持った映像が頭を流れるのだろうか?
その日の小春さんは私に謝った事を気にしてない様に振舞っているが、何処かそれについて考えている感じがあった。私が心の底から幸せを感じれてないかもしれないという事が引っ掛かって不安を感じている事が分かった。隣で寝入った小春さんは私の腕を抱いたまま眠ったからだ。その腕は心なしかしがみついている様に少し強張っていた。
私は小春さんが苦しそうな姿を見たくなかった。だから眠ってる小春さんの隣で、私は小春さんの不安を必ず取り除こうと決心した。この正体不明の映像の理由を突き止めて明確にし、退治して無くしてしまうのだ。できるはずだ。だって私の中の事だからね。
翌朝、小春さんより早く目覚めた私は、まるで引き止める様に絡んだ小春さんの腕を優しく振りほどいて起こさない様に出かけた。
特に当てがあるわけでは無かった。只一人で街を歩いて考えたかった。小春さんといると幸せ過ぎて『まあいいか』と考えるのをやめてしまうので一人でこの件について深く考えようと思ったのだ。
私は雑踏を歩いて街の喧噪に身を窶し、自分自身と向き合う前に群れに溶け込み気持ちを落ち着かせた。
天気は晴天で、歩くのが気持ちよかった。思考は余計なもので散らかっていた場所が澄んでいき殆ど無意識に近い安らぎの様な気持ちで良い感じに邪念なく一つの物事を考えるのに集中できる状態だった。
「ん?」
気が付くと銭湯の湯船の中に腕を組んで姿勢をピンと伸ばして入っていた。最高に心地よくて考える事全てを放棄して私は眠りに落ちる様にゆっくり目を瞑って上下の瞼がくっ付く寸前にハッと目を見開いた『一体私は何をやっているんだ?』
どうも過度にストレスが掛かっている時私は贅沢をしてすべき事から逃げる傾向があるらしかった。そんな自分に気がついて情けなくも自分を哀れに思って溜息をついた。
入ってしまったものはしょうがない。と湯船を堪能して上がりにフルーツ牛乳まで飲んで殆ど温泉旅行の様に楽しんでいた所にメールが鳴った。小春さんからで『今日仕事だっけ?』と来ていた。さすがに私は焦って服を着替えて銭湯を出た。
そうとうストレスが掛かっている様だった。しかし、便利でもある。贅沢の真ん中にいる自分に気づく事でストレスの過多度合いが分かるのだから。
「はぁ・・・」
雑踏の中私は溜息を吐く。鈍らな自分に嫌気がさしてそんな自分の尻を拭くのは逃れようのない自分だという事に溜息を禁じえなかった。
一度気持ちを引き締めるために濃いエスプレッソを飲もうと決めて喫茶店を探した。
「あれ?」
どこかで見た事のある喫茶店だった。街ビルの地下にレンガ作りの階段が続いていて表に看板など無かったがその階段の下が喫茶店である事は分かった。私は階段を下りて喫茶店の扉を開いた。
ドアベルを鳴らして入ってきた私にいつも訝し気な表情のマスターが顔を向けて「ああ、いらっしゃい」と笑顔を作った。私は微笑み返し手を翳して席に着いた。客は疎らで常連の客も見受けられた。昔と変わっていない事に私は「ふっ」と笑った。マスターがニヤニヤしながら近づいてきて注文を聞いたので私は「エスプレッソ一つ」と言った。
マスターは「かしこまりました」と言って席から離れた。
壁の天井近くに細長い窓があってその窓から外の光が柔らかく変換されてこの喫茶店へ流れ落ちていた。忙しなく気苦労の絶えない社会から切り離された隣り合っているが別の次元にある様でこの喫茶店を私は気に入っていた。会社の外回りの時などさぼってここに来ていたし休日でもここに来ていた。
しかし、ここ数年はこのドアベルを鳴らすことは無かった。そう思って私はドアベルを見詰める。来なくなったのは来る理由の一つが無くなったからだった。
「そうだ・・・」
どうして忘れていたのだろうか?私がここの常連であった頃、ここにはマスターともう一人ウェートレスがいた・・・。
・・・。
社会が無意味に感じて只苦しいだけの日々を耐える様に生きながら『私』と言う個性の存在は消え感情の鈍いロボットになって行くのだろうと考えながら客先から会社の帰路の途中にどうしてか朱色のレンガ造りの店?だろうか?が気になった。私は立ち止まって、地下への階段を下りていく。
どうやら喫茶店の様なので扉を開いた。
自分で鳴らしたドアベルを一瞥して、店員の案内を待ったが特に席を選ぶのはセルフサービスの店らしかった。
私は席に座って息を吐いた。妙に落ち着く内装で不思議と外の気苦労や柵や未解決の問題などを忘却させられた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
海の浅瀬でギリギリ浮く程の深さの所で仰向けになって波が体を右往左往するのに身を任せて目を瞑る様に、私は注文も忘れて天井近くの細長い窓から入る光を見詰めて店の雰囲気に漂っていた。
店員の質問に薄く笑んだ頭の中では潮騒に浮いている意識のまま振り向く。
きっと彼女は私が彼女の質問に答えるまで普通の客よりも長く時間が掛かった事を私が何らかの逃避によって意識を無意識に放っていて再び手繰り寄せてちゃんと現実に意識を戻したのだと言う事を理解して社会人としてままならない大人の男を『面白い人』と思ったに違いない。彼女は受け入れて揶揄う様な笑みを可愛く作った。ここでコーヒーを注文する様に彼女の笑顔を好きな時好きなだけ見たいと思った。簡単に言うと彼女の事を好きになってしまったのだ。『一目惚れとはこういう事か』と思いながら「コーヒー」と答えて去っていく彼女の後姿に羽が生えてないか目を凝らして見ていた『きっと彼女は天使だろう』と本気で思っていたからだ。
それから私は殆ど毎日の様にあの喫茶店に行った。愛想笑いはうまいが無口な女性でそれが又私の気に入っている所だった。その愛想笑いの向こう側にいる彼女自身を見てみたいと思ったのだ。複雑に入り組んだ彼女と言う名の迷路を良くも悪くも理解したいと思った。
『どうすれば心を開いてくれるだろうか?』『行き成り素性を聞くのは嫌がられるだろうか?』『下の名前は何ていうのだろうか?』
あの頃私は彼女のためだけにあり、彼女の全てを知りたかった。全く今と真逆だという事を思い出しながらマスターが持ってきたエスプレッソを一口飲んだ。
確かにあの頃彼女は可憐で不可侵で触る事の出来ない綺麗な花で私はそれに群がる取るに足らないハエ同然だったように思う。だって彼女の名札には苗字しか書いていなくて、下の名前を聞き出すのに半年もかかってしまうくらい私は慎重だったから。
「あの・・・ごめんなさい」
「はい?」
コーヒーを私のテーブルに置いて前かがみに私に一番近いタイミングで私は声を掛け彼女は微笑んで質問を受けた。
「下の名前って何て言うのですか?・・・いや、別にそう言うのではなくて、何回もここに来て居るので、なんとなく気になったから聞いただけです。もし嫌だったら言わなくて大丈夫です」
タイミングが早すぎただろうか?一度嫌われてしまうと大変だ。言わなければ良かった。
行き成り客と店員の線を踏み越えてきた私に嫌悪感を示した顔を向けているのではないか?と私は数秒彼女の顔を見れずに俯いた。しかし、良いも悪いも返事が知りたかったので、勇気をもって視線を上げ彼女の顔を見た。
・・・。
彼女は微笑んでいた。きっとこんな些細な質問に狼狽える私を笑ったのだと思う。
「小春です」
私と言う球面の惑星がある。その冴えない陰気な表層が小春さんの名前を聞いた瞬間黄色とオレンジとピンクまである花が咲き乱れ凄い勢いで球体の表面を覆った。日和、春となって私は陽だまりの中うたた寝してしまう様な頭の中が止められなかった。
出会った頃は全てが未知で全てが輝いていた事を思い出しながら上の空にエスプレッソの最後の一口を飲んだ。
でも待てよ?私の記憶では小春さんは会社の同僚で喫茶店で一目惚れするはずないのだが・・・。でも小春さんの名前を始めて聞いて密かに歓喜踊躍した記憶も確かに間違えなくあってその場所はこの喫茶店で小春さんは確かにウェートレスだった。記憶が二重にあってこれはどう言う事だろうか?と考えながら空のカップを見詰めてきっと首が傾いていたと思う記憶の奥まで手を伸ばして『正しくはどちらか?』確実なものをつかみ取ろうとするがどの形の記憶も曖昧で触れた途端崩れてしまって埒が明かないので曖昧なまま明確に分類する事をやめ溜息を一つしてマスターにコーヒーを頼んだ。
私の場違いな映像が見える発作は過去の記憶からでは無くて未来に理由がある様な気がしたから溜息一つして過去を明確にするのをやめたのだ。可能性として過去も十分関係ある様な気がするのだが・・・どうしてか?過去に囚われ、時間を無駄にしてはいけないという切迫感があった。その切迫感も所在が曖昧で只それだけがあった。
「小春ちゃんの迷路は解明できた?」
そう言ってマスターは私の前にコーヒーを置いた。
私は返事をせずに恥ずかしそうに笑ってお茶を濁した。
私がいよいよ小春さんに気持ちを告げようとして緊張して出た言葉が「君と言う迷路を知りたい」だった。自分でも少し可笑しな言い方だと思った。マスターはその事を小春さんから聞いていたのだろう。
「何か?悩み事?顔が険しいけど?」
マスターは続けて質問した。
「ええ」
私が肯定すると対面の席に座った。
「どうしたの?」
「大した事じゃないのですが。小春さんと一緒にいて幸せだなと感じる様な時に何故か全く反対の意味を持った抽象画みたいな映像が頭の中で流れるのです。その所為で気持ちが白けてしまって嫌な思いをしているのです」
マスターは、その感じを頭の中で想像した。変顔に近い顔で暫く想像した後「それは嫌だね」と言った。そうして無言で席を立ってすぐに自分の分のコーヒーを持ってまた元の席に着いた。
「原因に心辺りがあるのかい?」
「いえ・・・それが無いから困っているのです」
「そうか・・・普通に考えたら、どうだろうな?自分の中で自分自身が幸せになる事を許せないでいるとか?」
「やっぱりそう言う感じですかね」
「思い出せないけど強く影響しているって事はトラウマみたいな感じの『衝撃的事実』がそうさせているのかな?」
「ん~特に心当たりはないのですが・・・自分自身で自分自身を欺て分からない様にしているから心当たりがないのでしょうね。どうしたら隠された原因を見つけられると思います?」
「そうだな・・・。日常の中に些細な違和感とかは何か無いかい?ほら病気とかを診断する時には体の諸症状がどんなふうに出ているかでだいたい推測して検査するだろう?だからそう言う判断材料は何か心当たりは無いかい?」
「ありますね」
「え?どんな?」
「本当に些細な事かもしれませんが・・・。小春さんが急に優しくて・・・いや優しいというよりも理想通りに動いてくれている様な気がするんです」
マスターは急に何らかに気づいたように私がずっと遠くにいるかのようにして哀れそうに見詰めた。そうして言葉を出そうとしなかったので私は「何ですか?」と言った。
「いや・・・。一つ確認するが君はちゃんと小春ちゃんと言う迷路を今も進んでいるのだよね?」
「え?」
「いざ迷路の中に入って見たら、自分の理想と違って嫌になって小春ちゃんと言う迷路を途中放棄してないだろうね?」
「してないと思いますが・・・だってこうして小春さんの為に問題を解決しようとしているじゃないですか?」
言葉ではなんとか否定したがしかし、本当は『もしかしたら私は小春さんと言う迷路から逃げてしまっているのかもしれない』と言う疑念を今見つけてしまった。『逃げていない!』とマスターに言ったのは確信があった訳では無くて体裁悪いからそう言い張ったと言った方が正しいかもしれない。それに最近小春さんに奥行きを感じる事が出来ない。小春さんと言う存在を感じる事が出来ない。さっきまで会っていた小春と呼ばれる一つの塊は私の理想を叶えるというだけのロボットの様に思えてしかたなかった。
「そう・・・それならいいんだ。物事や人間は思い通りになんて動かないよ。もしも自分の理想の通り完璧に動く人間がいるのならそれはきっと虚構だろう。そんな人間いる筈無いのだから」
『だから、小春さんから逃げてないって言ってるじゃないか・・・』と一瞬マスターを眉間に皺を寄せて見た。
「他に気になった事は何かあるかい?」
「他に・・・。そうですね。私の部屋からビルの間に丁度アパートが見えるのですがそこに住んでいる女が妙に気になった事がありましたね」
「女?その女は知り合い?」
「いえ、多分知らなと思うのですが」
「たぶんって?」
「何せ距離がありましたので表情もはっきりとは見えませんでした。でも雰囲気に見覚えがある様な気がしないでもなくてだから見入ってしまったのだと思います」
「なるほど、もしかしたらその女にヒントがあるのかもしれないよ。君が今悩んでいる事の原因が君の無意識下で隠されているのなら、『なんとなく気になって』なんて言う感覚は君の無意識下の叫びみたいな物かもしれないからね」
「そう・・・ですか」
・・・。
蒸し暑くて額の汗を拭った。
私は半信半疑マスターの言う事を信じて女が住んでいるアパートを探して路地を歩いていた。直線的に真上から見た時は簡単に行けそうだと思ったが、実際地図の中へ入って探すとなかなかどこだか分からなかった。交差点に行き当たると首を傾げながら立ち止まって音を立てて息を吸った。
どうして私の問題なのに見ず知らずの離れたアパートに住んでいる女が関係しているのだ?よく考えたらおかしな話だった。マスターは憶測で物を言うタイプだという事を思い出してマスターの笑顔が頭に浮かびながら呆れた様にその場で一伏せ笑った。
私は時間を無駄に使っている自分にはたと気づく。
『もう少し歩いたら帰ろう』
私とは全く関係ないここでも歩いて考えたら何か血流が促進され思考が巡り糸口を考え付くやもしれない。
空は晴天で清々しいからまあいいや。そう笑って暫く私は歩いた。
最初は無理やりいろんな事を考えた。でも考えは袋小路になって答えには行きつかなかった。そのうちに脳が疲れ果てて考える事をやめた。夏の昼下がり只行進するだけの無音の思考の私が出来上がりそれは心地の良い物だった。
不意に輪の中に入った様な知覚をする。誰かが作った落とし穴にまんまとはまった様な感覚に似ていたが、『誰が』『何のために』と言う部分が少し違った。誰かがと言う部分はこれを他人としたら多角的な目的が思考されて一つの事をする『落とし穴を作ろう!』と。しかし、私が嵌った輪は幾つかの条件がその一点に集中した事によって『ココを不意の輪にしよう』と言う意図が落とし穴での『誰』だった。だから一塊の思惑を持った存在などいないのにそんな一つの一人の存在がこの輪にはいる様な錯覚を持って『何のために』という事が茫漠としている事と相まってその存在は神秘の人ならざるモノだと脳は一番処理しやすい結論を出す。神秘ついでに言うのなら『何のために』とは私をここへ到着させるためであるだろう。
丁度マンホールの上に乗った私は強い夕日を受けて立ち止まって日を遮るために手を翳した。目隠しの帯を巻いたように翳した手の影は夕日が何処に在るか確認しようとした私の目に遠くのマンションの一つの部屋のベランダを見せた。
左右に聳えて連立するビル列が一本の直線を作っていてその先には私の住んでいるマンションの部屋があった。距離感もあの時見た屈託した女のアパートの位置と同じ様だった。
そうして、私は真後ろを振り向く・・・。私は見つけてしまった。あのアパートがそこには在った。
遠目に女の部屋の窓を見詰める。窓は開いていてしかし人の気配が見受けられなかった。開け放たれたあの窓から私の疑問に対する答えが顔を出すのではないか?と漠然と期待と共に視線を向け続けながらアパートに沿っている道をあの窓へ近づいていく。
・・・。
私は歩きすぎて窓は遠ざかった。
窓と一番近づいた時部屋の中を覗いたがやはり人の気配はなかった。部屋の中は薄暗くて乱雑に散らかっていた。机の上は雑誌やカップラーメンや煙草の灰皿や甘いお菓子で殆ど積みあがっているに近いくらいだし、部屋を分断する様に真ん中には洗濯物がまとまりも無く干してあって、それに奥に見えた台所の流しは酷い物で皿洗いの食器が山となっていた。
今10メーターくらい歩きすぎたが、その部屋の生活に嫌悪を感じて眉間の皺が直らなかった。
どうして私はこんな部屋に何かのヒントがあるかもしれないと思ったのだろうか?
「ははっははあ」
私は笑った。ここまでの時間が全く無意味だった事に笑ったのだ。そうしてその場でくるっとひっくり返って再びあの部屋の窓の方に向かった。いや正確には帰り道がそっちの方だったのだ。『もう帰ろう』と思ったのだ。無意味な事を真剣にやる自分を俯瞰で認識してそれが可笑しくて仕方なかったので帰り道はこの笑いと共に楽しく帰れる気がして気分が少し軽かった。
そうして別にもう見る必要はないのだけど、あの部屋が真横に来た時にふいっと又あの部屋を見た。
?
私はその時静止する。一度目に見た時は散らかっていた所為か気がつかなかったのかもしれない。女が下着姿であっちを向いて横たわっているのを私は見つけて静止した。下着は深い臙脂色に複雑な刺繍が施されていて妖艶で挑戦的に感じた。腹部が大きく上下して『きっと寝ているのだろう』と思った。
私は他の通行人を気にしながら凝視を続ける。人の部屋を覗くのは良くない事だと分かっている況してや裸の女が寝ている所をじろじろ見るなんて最低な事だと分かってはいるが目が離せなかった。何故なら女の顔を見たかったから、こちらに寝返りするのを待っていたからだ。
女は小さく唸り声をあげ寝返りをしてこちらへ顔を向けた。
私は酷く狼狽えて一瞬視覚の認識を失う程だった。
こちらに向いた女の顔はどう見ても小春さんだった。小春さんは振り向いてそうそうに私が見ている事を分かっている様に真っすぐ私の目の中に入る様に視線を挿した。虹彩が不揃いに一周環になってこの世に二つとない深い谷の様な瞳が私をそこへ落下させようとした・・・そんな様な感覚に気がついて私は目を逸らした。私はその目が怖かった。
気づくと喫茶店の席に座ってマスターからコーヒーを丁度目の前に置かれている所だった。あそこからここに来るまではっきりと記憶されていなかった。只息が荒かった。濁った水の中で目を開ける様にくぐもった記憶があった。私は裸の小春さんと目が合った瞬間走り出したのだと思う・・・無様にも一度転んだ。あの時感じた恐怖の根拠を今頭の中で探していた。しかし、具体的にならなくて『只、怖かった』としか言いようが無かった。あのままあそこにいたら何かを知って・・・。その事が怖かったのだと思う。あの場所がどうしてできたのかという事をあれ以上知ってはいけないと思った。
のだと思う・・・。
マスターは明らかに様子のおかしい私をコーヒーを出した後に少し観察している様だったが声を掛けずにカウンターに戻ってしまった。次の注文があったからだった。
「そうだよ・・・そんなはずはない」そう呟く焦点を失った私はコーヒーをごくごく飲んだ。熱かったがその痛みが思考を紛らわせてくれたので気にせず飲み干してしまった。
『あんな所に小春さんがいる筈ない。あんな所でだらしなく爛れた生活をしている筈ない。小春さんは私の妻で私の部屋にいる。そこで整然と心の空虚など無く生活している。あそこから遠く離れた所でだ』
「大丈夫か?今日は何か?食べた?」
マスターが違う客のコーヒーを淹れ終わって私の肩に手を乗せて聞いた。
「いえ・・・」
「そう」
そう言って又マスターはカウンターに戻って、今度はフライパンを振ってナポリタンを私の前に出した。
お腹がすいていた所為か?唾を飲んで「良いんですか?」とマスターに聞いた後口に入れた。そう言えば朝から何も食べてなくてお腹がすいていた事を思い出しながらナポリタンを頬張る。
マスターは又私の対面に座った。そうして私が食べ終わるのを自分で入れてきたコーヒーを飲みながら待っていてくれた。私は大人の男ではあるが正直近くに人がいてくれる事で安心できた。それも強要してこないで私のタイミングを待ってくれる人がいる事が今、何より安心だった。
ナポリタンを食べ終わった頃にはほとんど平常心に戻っていた。
「すいません。マスターもう一杯コーヒーをいただいても良いですか?」
「ああ」と優しく答えてマスターはコーヒーを入れてきて再び私の対面に座った。私はそのコーヒーを手渡しで貰って一口飲んで溜息をした所で完全に冷静になった。私がカップを机に置いて手を放した事を確認してマスターは聞いた。
「どうしたんだい?酷く取り乱して」
「それがですね・・・。その例の女に会いに行ったんです」
「例の女って?君の部屋から見えた遠くのアパートの女?」
「ええ、そうです。見つけた女のアパートの部屋の窓が開いていました。貧困に喘ぎ生活は荒んでいました。そんなはずはないんです。そんな所にいる筈はないんです。しかも下着姿だけで寝転がっている訳がない」
「おいおい、どうした?何がそんなはずないんだ?そのアパートの中に例の女はいたのか?」
「ええ、いました。でも例の女では無くて中に居たのは小春さんでした。乱雑で混沌の真ん中に横たわっていたのです・・・さも自分はこっちが本物だと言わんばかりの目でした」
強烈な音と共に脳内にあの瞳が一瞬鮮烈に蘇る。
「小春ちゃんが?やっぱりそうか。よく聞くんだ。君はそのアパートの小春ちゃんから逃げちゃいけないんだ。今すぐ戻って理解してこなければいけない。いいね」
「どうしてですか?他人の空似だったという可能性の方が現実的なのにどうしてそう思うのですか?」
「どうもこうもないよ。君は今小春ちゃんの迷路を出てる」
「小春さんの迷路を出ている?そんなはずない。小春さんは私の部屋にいる。今丁度夕ご飯の支度をしている所じゃないかな?小春さんと満ち足りて充実した生活を送っているそれは互いに心が通じている互いの迷路を理解しているからだと思います」
「本当にそうだろうか?互いを理解しようとした時満ち足りた充実感だけがあるのだろうか?知れば知る程相手の奥に身を潜せば潜す程深く光も届かない様な所を見なくてはいけないと思う」
確かにその通りだ。しかし、そんな深い闇の様な所の共有は過ぎ去って今は陽だまりが訪れているだけの事ではないだろうか?決して小春さんと困難を共にしなかったわけではない。
「そうですね。私もそう思います。でも深い闇があるという事は眩い光があるという事でもあるそんな所に私達は今いるだけの事では無いでしょうか?」
『確かに・・・』と言う様にマスターは頷いていたが『いやいや』と首を振った。
「そうなのかもしれない。でも忘れないでくれたまえ、対極にどんなに果てしなく距離のある闇と光でも人は常にその二つを同時に持っている。もしどちらか片方だけしか持たないと思っているのならそれは間違えだ。君自身がそう思いたいだけか、もしくは君を思う様にしたい何者がそう思わせているだけだ。私はそう思う。」
「今の私がそうだと?」
マスターの溜息をして口を強く結んだ私を憐れんでいる顔は『言いたくはないが・・・そうだ』そう言う意味だった。
「今君の部屋にいるのは君の理想だ。理想の小春ちゃんだ。つまり君の部屋には小春ちゃんは居ないんだよ」
「いない?」
私は笑った。怒る場面でもあったかもしれない。でも笑った。だっておかしいだろう?小春さんは部屋にいて一緒に生活していた。その小春さんが存在してないって?自分は居ると思っていたが、私と小春さんの生活を他人の目で見たら、私がもう一人いる様にしてパントマイムをしている様に見えるという事だろう?
マスターの話がとても奇想天外で詳しく聞きたくなった。
「どうして?そんな事になっていると思いますか?」
「君は自分の理想の妻を小春ちゃんに見れなかったんだよ」
「小春さんは私にとって理想の妻ですが?」
「勿論そうだろう。でも理想の妻でもそこに本人がいなければそれは意味を持たないんだよ。虚構だよ。そこには君一人しかいないんだよ」
「すいませんが、コヒーをもう一杯貰っても良いですか?」
「ダメだ!今すぐ散らかったアパートにいるのが本当に小春ちゃんかどうか確かめて来るんだ!」
急に怒鳴ったマスターに私は驚いて唖然としていた。マスターの可笑しな話に付き合っているだけでいたが、いつも温厚なマスターが声を荒げるなんてよほど私に真剣に考えて欲しい事だと分かった。
良いとか悪いとかは分からない。だってアパートの小春さんをもう一度見に行くと言う事が一体全体どういう意味を持つ事なのか?理解できないからそこから良い悪いを判断しかねる。しかし、マスターの強い口調は私の憂鬱だった神経系列をキリっと整列させ『行かなければ!』と端から突き刺す様に伝令して廻った。
私はすっくと立ちあがって小春さんのアパートのある方を見詰めた。マスターが座ったまま私の顎のあたりを見上げて真剣な顔で声の無い声援を投げかけているのが気配で分かった。
私は喫茶店を出た。
もう道は分かる。今度は眼光鋭く迷いなくあのアパートへ向かった。
もう目的がよく分からず強烈な眠気覚ましの様な気概だけで私は行進していた『これから向かう先に何があろうとも私は荒んだ生活の小春さんを元の生活へ引き戻すのだ』只それだけ強い決意を胸に懐いていた。だってそうだろう?結果的には小春さんを私の所へ連れ戻せばいい、マスターはそう言っているのだろう?
あのマンホールが見えてきた。まるでセーブポイントの様に思えてここへ来るのは初めての様に思えたから、必死に逃げ帰った自分はセーブされておらずあの情けなさを思い出してこの気概が萎える事は無かった。
しかし、始めは表立ってチャイムを押さなかった。やはり、窓を覗いた。
「ん?」
私は眉間に皺を寄せた。小春さんは変わらず臙脂の下着のままだったがそこに胡坐をかいて無邪気にボールを転がして遊んでいた。ボールが転がった先は今はまだ見えない。もう少し進むと見える様になるのだが・・・。
「は?」
眉間の皺は一層険しくなり疑問符が回転して目の玉も回転続けた。
小春さんが遊んでいたのは・・・象だった。バラバラの私に救いを与えようとして草原の中で私の相手をしてくれた象だ。爛れた赤い皮膚が見ただけでひりひり痛そうだった。
一体どうして私の狂気が小春さんと遊んでいる?怖くないのか?小春さんは?
私は血相を変えて全力で走った。嫌な冷汗が心臓の脈を乱す様に噴き出して『ダメだ!!』と心の中で叫んで玄関扉の前へ向かった。
ドン!ドン!ドン!
扉に凭れ掛かる様にして扉を叩いた。
『あの象は私の狂気だ。関われば傷つけてしまったり無理難題を要求されたり精神を病んだりとにかく私を嫌いになってしまうだけでは済まない小春さん自体に危害が及ぶ。それだけは絶対させない』
「開けてくれ!!」
私はそう叫びながら扉を叩き続ける。
「彼女だけは何もしないでくれ!!」
なおも叩き続けて血が扉についている事に気がついて一旦叩いた態勢のまま止まった。大粒の涙が流れて真下のコンクリートに落ちていた。
「彼女は一生一緒にいるって決めた女性なんだ。幸せにするって本気で誓ったんだ。だからやめてくれ・・・」
誰になのか?も分からずに私は懇願する。崩れ落ちて扉を叩く手は涙か血かで滑った。
ガチャ
扉の鍵が開いたのを見上げた。
でも一向に誰も出てこないので『入って来い』という事だという事に遅れて気がついて私は扉の中へ入った。
全ての部屋で電気が点いていなくって日も陰り薄暗かった。入ってすぐに台所は散らかってはいたもののその日の分の洗い物ぐらいしかなく、生活感がギリギリ日々の生活に耐えている様に感じた。私は既に満身創痍で短い廊下を進んでいく。この廊下の先に窓から見えた部屋がある。
・・・。
小春さんは躍っていた。象はいなかった。いたのは男で二人は必死に一つの方向へ向かって激しく振動していた。
急にお腹が波打って私は酷く嘔吐した。暫く嘔吐を続けてもう何も出てこないがお腹の波は続いていた。えずきながら男の顔を確認しようとする。きっと見れば妻を寝取られた怒りが湧いてくるだろう。だた目の前で吐くだけの情けない姿から抜け出したいから怒りが欲しかった。
しかし、男の顔は薄暗くてなかなか見れなかった。男の顔の近くに帯状に夕日がさしているのでここに男の顔が入れば見えるのだが・・・。
!?
男の顔は不意にその夕日の帯の中に入った。私は意味が分からずに目の玉を左いっぱいまで寄せて中央を見又左いっぱいを見て中央へを何度も繰り返した。どうしてそんな奇妙な動きをしたのか自分でも分からない。そして今この状況が分からないのだ。いや、分かるのだが分からないのだ。
光の帯に入った顔は私だった。
突如として数秒間視界が男と入れ替わって今は小春さんが上になって踊っていた。
?
いやよく見ると違う・・・。小春さんじゃない。快楽に溺れて虚ろに開いた半円の瞳の虹彩は艶やかな紫だった。
私は事の次第を理解した。
すぐに奈落に近い深さの自責の念が襲ってくるのだから今は目の前の女と共に快楽の園の一番奥へ只駆られる様に進むのが良いだろう。
私は只自分の理想に小春さんがいないという事だけで、不貞に走りストレスを埋めるために快楽を貪っているという現実がこの長く哀れな、まるで布団を被って怖くて震えて泣いている子供の様な夢から覚めたら待っている事を知った。
そして私を現実へ向けようとしている存在のあの女が私の現実での不貞の女がモデルになっているなんて御誂え向きで私と女が踊っている所を覗いている私はどうしようもなく笑った。
私は怪物だ。
誰が言った?現実が正常な場所だと?これでは目覚める事を止めようとする力が働くのも無理はない。それでも私を異常な現実へ起こそうとする意味とは?何なのだ?
私は部屋の中を走っていた。ぐるぐる走って叫んでいた。あの象を召喚しようとしたのだ。その内に私を追いかけ回す気配がした。あの叢の時の様に。
私は荒い息をして振り向いて止まった。象と向き合って象も息を切らしていた。象は息切れの延長線に溜息をして『ついてきて』と言った。
象はこの部屋から出てすぐ隣の部屋の扉を開けて入った。
私も象の後ろに付いて行って部屋に入って進んだ。
なんてこった・・・。
私は部屋を間違えていた。象が案内した部屋では小春さんと象が無邪気に戯れていた。
外から見て慌てて入ろうとした部屋は隣の部屋だったのだ。
特に象が小春さんに狂気を見せる様子はなく小春さんは象にさえ心を開いていた。私の狂気さえ受け入れてくれていたのだ。小春さんは私の迷路を今もなお遭難に近い状態で解読しようとしてくれていた。
しかし、そんな小春さんを私は見限った。私が追い出したのだ小春さんを、そして私の理想に入れ替えて密閉された部屋の中で孤独の永久機関が完成したのだった。
きっと小春さんは私が浮気した事など既に知っているだろう・・・しかし、私の口からちゃんと言ってくれるのを待っているのだ・・・。
部屋の奥におかしな扉があるのを見つけて目を細めて見詰めた。
細くて薄暗い廊下があってその先にその扉があった。その廊下はこのアパートの間取りだと明らかに外に出ている程の長さで建築構造上おかしかったし奥にある扉も薄暗い中にあるのに妙に白くって明確に形を現わし過ぎていた。
もう私は自暴自棄を通り越して空だった。私の思考は連続しておらず何も動かなかったし思考がないように感じた。そんな空虚な肉体は自然とその廊下を進み扉を開いた。
・・・。
優雅な音楽が流れていて広く白い煌びやかな空間に丸テーブルが点在している。私はその一つに向かっていた。
「遅かったわね?」
小春さんがそう言って微笑みかけた。私は行き着いたテーブルの小春さんの向かいの席を引いた。どうやらフレンチの食事の席の様だった。
丁度メインがテーブルに運ばれていた。私はきっとトイレに中座して今戻ってきたようだった。
小春さんはメインの子羊のポワレを「凄いね!おいしそう!」と私に何度も微笑みを向けていた。私も微笑んで料理に手を付ける。視線を落として、再び上げると笑いかけてくれる小春さんを越えて奥のテーブルには、紫の瞳の女が私に快楽を誘う様に美しいドレスで座って妖しく笑いかけていた。さらにその横、これも理想の小春さんからは見えない位置に本当の小春さんと象が一つのテーブルで食事を囲んでいた。
私は目の前の小春さんに視線を戻す。私の理想通りの反応をしてくれるのに何故か私は目の前の小春さんを情けないと思ってしまった。私に明るい物をくれるのに空虚だと思ってしまった。だから仕方なく目の前の小春さんを気遣って憐れんだ様に笑った。
「今日で何年目になる?」
私は先ほどの笑いと同じ類の薄い笑顔のまま聞いた。
しかし視線はこの場にいる誰にも見えていないだろう・・・部屋の隅の天井近くを見ていた。ついさっき蛹を見つけた所だった。でも何か?おかしい。蛹は二匹並んで同じ高さにあった。まるで仲良しにそこに決めた様に・・・。
「今年で56年ね」
そう言って小春さんは微笑んだ。私は密かに心の中で震撼する。小春さんが向けたその笑顔も又私が理想の小春さんに向けた憐れむ笑顔に他ならなかった。小春さんは既に知っているのだきっと・・・。
「そうか」
私は溜息と共に一息笑った。そしてレストランの中をぐるっとゆっくり眺めた。
ここで私は小春さんにプロポーズした。それから結婚記念日にはこのレストランで食事する様になった。初めてこの席に座った私を私は思い出していた。あの時君を幸せにすると決心したのは嘘じゃない・・・楽しく笑い合える日々が永遠に近く続くだろうなと言う予感も嘘じゃない・・・小春さんと言う迷路を受け入れて他でもない小春さんの全てを愛す覚悟をしたのも嘘じゃない・・・初めて小春さんと向き合ってこの席についた
時は・・・。
しかし、あの時からここに来るまでの私が全て嘘にしてしまった。
この壊れた関係を治す方法はある。それは 『私が嘘にしてしまった』と告白する事だ。
しかし・・・。
しかし、年月が経てば経つほど言えなくなっていた。自分が情けない人間だと認める事はこの年で困難で小春さんに見限られてしまう恐怖があるから、言おうとは思うのだけれど口が動かなかった。
結婚記念日に真っすぐ顔を突き合わせるこの時に私が毎回葛藤している事を小春さんは知らないだろう。私が一番惨めなのはこの日だという事を小春さんは知らないだろう。
私は知っている。今ここにいる男が一番情けなくて惨めで嘘つきだという事を、言えない事が一番のそれなのだから・・・。
私はそうして56年間この息苦しいジレンマから抜け出せずにいる。最低だ・・・。
私は・・・私の人生は詰んでいるという事をようやく思い出した。
どこで見た映画なのかは思い出せないが、降りしきる雨の中、何も気にせずに大の字に寝転んで大笑いしている男の気持ちが今ようやく分かった。
私は力なく立ち上がった。自分でも分からないと言うのはおかしな話だが何かをぼそぼそと呟いていた。左右の体のバランスが保てなかったので捻じれていたと思う。「どうしたの?」と小春さんは聞いたが私は答えなかった。
そうして、小春さんに背を向け歩き去ろうとした時に小春さんが「待って!」と叫んだので私は一層捻じれる様に振り返った。
体が小刻みに震えて視界ももう正確に小春さんを捉えられなかった。きっと崩れ落ちる寸前なのだろう・・・。耳の奥ではピーと高い音の耳鳴りがしていた。
?
見た事があるぞ?私は裸体ではないが、あの気がかりな夢の恍惚の私とよく似ている。
・・・。
あの夢・・・裸体で捻じれるように立っていた私は・・・私なのだ。現実で私と言う複合的な集合意識の私、分割された正義とか希望とかの私では無くてちゃんと一つに完成した私その者。私は私を諦めたのだ。私の持つ力では問題を解決する事が出来ないと・・・。そうして、私は自ら自分の奥の暗闇へと消えたのだ。
あの時・・・。
完全な私は消失していた。
きっとこの夢から覚める時その寸前には再びあの呼吸する洞窟へ到着しその次には現実へ目覚めるだろう。
私は漠然としかし当然の自然の摂理の様にそう思った。そしてあの呼吸する洞窟がこの夢の一番浅い所であるという認識をし『あそこへ行きさえすれば夢から出られる』とこの夢の出口の位置を確信し、今は一体深く潜っているのか?浮上しているのか?を疑問に思った。
そう思って玉響、重力に負けて自分の口がゆっくり開いていくのを感覚として自覚した。そして涙が止めどなく流れている事に気が付いた。そうだよ・・・。現実に目を覚ましたって待っているのは過酷な苦しみ以外で認識できない現実だ。
振り返ったまま小春さんへ向けた顔はしとしとと涙を流していた。その顔を見た小春さんは理由を聞かず立ち上がって引き止める様に出た手を落として落ちる様に席に座った。
又小春さんを苦しめている・・・そう自覚して私の脳内は罪悪感が灰汁の様に満たしていた。
私は向き直ってレストランを出て行こうとする。ウエーターが「お客様お勘定をお願いします」と私の男らしからぬ小春さんへの態度に私を怒る様に言ってきたが私は無視をした。しかし、それでも詰め寄って来たが途中でウエーターは小春さんに視線を走らせ小春さんは私を責める事を望んでいないと分かると小春さんの席へお辞儀をして身を引いた。身を引く時ウエーターは小春さんには聞こえない様に声を出した。きっと皮肉った嫌味を言われるのだろうと思ったがそうとも取れなかった。
『この世界はあなたに隠し事をしている』
私は凄い勢いで首を捻ってウエーターの顔を確認しようとするがもうウエーターは私に背を向けて自分の持ち場へ戻っていた。
私はウエーターの後ろ姿を唖然と見つめる。私が私を諦める結果に私以外の存在の介入があるようでならなかった。私は何らかの思惑で何者かの掌の上で踊っているのではないか?と思った時に『それは?あの気がかりな夢の中で私に馬乗りに乗っていた者の事では無いだろうか?』と思った。しかし、何故か私よりも負傷していて私より優位な立場にいるとは到底思えなかった。
諦めかけた思考の中にそんな冷静な私がいたがそれもすぐに居なくなった。
私は向かっていた。
私の部屋へ。
そうして玄関に固くカギをかけて、安堵し息を吐くのだ。
そうしてとにかく眠るのだ。他の全てを放棄して眠るのだ。
急がなくては・・・。眠りさえすれば、現実と夢との境が茫漠とし私は信じたい物だけを信じて日常を永久機関の様に維持できる。
私はレストランの出口を開けた。一瞬静止する。扉を開けた先は真っ暗闇だった。夜闇とかそう言う事では無くて真っ暗で奥行きが見えなかった。まるで私が今急いて向かおうしている先が暗闇へと向かっていると知らせている様に思えた。
『どうでもいい・・・。惨めな今の私を忘れる為なら何でもいい』
そう思って私は手でクモの巣でも払う様にその闇の中に入って行った。
レストラン側で私を心配する視線をいくつも感じていたし私に関わって来た人ら大勢の重なった声が『待って』と引き留めた。私は確かに彼らの私を引き止める声を聞いたが「あんたらの所為だよ」と呟いてキュっと眉間に皺を作った。それはその言葉が私の大切に思っている人も含めてしまったので何とも言えない思いになったからだ。大切な存在であるのは間違いないが同時に煩わしさも持っている。余す所無く真に私の事を考えてくれる者など存在していない。強いて言うのならそれは私自身だけだ。
私は私が欲する時、欲する量のモノを知っている。私は私を昇華させる程信頼し同時に自分の疑うべき点を知っている。私は私の限界を知り諦めるべき時、腰を下ろすべき場所を知っている。得意な所と苦手な所を知っていてそれは決して他人や社会と違って思う様にはいかない事を許せる。優しさとは決して甘えでは無く本当にすべき事をしたりしなかったりする事だと知っている。
私のみで世界を作ろう・・・私を私へ還そう。私は全身全霊で私の為に存在しているのだから・・・。
真っ暗で目印も光のかけらも無くて踏みしめる足の感覚もまるっきり平坦で五感ではどこに向かっているのか全く分からなかった。しかし、私は揺るぎなく強固な自信があった『私は私の部屋へ真っすぐ向かっている』と。何の疑いも不安も無かった。それもそうだ一番シンプルで簡単なのだから『外界を考慮しない』これすなわち私が真っすぐ進んでいると信じたらそうとしか成り様がないのだから。
私は暗闇を進んでいる途中ある点で首を傾げた。自分の進行方向に疑いを向けたのではない。暗闇以外の存在を見つけたからだった。
幾らか距離の離れた所に細い光のスリットがあって、三人組がいた。二人は真剣に必死にそのスリットの向こう側を見ようとしていたが一人はスリットを見ようともしないで少し離れた所に胡坐をかいていた。
そんな3人組を後ろから『何をやっているのだろうか?』と見詰めて横切って行く。
途中胡坐をかいた一人と目が合ったが目が合っただけで互いに表情も行動も何もしなかった。
不思議な光景にもう一度頭を傾げた。しかし、私には何も関係ないモノで、たとえあったとしても興味はない。私がしたい事すべき事は今ただ一つだけだった。それは自分の部屋で眠る事。寝て現実と夢の境界を失う事。私は傾げていた首を元に戻し先を急いだ。
確かに意識は暗闇の中で連続していた。しかし、ふと気づいた時には誰が入れたのか分からないお茶を見詰めて自分の部屋のちゃぶ台に向かって座っていた。
私は暫くお茶を見詰める事をやめられなかった。私のと言う人生の先へ進みたくなかったからだと思う・・・。
だが溜息と共にお茶を取って啜った。熱めのお茶ででも火傷するほどでは無かった。だからぐっと一回である程度の量を喉へ流し込めた。その温度が体に染みわたって安堵に近いため息を吐いた。周りに人の気配がしないが一体誰がこんなに温かいお茶を入れてくれたのだろうか?温かいという事はお茶を入れてからまだそんなに時間が経ってないという事でなら近くにいるのだろうか?
私は立ち上がって部屋を探した。その途中にふと窓の外を見た。ここは7階なので多少景色が開けているとは思うが何か違和感だあったので窓際へ行って外を見た。
揺れていた・・・。いや行進していた。
急いでベランダへ出て下を覗いた。
象の背の上だった。街の景色や他の部屋が消えて私の部屋だけがあの巨大な象の背に乗っていた。地面は以前見た草原では無くて象の足の甲程まで水位があってそれを象が歩くたびに巨大な波を生み出していた。
いや、よく見渡すとここは象の頭の上ですぐ下に巨大な眼が見えた。私の部屋と同じくらいだろうか?真っすぐ前を見詰めて眼球は微動だにせず僅かに見える白目は充血していた。私は象の見る方向に目をやる。真っすぐ先は特に何か目的の建物とかがある様には見えなくて平坦な地平線があった。象の視線に違和感を感じて首を捻る。どこか目的地に向かっているのではなくて真下の水を見ない様にしているだけの様な気がする。以前読んだ『象の背』で主人公は象の背を彷徨っている理由を考察していた。それは 『目的がある様に見せかけて主人公を彷徨わせる』と言う物だった。まさにそんな様な気がしてならない。しかし、物事には余す事無く意味があり目的がある。だからそんな詭弁的な事で片付けて良いとは思えない・・・。
草原だった所が水位が上がっている事に何か意味があるのだろうか?私はまた『象の背』のクジラを思い出していた。そして漠然と 『クジラが来るにはまだ水位が足りないな・・・』そう思った。もう一つ思ったのは『クジラは丁度この象と同じくらいの大きさだった』という事だ。この想起が一体何の意味を持っているのかは考えても思いつかなかった。
象、女、クジラ、上昇する水位、蛹と希望と正義、魂、夢とか現実とかそんな物はもうどうでも良い。それの意味する所を考えても私に何の意味も無い。
私は重たい溜息を吐いた。
何もかもどうでもいい・・・。もう考える事に疲れた。
何者かが何かを私に伝えよとしている・・・。別の何者かに気づかれぬように風の音に潜ませて巨大な景色の片端に窶して・・・。色形は無いし五感では知れないが私には分かる・・・分かってしまう。日常の違和感に・・・。
私にどうしても気づいて欲しいようである。
しかし、もういい・・・もう無理なんだよ。
私は再びちゃぶ台の前に座ってお茶を飲んだ。そして目の前に微笑んだ。目の前にはあの女が紫の冷淡な眼で私を真っすぐに見ていた。私が何を言うのか分かっていて『絶対に許さない!!』と言いたそうな表情に見えた。
「私は・・・。何か一つ・・・。大切で重要な何か一つだけが取り返しのつかない状態にあるから夢に逃げ込んだと思っていた・・・。でもそうじゃなかったんだな」
女は尚も冷淡な目で私を無機質に見続けた。
「自分を持たず他人に思い通りにされてしまう情けない性格で、怠惰で無責任にも家族を見殺しにしてしまう愚か者で、大切な人一生惨めにしてしまう傲慢でそうしようもない人間・・・殆ど全てじゃないか?どうして夢の中に逃げ込んだのか分かったよ。私と言う人生は絶望他ならないからだ」
女は微動もせずにしかし、何か待っている様に感じた。私が出す結果だ。それを待っている。
「私は決めたよ。このまま夢の中で余生を過ごす」
女は言葉は発しなかったがグッと眉間の皺を寄せた。私の答えは間違ってないよな?だって目覚めた先は地獄に違いないから。
「煙草をくれないか?」




