象と正義と希望と目的と私
『「シッ!」
正義が細い光のスリットを覗いて、私とその後ろにいる希望に強く注意する。私は光のスリットを下から辿ってどこまで続いているのか?と思い見上げた。
スリットはどこまでも続いていて際限は無かった。
扉とか襖とかの存在は確認できない。スリット以外の場所は闇で作られていて何もない空間に遥か遠くと繋がっている細い窓があるようだった。
私たちは光のスリットの向こう側の出来事を覗き見るために身を潜めていた。
正義はスリットの向こうを指さして私に『覗いてみろ』と合図した。
「ちょうど今頃『そいつ』が接触して起点的質問をしている頃の筈だ。その質問に彼がどう答えるか?このまま夢の中で孤独と共に暮らすか?もしくは夢から覚めて現実に向き合うか?ここで彼を『現実に向き合う』と答えさせなければ、もうチャンスはないだろう」
そう言って正義はこの闇に私と希望を連れてきてスリットを開いたのだった。
私は最後には希望が物事を制すると鷹を括ってスリットを見もしない希望を一瞥してから熱心にスリットの奥を見つめる正義の頭の上に団子みたいに並んでスリットを覗いた。
私は目線を外さない様に首を傾げる。スリットの向こうでは・・・?・・・男が布団に入って横たわっていた。きっとそこは彼の家だろうとなんとなく分かった。私が玉響止まって『?』に思考を支配させたのは、部屋の異様すぎる光景にだ。布団で仰向けに寝ている男に女が覆いかぶさって何か言っている様だった。初めは男と女がキスをしている様に見えたが顔の距離が少し遠くて向き合って会話をするギリギリの空間がある事を理解した。会話は密やかでこれも又なんとなく『会話をしているな』と分かった。女の長い髪が男と女の顔と顔の空間を隠していたので何と言ったのか言葉からも表情からも読み取れなかった。その会話は大切で決意と覚悟のある者にしか聞く事は許されないのだと思った。そして男と女を取り囲む様に荒い息の屈強な男たち・・・。
女だけだったらホラー映画の一場面の様に私に悪寒と気持ち悪さを与えたかもしれない。しかしそんな恐怖の雰囲気を壊す様に男たちが居るのでこの部屋は一体どんな意味を現わしているのだろうか?と理解が追いつかなかった。ただでさえ荒唐無稽の事を言う正義が連れてきた場所だ。自分自身で理解していかなければいけなかった。私は目的なのだ。無意味な物や私に害をなす物を見定めて目的地までの道を想定しなければいけない。目的は自分自身で決めるモノだから。
私は正義の方を見下ろす。いつの間にか体に力が入って握り拳を作っていて「頑張れ」と呟いていた。
「あんたは気にならないの?」
正義が希望に聞いた。
「別に、希望ってのは安心の拠り所だよ。どんな時も僕が慌てふためいてはいけないんだよ」
正義は頭を振って呆れるだけで言葉は返さなかった。
私も男に向けて声の無い声援の眼差しを向けていた。『今君の直ぐそこには正義も希望も見守っている。真たるものと感じる方へ船を向けるんだ。そう号令を掛けてくれ。今ここで君を見ている者達は君の決めた方向へ従うのだから』
男は一つの決意を絞り出すよに述べた。
それが分かると正義は満足そうな微笑みを作って服のファスナーを閉めるようにスリットを閉めて一度暗闇の中に3人は包まれた。
きっと正義だと思う・・・足音が聞こえて10歩くらいの所で先ほどの場所とは違う場所で再び光のスリットが現れた。今度は正義がそこを潜って行ったので私と希望もそれに続いた。
部屋には女がいた。先ほどの男に覆いかぶさっていた女だ。
女の対面に3席の用意があったので私はその一つの座布団に座った。
目の前にいる女が一体何なのか?不思議に感じながら女を見つめていたらそんな私の視線に気がついて女は私の方を見た。
女の視線が私の目に入った事に私はたじろぐ。恐ろしかった。いや、、この感情は恐怖で無くて畏怖だ。
きっと女に感情なんて無くて目を瞑る事を拒否し続けて来た様に見開かれた目は魚かもしくは蜥蜴によく似ていた。無機質で冷淡な目だ。
普通の存在とは虹彩の巻き数が2、30倍程違うように思えて私は女に恐怖しているのに眼を離す事が出来なかった。
『きっと彼女は神なのだろう。獣の神だ』
私はそう思った。容易く触れては行けないし増してや都合よく使う事など出来はしない。しかし消し去る事はできない。自分の中の神秘で自分自身でも自覚する事すら難しい私を作っている大原理の一つを今目の前にして先程の恐怖は感動に変わっていた。
席についた正義が第一声を発する。
「ご苦労さん!あなたのおかげで見境なく夢から覚める事を排除する力は解除された。今度は私たちも含めて現実へ目覚める方向へ向かわせて行くわね」
女は微動だにしない。
私は正義と女とを交互に見て正義に女を紹介させる様に気づかせた。
「ああ、紹介するわ。彼は『目的』」
そう言って正義は私を手のひらで指した。女は再び私を真っ直ぐ見た。目の奥に殆ど脳まで突き刺さるような視線、私の抱く恐怖は今度は衝動と快楽に近かった。
私は眼を離さず頷くように会釈した。
女は呟くように言う。
「あなたが・・・」
すぐに正義が女を紹介する。
「彼女は理想よ」
私は正義の方を切迫した問目で見つめる。『違う、絶対に違う』そう訴えかけた。正義は私の問目に気がつきはしたが私の目がどういう意味なのか分からず左右に首を傾げてしまったので女に気づかれていないか私はひやひやした。
正義や希望にも困難や苦労を伴う部分がある。しかしそんな物可愛く見える程女は濁っていて中身は混沌が逆巻いているに違いない。私達が敵う様な相手ではないので交戦は避けたい。しかし、目的が同じく『私』を夢から現実に目覚めさせる事だと言うのなら対立するという事はなさそうだ。
私は胸を撫で下ろした。
『正義よ。なぜこの女を仲間にした?絶対と言っていいがお前はこの女に騙されている』心の中で私は溜息をした。正義とは分け隔てなく物事を見て正しい事柄を見つけようとする性質があるからきっと『もし敵になったら脅威になる』という事だけで交流を恐れはしないのだろう。それはもう大層カッコいいことではあるが・・・。
もしも正義が全身全霊全力を出す事が出来るのなら、きっとこの女にも負けないだろう。勝てないにしても拮抗した力を持っている筈だ。しかし、正義は今真の力を出せない。なぜなら正義とは自らが他者に対して行う物だからだ。今ここには他者がいない。だから正義は自分自身を正義する事に戸惑ってる。自信の無い正義など滑稽他ならない。
もし孤独の中で自分自身を正しい方向へ向けるモノがあるとしたらそれは正義では無くて『戒め』だ。戒めの方が今の状況では役に立ちそうだが、存在していない様だ。現実の私はもう戒めを必要としないので排除されてしまったのだと思う。それだけじゃない。『そう言えば・・・』と他の感情の所在も感じ取ろうとしたが、もう消失している様である。それが一体どういう意味を持っているのか?見当がつかないが・・・。
「その事なのだけれど。やっぱりここからは私一人で彼を導いていくわ」
女は正義にそう言った。
「え?」
私は、正義がこの女を理想と思って手を組んだ時の取り決めを知らないがこの会話で女が正義を裏切ったという事は分かった。
女は正義に優しく笑いかけた。その笑顔は『後は私に任せてどうぞお引き取りを』と言っていた。
正義は机を両手で叩いて半身立ち上がって声を張った。
「そんなのだめよ。最後は私達が彼を導くべきよ」
『絶対の自信』そんな物を宿した正義の目は真っすぐで曇りなく煌めいていた。正義には犠牲が付き物なのに私はそんな正義の瞳を綺麗だと思ってしまった。
しかし、女はその目が気に入らなかった。
「あなた達なんて・・・。自分の事ばっかりじゃない」
そう言って女は正義と希望を一瞥づつして呆れた様に鼻で強く溜息をした。
その如何にも『言いたい事は他にもあるがこっちが耐えてあげましょう』と言わんばかりの溜息に正義は形相を変える。
「何よ?理想なんて空っぽでしょ?存在しないから理想で只の逃避でしょ?軟弱この上ないし形も無い。何度もやり直せるし中途半端にやめる時だってある。確固たる物がないのよ。価値を持ち合わせていないのよ。彼は長い間戦って来たのだから何者かになって居なければいけ無いの何者にも恥じる事の無い比類無き強靭な存在が自分の中に居るという事がどれ程誇らしい事か、それが正義で希望でもある。自分のやって来た事が振り返ってみれば白紙同然だったなんて空虚以外の何者でもない。彼を空虚で抜け殻みたいな存在にしたいの?それが彼を称賛する事だとは思えない」
正義は正義らしい事を言った。私は胸を打たれて心の中で『その通りだ!』と拳を掲げていた。しかし正義よ目の前のそれは『理想』ではない。殆ど神に近い何かだ。一側面だけの理屈では通用しないし寧ろ逆鱗に触れてしまう。
女は目を細めて汚い物を見る様な眼で正義を見た。
「あなたはいつもそうよね。『成すべき事を成せ』そう言って無理に恐怖や不安に挑ませて何度も何度も限界を越えさせて、彼を鍛えてるつもり?何が比類なき強靭な者よそんな者になるために彼がどれだけボロボロになって答えの無い問いに何度苛まれたか分かる?それで疲弊して狼狽した彼が『成す事』をする気力が出ない時、あなたは来なかった。正義は彼を救いには来なかった。あなたは罵倒した。『情けない奴』『勇気を出せ』『常に強くあれ』と彼が死を求めた時、彼が自分を信じられなくなった時どこにもあなたは居なかった。そういう時は私に押し付けて都合のいい時だけ彼を煽てて無理させて、希望はいつだって彼の手を取った事はない。あなた達には嫌悪しかないわ。彼の事を本当に考えているのは正義じゃない。私は全ての領域で彼を見守ってきた。どう思う?きっと彼の中に正義だけがあったら『正義の名の下に』とか言って大義を果たしてすぐに死んでいたわ人生いっぱいの帯を全うさせる事が人の命にとって一番の快哉じゃないかしら?」
女は興奮ぎみにしゃべって、それを私は見ていたのだが・・・。女の頬の一部が赤みを帯びて徐々にひび割れ机の上にベトッと落ちたのだ。女がヒートアップしていくにつれて体のランダムな部分が変異して皮膚の後ろは赤くマグマの様に爛れた粘膜の様になっている事が分かった。私は再び鮮烈な畏怖を感じ震撼して『この女『理想』の皮を被った何かだ』そう思った。
正義は言い返す事が出来なかった。言っている事は確かにそうだがそれ以外に疑問があった。それは今目の前にいる女が一体何者か?という事に気づき始めていた。
「あんたは?一体何なのよ?」
女は立ち上がった。
もう今は冷静になったようで剥がれた皮膚は元に戻っていて若く白い肌の綺麗な顔立ちに戻っていた。その冷淡な顔で「ふっ」と鼻で笑ったあと我々へ手を翳した。
警戒して辺りに感覚を集中させる。翳した手がどういう意味を持っているのか全く予想が付かなかったので3人ともとりあえず固唾を飲んだ。
・・・。
?
微かに何かが擦れる様な音が聞こえた様な気がしてその音に集中する。次第に音は大きくなっているのでこちらに近づいている。
「え?」
部屋の扉の隙間から液体が溢れる様に部屋へ入ってきているのを見つけて正義が声を出す。
危機感を感じて玄関に向かったが鉄扉は何度ノブを捻ってもカギを開けても押しても引いても開かなかった。強引にこじ開けようとしていつの間に持ってきたのかバールを扉の隙間に叩き込もうとしたが・・・これは絵だった。立体感と写実性に富んだ絵だった。開くはずもないモノを必死に開けようとしていた3人はその扉の絵を呆然と見つめる。既に液体はくるぶしまで流れ込んでいた。
我に返った正義が今度はベランダの窓から出ようとして走った。強引にカーテンを開けると、足元を埋め尽くしている液体で満たされていた。私はベランダからも出れない事を呆然と見つめる正義を玄関から見詰めた。
私と希望は女がいた居間へ戻って女の方を見た。女は手を下げ直立不動で快楽じみた妖しい笑みを作ってそこにいた。女の瞳孔が開き切っているのを私は捉えて呟く「狂ってる」と。
生きる事の意義や尊厳を放棄して考える事をやめた解放感を味わっている様に見えた。降り出した雨に体が打たれて体温を奪われる事が楽しい様に失ったこと自体に快楽を得る様に失禁して身震いして恍惚の顔を私に向けていた。
拒絶と嫌悪が込み上げて私は吐き気に襲われる。この女に彼を任せてしまったらきっと衝動の赴くまま行動してすぐすり減って息絶えるだろう。だから女は長い事封印されていて存在を知らなかったのだろう。しかし、今女が活動を始めたという事は世界が持ちうるあらゆる術を行使して何らかを解決しようとしている善でも悪でも。
女の後ろから巨大な津波の様に液体が押し寄せて、私と正義と希望は押し流された。錐揉み状態で混濁する意識の中で「ピー」と高い音が遠くに聞こえた。
「ゲホヘホゲホ」
多少飲み込んだ液体をむせながら吐き出す。どうやらどこかへ排出されて着地した様だった。
荒い息をしながらどこへ抜け出たのかを確かめるために辺りを見渡す。
轟音と共に頭上を灰色の丸みを帯びた巨大なモノが放物線に通過し進んだ所で地響きを立てて下に落ちた。どうやら行進している肢体の一つであった。それ以外荒廃した荒野が広がっていた。
私達は象の外へ排出されてしまった様である。
頭上の巨大な象の行進を口を開けて見ながら私は正義に聞いた。
「あの象は一体何なんだ?」
同じく途方に暮れて象を見上げる正義は答える。
「あの中には魂が入ってる」
「魂?」
「そう、何者も触れる事の出来ない純粋な存在」
「象はどうして進んでいるの?守っているの?」
「何かから守って魂を放せる安息の地を探して行進している様にあなたには見えているの?」
「違うのか?」
「象はあの分厚くて鈍感な皮膚と巨大な肉体の中に彼の魂を囲って持ち去っているのよ。象は乗り主を安息の地に運んでいるのではなくて、逃げているの」
「一体何から逃げているの?」
荒野は夕暮れの時間を迎えたらしかった。黄金色の日差しが正義の顔を照らして目の中を鈍く光らせていた。私は象を見上げる正義を見た。悲しそうに微笑だ顔は綺麗だった。
「答えからよ」
私は正義に見入っていた所為か?それとも正義の回答が茫漠としていた所為か?私は言葉を返さなかった。
「理想もどきが言っている事は正しいのかもしれないわね」
正義はそう口からこぼした。
私達は暫く象の行進を眺めていた。
象が普通の象の大きさに見えるくらい遠くへ行った頃に私は特に誰と無くきいた。
「これからどうする?」
正義はこれには答えなかった。象から視線をずらし広大な荒野を一回転眺めた。
「この荒野は初めから荒野では無かったの・・・。複雑で底知れぬ闇や歓喜を帯びた立体で騒々しくも微笑ましく悲しく冷たくすし詰めに複雑に血が通い躍動していた・・・。でも今はみんな消えてしまった。残ったのは私達3人だけ。みんながここにあった事、忘れてはいけないの。だから最後に残った私たちがしなければいけない、彼が彼であった証を取り戻させ再び『私』を完成させるの。何が正しいのか正しくないかなんて結局正義である私にも分からない。でもあの女は間違っていると私は思う」
私は正義を見つめ続ける。
「もう一度象の中に戻るに決まってるでしょ」
正義は進んだ。私は「当てはあるのか?」と登山家の様に焦らず着実にルートを進んでいく正義の背中に聞いた。正義は答えずその背中から長い旅が始まるのだと覚悟する。
進む所、荒野はどこまでも荒野だった。何日も何日も私達は歩いた。私は『結局、象の背を彷徨っていた時と同じく目的は彷徨っている』と何度溜息を吐いた事かいや何千度と言っても良いかもしれない。
正義と希望と目的は道中殆ど黙していた。そんな長い時間の中で2つ不思議に思った事があった。
一つ目は、巨大な象の中から私たちを追い出したあの女は、どうして私達と敵対したのか?という事で、よく考えたら女がしている事は『私』の弱い部分を克服し勇気をもって成すべき事を成させようとしているし、父を救えず自信喪失している『私』が孤独に走って共に生きるべき他の家族を父に代わって導く事を重荷にして拒絶している事を分からせてそれは間違っていると言っている。
そうなのだ。あの女が『私』を導いている先は紛れもなく正義なのだ。しかし正義と手を組む事を拒んだ・・・。一体どうして?理由が分からない。正義と共に『私』を導いても何ら変わらないと思うが?
もう一つは、どうして希望が居るのか?という事だ。この旅で正義が野営の支度をして私も手伝った。しかし希望はふんぞり返って何もしない。只後ろから付いて来るだけだ。どうして希望が最後に残ったのだろうか?『私』の中の希望とはなんだろうか?
「ん?」
正義の後ろで歩いている私は声を出してしまった。正義はそれに気づいて振り向いて私を一瞥し何も返さないで再び歩き始める。
私は首を傾げる。あの女が『私』に試練の様に与えた事柄をなぜ私は知っているのだろうか?そんな場面を私は記憶していないと思うが・・・。目の玉を上へ向け何日間か思い出そうとしたが記憶は見当たらなかった。
考え始めてから2、3週間して不意にそして強引に答えの様な言葉が浮かんだので呟いた。
「そうか・・・あれは夢の記憶だったかもしれない」
正義は再び私を一瞥する。そしてまた同じように歩き始める。
私達は何年も何年も歩き続けていた。正義はずっと遥かと遠くの一点を見詰めて疑わず弛まず歩みを進める。私は朦朧としながら只々正義の後を歩く。何年か前から希望はずっと同じ事を反復して呟いていた。「20、20、20、」それで一区切り「50、100、150」その二種類を呟いている。「一体何の数字なの?」と尋ねるのと「希望の数字だよ。ほら数が増えて行っているだろう?」と答えるばかりで私は不憫そうな目で希望を見詰めた。
「どうした?」
私は急に走り出した正義を心配そうに窺う。
正義は「ほら!」と言って走る気力のない私たちを置き去りにして走った。
正義に遅れて私たちは正義の見るモノを捕捉する。
頭上に広がる青空が水平線と交わっている今まで永遠に見てきた景色だと思ったが・・・私はそこに立ち竦んで目を細めた。
海だった。
いつの間にか足元は砂地になっていた。朦朧とした意識のでは荒野と砂地との区別がつかなかった様で全く気が付かなかった。
どうやら私たちは荒野の際限に辿り着いたようである。どうしてか知らないが海だからなんだというのか?私は泣きながら笑って、前を走っている正義に追いつこうと歓喜と共に走った。希望もだった。
空と海が交わるその一つの線がこの上なく綺麗だった・・・。
どの位地平線を見ていただろうか?刹那の間だったと思うけどここまでの道のりと同じくらいの時間だった様に思えた。寄せては返す波の音とごわごわと強い風の音を聞きながら私は目を閉じた。
光の輪が瞼の向こうで凪いで動いているのを感じた。私は水中をゆっくりと沈んでいた。仰向けに目の前には水面で陽光が輪を作っていた。呼吸が出来なかったし身動きは制限されて思考が深海に近くなるにつれて光が届かない暗闇に近づいていくように薄れていくのを感じたけどまるで眠りに落ちていくように狭窄する『私』が心地よくて抗う物ではないく自然なモノなのだと分かっていた。他の魚や刺胞動物の類もいなかったしプランクトンや海ゴミもなく澄んでいて浅瀬も海食崖も海溝も底も無かった。淡く青い巨大な空間を私は微速に落下していた。
不意に僅かな反動を体に受けて私は揺らいだ。冷たく震える様な音が聞こえて私は『何だろうか?』と思う。どこかで見た潜水艦の映画の中のソナーの音に似ているなと考えているとだいぶ下まで降下した私の頭上を巨大なクジラが無音のまましなやかに悠々と泳ぎ出て来て壮観なまでの優雅な体躯に見惚れた。クジラはあの巨大な象と同じほどの大きさだった。先ほどのソナー音はこのクジラが声を出しているのだと理解する。
他のクジラは見当たらない。
クジラは巨大な眼をちっぽけな私を見るために横に付けた。
きっと畏怖からだろう私に緊張感が走って私に興味を持ったこのクジラは一体私に何をしようとしているのだろうか?
しかし、クジラは何もしなかった。なんとなく分かっていた。クジラの瞳は何も感情を帯びていなかった。初めから無いのではない。存在しうる感情を全て征服しその後至る目をしていた。それは虚無だった。私は目的として聞きたい事があったが口からは泡が出るだけで発音できなかった。『目的を持たないのに存在している事それは無意味ではないだろうか?空虚な自分に気が付くだけで存在を失って消えたいし消えてしまうのではないか?』と聞きたかった。
低くて落ち着いた心地よい声だった。実際には音は出ていない。私の頭の中に直接言葉をくれたそれは目の前のクジラだった。
『自分自身に意味があるのか?と考える事に意味がある。無意味な者は存在してはいない。ゆえに存在している事自体に意味があるのだよ。香しい。君は今完成しようとしている。君と言う唯一無二の存在。君だけか獲得した素材で君は合成され君だけの匂いがする。かくて果てには何故?目的が残った?目的よ、君が見つけるモノ、それを見つけたら私は再び現れ君を無意味な世界へ連れ去ろう。人は何らかの目的を持って答えを欲する存在だ。もうすぐそこだ。最後の目的を君は見つけようとしている。君がいる以上今、答えには辿り着いていないのだ。見つけよ、己とは何か、何であったのか』
この巨大なクジラに対する疑問が多くあった。一体何者なのか?敵か?味方か?捕食者か?嘘を言っているのか?真実を伝えているのか?
しかし、その疑問をクジラに問う事は無かった。それはこのクジラが『待つ者』だという事を茫漠と理解していたからだ。私に善くも悪くも何もしない存在で只私がある段階に達した時官僚的に定められた手続きをするだけのモノだという事だ。それはどうあっても抗う事の出来ない巨大な事象で、もしその事柄を変更しようとするのなら、只その事象を見詰める私自身の解釈の角度を変える事しかできない。不変で不動で言葉で表現できない巨大な神秘を私は知覚する。きっとこのクジラは私以外の存在だと感じる。
?
漠然とではあるが一瞬線と点が繋がったような気がした。このクジラには見えている最後の目的の場をあの女も見ている気がする。そして私はそこへ向かって道を進んでいる気がするのだ。
その点と線に記憶とか予想とかを駆使して『私は居間どこに向かっているのか?』という事を具体的で考察しようと思考に集中していた所為か?気づくとほんのり赤黒い視界になっていて、遅れて『今見えているのは瞼だ』と気が付いた。強い日差しが瞼の皮膚を透けさせていたので真っ暗では無かった。先ほどの深海で体が冷えたのか?太陽の熱が心地よかった。
私は砂浜にいた。
正義は波打ち際で日差しを遮る様に手を目の上に置いて海の先を見ていた。
私は安堵の息をついて、深海にトリップしたあの瞬間は一体何だったのか?恐怖と共に疑問を反芻して消化しようとするが訳が分からなかった。あれは何かの白昼夢だったのだろうか?それとも実際存在している領域だったのだろうか?
きっと考えても証明のしようが無い事を理解して正義の方へ歩み寄った。
「何やってんだ?」
『クジラを探している』と言われそうで怖かったが違った。
「あの子がいる筈なんだけど」
「あの子」
私も辺りに目を走らせる。
「あ」
少し離れた所で扉を持った女が海の方を見詰めて立ち尽くしていた。
私の声に正義も同じ方向を見て「いたいた」と呟いて含み笑いをした。
私達が近づくと女もこちらを見詰めた。やはりそうだ。私が象の背で出会った女だった。しかし象の背で会った時とは雰囲気が違っていた。落ち着いていて、私に目を合わせた時には優しく微笑んだのだ。
「間に合ってよかった。扉を繋げて欲しいの」
女は一層笑って、担いでいる扉を突き刺す様に砂浜に強く置いて聞いた。
「どこへ行きたい?」
世界の終わりみたいな顔はどこへ行ったのやら女は落ち着き払って超然としていた。
「魂のある所」
女は一層笑みを強めて声の無い笑いを作った。その笑いは『そんな事出来る訳ないじゃん』と皮肉っている様にも見えた。
女は扉から手を放し私を一瞥して海の方へ歩いて行った。扉は思ったより深く砂に入っていた様で女が手を放しても自立してそこにあった。
私は「おい」と呼び止めたが女の耳には届いていない様だった。私は問目を正義とに向け『あの女は大丈夫か?』と訴えた。
「ああ、あの子は丁度消滅する所ね。消滅する前に会えてよかったわ」
「消滅?どうして?」
「理由は分からない」
「そうか・・・あの女は一体なんて名前なんだ?」
「『閃き』よ」
「そうか・・・閃きを失ったか・・・」
私は扉を見詰める。閃きは「繋げられない」とも「繋げておいたわ」とも言わなかった。この扉は本当に『私』の魂のある場所へつながったのだろうか?そんなに簡単に何者も触れる事の許されない真たる領域へ繋がったのだろうか?
私は腰まで海に入っている閃きに視線を向ける。閃きがゆっくりと沈んでいくのを見守った。すっぽりと全身が海に消え閃きの着ていた服の色が波にぼやけて見えていたのももうなくなった。その時に遥か遠くの海原で海水が吹きあがるのを見た。きっとあのクジラだろうと私は思って、あの噴水は捕食的歓喜だろうか?それとも消失する存在への手向けの涙の様なモノだろうか?それとも只、慣行儀礼であるだけのモノだろうか?
「行くわよ」
クジラの噴水に囚われていた意識を正義が目の前の現状へ引き戻した。私は「ああ」と低く頷いた。
私は希望と正義と共に扉を潜った。』
ここでページと章が終わっていて、先ほど読み終わった章題は『足掻く者』であった。
普通なら続けざまに読み進めるだろう。だって凄く気になる章の終わり方だったから、しかし私は一度本から目を離し空と街の凸凹の境界線を見詰めた。その遥か先には海があるだろう。そこで4人と一頭がいる海辺が実際ある様な気がした。この本に出てくる者は実際、私のいる現実のどこかで存在している様な気がした・・・。
などと考えながら煙草を取り出して火を点けた。
たしかに・・・どうして?女は正義と希望と目的を排除した?女がしようとしている事は、文中『目的』が言っている正義の道を『私』に示そうとしている、なら正義と女とは目的が同じではないのか?女は一体何をしようとしているのだ?
後はクジラだ。クジラは突然現れた様に思えるけど『海水の中で巨大な影』などそれらしき描写があって、まるでこの物語の行方を見守っている神の様な存在ではないだろうか?そして重要なのは、目的が女とクジラを同等の領域の存在だと感じ取った事で、その根拠は女とクジラが最後の目的の場が同じく見えていると直感した事。
そして私が思うにクジラはおそらく死だ。死と言う概念を一つの存在として認識できるようにしたものだ。
私は突然思考に急ブレーキをかけて頭を無意識に支配させ虚ろな目でベランダから広がる夏を見ながら煙草を何口か吸った。どうやら私の意識では認識できない領域でバックグラウンドの計算をしている様だった。
そして漠として呟く。
「どうして?感情が徐々に消滅しているのだ?そんな状況とは一体どういう状態の時に起こる?」
又バックグラウンドで私でさえ理解できない計算式が捉える事の出来ない高速で演算している様な感覚を得て、煙草を吸った。
「どうして、喜びや怒り哀しみや楽しさと言った単純な感情では無くて、複雑で複層的な『正義』と『希望』と『目的』が残った?」
正義とは確かに感情を持ったまま感情を捨てる様な鬼心を行使しなければいけないものであったりもする。性質上、正義を成す事を決めた後に感情を失っても正義とは残り続け勝手に執り行われ体を動かしてしまう物だ。そりにきっと、最後の時は正義でありたいと願っているのかもしれない。
希望は言うなれば、自身のモノではない。自分自身の外に存在しているモノで、それを見る私と言う視点があるからこそ存在するものだ。希望は性質上、手に入る物ではない。希望とはまだ果たされていない事を果たす可能性が存在する事を認識する事で、果たされてしまえば希望では無くなってしまう。という事は感情よりも単純で明確でいて強烈な印象を持った可能性を有する存在が存在しているな・・・。感情よりも単純・・・。
記憶?
希望は自分自身以外の存在だとするのなら、感情と言う立場ではないだろう・・・。感情より単純で明確で強烈・・・。強烈に心に刻むような他人の存在が記憶と言う写真に心情と印象を付与した様な?
記憶か?たった1画の記憶なら容量を取らないつまり単純だ。簡単に複雑な感情を付与できる。
となると・・・記憶の中に強烈な印象を持って可能性を持った存在がいるという事になる。それは思考もしないし行動もしない自分自身以外の存在が単純で強烈に残っているので、希望はこの期に及んでも存在しているのだろう。只あるだけで『私』に意義を与える存在・・・。だから希望は重要なのだ。
「目的は?何だ?」
そう呟いて新しい煙草に火を点ける。
目的・・・。目的・・・。目的は迷っている。象の背の上を彷徨っている時は自分自身の目的も分からずしかし只ひたすらに目的を求めて進んだ。目的は『象の背』と言うこの小説の主人公の視点で彼には思考が与えられ選択肢を与えられている。彼から見る他の描写物は、彼の思考と選択を決定するための参考物でしかないように思う。
色々な事象を観察し考察してから、目的は『私』が進むべき目的を決定するのだろうけど、もしかしたら一度決めてしまったら取り返しのつかない行為なのかもしれない。だから、目的は積極的に動かず流れに身を任せて今は様子を見ているかもしれない。それにクジラが『最後の目的』と言っていた事が、『私』には切迫した時間的リミットがある様に思える。
?
夏の匂いと私自身の煙草の匂いの中に違う匂いを感じた。煙草には違いないが、銘柄が違う様な気がした。
私は左へ首を振った。
各部屋のベランダは繋がっておらず間に1メートル足りないぐらいの壁に沿った隙間があった。だからコの字型に転落防止の柵があって隠す人もいれば何もしない人もいた。私と左隣りさんは何も覆いをしないタイプだった。
こちら側に向いている柵に肘をついてこちらをニヤニヤ嬉しそうに眺めながら細い煙草を吸っている女がいた。
私は一度視線を外し『何か可笑しな仕草をしてしまったのを見られただろうか?』とついさっきの私の動作を頭の中で確認する。本を読んで煙草を吸って遠くをじっと見てその前は眠っていた・・・特に恥ずかしい事はしていないな。それを確認して私はうんうん頷いた。ならなぜ?女は私に笑いかけてくる?違う日か?違う日に私の奇行を見られてしまったのだろうか?その事を今私を見て思い出して笑っているのだろうか?確かにぼーとしている事がたまにあるからそんな所を見られてしまったか?
私は女の笑みの理由が気になって来て、殆ど口を利いた事のない隣人の女に話しかけた。
「どうして笑っているのですか?」
女は笑いを止めた。
「いえ、すいません」
理由を言わずお茶を濁した女を怪訝そうに一瞥して煙草の箱を強く叩いた。ソフトだから。飛び出てきた煙草を一本抜き取って火を点けた。
「なんなんだよ・・・」と女に聞こえない様に呟いた。
半ば睨むように見た後苛立った様に煙草を吸た男を装って女に見せた。だってまだ一人で感慨に耽って遠くを見たり本の続きを読んだりしたかった。今は一人の静かな時間を享受したかったのだ。
女から視線を逸らして視野外にやって暫く『話しかけてくれるなよ』と言うオーラを出しながらしかし女の気配を気にしつつ又一人になるのを待った。その間音もしなかったので、きっと女は部屋へ入っただろうと思ってもう一度女の方を見た。
『もう・・・なんだよ』私の顔はきっとそう言っていたと思う。
女は変わらず縁にへたれて煙草を吸ってこちらを見詰めていた。
私は鼻で溜息を強く吐く。
「何ですか?」
「それ」
「はい?」
女は顎でテーブルの上の本を指した。
「どこまで読んだの?」
「はい?関係ないでしょ。私は静かに一人で読みたいんですよ」
「そう・・・。決して私は消えたりしないから」
「はい?」
「感情が消えていかなかった?」
「は?」
女がさっきまで読んでいた本の内容について言っている事を遅れて理解する。
「この本を読んだ事が?」
どうして私が読んだ所が何処なのか分かったのだろうか?と考えながら女に質問した。
「いえ、無いわ。でも本当にそれは本かしら?」
「どう言う事です?」
「その言葉の羅列は文字と言う領域を出ないのかしら?」
「いや、言っている事の意味が分からないのですけれど?」
「もし、その文字が本と言う領域を出るとしたらどういう意味だと思う?」
「意味?」
「本当に何も心当たりがないの?」
そう言って真剣に考えている私の顔を女は笑った。
「もしもこの文字の羅列があなたの事だとしたらこの小説には娯楽以外の意味があると思わない?」
女があまりに突飛な事を言うので「私の?」と言って私は笑った。同時に女に軽く狂気を感じた。誇大妄想にも程がある。この本は大量生産された私とは何の接点もない只の娯楽だ。私は玄関扉の鍵をなるべく鮮明に記憶の中から思い描き鍵がかかっていた事を確認した。隣に訳の分からない女が住んでいるなんて・・・。戸締りはしっかりしようと決めて、ベランダがくっ付いていない構造で良かったと思った。
「続きは読まないの?」
「一人になったら読みます」
「今すぐに読まないと暫く読めないと思うけど」
「どうしてそう思うんですか?」
「ほら」
又女は本を顎で指した。
何が「ほら」だよ。本は動かないし賞味期限もない。読めなくなる何てことあるわけない。意味不明に私を揶揄っている女を睨んでそれでも女は本を見る様に勧めてくるので、私は仕方なく首を捻って本を見た。
「え?」
本は閉じられた状態でテーブルに置かれているのだが、その閉じられたページの間が淡く光っていた。私は本を開く。
ぺージを作っている紙は変わる事無く白色で、しかし、文字が金色で光の濃淡があったので、『動いている』と震撼した。そう文字は光っていた。蠢いて波打ってこの本に収められていいる事が窮屈で耐えられない様に身を蹴って今にも外へ飛び出しそうだった。
「どうなっているんだ?」
私は文字たちの蠢きに気を取られて、本を閉じるという事を忘れていた。文字が動く理由を考える領域と理屈無しに対処する方法を考える領域が同時に仕事をしていて『そうだこの中の文字を逃がさない様にするには本を閉じなければ』そう思いつくがとっさに私の手は動かなかった。
文字は黄金色に発光してまるで生命エネルギーを帯びている様だった。文字は浮き立ち躍って紙から離れた。私はページを掌で抑えて文字が逃げない様にするが僅かな隙間からも溢れ出た。世界の空間に溶け行って探し出すのは不可能な所へ行ってしまった。
最後には表紙も中身もページ数さえない真っ白な紙の束となってそこにあった。その形も次第に透けて終には無くなってしまった。
白い紙の束が骨の様に見えて徐々に透明になって無くなって行く所を見てなんだか人の死に似ていると茫漠と思った。
「もう二度と読む事は出来ないのか?」
「いいえ。今あなたが読む事が出来る所まで読めただけよ。今はその先を読む事が出来ないのよ。だから消えてしまった。それだけの事」
それは?一体どういう理屈だ?私の知っている宇宙法則や原理によって作られている世界でその理屈は理解できない。物体の状態がそれを求める者の器量によって消失したり出現したりする事をさも平然と女は当たり前と言った。
巨大な疑問符が頭の中で巨大な振り子の様に往復運動をしていて、私は真下を見詰めてその往復運動を唖然と見つめた。
閃いたように女を勢いよく見た。
まずは女の言う事が本当か嘘かという事だ。只出鱈目を臚列しているだけの嘘なら、只女は狂人という事だけで女だけが事象の地平線を越えただけの事で、私や世界は何の変哲もない日常なので関係ない。解決策は女と関わらなければいいだけだ。
しかし、しかしだ。もし女の言う事が本当だった場合・・・これは事だぞ。
そうすると全く新しい未知の宇宙法則の事象を今目の前で見た事になるか、もしくは女が宇宙法則を変更できる力を持っているか・・・それか・・・この世界が私の知る宇宙法則を帯びていない世界か。どれにしてももし女の言う事が本当なら今目の前に展開されているこの空間と時間と物体が現実かどうか曖昧になって来てしまう。
白骨と化した『象の背』があった場所を暫く眺めて女に聞いた。
「君は一体何者なんだ?」
女はその質問に答えなかった。
「あなたはもう分かっているんでしょ?私が何者か?という事と何をしようとしているのか?という事」
私は首を傾げて一応記憶の中で女を探して女の性格から鑑みられる行動予測を考察できないか?と頭の中を何周かぐるぐる巡って見たが・・・女が見つからなかった。
「君と私は初対面だよね?お隣さんだけどあった事は無かったと思うけど」
女は微笑んだ。
「あなたがまだ無邪気な子供の頃、私はあなたと共に自由だった。でもあなたが自分自身を諌め戒め他者と協調する事で生きる事を許されると理解して鎧や仮面を装った時、只自身の赴くままの衝動は悪だとか愚かだとか惨めだとか決めつけて抑え込んで私を閉じ込めたのよ。それ以来かしら、こんなに枷の無い状態であなたの目の前にいられるのは」
一体何を言っているのだ?やっぱりこの女は狂人で、話す事に合理性が無くて支離滅裂で要点が無い。
「何を言っているんだ?今目の前にいる君と言う存在は私とは個別の物で、共にいた?私が君を閉じ込めた?一体全体何を言っているんだ?私は君にどんな枷を嵌めたっていうのだ?」
「あなたは自分以外の存在に価値を与えた。時には自分を越える価値を、だから自分を犠牲にしたり他人の喜びを自分の喜びに変えたり哀しみを分け合ったりした。でもそんなのおかしいじゃない?自分自身より自分にとって価値のある物なんてないと思わない?・・・でもあなたはそれが普通だと思ってそれを犯す事の出来ないルールにして生きて来た。そのルールーが私にとって枷なのよ。私の存在理由の消失なのよ」
頭の中で女を探しているぐるぐるは今も廻っていて角度を変えて真横に見るとそれは下に尖った円錐状の螺旋軌道を取っていた。次第に深くて曖昧な所からも情報を拾って私は解を見た様な気がした。
「そのルールの一部が正義と希望・・・」
「そうよ私を縛る枷の一つがそれ」
螺旋はもう個人の意識では計算できない程些細で膨大なとりとめもない大量の記憶を巻き込んで計算式のイコールの向こう側が計算式よりも膨大になっていた。現実の世界に仕事を出さない無意味で虚数域の可能性に私は気が付いた。
「ここは?『象の背』の中なのか?」
女は嬉しそうに笑った。
「正確には違うわ。その本はあなたの中にある集合的意識の一つ。言ってしまえばここにはあらゆる存在に隔たりが無い。時間も空間も物体も進みもしないし膨張もしないし綻びもしない。言うなれば一つの塊。全てが限りなく一点に重なり合って同じ時間、同じ場所、同じ存在。だからあなたが『象の背』と言っている本もここと同じ次元の存在で途切れることなく繋がっている」
私はバカにするように笑った。女が誇大妄想狂である事は私の中で確定した。それにしても構想が壮大でSF小説にしたらけっこう売れるのではないか?と思うくらい巧妙だったので、女に付きあって少し話をしてみたくなった。
「じゃあ、『象の背』の中で男が黒い便を出した所には一体どんな意味があるんだ?それに君はあの謎の女だって言うのか?正義と希望を裏切って、7階の窓から飛び降りたけど不死身で老い若いをコントロール出来て時間も止めれるっていうのか?」
「あなたそれ全て今読んだ本の内容だと思っているの?」
「え?そうでしょ?」
「全く自分とは関係ないようにして本に収めて自分から切り離したのね」
私は腹を抱えて笑って柵に手を付いた。
「一体何を?」
「現実をよ」
又私は大笑いする。
「私から現実を切り離したら、きっと今ここでまともに人間としての意識を保っている事は出来ないと思うが?」
「克服すべき弱い自分も、後悔を教訓に支配すべき家族を守って行く覚悟も中途半端にして忘れてるって言うの?」
「それは本の内容だろ?」
「今、あなたがすべき事を見失って考える事を放棄している」
「すべき事?」
「夢から覚めて現実の問題を解決する事よ」
確かに『象の背』ではそれが本線の目的だった・・・と思う。
「それも本の内容じゃないか?」
「忘れてるなんてそうとう精神的に来てるわね。昔の私なら『忘れてもいいのよ。自分が壊れるぐらいなら諦めたって良い』って言うけれど、そんな状況じゃない。早急に問題を解決する必要があるのよ」
私は眉間に皺を寄せて焦点を失っていた。どこまでが本の内容だっただろうか?と考えた。全部だとしてそうなら『象の背』の話が思い返すと繋がってこない。きっと眠りこけながら読んだ時もあったので夢や記憶が混ざっている様な気がした。一体どこまでが記憶でどこまでが夢でどこまでが『象の背』だったのか頭の中で分類しようとするが、おかしな事に切り離す事が出来なかった。一塊になって今ここにいる私と『象の背』を読んだ内容の記憶が二つ存在している事は認識できるのだが、そうすると私には記憶が無かった。私の持ち合わせるべき生きて来た経験、それが無いのに私は意識を続け思考を確かに持っていた。
私は再びテーブルに打ち捨てられた真っ白の紙の束があった所を見詰める。テーブルに本の輪郭が微かに分かる程度灰が四角く残っていてそこに何かあった事だけを残して何も無かった。まるで私の様だった。
凄い勢いで遥か長い距離を景色が引き延ばされる程の速さで飛び駆け抜けていく映像が頭の中で映って理屈や過程無しに漠然と茫漠と呟いた。
「つまりここは夢か?」
女は笑った。
「そうよ」
頭を振って頭を抱えて混乱する私の姿を見てきっと女は微笑んでいるんだろう。
「分からないな・・・どうしてこんな事が起きているんだ?」
背後の気配にハッとそちらを見る。女が私の方のベランダにいて、外を見ながら煙草を吸っていた。どうやって来た?ベランダを飛び移って来たのか?いや・・・ここは夢だなんだってありだ・・・。
「あなたは、信じるべきものを決めようとしている。自分は何の人なのか。何にも揺らぐことなく成すべき事を成すための信念と理念を明確にしようとしている。何が悪で何が善かを越えて善悪の向こう側、正しい道とは何か?揺らぐ炎では無くて閃光、揺らがず迷いなく誰も追いつかない速度で行使するための理由をここで決め現実を征するの」
「どうして?」
女は私に顔を寄せた。もう少しでキスできそうなくらいの距離まで来て自分の吸っている煙草を私の口に差し込んだ。
「最後は正義でありたい?」




