二つ目の理由
私は一口にコーヒーを流し込んだ。喉を鳴らしてここにいる理由を無くしてしまった。別に動作は急ぐ事はない。逃げるのではないのだから、自分の行きたい所へ移動するだけの事だから・・・。ゆっくりと立ち上がってレジに向かった。
「すいません」
会計をお願いするためにそう言って女の方を見た。
私は首を傾げる。女は静かにカウンターに座って穏やかな顔で何を見るでもなく目の前を真っすぐ見て湯気を立てているコーヒーを両手で持って息を吹いて冷まして一口飲んだ所だった。
私は女が可愛くて微笑んでしまった。直ぐに私の声に女はこちらに来て会計をした。
「もう行ってしまうんですね?」
女は私に笑顔を作ってそう言った。
「ええ、どうしてか分からないが、私が私であるための人生の記憶が無くてね。今はそれが無くても困ってはいないけど、私は私でいたいんだよ。たとえ情けなくても愚かであってもそれ全部で私と言う存在なんだ」
「そうですか」
「私は私の所へ行くよ」
「お気をつけて」
眼元は疑問を帯びて口元はぎこちなく微笑んで『この人は急に何を言っているのだろうか?でも私とは関わりのない人だから否定する必要はない。とりあえず笑顔で送ってあげよう』と女の顔はそう言っていた。
私は女に笑い返し喫茶店を後にした。もう少し静かに『象の背』を読める所を探して町を散策し始めた。
一体私は喫茶店の女になぜ?あんな事を言ったのだろうか?だいたい今まで生きて来た記憶も無いのに勝手に私は私を取り戻そうとしている。私の記憶が無い私など私とは赤の他人に等しいのに。などと考えながら歩ているとまるで町を貫通している様な穴があった。
の穴の壁は薄暗くて明かりも無かった。中を覗くとそんなに長くも無く100メートル先ほどに出口が見えた。半円の穴の先は真っ青で見ていると雲が通り過ぎて行ったので空の青だと分かった。穴の先の静寂と仄寂しさが妙に私を引き付けて私は穴の中へ入った。中は冷たい風が高い音を鳴らして吹いていて雫が鼻をかすめて落ちて行った。壁は地下水がしみ出したように水を這わせて流れる音がした。なぜだか私の心は澄んでいくように心地よかった。
穴を出た先は晴天だった。生ぬるい風が吹いていてきっと今は春だろうと唐突に思った。どうも先ほどいた町は丸々巨大な建物の中にあったようである。その外壁を私は見上げた。灰色でだいぶぼろぼろに劣化したコンクリート?だろうか?私はその壁を撫でた『こんなにボロボロになって・・・』私はこの巨大な建物が老朽化してしまった事をどうしようも無く憐れんで最後には『ありがとう』と頬を壁に擦り付けていた。
ここは2メートルほどに幅の外廊下で例えば学校の屋上の様に柵がしてあった。私は柵の方へ行って外を眺めた。外の景色に私は唐突に唖然とする。
「動いている・・・」
そう呟いた。
丁度夕日に照らされて薄黄金色の低い草が風に靡いていた。下にあるのはその草だけで平地が地平線まで続いていた。まるで金色に輝く広大な海を巨大な船で航海している様だった。そして私が乗っているこの建物が動いていた。体を乗り出して真下を見ると巨大な灰色の足が見えてそれは歩行していた。
きっとここは『象の背』の上だろう。唐突にそう思った。そして象の上以外に文明は存在していないという事が分かった。
象の後ろの遠くから地面を青く染めていくのが見えた。象はその事に気が付いたのか一旦行進をやめて青い液体が流れ込んでくる方へ向きを変えた。
私は目を凝らしてみる。
「海水だ」
金の草原を侵食していくのは海水だった。スピードはすさまじく、もう象の足まで達していた。
「パオーン!」
象の叫びが耳を劈き、反応できなくて遅れて耳を塞いだので耳がじんじん痛かった。
「何かいる?」
私は海水の中に象と等しい程の大きさの影を見た。
明らかに象は恐れていた。
後は今までの全てが逆巻いて全員集合の抽象画の波みたいなモノに私は呑み込まれてきりもみ状態でそこから何とか上とか下とかを認識しようとするけど何が何だか分からないままだった。それでハッと目を覚ました。
私は酷く荒い呼吸をして焦点もなく目を見開いて空を仰いでいた。髪を撫でられる感触があって目の玉を一周させて状況を確認した結果・・・私は女に膝枕されていた。ほぼ全能に近い超能力を持っていてメイドの恰好で煙草を吸ってウインナーコーヒーを私に提供したあの女だ。
「どうなった?」
私は一体どの地点の私なのか?今私にある目的と手段は夢から覚め原因を克服するという事で自分自身を守るためには他人をはっきりと拒否する事が必要だと言う所まで知っている。この地点が夢から覚める過程の最も最新の状態だろうか?そして、ここまでが合っているのか否か知りたかった。
「大丈夫。あなたはあなたを見失っていない」
「そうか・・・と言ってもこれからどうすれば良いのか分からないよ」
私の口からはそう出たが本当は『もうこれ以上進みたくない』と言っている。言葉以外の全て眉間の皺や懇願する様に涙さえ流していた。でもそんな自分が情けなくて腕で顔を覆った。しかし涙を止める事は出来なかった。
「自分を愚かだと認める事は辛くて苦しい事、自分自身の意味を失ってしまう危険もある。でもあなたは自分の愚かな部分と対峙し認めた。自分の意味を失う事無く克服しようとしている。今のあなたより強靭な存在になって中途半端になっていた全てを解決する術を持った存在になろうとしている」
女は私の髪を撫でて優しく言った後遠くに目をやった。
私は泣きべそのまま聞く。
「愚かだと認める事は辛くて苦しいし廃人になってしまう危険もあるのになぜ?私は目覚め無ければいけないの?」
「なぜって?それは私のためでもあるしあなたのためでもある。あなたがあなたであるために勝ち取ったり犠牲になったり悩み続けたり崇めたり征服したりしてきたあなたを作る全てのあなた達のためにあなたが生きて来た全ての苦悩と歓喜に意味を持たせなくちゃだめだから」
「私が目覚めなくて良いと言っているのに?」
「結果が怖いのね?」
「そうじゃないんだ・・・」
「何もしなければ自分の所為じゃないものね?」
「別にそう言う訳じゃないんだ。もしも誰にも迷惑を掛けずに私の中だけの話なら別にこのまま夢の中に閉じこもって居る選択も在ると思って」
女は優しく微笑んだ。
「今ここで立ち止まって居れば状況は停止したまま困難を迫られなくていいし間違った選択をして収拾のつかない結果に陥らないと思っている?」
「・・・」
「『後悔とは、何かが失敗に終わった事よりも中途半端になってしまった時強く感じる』もしあなたがしなければいけない事を只見ていて過ぎ去ってしまってそれが大量に集積したら解決する術のない巨大な困難になる。そうなってからではもう遅いのよ」
「・・・」
「良いのよ。間違ったって正解なんてどこにもないのよ。あるとすれば失敗の向こう側にあるから、踏み出さなければ」
「・・・」
私が沈黙して初めは焦燥感と情けなさが私を支配したが次第に怒りと叫びが私を征服していった。
「怖いのは自分自身なんだ!」
急に叫んだ私に驚いて今度は女が沈黙した。
「・・・」
いくばくかの後、女は悲しそうな顔で下を向いた。
「そうよね・・・」
私は答えない。只怒りに似た荒い息をしていた。
「人は光も持っているけど闇も持っている。その量は誰でも同じだけ持っているけど、目を向ける方がどちらか、見詰めてとらわれる方がどちらかでどちらかの森で迷ってしまうのよ・・・。今あなたは闇に支配されているのね。その闇の森の中で迷って出口を見失っている」
「・・・」
「そうよね・・・。だって夢の中に閉じこもるくらいだから」
私はこの問答に溜息を吐いた。もっとはっきりどうすれば良いか?教えて欲しいだけだったから。そうすれば何も考えずにそれをすればいいのだから・・・。それも又私を無責任と言って『私の消失』というのだろうか?
「大丈夫、決して闇があなたを征服した訳ではない。光に目を向ければいつでも光の方へ戻ってこれる」
「そう言うモノかな?」
「あなたが光の方を見詰めてそちらへ進もうとすれば必ず光へ近づく。どんなに深い闇に降りてきてしまっていても、絶対無理と言われるような境遇の中でも」
私は又違う溜息を吐いた。屈託した溜息でその次には立ち上がった。
「物事はなる様にしかならないし、人はできる事しかできないのよ」
私は笑った。その言葉は私が言ったものではない事を今思い出した。
初めに出てきた私を夢に閉じ込める原因が『克服』なら次は『後悔』だろうと私はなんとなく予測できた。
「行って来るよ」
「そう」
「私の出来る事をしてくる」
女は私に憐れんで微笑んでくれた。
「すべき事が分かっていても、目の前にあってもできない事だってあるわ」
「分かってる」
「私はいつでもあなたの中にいるわ」
「ありがとう」
私は適当な助走をつけて、柵を飛び越えて真下に広がる私の混沌へ飛び込んだ。私は凄いスピードで降下していく。耳元で風切り音がうるさかったし乱暴に顔に当たる風で目も開けられず着地点を見定める事すらできなかったが象が「パオーン」と鳴いたのだけは分かった。後はなすすべなく落下し気づくと私は行くべき所で着地していた。
・・・。
私は意識を認めたが、眉間に強い皺を作って目は押しつぶっていた。まだ目覚めたくなかった。
時間を掛け徐々に血流が巡って神経の末尾まで電気を帯びていく。
とりあえず横たわったまま目を開けた。
もしかしたら、先ほどまでの夢の世界のどこかの場面に目を覚ましてしまうのではないか?と一瞬心配したが、ここはいつもの私の部屋だった。
片膝を立てて起き上がり顔を荒く掌で拭いながら重たいため息を吐いて『妙な夢だった』と思った。そしてほとんど一生に近いぐらいの長い長い夢が終わった事に微かに安堵してもう一度区切りをつける様に夢の中で藻掻いた自分に労いの溜息を吐いた。
カーテンの隙間から光が漏れているのを暫く意識を忘却させながら見詰めて私は立ち上がった。
台所へと虚ろな目のまま到着し、コップ一杯の水を一気に飲み干した。水が体に染みわたって行く感覚が心地よく水がこんなにうまかった事に口元をわずかに微笑ませたがすぐに表情を曇らせた。両手をついて項垂れ、排水口を凝視した。
『あの夢からすると、次は『後悔』だ。もしもまだ私があの夢の中に居るのなら私は自分の後悔と直面する事になる』
「ハアハハ」
私は私を笑った。何真剣に考えているいのだ?『もしかしたらここは現実ではないのかも?』と思うから『ここが現実じゃなくなってきてしまう』のだ。ここは間違いなく不変的な宇宙法則に基づいて存在している何の変哲もない私の日常だ。そして私は何の変哲もない私の日常で生きなければいけないのだ。ここより外に世界はない。ここから逃げ出す事も出来ない。辛くたって苦しくたって、そこを乗り越えていくから意味があるのだ。リセットして新しい世界へいつでも行けたらそれこそ現実の消失に他ならない。人生とは途切れることなく一つながりの一本の線でなくてはいけない。産まれてから終わるまでの一本の線だ。
排水口を見詰める項垂れた視線はそのままにしかし私は妖しく笑っていた。楽しくてしょうがなかったのだ。笑うしかなかったのだ。うだつの上がらない現状、いつか見た輝かし自分の象はきっと一生届かないであろうと言う事実、しかし、理想を叶えようと必死に生きている惨めな自分自身が楽しくてしょうがなかった。『これでいい、これでいいのだ』『私は私を生き抜いている』これこそが私が今私の現実に居る事の証明だ。
屈託し疲弊しきった肉体と精神の中に細いつっかえ棒の様な気力かあってそいつは細いのに強靭だったし心身の疲労を僅かではあるか気力に変換する能力がある様だった。ある筈がないのに高揚感を帯びた自分がどこかにいるのが分かった。
夢の初め、痩せこけて私を顧みて洞窟の奥へ消えた私が一瞬頭の中で思い起こされる。あの私と今の感覚とは同じモノを感じるが、極感覚的な物で理屈や正体は判然としなかった。
疲れ切っているが目の奥に気鋭な自分を宿した妙な視線はようやく排水口を凝視する事をやめ、正面、水平に視線を上げた。
「え?」
部屋の中央に、女がいた。それが・・・可笑しな事にあの女だった。夢の女だ。私に『逃げずに戦え』と言っておきながら、急にいなくなったあの女だった。
突如として怒りが湧き上がり、女の方へドスドス足音を鳴らし向かった。私は女に一言言わなければ気が済まなかった「君が言ったんだぞ逃げずに戦えとそれなのに無責任に姿を消して」
私は女の前までねじり寄り、荒い息で女を見た。全く私の事など意に関せず落ち着いてお茶を飲んでいた。
「まあ、座って」
ここは私の家なのにどうして私が客みたいに指図され
無いといけないのだ?
「もう逃げるのは終わった?」
そのんな事よりも、なぜ?この女は存在しているのか?
冷静な女とは対称的に私はその場で立ち尽くし震撼していた。目を真ん丸に見開いてわなわな手が震える程だった。
頭の中の現実を作る色んな繋がりが急に消え失せて、私の中にある私の世界のジオラマが消えた。私は足場さえない暗闇の中に一人唖然としていて、その広大な空間は急速にこんがらがって行き、今ではグチャグチャに絡まった途方もない殆ど無限に近い紐の絡まりで溢れかえった。紐とはきっと私の生きて来た道だろう・・・。
「コンッ」
湯呑が私の前に乱暴に置かれる音で断線していく現実に囚われた意識から抜け出し、再び目の前に女を認めた。いつの間にか女の対面に座ってそこに女がお茶を置いたのだ。丁寧に座布団の上にまでいた。
私はまるで言葉を持たずジェスチャーだけで進行していく古いアニメの様に激しく頬を振って無理やり自分を正気に戻す。口から『ブルルル』と音が出る様な感じだ。
そして私は、どこまでが現実として認める部分であるか・・・いやどこまでと言うか・・・ほんの2、3言しか現実として認める物が無い事を理解し、目を虚ろにして口が微笑んだ。
「一応確認するが、君が目の前にいるという事は、先ほど見た夢の通り私は夢の中に閉じ込められていて、現実に目を覚ますために藻掻いているという事でいいのかな?」
女は溜息をはいて、私を睨んだ。その目は『馬鹿じゃないの?』と私を蔑んでいる様な眼で私は体裁悪く目を逸らした。
「一体何度同じ事をいわなければいけないの?」
「すまない。もう一つ確認なんだが、君は私が夢から覚める事を手伝ってくれているのだよな?」
「ええ」
「一体なぜそんな事をするんだ?どうして私を目覚めさせたいんだ?」
女は急に強い語気を失い疑問の表情になって一旦言葉を出す事をやめた。
「君の目的は一体何なんだ?」
私の質問を制すよに顔の前で掌を私に向けて女は話す。
「ちょっと待って。あなた。自分自身の為にやっている事の理由を認識してないって言うの?ここは夢の中で私もあなた自身であなたが望んでいる事なのよ?」
「いや・・・うん。それは分かっているのだけど、君は一体私のどの部分で何が目的なんだ?」
女は又も黙った。
「どうも君は私の外の人間の様に思うのだけど?私自身を装っているけど君は私に何か隠している。空耳の様に聞こえてくる声があってね『世界はあなたに隠し事をしているわ』て。もしかして君は私の世界の外の存在で、私が覚める事に世界の存続を決める何らかの重要な事があるのではないかな?」
私は女を上目遣いに窺って見詰める。女は睨むように眉間の皺を作ってしかし目線を逸らす事は無かった。
「いやね。別にもしそうだとしても、私には現実世界の明暗はどうでもいい。問題なのは君が外界から勝手に私を無視して勝手な思惑で誘導される事が我慢できないと思っただけだ。私は私が支配するべきで私以外に支配されるべきではない」
私は女の盤面に王手をしてやったと優越感を帯びた目で女を見下した。
「はははっははっははっはは」
女は急に笑った。それも後ろに倒れて腹を抱えて転がった。
「『この』でしょ?町の雑踏から聞こえて来たのは『この世界はあなたに隠し事をしているわ』よ。それに安心して、私は間違いなくあなたの一部だし、この世界には外界の誰の介入も絶対許されない。逃避的思い込みもいい加減にしてよ。世界の所為にしないで。世界なんて関係ない。他人なんて関係ない。あなたはあなたのためにいて、あなたはあなたのために戦ってる、あなたを諌めるのもあなた。あなたを奮い立たせるのもあなた。その通りあなたを支配するのはあなた以外いないのよ」
おかしいな・・・ここで女は『実はそうなの今にも現実世界が滅亡してしまう状態であなたの思考領域は特殊で思考で願ったモノは現実になると言う特殊能力をあなたは持っているのだけど現実世界に絶望して自分の思考の中に閉じこもってしまった。でもお願い現実はそんなに悪い物ではないわ。最新の発明でエネルギー問題は解決するし干ばつ地帯に新鮮な水が供給された。争ったり奪い合ったりだけじゃないの!だからお願い!世界の為に目を覚まして!』と言ってくれれば私は『まあ、世界が私を求めているのなら仕方ない、起きるか』と私は私の存在意義を世界に求められているからと決め、簡単に起きる事が出来たのかもしれない。
しかし・・・世界は私を求めない。
女は私に哀れみを込めた表情を作った。
「大丈夫、きっとあなたはこの夢から目を覚ました時気が付く。世界と私とは何の関係も無かったんだって」
女は不思議だ。私を恨んでいる様な鋭い口調の時もあれば、私を本当に心配してくれる伴侶の様に私を憐れむ表情を見せたり、無関心にいなくなったり、『女』と言う一つの存在の塊を定義する事が出来ない曖昧だけど濃く深くて、もしくは全て・・・。全てでもある様な気もする。私の中でそんな存在を私は知らない。だから私の外の存在だと思ったのだが・・・。
まるで『自由』と言うものに似ているがきっと自由なんて物は個人が完全に獲得しえる物ではないので、そのほかの物であるのだが、そうなると全く見当がつかない。だから私は女の名前を知りたかった。
「どうして君は私の来た道もこれから行く道の事も知っていて私が真にすべき事を教えられるのだ?どうして私の孤独も歓喜も理想も挫折も知っているんだ?希望だったり正義だったり目的だったり、たった一つの感情で君を定義できない・・・そうすると複合的な感情の存在なのだけどそうするとそれは私自身で私自身は結論として『夢の中に閉じこもる』と言う結論に達していてしかし君は全く反対の『夢から目覚める』を結論として出している。だから君は私の中の一つの感情の筈なのだが・・・。いくつもの側面を持っていて陰陽両極も持っていて限りなくその中心に君はいて?・・・君は一体?・・・もしかして君は私の中の『愛』?」
「ハッハハハッハッハッハハッハ」
女は笑った。大笑いだ。
「『愛』?もしかしたらよく似てるかもしれないけど、言うなれば『それ』に釣り合う対極の存在でしょうね。私の事を『愛』だなんて光栄だわ。でももしかしたら広義の意味では私の事も愛の中に含めるのかもしれないわね」
そう言ったあとの女の自分を憐れんで笑った顔を私は美しいと思ってしまった。
彼女が何なのかきっと最後の最後まで分からないのだろう文字通り最後だ。私の人生いっぱいの経験を持った目で彼女を見なければきっと彼女が何なのか分からないし結局は正確には分からないのだろうと思って私も薄く笑った。全く不毛で人間の理解の及ばない所にあるがそれは必ずある。彼女はそう言った名詞の無い未知のしかし太古から存在している無荷有なモノなのかもしれない。そんなものを理解し対処方法を考えようと思った私が馬鹿らしくなって私は笑ったのだった。
「ほら、私の事はもういいから、丁度時間になったみたい」
一体いつ私の部屋を出たのだろうか?私は首を傾げてしばらく首はそのままだった。白壁に木材が輪郭を作っていてガラスは透明では無く淡い鼈甲色に所々ステンドグラスが嵌っていた。四隅の柱だけ西洋の神殿みたいに石柱が細工されていた『こういう西洋の建築を真似した日本の建築って何て言うんだっけ?』と考えながら中央の応接セットのソファーとテーブルにいるわけでは無く部屋の端の扉の近くに立っていた。『大正建築だったかな?』実際私の生活の中ではこの建築様式は古い物だったので私はなじみのない風景であるが、何処か懐かしい感じがした。
私は部屋の端から部屋の中央を見て建築様式に心奪われているわけだが、この部屋には女はいなかった。『私一人で、なぜこの部屋にいるのだろうか?』と考えて、反対側、部屋の外へと繋がる扉の方を向いた。
一枚の開き扉で扉の上半分は目隠しのためか、小さなひし形の凹凸が連続したガラス嵌っていて、その向こうでは人が動いているのが分かった。
そのうちに金メッキのノブが回ったのを見つけ、扉が開いた。
警察の制服だろうか?これも又部屋に合わせた様に古いデザインの男が部屋へ入って来て「どうぞ」とだけ言って扉の向こうへ体を開いて私を案内した。
恐る恐る扉を抜けると何かの裁判が開かれている様だった。
裁判長は冷淡で無機質な表情を作って私を見詰めていた。傍聴席は人が満員で記者や関係者が私の登場に注目する。皆一様に黙していた。
私の進行方向の先には証言台があってそこには誰もいなかったので今から私はそこに立つのだという事が分かった。酷く心の中が静かでまるで水中を歩いている様なそんな感じに私は空間を感じる。
証言台に立つと、裁判長は咳ばらいをして「どうぞ」と言って掌を検察側の席に指した。
「ようやくココまで到着されましたか」と言って検察官は浅く掛けた眼鏡の隙間から私を一瞥した。白髪交じりの初老の男だった。
男は静かに溜息を吐くと紙を持ち上げて書かれている内容を読み上げた。
「被告人は父、および家族を殺害した罪で無期懲役を求めます」
・・・。
どこかかなり高い所だろうと思う。崖か高層ビルかそんな所から急に足を踏み外して、今、落ちている所だ。今までの平然といた日常の地面が急に無くなって私は唖然とする。
ゆっくり動く首は弁護人の席まで回ってそこに一つ空席がある事を捉える。被告人の席だ。初め扉をくぐった時は私は証人として呼ばれたのだろうと思っていたが・・・私が被疑者である事が分かった。
真っ白になって行く頭の中で私を現実に戻す疑問が浮かぶ『まてよ?私はそんな事はしていない。そんな記憶も無いし父もその他の家族も幸せであって欲しいと願っている。そんな私がそんな事するわけない!』きっと何かの間違いだ。冤罪かもしれない。そういう時ははっきりと言わなければいけない。
「ちょっと待ってください!私が家族を殺すわけないじゃないですか!」
私は殆ど怒鳴る様に検察官に言って睨みつけた。
『この人は意地悪で執拗に私の品性を貶める様に見せて裁判長に私に不利な判決を出させようと頭を巡らせて流れを作ろうとしている』と私は判断して、優しさを使わず全く全部を否定してやろうと私も頭の回転を始める。
検察官は私の威嚇を微動だにせず「そうですか」と私への返事はそれだけで話をつづけた。
「では状況証拠1を参照してください」
きっと手元に配られた資料を皆読み始めるのだろうと思たが・・・違った。
私は階段を上がった所で立っていて後ろには窓が晴天の空を見せていて前には扉があった。私はこの扉を知っている・・・。父の書斎の扉だ・・・。
今では・・・もう『今』が私のどの頃なのか判然としないし、『今』とは何なのか?分からないのだが、まあ、裁判所にいる頃の私の歳では、この扉はだいぶ綻びて淋し気になっているが今目の前にあるのは、真新しく艶があった。私は自分の掌をしげしげと眺めた。まだ皺が少なく何も積み重ねていない若い手だった。
どうやら若い頃の私に戻ってしまったようだった。
私は扉を見直して、静かに溜息を吐いた。父に聞こえない様に。
私は扉を開けて、写真が飾ってある短い廊下を進んで抜け、父を見つける。重厚な机に向かって鼈甲の眼鏡を掛けて真剣な顔で書類仕事をしていた。私は父を見詰める。『今』の私は遠い日の大きな父に再び会えた事に感動を禁じえず、幼い『今』の私は気難しい父に関わる事に眉をひそめた。そんな二つの自分が掻き混ざっていた。
父の机には砂糖菓子とコーヒーが置いてあって父は交互にそれを食した。部屋の時計が区切りの良い時間を告げるメロディーに父は気づいた様に煙草に火を点けた。未来の私と若い過去の両方の私は同じく煙草の煙を嫌がって眉間に皺を作った。現在の私は父の体に悪いが父を止める事が出来ない事に対して眉間の皺を作って若い私は単純に臭いからだ。
煙草の煙は窓から挿す太陽の光に青白く薫って太陽光はぼんやり黄金色で太陽が父の体を良くしようとしているのに煙草の青い煙が無駄にかき消している様に見えた。
漠然と父を良くしようとする力を父自ら拒否しているのだと思った。
父自身も自分自身を諌めるべきだという事はきっと分かっていたと思う。過剰な快楽を持ちすぎているという自覚はあっただろう。しかし自分自身を癒す事を止められなかったのだと思う。狂ってしまわない様にするため。家族を守るために自分を犠牲にしているのだから。
父は煙草を灰皿に潰してから私に気がついて「どうした?」と声を掛けた。
私の中に居る二人の私は同じように父を愛おしそうに心配した眼差しを向けていた。
父は一度首を傾げた。私の表情が険しいので『何かしらしてあげなければいけないと思ってしかし、一体何について悩んでいるのだろうか?』と父は思ったに違いない。父はニッコリ笑ってから私が不安を懐いていると思ってしかし見当がつかないので茫漠とした不安に対する助言をした。
「きっと何かが思い通りに行かなくてそんな険しい顔をしているのだろう?いいかい、人には得意、不得意と言うものがある。もし他の人が当たり前にできる事が自分には困難な事であってもそんな事は大した事じゃない。他人には困難な事も自分には容易くできる所が必ずある。只それだけの事だ」
父はそう言って『息子の悩みを解決して見せた』と勝手に満足して再び机に向かって、もう一本煙草に火を点けた。しかし私の眉間の皺は解消されずに父を見詰め続けていた。父がもう一度私を見た時私の表情が少しも和らいでいないのを見て再び私に対しての答えを探した。
父が虚空を斜めに見て思考に集中している間私は部屋の天井近くの隅を見ていた。私がそんな所を見るという事はもう分かっているだろう?
蛹が一匹壁にいて、私は目を細めて凝視し音を立てながら息を吸い首を傾げた。今まで蛹とは何かが違った。わずかに動いているのは分かるが、それは前に見た蛹と変わらない。じっと見ていた所為か、蛹がいる薄暗い場所に目が据わってきてよく見える様になって私は嬉しく思った。蛹はステンドグラスの様に、中身の色を透けさせ心なしか朧く中心から発光していた。
私が『だいぶ中身が出来て来たな、成虫は一体どんな姿だろうか?』と思った所で父が答えを見つけたらしい。
「ダメな人間だと思っても自分よりも劣っているなんて思ってはダメだ。形や種類は違えど皆同じ量を持っているのだからね。絵の具みたいなものだ。赤色が役に立つ場所と紫色が役に立つ場所はそれぞれ違って入れ替わってもダメなものだ。でもどの色も同じだけの量の意味や価値を持っている。自分の得意、不得意を理解する事も大事だが他人の得意不得意を見れる様になったら魔法みたいに世界を変える事が出来るよ。でもね、他人の得意不得意を理解できてもこの世界というのはその魔法を使えない様な強い力が働いていてね不安とか恐怖とか弱い自分が本当の事を見えなくさせてしまう。だからその人にすべき事を見つけてもそれをする事は困難な事なんだ。もし大切な人のすべき事が見えていてもそれをしてあげる事は困難な事なんだ。もう取り返しのつかない所で気がついてしまう事もある。でもね大切なのは自分の出来る全力を尽くそうとした事だ。不安や恐怖に負けるかもしれない。でもそれは戦ったから負けたんだ。負けた事は悪いわけじゃない。だってどう足掻いたたって物事はなる様にしかならないし人はできる事しかできないのだからね」
父はそう言って持病の糖尿病の薬を飲んで仕事に戻った。
私はなおさら眉間の皺を強くして父を見詰める。私は父に言うべき事を知っていた。確かに強い力が私に働いて口に出す事は出来なかった。そんな事言ったら父を滑稽にしてしまうから・・・。父自身も分かっているのに甘いもをやめられないのはその強い力の所為だろうか?
現在の私は幼い私に怒号にに近い語気で懇願していた「言うんだ!弱い自分を乗り越えて言うんだ!早く!」
幼い私は言おうとして口を開いたがそのまま言う事は無かった。
突然吸い上げられる様な感覚を全身に感じて、次の瞬間には酷い疲労感を帯びて裁判所にいた。私は座っていて目の前には検察官が見えるので、弁護士の隣に座っているのだと後から遅れて理解して・・・私の隣の弁護士に首を捻った。
象だった。隣にいるのはあの爛れた姿の象だ。
私は急に不安な気持ちが湧き上がって来てもう負ける気で『もしこの裁判で負けたら一体どんな罪を負うのだろうか?』ともうすでにそこが心配だった。
象は私の視線に気づくと机に置いてあった掌を手首だけ小さく上げて『まかせといて』と言う様に微笑んだ。気取っているのか?小さな丸眼鏡を上目遣いに掛けていた。
私は不安を禁じえない引き攣った笑顔を象に返した。だってそうだろう?私をおかしな方向へ向かわせようとする存在に私は罪を犯していない真っ当な人間だと証明する事などできはしないからだ。だって象は私の狂気なのだから。私の『正しい』とは全く対極の存在なのだから、大体私を擁護する気などないだろう、どちらかと言うと破滅させようとしているに違いない。
てっきり私はあの女が弁護士として来ていると思ったがどうしていつも肝心な時にいないのだろうか?全く・・・。あの女なら、持ち前の強気を発揮してこの裁判の勝敗は分からなくなっただろう。
検察が立ち上がって手に持った紙と私とを交互に見ながら話した。
「状況証拠1が示します過失は2点あります。1つ目は父親が糖尿病だという事を随分前から認識していたという事。2つ目はたとえ父を滑稽にしたとしても言うべき事を言うべきであるという事を認識していたという事、これは幼い頃に父からい教えられていますし本人も理解していました。言うべき事とは、父が自分自身で認識していない行き過ぎた不摂生の事です。この2点を知りながら何年も放置していたという事を理解していただき次の証拠に移りたいと思いますがよろしいですか?」
検察官はそう言い終わって弁護側の席に許諾を求める目線を向けた。
勿論良いわけない。私は象を見た。象は手を上げて裁判長に発言を求めていた。『流石に何も言わないわけ無いよな』と一安心して一応私の為に戦ってくれるらしい事に胸を撫で下ろした。
「弁護人どうぞ」
象は立ち上がった。
「え~と異議があります。・・・。被告はまだ幼く父の事を尊敬していて殺意など持っていません。内向的で臆病な性格なだけで父の気持ちを尊重する良い子に間違いはありません」
核心的な異議では無いが象は良い事を言ったので私は心の中で『ありがとう』と言った。
裁判長の表情は象の言葉に納得している様だった。
「検察側は弁護側の発言に何かありますか?」
裁判長に視線を向けられた検察官は立ち上がった。
「内向的で臆病・・・まさにそれが殺意と同義なのです。『誰かを守る』と言う行為をできなくさせているのです。もちろん内向的で臆病な人間は五万といます。しかし皆『内向的で臆病』な自分をなんとか変えようと努力します。成功しても失敗しても勇気を出して挑戦した回数だけ弱い自分を乗り越えて、発言できたり行動できたりするのです。しかし被告は父に対してそう言った努力を放棄し見て見ぬふりをしてきたのです。それのどこが『父の気持ちを尊重するいい子』でしょうか?では状況証拠2に移りたいと思いますがよろしいですか?」
私は立ち上がった象の顔を見上げる。その表情は検察官に言い返す言葉を見失っていたが発言があるらしかった。
裁判長が弁護側の発言を許可した。
「しかたなかったんです。父に支配されていたのですから、父は生まれた頃からの生きる見本です。それを否定したら生きる基準を失ってしまいます。だから簡単に否定できないのです。父は被告が生きる上で大切な考え方を教えてくれましたし厳格な父と言う存在は被告にとって必要な緊張感を与えてくれる重要な存在でそれ全てが否定される様で父を幼稚になどできなかったのだと思います。」
象は席に座った。
検察官は再び立ち上がって象に聞いた。
「父にすべき本当の事を知っていましたか?」
象の発言は検察の発言を陰湿な嫌味の様に見せ『心のある所は弁護側だ』と言う印象を与えたがしかし、検察の象への質問が象の言葉を全て言訳に聞こえる様にしてしまった。
『父にすべき事を知っていた・・・。しかし出来なかった』と言うのが現実他ならない事を法廷の全員が理解したのだ。まあその為の状況証拠1なのだろう。勿論象は検察の質問に沈黙した。
検察官は象を一瞥し沈黙した事を確認した後、次の証拠の準備をしながら書類を見て話しをつづけた。
「では証拠2に移りたいと思います。父にすべき事を怠惰にして、巧妙に自分自身は悪くないと偽装する部分についての状況証拠です。この部分が彼に有るか無いかという事は彼の罪の有無を判断するのに必要不可欠な要素であると考えます」
そう言って検察官は象を見詰めた。
そんな欺瞞者が私の中に居る事に覚えが無かった。私は内向的で臆病である事は大いに認めざるおえないが出来なくとも正しくあろうとする心はいつも持っていたと思うからだ。しかしきっとそれは私自身にも分からない様に巧妙な存在なのだろうか?
私は誰かがどこかで私の為に悪事を働いた事を極めて不確かに知覚してその事に薄く笑った。
『ここは・・・』
懐かしい道だった。夕方の鼈甲色が世界を満たしその中を一人歩いていた。歳は先ほどと大して変わっていない。私が少年と呼べる頃の学校から実家までの帰りの道のりだった。
どうして忘れていたのだろうか?私は幼い頃妙な癖があった。
家路の途中に広大な空き地があって、そこにはその頃の私の背丈の3倍ほどの高さの細長い草がぎゅぎゅに生えていた。その草は夏も冬も背丈を変えず夏は緑で秋ごろは黄金色に風に揺れていた。
私は無数に揺れる動きを見詰めていた。分け入った記憶などない・・・。気づくと私はその叢の中を駆けていた。
・・・。
中は草の背で視界が遮られて私は外界から遮断されている様な気がした。この空き地以外も荒廃した世界で私以外の人間は消えさった様に思えた。『世界から取り残されてしまったのでは?』と思いついてしまったら恐怖が込み上げて全力でこの草の隔たりの外へ出て確かめたくなるだろう。普通の人間はそうだ。しかし、私は今、自分が絶海の個人である事に歓喜していた。目を閉じて只そこに立っていても何も言われない事、静かに耳元を流れる風の音に身を委ねる様に聞き入ってそれを心地よいと思う事を「バカじゃないの?」と言われたりしない事が無制限に許可されている事に感極まった私は、草の中を掻き分けて駆け巡っていた。草はスルスルと体を滑ってまるでよけていくように邪魔にはならなった。
この疾走には限界が無くて吸った酸素は高効率で体を巡って使い終わった燃料は排出され永遠に駆け巡って居られたし駆ける事自体に快楽があった。
社会や世界や他人や人は生きて死ぬそんな因果な運命さえここには無くて、自分自身をもし液体にできるのならその中に浮いている。私が私の中で全身全霊、私の求める血湧き肉躍る快感と瞬間と空間を想像通り得られる不思議な時間だった。
殆ど妄想や幻覚の類に他ならなくて意味を持たない無駄で他者からからの理解を拒む領域
で無何有なモノだった。
きっとこの広大な中心だろう。他人を最も拒む位置で私は止まった。私の荒い呼吸と体を流れる汗の感覚だけがあってこの疲労が心地よかった。私は真上を見上げた空は真っ青で落ちてしまいそうだった。いや落ちてしまいたかった。
空が綺麗で私は見惚れた。
少し離れた所の草が不意にカサリと音を鳴らして、私は凝視する。私は嬉しそうに笑って、再び走り出す。
今度は自分の限界を越えようとするように必死に自分の肉体の機動力とエネルギーで何処まで行けるのか挑戦する様に必死に駆けた。逃げているのだ。先ほど現れた存在は私を追いかけて走っていた。追いかけられなければ自分の限界に挑もうとは思わなかっただろう。私は自分自身が何処まで行けるのか試したかったその状況を後ろの存在は作ってくれたのだ。
きっと何者も今の私には追いつく事はできないだろう。『自分が光と同等のスピードでは無いか?』と思ってしまう程の高揚感。
煩わしい林の外の世界の柵を全て忘れて林の中を全力で走る。震えるほど私は喜んでいる。きっとこの感覚は誰にも分からないだろう。
私は倒れ込んだ。体力の限界と言う訳ではない。もうげらげら笑ってしまって走る事が出来なかった。
青い空を仰いで暫く笑ったあと急に無機質に空を見詰め密やかに呟いた。
「こんな場所があったんだな・・・」
私の隣にどすんっと私を追いかけていたモノが私と同じく寝転んだ。
私は首だけ捻って隣の存在を確認した。
象だ。あの爛れた象だ『私はこんなにずっと前から象に会っていたなんて・・・』ずっと前から象は私の中に存在していたらしかった。それも、きっと私が生まれた頃から備わっている者であると唐突に感じた。しかし、あんな闇深い物が生きる事に必要だとは思えなかった。だが今は私の味方だった。殊、現実から目を背けるという事に関しては他の追随を許さず神が掛って抜群だった。
時には逃避も必要なのだ。
「私は君が望む時、君がそれを許すのなら必ず現れて君に代わって世界を作り替えよう。君がどんなに深い地獄の底にいようともそこを天国の園に変えよう」
象は私の目を真っすぐに見てそう言って真に私の為に微笑んだ様に見えた。象の目は私の記憶全ての中で見た目のどの瞳よりも澄んでいて恐い程に純真だった。その瞳に一点の曇りも無くまるで只々楽しそうに遊ぶ子供の様な眼だった。
私は象を信じて身を委ねてもいい様な気がしていたがそんな私に気づいた象が口元は笑ったままだが目を顰めた。それが私を憐れんでなのか?自分を憐れんでなのか?分からなかった。だってそんな事を言ったら私は象を嫌ってしまうだろうから。
「でも、一つ知って欲しいのは、もし私を望む時、その時は君は大切な事から逃げている時でもある。そしてその時に私を許してしまえば君にとって大切な物を失ってしまう」
象は目も口も再び笑顔を作り直した。
「でももし自分が壊れそうな時逃げたっていいんだ。自分だけ逃避の園へ逃げても罪悪感を感じる必要はない。そうやって自分を保って自分を癒したら又現実に立ち向かえばいい。そうやって私を使うと良い。それ以上私を使う事は現実を消失してしまうからね」
象は何か難しい事を言い始めたので私は勢いよく立ち上がって又走り始めた。
弁護人側の席に座っている自分に気がついて、あの頃を思い出していた。私は学校からの帰り道何度もあの林を象と駆け巡っていた事をなぜ忘れていたのか?不思議だった。あそこは現実では無かった。現実を失った領域であの頃私は現実から逃れたかった。勉強は苦手で友達を作る事も私には困難で、父は理想論を私に強要し『他の子は普通にしている』事をできない私を叱った。どんなに現実が私にとって苦手で気苦労な場所でも私は現実で生きなければいけない。だから、次第に現実で生きるために林の中に居る象から離れて現実に居る時間を増やしていったのだと思う。父も社会も「そうしろ」と言うのだから。
検察官が何か喋っていた。
私は虚ろな目をままならない動作で検察官の方を見た。まるで眠気に微睡んでいるようだった。睡魔が私が何かに気が付くのを覆い隠そうとしている様に感じられた。検察官は私はストレスが臨界に達すると極めて無責任に孤独へ逃げるという事を言っていた。
そんな事は分かっているし別にいいじゃないか?誰かに迷惑をかけている訳では無いし。
今の私はなぜかストレスが臨界に達している状態だった。思考は漫ろで意識を保っている事すら困難だった。急にどうしたんだろうか?
すとんと意識が私の中の暗闇に落ちていく様な感覚があり、再び目を開けると壁が見えた・・・。どこか見覚えのある壁に私はゆっくりと首を傾げる。左右にゆっくり首を振って虚ろな目で辺りを見渡す。右にも左にも廊下の終わりが見えない程長く続いていた。私は長い廊下の始まりでもなく終わりでもないどこかの中間地点に置かれた長椅子に座っていた。再び目の前の壁を見詰めて微睡でいる意識と狭窄した視界でここは巨大な建物の総合病院である事をゆっくり回る思考で理解した。足と腕を組んでいる自分の体を見て、どうやら病院の待ち時間で眠ってしまった事を理解する。
私は再び瞼を落として逃げる様に眠ろうとした。しかし待ち人は来た。
声を掛けられて斜め上に目を開けた。
私は再び首を傾げる。目の前には担当の女看護師が前かがみに私の高さに合わせた顔があった。私が首を傾げたのに看護師も少し微笑みながら真似して首を傾げ「どうしました?」と言った。私は「いえ」とお茶を濁した。この女とどこかで会った事がある様な気がした。今まで待っていた用事を始めず私は暫く傾げた首に目の球を右上目いっぱいにして可笑しな顔でこの女と会った記憶を探す。
とても重要な記憶の中に女はいたような気がしたが結局思い出す事は出来なかった。
・・・。
業を煮やした女は「せつめいしてよろしいでしょうか?」と少し強めの口調で始めたので「あ・・・はい」と返事をして、説明を聞いた。
女看護師の説明は一区切りして私は立ち上がって病室へ向かおうとしたが再び説明を始めてしかし私は立ち止まら無かった。看護師は私を引き止める様なしぐさをしたが私は父の居る病室へ歩いていた。確かに手続きや治療法や薬の管理が大事なのは分かるし私もそれを聞かなくてはいけない。説明は病室の扉まで続いていたがしかし、私は只父に会いたかった。看護師は病室の扉を開けるまで私に付いてきて部屋へも入るのかと思った。だから開けた扉を開いたまま押さえて私は待った。しかし私をそのままにして部屋には入らなかった。看護師の説明はピタッと止まって廊下と部屋との境界を見詰めて止まっていた。理由が分からないが廊下と部屋との境を越える事を嫌がっている様だった。私は首を傾げる。父の病気は癌だ。感染する病気ではない。そうすると看護師が父の部屋に入りたがらない理由が無かった。看護師が押し止まっているのを私は見詰めていて、まるで時間が止まった様な感覚に陥った。この時間を再び動かすにはなぜか?この看護師がこの境界を超える事だと唐突に思った。私の時間なのに私は関係ないなんて意味が分からない。そんな事を思ってこの構図を見ている私に気が付いたのか?看護師は首を捻って私に視線を合わせた。
?
どこでだろうか?どこかで見た事のあるまるで懇願するような瞳だった。この顔を形容するのなら『世界の終わりみたいな顔』だ。どこの誰だっただろうか?
看護師は『時間を再び動かすのはこの女が境界を超える事だ』という私の思考が危機とした自分の視線でその思考が重要な物だと悟られてしまう事を隠す為にもう手遅れではあるが女は目線を急いで逸らした。それは重要な物だと視線から読み取られてしまうからすぐに逸らすギャンブルが下手な人間の仕草の様に思えた。
女は目線を逸らしてすぐにナースステーションの方へ歩き去って行った。
私は女の平然を装うぎこちない背中を首を傾げながら見詰めて理由を考えた。
女の行動は何かの意味があるからそうした訳で一体どんな理由だろうか?もしかして私は悪い思い出の知り合いだっただろうか?知り合いだったなら出会った事がある様な気がすることに納得できるが・・・。思い出せない・・・。
「なんだろう?」と呟いて『まあいいか』と特に深くは考えなかった。
私は向き直って父の病室と廊下との境界を越えて、オートクローズの扉が私をこの部屋へ収めて閉じた。私が入った扉の反対側の壁には大きなはめ殺しの窓があって外は青々した綺麗な晴れの空が見えていた。父は空に首を捻ってベットに横たわって静かに眺めていた。ゆっくりとベットの傍らへいき椅子に座って父と同じく私も清々しい空を眺めた。
「最近はいつも空が綺麗だな。まるで誰かが誰かのために気持ちいい空を作ってるみたいだ」
父は私の声に気づいているのか気づいていないのか、窓に向けた顔を振り向きもせず「ああ、そうだな」と言った。
私は父に聞きたい事があった。
しかし『父はまだ死んでいないのに聞いていいのだろうか?』と考えて私は黙った。身体的にも精神的にもまいっている、体調が悪い時は判然としない意識に溺れながら支離滅裂な言葉を話していた。私は只そんな父を唖然と見詰めるだけで何もできなかった。癒す事や助ける事が出来なかった。すべき事は分かっていた。会話に成らなくても笑いかけて手を握ってあげる事だ。でも出来なかった。きっと父が弱くなった事を認めたくなかったのだと思う。
だから、もし私が私の聞きたい事を聞いたとして、私の求める様な事、私の聞きたいような言葉を言ってくれないだろう。それはいなくなってしまった時と同じ意味を持っていた
。聞きたい事が聞けないのだ。だから、結局聞かない方が良いのではないか?と言う方が私の中で多数決を制したが、理屈や損得なしに只聞きたいと言う気概が勝手に口を動かした。
「父さん、良い人生だったか?」
父はこちらに振り向きもせずに鼻で溜息を吐いた。顔は見えないが、その溜息は微笑んだ様にも思えて自分を憐れんでいる様にも思えた。
父は言葉では答えなかったし私が病室を出るまで振り向かなった。
父がこちらを振り向かなくて良かった。私は泣いていたから・・・。私は息子として父を喜ばせられただろうか?父の自慢の息子だっただろうか?そうとは思えなかった。情けなくて我慢の足りなくて人の気持ちを理解できないどうしようもない男だと分かっていたしまだ父に何も恩を返せていなかった。父から家族を支え一家の長になるというバトンをまだ渡されていなかった。
しかも父をどうやって救ったらいいか?答えの無い考えが蜷局を巻いて逆巻いていてもうよくわからないが私の中から溢れてしまって、父の前で泣くのは良くない事だと分かっていても涙を止められなかった。
歯が折れそうなくらい食い縛って必死に泣いている音を抑えていたのでたぶん気づいていないと思うが。
私は父の病室を出て大きく鼻を啜って潤んだ溜息を吐いた。
先ほどの看護師が私に声を掛けて、主治医から話があると伝えた。
どうしてか?診察室は薄暗かった。
「これからの方針なんですが、お父様の体もかなり弱ってきています。ですので緩和ケアに移行された方が良いと思っているのですが?」
「緩和ケア?つまりもう癌を治す治療はしないという事でしょうか?」
主治医は一瞬押し黙る。しかし医者として気丈に話した。
「幾つかの種類の抗がん剤を試しましたが、効果が見られず癌の進行が止められません。残念ですが今の医療では治療する事が出来ません。残りの時間をなるべく苦しまない様に過ごされた方が良いと思います」
医者の言葉には私や父への気遣いが感じられた。この医者の所為ではない。別に父を殺そうとしているわけではない、むしろ助けようとしている。でも、怒りが凄い勢いと圧力で私の喉元まで上り詰め怒鳴りそうになった。しかし必死に歯を食いしばって何とか堪えて「お願いします」と呟くように私は言った。
病院の正面玄関を出て、病院を振り返って見詰めて眉間に皺が入って涙目だった。まるで父を監禁して解放しない巨大な悪の組織様に見えて来て怨めしかった。
違う・・・違うのだ。
医者の所為ではない。父を救えなかったのは私や家族の責任で先ほど医者に向けそうになった怒りや矛先は自分自身に向けるモノだという事は分かってはいる。しかし、もし自分の非を認めてしまえば私はストレスで破裂してしまいそうで出来なかった。
どうやって帰って来たのか記憶は無かったが気が付いたら実家の玄関に立っていて靴を脱ぐ事が酷く大変な事の様に思えてずっと玄関の土間で立っていた。
「お帰り、ネズミが入ってくるから玄関の戸を閉めて」
母がいつもと変わる事無く言った。
私は「ああ」とい言って家の中へ入った。居間に座ってどこでもなく一点を見詰めていた。セミの抜け殻みたいに形はあるのに中身が無かった。
母は家事が一段落したのか、私の隣に座って、机にパンフレットを置いた。先進治療のパンフレットで健康保健は効かないが、民間の保険で金銭的には問題ではないと言う話を横でした。私が抜け殻でいる事に母は気がついていたと思う・・・だって私は合図地も返事も視線さえ向けなかった。しかし母は話を勝手に最後までして又家事に戻った。
『父にその事を言わないと・・・』と思ったのだがその言葉は底の無い穴に向かって叫ぶように繰り返し反響するものの下へ落ちていって次第に聞こえなくなった。
私は抜け殻のまま自室へ向かって馴染の座椅子にもたれた。無意識にアニメを点けて無意識に見続けた。『象の背』は判然としない内容を私に呈して結末を予想し思考を巡らせ一時私を現実から逃がした。
しかし、先ほど穴の中で反復して反響してどこかへ行ってしまった言葉が私を現実へ呼び起こす。きっとあの底の無い穴は無限に近い程長い曲がりくねっているが結局は私の元まで戻って来る輪っかの状になっている様だった。
私は、はたと気が付く。
『こんな事をしている場合ではない』
自身の怠惰に危機感を感じ神経を気鋭にさせて目を見開いた。今すぐに立ち上がって行かなければ父の元へ。しかしその危機感と丁度釣り合うくらいの重圧な疲労が私を押さえつけ
『行動を起こさなければ』と思った言葉も再びあの底の無い穴へ落ちて行き今はいなっくなってしまった。
現実へ私を起こす言葉はいつか又巡って現実逃避から起こされて起き切れず又逃避してを繰り返してしまうのだろう。その度私は酷い疲労に似た感覚に勝てないのだろう。
私は抜け殻のまま『象の背』を見続けた。
父は私の助けを待っているし母は私に支えになって欲しいと思っている事を確かに私は理解しているのに、この座椅子から抜け出す事が出来なかった。
私は自分を癒す事しか出来なかった。
どうやって私を堕落させる座椅子から立ち上がったのか覚えが無いが私は父の病室にいた。父は顔を天井に真っすぐ向けて静かに寝ていた。
私は足早に近寄って鼻の孔に手を翳す。終に死んでしまったと思ったのだが安らかな呼吸をしていたので安どして椅子に座った。声を掛けて起きなければ帰ろうと思った。
「父さん」
「ん?」
父は起きていた。しかも調子が良いようで話ができる様だった。
「先進医療を紹介されたからやってくれないか?お金の心配はないから」
「いやいいや。俺は今の先生に任せるから今の治療を続けるよ」
「・・・」
その先生はもう諦めている。とは言えなかった。父の気力を失わせるからだ。私は強引にでも父に先進治療をやらせるべきだったのだ。父の意に反して怒鳴ってでも・・・。しかし、「分かった」とそう言ってその話を終わらせた。
私は父に支配されていたのだ。
父を越えて窓の外を見た。どうしてこうも晴天が続くのだろうか?
父は家族が進む道を先だって切り開いてきた。色んな決断に迫られて家族を気遣いながら私達を生かしてくれた。私は父の背中の後ろで社会の強風を身を挺して遮ってくれたその大きな背中を見ていた。父の選択は私をここまで生かした。だから父の選ぶ事は決して傲慢な物でもなく怠惰な物でもなく信頼に足る孤高で崇高な事象なのだ。傲慢で怠惰な私が父のあの背中が決めた事を否定などしてはならない。きっと私見たいな卑しいくて未完全な者は父の考えなど理解する事が出来ないのだろう。
そう思ているから父のどんな選択も無条件に信用してしまう。たとえ父が悪意無くとも間違った選択をしてしまっても私は信じるだろう。私は父に支配されているのだ。
そして今支配者を失う事が恐怖だった。
私の目の前には巨大な困難が聳え立っていて道を切り開く事など不可能に思えた。
ここで私と私の家族の道は終わりだ。そう思って目の前の困難を呆然と見上げる事しかできなかった。
父の代わりになるべきなのは私以外他にいないという事に絶望した。もう私の人生はエンドロールが流れていて私はそのスクロールを見詰めていた。もう感情は反転して快楽物資に近い物が脳内で噴出して只この快楽の感覚が終わるのが嫌だから『このエンドロールが終わらないでくれ』と願った。
勿論隣には象がいた。
象はきっと私が象を受け入れた事を不気味に高笑いして『狂気の世界へようこそ』と言って次には意味や価値観や大切な物を判断する認識を失って記憶と認識が混濁し終いには全て同じ量の同じ意味の砂の集まりみたいに世界が見えてしまう様にするのだと思った。
しかし、象は私にいつも傍らにいるという事を分からせて自分の力を行使しなかった。私としては責任だとか義務だとかそう言ったもの脱ぎ去ってよい事も悪い事も無い虚無の砂漠へ連れて行って欲しかったのだが・・・。象は私をいざなわず真っすぐな目で私の瞳を見詰めていた。私は『どうして?私を現実から連れ去ってくれないのか?』と願う様に深い皺を作った眉間で象を見詰めていた。
分かっている分かっているよ。私はまだ何もしていない・・・。すべき事をやって自分の限界に達した時象は私を現実から連れ去ってくれるだろう。
ああ早く私の限界よ来てくれ・・・。そこまでは私は私の出来る全てをしなくてはいけない。象よその瞳は今の私になんと言っているのか分かっているよ。分かってる。
『藻掻け苦しめそれが人生なのだから』
象らしい。
家の窓は余す事無く全て開け放たれていて風が抜けて行った。私は居間で胡坐をかいて特に何をするでもなく流れる風を感じていた。外の日向は熱そうだった。母はわたしの後ろでご飯の支度をしている。私は眉間の皺を作ってそれを止めなかった。母は喪服で昼飯を作っていた。
知っているが私も自分の体を見て自分も喪服だという事を再確認する。
ハッと目を覚ます様に私は父の葬式にいた。
私は葬儀屋と親戚とで葬儀の内容を話し合っていた。母も勿論、話し合いの中に入って居なければいけないが、母はご飯の支度をしていた。
母には体内時計があって母の体内時計は父が死んだ事を理解していなかった。母の体内時計の殆どは父がセットさせていた。掃除は父のいない平日の昼間ににして洗濯は父の仕事着が出てから回す。ご飯は決まった時間を過ぎると父が怒るので、殆どピッタリにだした。
それは父が居なくなっても正常に作動ししかも生活する上で正常なリズムが身についてしまっているという事だった。
「聞いてますか?」
葬儀屋に聞かれて母を見詰めていた顔を話し合いの方へ戻した。
父がいなくってもあの全自動タイマーがあれば大丈夫だろう。落ち込んでいる気持ちは日々の生活に和らいでいくだろう。動く気力すらなくて打ちひしがれている母など見たくは無かったからまあ良いのだが、しかしなんとなく融通の利かない全自動タイマーにまるで母がロボットの様になってしまったようで寂しい気がした。
母は父がいなくなっても父に支配されていた。
私も同じく父がセットした全自動タイマーが作動している。それは父がいなくとも私を生かし社会で勝手に働いてくれるものだ。父にとって長い年月と忍耐が必要なセットアップ作業だと思う。私にさく時間を惜しまずに私を人間として機能できるようにしてくれた事、これは父の愛の産物に他ならない。私はそれに感謝し今の社会通念を持っている自分で本当に良かったと思う。きっともし父親が違っていたのなら、私は今の私を獲得できなかっただろう。父は聡明だった。理想論を私に内蔵させた。しかしそんな父のタイマーを私は枷に思っている。もっと衝動的に一瞬で燃え尽きてしまう様な真理の奥底へ社会通念など意味を持たず『私』と言う事しかできない魂のままに誰も理解できない所へ駆け出したくなる事があった。それをしたら確かに想像を絶する私の魂の悦びを手に入れられたのかも知らないしかし私の生命など直ぐに終わってしまうだろう。その衝動を抑えて何とか生きてこれたのはこの全自動タイマーのおかげで、一時の衝動が過ぎた後いつもそのタイマーがあった事に安堵していた。
『私』は支配されていいるのだ。父に父の理想の中に。
父が赤子の私を抱いて揺らしていた。私はまだ何も入ってない瞳で父を見詰める。父は心底笑顔で私を見詰めていた。
「どんな事があっても君を脅かすあらゆる物事から必ず守る」
父はそう言って一層微笑んだ。
そんな画が頭の中で古い映画を回す様に映っていた。光は柔らかく父と私を包んでいて、私は静かに目を閉じた。
支配とは『支え』『配る』と書くのだ。決して横暴な物ではない。
私は父が私を生かしあらゆる物事から守るという理想に支配されていて、私自身からも私を守っていた。
突発的に『じゃあどうして?』と私の頭の中で声がした。
「おうっ」
父と出合い頭でぶつかりそうになって父がよけて私を越えて行った。私はトイレに向かう途中で漏れそうだったが父の後ろ姿を目で追った。どこか余裕が無いように見えた。只見えただけで実際は違うだろうと思ってその場は片付けた。
私は足早にトイレに入って便座を開けた時に目を見開いた。
父がトイレを流すのを忘れていた。それだけだったら「何にやってんだよ」と呟いて流してやったのだが、父の便を見てしばらく停止していた。便が真っ黒だったのだ。便と言うよりも真っ黒な水で父のいる方向へ振り向いて又停止する。
とりあえず流して自分の用をたしてトイレから出て父に聞いた。
「父さん。さっきトイレ流してなかったけど」
「あ?ああ、すまん」
「便の色って大丈夫なの?」
「あ?たぶん大丈夫だろう」
「そう・・・。気づいてたなら良いけど」
父はやせ我慢する事がカッコイイと思っている人間で些細な事では病院に行かなかった。
その一年後病気が発見された。
そんな一場面が私の後悔を煽る様に頭の中で蘇る。
『あの時にもっと強く言っていたら・・・』
私は父の棺の前で下を向いていた。
父は私を支配してくれた。私も父を支配すべきだった。いや支配しようとしたしかし、出来なかった。
重たく濃いため息。
私はきっと家族を支配する事が結局はできないのかもしれない。
深い眉間の皺が一瞬で形成される。
『無理だ。私にはできない』
自分自身もきっと支配できない。ストレスが限界を越えたら、家族を放り投げて自分を癒す事しかできないだろう。
きっとそうなる。だって父を支配しようとして全力を出したけど出来なかったのだから。
自分自身を握りつぶして小さく丸く、丸く、まとめて無くなってしまいたい程どうしようもない悲しみと迫りくる未来への不安と焦燥で視界が小刻みに振動していた。これから人に迷惑をかけて結局失敗する未来しか見えなくてもう耐えられなかった。
『物事はなる様にしかならないし人はできる事しかできない』
父の息づかいと声が鮮明に呼び起こされて聞こえた。その声で私は息をしていなかった事に気がついて深呼吸をした。
「そうだよな・・・父さん。できる限り全力を出した。父さんを救えなかったのは、私だけの所為じゃない。他にも色んな物事が複雑に気づけない程過去から出発して絡み合って父さんがいないこの地点にいるだけで、私の所為じゃない。問題は結果が理想と違った事じゃなくてここまで悩み苦しみ答えを探そうとした時間があった事それが人として正しい事なんだと父さんは言っているんだよな」
私は空を見た。一体どこからの記憶か知れないが空は続いてずっと綺麗に青かった。
その青い空が父さんが笑いかけてくれている様で私が罪と思っていたモノが崩れる様に私は泣いた。
不意に後頭部を強打されるような感覚があって、又は私は私の中でしゃべった
『じゃあ?どうして?』
父の言葉は私を救ってくれるが同時に救ってくれるほどの言葉をくれる父を救う為に父を救う言葉をなぜ出せなかった?と又悲しみが雪崩れ込んできて、父さんの言葉に救われて救われたからこそ報われない、また救われて報われない。そんな感情が交互に何度も私を叩きつけて無限に螺旋に暗闇に落ちて行くように私は苛まれてた。
「後悔とはタイムマシーンの様なモノだ」
私はこのループにふと気がついて呟いた。
私を鮮烈に過去へ連れて行き現在をハッピーエンドに変えられた選択肢を見つけては急に変えられなかった現在の地点に引き戻される。
棺桶に入った父の顔を見詰めてそこに座を占めて自分を責めていた。
私の肩に熱くぬるっとした腕が置かれた。私はそれが何者なのか確かめるために首を捻ろうとしたが「見てはだめだ」と語気が無くて悲しそうな声で言ったので私はそれに従って何者なのかは見なかった。彼の手は自分を消し去りたいと思う私には心地よいくらいに熱く全く予想の出来ない方向へ私の全力を向けて今の現実を忘れさせてくれる予感を私に抱かせ、そして、私の後悔の螺旋落下の悲しみを全て吸い取ってくれている様な気がした。彼は悪い物の塊である事は分かったがそれは私から悪い物を吸い取った結果そうなったので決して私の敵ではない。
見なくても私を慰める間違った膨大なエネルギーと狂気の塊があの象であろう事は分かっていた。
いつかの気がかりな夢に出てきた私に馬乗りになって自分自身を負傷させている存在が誰なのか分かったような気がした。
私を私が壊れる程の激情から保護し『私の人生は無意味に荒廃した世界』だという事から守って人生を行進し続ける巨大な象も又今、一隣そこにいる象と同じモノなのだと茫漠に理解したように思う。
私は象に聞く。
『私は君に身を委ねていいだろうか?』
『まだダメだ。君はまだ何もしていない』
『どうして?もう私は限界なんだ。未来に希望を見いだせない』
『そうさ、未来なんてもんに希望なんてない。生きる事は苦しいし悲しい、思い描いた理想なんてもんはやってもやっても狼狽した目で見つめる遠くの桃源郷だ。近づくけど絶対たどり着けない。必死にやっても運命ってやつが振るわない時だってある。間に合わなくて誰かを助けられない時だってある。他人の為に自分を犠牲にした事が拒絶される事だってある。説明書もヒントも無い空気だって吸えない様な所から存在しない様な答えを考えて少しずつ道を作って行かなければいけない時だってある。何度も限界を迎えて、精魂尽き果てて倒れ込んで『一般的な』なんてやつが『立ちなよ』なんて言っても起き上がれない時だってある。過去に恐れて進めない時も自分を疑う時もある。ついでに喜びや安心幸せな時だってある』
私は眉間の皺を強く作った。
『考えるだけでこの先私は耐えられないよ』
象は笑った様に思えた。
『人生は思い通りになんてならないよ。だから面白いんじゃない。だから意味を持って貴方は貴方になれるんじゃないの』
象は隣で嬉しそうに無音の笑顔を作っていてこの先の人生にある苦難が楽しみで仕方ないようだった。まるで賢者の様な良い事を言っている様だが象の本質はそうではない。私の寿命目いっぱいを私が必死に生きる事、狂う直前を狂気と拮抗しながら戦って生きる事それが象にとっての快楽なのだ。それを求め私を正気のまま地獄で生き永らえさせたいのだ。
一瞬でも象が狂気を偽装した余す事無く善の存在だと思った私が馬鹿だった。しかし、絶望の淵にいる私には象の考えを受け入れるしかなかった。あらゆる感情あらゆる事柄には意味がありそれらを投げ出さず最後まで考え続ける事に私の魂の意義があるのだという事
。だから私は絶望しながら生きて行かなければいけないという事。それが人生だと象は言った。
俯いていて証言台に私は立っていた。
「被告人は何か発言はありますか?」と裁判長は言った。
「はい。私は父を救えなかった事を認めます。家族を支えられなかった事を認めます。それが『私』なのですから」
戦う意思を失った私を見て裁判長は悲しそうに視線を落とした。
「そうですか・・・。あなたが犯した罪に対しての罰は、永劫夢の中に幽閉と言う罪になります」
私は『犯した』と過去形になっているのが妙に気になったがもう何も口を挟むまいと思っているうちにガベルが叩かれた。
一繋がりの意識が無いという事はきっとここは私が犯した罪に対する罰に服している最中という事だろう。
今気がついて意識を始めたのは父の病室の窓から外を見ている所だった。
私に刑が執行されたのは今ではない気がする。もっとずっと前あの気がかりな夢のあたりからだろうか?刑が始まっているのにその後で刑を決定しているので順番が逆さまになっている様な気がする?
首を傾げながら青空を見て何か頭の中で引っかかるモノが何か考えるが出てこなかった。
「・・・」
父のいる方で声がしたので私は振り返った。
父はベッドから上半身を起こしてしっかりした目で私を見詰めていた。どうも調子がいいようだった。
「そうじゃない・・・」
「どうしたんだ?」
「夢から覚める方へ現実の方へ浮上していると思ってるのか?」
「そうだよ。夢の中に閉じこもってしまった原因を克服して現実に目覚めるんだよ」
「違う。気づいてない様だがお前は今夢の中へ深く潜って行っている」
「そんなはずないよ。確かに現実での私の課題を認識して理解しつつある」
「違うんだ。問題はそんな事じゃない」
「父さん、どういう事だい?」
「深く潜って行き過ぎると戻ってこれなくなるぞ」
「だから、深く何て・・・。現実の方へ向かっている筈だから大丈夫だよ」
「世界はお前に隠し事をしている」
私は目を覆って頭を振った。やっぱり父さんの調子は悪いようだった。
「父さん」そう言って笑いかけようとしたが、ベッドに父はいなかった。使っていた後も無くて次に使う人間を待っている状態だった。
ピー
急に聞き覚えのある音がした。どこだったけ?巨大な私の中の耳鳴りと私と言う迷路を見下ろしている時になったサイレンの音と全く同じ音だった。
音源を探して見つけたのは心音を波調グラフで見る機器だった。直ぐに等間隔の鼓動に戻って息をつく。
ふと見たテレビ棚の開いているスペースに父が茶目っ気を見せたのか、ジオラマが作られていた。象とクジラのフィギアが向かい合ってその間に小さな船が漂っていた。象はクジラに威嚇していたがクジラは超然としていた。
バサっと何かが床に落ちる音に気がついて私は目を覚ました。辺りを見渡す。いつもの私の部屋のベランダで椅子に座って眠りこけてしまっていた自分がいた。目の前の丸テーブルに投げてあった煙草を拾って咥えた。空は酷く綺麗で青かった。旅客機がなんとも言えない角度で濃い飛行機雲を引いてこれまた風流な空を作っていた。
そんな空を虚無に見詰めて暫く煙草を吸った。何と心地安寧の時間だろうか?
そのうちに何かを落とした事を思い出して本を拾った。
私は目を見張った。辺りにこれを読む事をはばかる存在の気配がしないか見渡す。しかし今私の見える限りの世界はそれを許していた。
『象の背』だった。
煙草を強く濃く吸って煙を吐いた。風が私を撫でた様に感じたのでその虚空を見てからページをゆっくり開いて続きを読み始める。




