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現実の消失  作者: 微睡 臚列
10/10

クジラ

また私は落下していた。私が落ちてきた遥か上には太陽の様に丸い円が見えるがあれが老人の言っていた『理解や繋がりを持てなくなる断片的で抽象的な記憶』と現実の理路整然とした意識との境界線だろう。現実の法則を失う境界線で『事象の地平線』とでも言っておこうか。つまりあの線を越えたここは現実の宇宙法則を失った場所という事だ。それで納得がいった。だって今この光景が理解できないから・・・。巨大な鍋が真下にあってそれは惑星程広大と言っても問題ないだろう。その鍋以外の空間は真っ暗でその暗闇の途中から色んな色の滝が鍋に注ぎ込まれていた。全ての色が混ざって鍋の中は灰色に近かった。そうして私は鍋の水面に落ちた。手触りはスムージーの様に粘り気の中にじゃりじゃりした感触があった。温度は生温かった。暫く沈んで行って私の浮力が釣り合ったのか止まった。底に着いたわけではなさそうだった。もしかしてここが落下の終着地なのだろうか?現実で持っていた物をここに来るまで少しづつ失い今は五感を奪われ殆ど思考だけしかまともに動かない。そうして筋肉も朽ち果てて身動きが取れず栄養が思考に届かなくなって私は停止する。もう取り返しのつかない所に来てしまったのだな・・・。出来る事なら現実に目を覚ましたかった。そう思っていると妙な感覚が始まった。自分自身が収縮していく感覚。私は漠然と理解する。きっと今度は私の内側へ向かって落下していくんだ。



私は音を失った様なまだ薄暗い時間に目を覚ました。父と母と私で川の字に並んで布団が敷いてあった。母はまだ寝息を立てていて上半身を起こした私は暫く母を見詰めた。父の寝床には父はいなかった。居間の方の障子戸の下の擦りガラスが明かりを漏らしていた。特に誰かに気づかれてはいけないという訳ではないのだが、音を立てない様に居間の障子を目だけ見れる様に細く引いた。

父が自分で入れたお茶を啜る所だった。今すぐ居間に入って父に教えをいたかった。何が正しい事なのか?私はどうすれば良いのか?私はこれであっているのか?でも私は聞かなかった。静かにその場を離れそっと窓から出て何の柵も無い夜明け前の道を歩いた。


すぐに朝日が出て明るくなるだろうと思ったがずっと暁闇ぎょうあんが続いていた。

静けさと仄寒い風の中私は白い呼吸をして歩き続けた。無機質で透明で自分自身の事を綺麗だと思った。単調に進む機械仕掛けの私に自我と言うものが無かった。頭の中は全くの伽藍洞だ。そして只進むという事以外に対しての処理能力は酷く脆く力づよく行進している様でいて実は繊細で華奢なパーツが強度ギリギリの応力を受けて軋みながら動いていた。

この行進は一体どこまで行くのか?私は早く終わる事を願っていた。生きる事に意味を見つけられなかった。生きたいから生きるのではなくて生きなければいけないから生きていた。目的と方法を勘違いして生きるために生きた。

・・・。

そうじゃない私の人生はそんなに意味のないモノではない・・・筈だ。只々生きるという事の中にも決意や感動があったはずだ決して何か偉業を成しとげようとしなくても。



静けさの中私は僅かに切迫感を持って目を覚ます。息が荒かった。私は自分の部屋の布団の中で目を覚ました。目を覚ました時何度も考えた事を再び考える。一体どこまでが夢でどこまでが現実だったのだろうか?そして、今ここはどちらなのだろうか?

夢の中で問題になっていた事柄や子供頃の妙な癖、会社がストライキで暫く休んだ事、デモが流行った時代を経験した事、医者から検査結果を手紙で貰って胃がんだった事、便が黒かったのは胃がんの所為だった事、若い頃海外に井戸を掘りに行った事、幼い歳頃『永久機関』に目を輝かせた事、念願だったコーヒー店を開いた事、死のうと思った事や破壊衝動に苦しめられた事、それらは形は違えど現実の記憶として存在していた。きっとこの現実の記憶を元に先ほどの夢が作られたのだろう。

しかし、騒々しく必死な良い人生だった。思い残す事は無い。私にできる事はしてきた。ここが夢だろうが現実だろうかどっちだっていい。どこにいても物事はなる様にしかならないし人はできる事しかできないのだから。


そう思うと心が安らかになって私は人知れず微笑んだ。そうしてもうひと眠りする事にした。たとえこの眠りが最後の眠りだとしてもそんな事はどうでもよかった。誰かがタイムリミットがあると言っていたが眠ってその制限時間が来ても別にかまわない。自分の人生に満足して目を閉じる。これほどになく素晴らしい事では無いか?

私は心地よく瞼を重くさせ閉じた。触覚を意識しなくなって自身の体の認識を溶かす様に失い。幽かに現実の雑音が聞こえてその音が徐々に落ちる様に遠くなって行った。同じく意識のも闇に溶ける様に徐々に解体されていく・・・。


・・・。


「ぉぃ」


・・・。


「?」


「ぉぃ!」


・・・。


・・・。


落ちて行ってその落下加速度のまま反対側のブラジルに出た様に滑らかに何者かの声に目を開ける。


「なんだ?!」


「すぐ起きるんだ!!すぐそこまで来ているぞ!!」


私は寝ぼけ眼で横たわっている私を揺さぶってそう言う者を見る。正義だった。『象の背』に出てきた正義だ。

私は又寝ぼけて夢現を区別できずにいるのか・・・。


「一体何が来るって言うんだ?眠らせてくれよ」


私は抑揚なく焦る事も無く聞く。


「死だよ!」


「え?」


「死がすぐそこまで来てこっちに迫ってきている!!」


「なに!?」


私は飛び起きる。死は恐れず安らかなモノだったはずなのに心臓は強く鼓動を打って私に動けと言っていた。でもどこへどう逃げればいいのか分からず気持ちだけが急いていた。


「どこだ?どこにいる?」


正義はその場にへ垂れ込んで座って泣きべそをかいて「もうだめだ。間に合わなかった」とわめいていた。


私の質問に返答する気が無い正義に「大丈夫だ」と言ってからベランダに出て外の様子を見る。


真っ黒な波が街を端から呑み込んでいた。その波は黒いけど透明な事が分かった。通った所から物体や意識や記憶が消えて何も無くなって闇の様な透明になっていた。私は直感的に思う『あの液体に私の体が少しでも触れたら私は私を失うだろう』現実の消失だ。覚悟や決意、愛や勇気、正義や希望、私が絶対失いたくないと思う物が消失する。

単純にそれは嫌だ。どうして嫌なのか?その答えを知りたかった。だから走った。あの液体の迫りくる反対方向へ抗う様に思考で策を巡らせながら。


「どうすれば良い?どうなればいい?」


女なら答えを知っているかと思って女の部屋を叩いたが気配が無かったので再び走り出した。走っている途中に一瞬胡坐をかいて瞑想しながら穏やかな顔であの液体に飲まれていく自分の映像がよぎった。別にそれでも良かったかと思う。私はなぜ?走っている?


7階建て団地を出ていつも通勤で使っているバスに人が乗り込む所を横目に見て通り過ぎた。私以外のこの世界の存在は日常の生活を続けていた。そして自分自身が消える瞬間を認識できずにあの液体に呑み込まれていった。もう私の100メートル程後ろに迫っていた。必死に走った結果父が入院している病院に到着した。本の数秒の違いで玄関の正面ドア私を通した後しまった所で液体が雪崩れ込んできた。普通の液体なら上へ向かうのには少なからず抵抗があるだろうと思って上の階へ上る。変わらず私以外は病院の日常であの液体には気がついていない様だった。物の数秒で一階は満たされ消失した。今では殆ど背後にまで迫っている。とりあえずはいれる扉は無いかと目で探す。もし鍵がかかっていたらその一瞬で呑み込まれる。でも選んでいる暇はない!!

私は一つの扉を開けてすぐに閉めた。とりあえず液体は部屋へ入って来なさそうで扉に背中を擦らせながら崩れ落ちた。しかしを隔ててて液体が流れる振動が伝わってくるのでここもそう長くは持たないだろう・・・。


荒い呼吸を呑み込む様に何とか落ち着かせて俯いていた顔を上げる。


「え?」


部屋の中央は伽藍洞だった。壁際は棚などがあって病院の倉庫としては自然なのだが部屋の中央だけ日常の自然性を欠いていた。何もないと書いたが正確には一つを残して無いも無かった。それは巨大な蛹であった。真上に強調して見せる様にライトが照らしていた。中に人間が入っても少し余裕がある程の大きさで私の目を釘付けにさせた。蛹の上面には亀裂があって私は恐る恐る近づいてその亀裂を覗いた。


中身は空だった。


どうしてか急に心配になってこの蛹の中に居たであろう存在は無事生まれただろうか?と強迫観念的に取り乱して、もし中で死んでしまったのなら水分を失って小さくしぼんで黒くなった中身があるはずと思って蛹の中に顔を突っ込んで隈なく見回した。とりあえずはどんな状態かは分からないが、それらしきものは無いので蛹からは出た様だった。蛹の中は粘膜の様に血色を帯びた色をしていて只の殻なのに脈動していた。まるでこの夢の初めに出てきた巨大な私の体内の洞窟の様だと思った。蛹の中は妙に落ち着いてしばらく顔を引っ込められなかった。しかし蛹の中身を探さなければという焦りが湧き上がって来て顔を外に出した。


「え?」


首の後ろにチクリとした痛みを感じて声が出た。意識がぶよぶよとしてきて水の中でもないのに溺れている感じで『これは誰かが私の行動を阻止しようとしている』と漠然と感じた。その内に強烈な睡魔が襲ってきて、しかし、私は私の後ろにいるのが誰なのか確かめようと必死に眠気と戦う。でも体がいう事を聞かなくてなかなか思う様に行かない。このままここで意識を失ってしまったら背後の人間にされるがままされてしまう。『あれ?』これって初めの夢の時の誰かに馬乗りにされている様な感覚と似ている。私は歯をく縛って何とか後ろを振り向いた。


「君は?一体何がしたいんだ?」


声になったのか?それとも意識の中でかろうじてそう言ったのか?分からなかったが後ろにいた人の顔は見れた。


女だ。例の私を正しく現実に目覚めさせようとしている女、隣人の女。父が出てきた夢の時と同じくナース服で片手に注射器を持っていてなぜかその中身がモルヒネだったという事が分かった。私は唐突にそして茫漠と理解する。夢の始まりで私に馬乗りになっていたのは女だという事、そして女は正しくなんか無い。何かを隠して私を思い通りの結果へ導こうとしている。そして今女の手に握らているからの注射器の中身は私へ打たれていた。『蛹の中身を探さなくてはいけないのに』と強く思ったがここで私は睡魔に負け、すとんっと眠りに落ちた。


音が無さすぎるとそれはかえって騒音の様に感じてしまう様だった。私は何もないという事を感じ取って目を覚ました。体の感触はいつもの布団の中だった。仰向けに寝ているので目の前には天井が見える筈なのだけど目の前には真っ暗闇が巨大に広がっていた。

私は体を起こして辺りを見渡す。全方位真っ黒でその上に布団だけが浮いている様だった。すべては消え失せたのだ。唐突に便器の中の黒い液面が映像として脳裏によぎった。「おーい!」と叫んでみるが口から出てすぐに音は吸収され囁いているようにしか声を出せなかった。この黒い液体は死だろう・・・。もう最後の私のカスしか残っていない様だ。そして死は私が死を受け入れる事を待っていてくれているのだ。


不意に液面が波だったような気がしてその一点を見詰める。波紋は波に変わり私と言う領域を押し広げる様に巨大な象が黒い海から現れて、私はその上に乗って死から遠ざけられた。巨大な象は「パオーン」と力強く鳴き全身を液面から出して行進を始めた。

私は布団から出て遥か下の黒い海を覗き込む。


「来る」


私はそう呟いて黒い海の中に何らかの存在を感じる。轟音と共に飛沫を上げて黒い液面から象と同じくらいの巨大なクジラが躍り出た。一瞬クジラと象は目を合わせ、すぐに攻防が始まる。大嵐を起こして黒い海は荒れた。しかし音は無かった。


クジラが一体何なのか漠然と理解する。あれは死だ。そして最後に死に抗おうとする存在の像とは一体何なのか分からなかった。


生と死の戦いは拮抗していたわけではない。一方的にクジラが象を呑み込んでいった。なぜなら私が特に死を拒絶していないからだ。寧ろ死を求めてもいる。だから死に抗おうとしている象が私の中の一体どの部分なのか分からなかった。


『ありがとう』


私はそう言って微笑んで象を撫でた。私のありがとうには『もういいんだ』と言う意味も籠っている事を象は理解したのだろう。クジラに抗って暴れていたのをぴたりと止めて今度は縮んでいった。


「君は」


縮み切ってそこにいたのは爛れた皮膚でずんぐりむっくりのワニの様なあの象だ。私の狂気。私の狂気が私を守っていたのか?そう思って象のしとしと泣きながら笑っている顔を捉えよく見ると瞳だけは鮮やかな紫色をしているのだなと思って・・・次の瞬間に私はクジラに飲まれた。


・・・。




飾る様な鉱物石を割ったような断面で、見るからに硬い海だった。

鮮やかに積層を重ねうねり波立ってしかし石がそうであるように静止していた。

そんな複雑美に釘付けにされ横目に見ながら私は歩いていた。その海は静止していたが同時に始まりから最後までの時間を集約積層して私の知っている宇宙法則上はあり得ないが全ての時間を一時に見る事が出来た。唐突に私は理解する『時間とは物質なのだ』と。


私が歩いているのは真っ白な砂浜だった。


死ぬと決まって実際死ぬまでの本の刹那にこの海辺はあって、脅威はなく、義務もない。個人以外何人もいない只そこにいる事だけを許された時間の概念を取り除かれた一瞬の永遠の場所だった。


たぶん誰もが死ぬ時ここに来るのだろう。


ようやくここに来たなと思う者もいれば、次は何が起こるのか?と思う者もある。ここから抜け出して現実へ戻ろうとする者やすぐに終わりにしてしまう者もいるだろう。


好きなだけ人生を感慨回想追憶してもう飽きたら自分自身で終了できる所なのだ。

神の存在を感じるがここは超自然的にできた。労いの場所なのだ。


つまりは自分の人生と言う映画を好きなだけ見る事が出来る場所なのだ。


私は暫く海を見て歩いて『自分は死んだ』という事を理解し納得した。そうして安らかな溜息を吐いて自分自身を労う気持ちを味わった『ようやくここに来た。生きる為に苦労する事はもう終わったのだ』そう思って快楽に近い達成感と脱力感に満たされた。『ああ、私は仕方なく生きていたのだな』と思った死ぬ事に後悔はなく自然と受け入れているしむしろ待ちわびていたと思う。そんな自分を一伏せ笑って適当な所で座って自分の映画を再生して見た。


・・・。


初めは私が生まれた頃の映像があって記憶が無い頃の事だったので興味深かった。母と父は若くぎこちなく私を育てている所が可笑しくて微笑んでしまったが私を愛してくれている事が分かったので「ありがとう」と声に出した。

私の瞳は一体何を捉えて来たのか改めて見るのだけれど実際その時の様に緊張した気持ちでは無くて、今の私の様に落ち着いて見れるので、これは最もなエンタメだと思った。私にしか分からなくて、しかし、その時の私と今の私とで完全に共感できるという事が不思議な心地よさを私に与えていた。

少年時代の不安定な世界。青年時代の憂鬱。大人の空虚、後悔、希望・・・・。人生の章題はこの様に続くのだろうけど今はまだ少年時代の記憶で、本の一瞬だった様に思えるが改めて一つながりの時間で見ると膨大な情報と膨大な感情のパターンと処理が行われていたのだと理解する。つまりたった一瞬の出来事も『私』が認識し観測するという事は膨大な時間が掛かってしまうのだ。私は一瞬とは永遠に近いと思った。


・・・。


なんの変哲のないある記憶の部分で私の体に衝撃が走った。

小学生の私は風呂に入った。懐かしい私の実家の昔の風呂だった。床はクリーム色のタイルで壁の半分まではエメラルドグリーンのタイル、その上と天井は薄緑の塗り壁、床のタイルの端が欠けているモノがあっていつも足に感じた鋭利な感触で足が切れそうで怖かった。ステンレスの浴槽のすぐ隣には蛇口があって、そこからは水しか出なかった。

タイマーが一つ壁から出ていて、水を必要な高さに張ってからタイマーを回してお湯を作る。そうすると浴槽の中の分厚い水は上は熱いお湯、下は冷たいままの水の2層が出来る。洗面器で掻き混ぜてもいいのだが、私はヒリヒリと手の痛みを味わうように感じて手をゆっくり差し込む。火傷寸前の手は冷たい層へ到達し又違う痛みを得た。突っ込んだ手を動かすと透明なもやが私の手が生み出した乱暴な水流を視認させ綺麗だった。


掻き混ぜ終えると風呂へ入った。急激な温度差に全身の血管が収縮し精神が尖って無敵になった様な気持ちになるのでその感覚が好きだった。


暫くして体が火照って来たので持ってきていたガラスのコップに風呂の水を張ったのと同じ蛇口から水を入れて飲んだ。只の水道水なのにこの世のどんな飲食物よりもおいしかった。殆ど快楽に近い程の喜びだったので貪るように2杯目を飲んだが2杯目は1杯め程の感動を味わえなかった。私は落胆して100数を数えたら上がる事にした。


「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、20、20・・・ん?」


何故か20から先が数えられないのだ。その先はまだ分からないからだ。次の数をなんとかひねり出して言ったのが「50、100、150」だった。


「思い出した・・・」


そう呟いて私は私の追憶の映画を見る事をやめはなたれた矢のように走った。


ここに際限は無い、どこまで行っても同じ場所なのだ。ここから抜け出す事は出来ない。自分自身を終わりにする以外にはない。しかし私は自分を終わりにする宣言をせずに走る事をやめなかった。


気づかぬ間に涙が出ていた。私が私である内にしなくてはいけない事があった。ここから抜け出そうとする人間はきっと恐怖や後悔から必死になって元居た現実へ戻ろうとする。しかし私は違った。私は私の全てを賭けて全てを取り戻しに行かなければいけなかった。

他の利己的な足掻く者とは違って一つの感情だけに囚われていなかった。だから、唐突にいくつかの真理や摂理を理解した。あらゆるモノは同時間上、同座標点上に存在する混沌の一つの塊だという事、人間はそれを整理した感覚で感じ取る事が出来て空間や時間を想像して補完している事、つまりはあらゆるモノには隔たりが無いのだ。たとえ私と私の外でも生と死でさえも。そう考えるとその一つの混沌の塊は妙に球体の様な気がしてきて『理論上球体は切らずに裏返す事が出来る』そう漠然と確信した。肉体を持っていた頃の正常な思考では無かった。ここが私の肉体の外で人間と言う枷から解き放たれた場所だという事を茫漠に実感する。そして唐突に分かる。絶対行く事の出来ない隔たりの空間だとか、もう過ぎ去ってしまった時間だとかそんな物はそれに囚われている間は殆ど絶対に近い法則だ。しかし、そんな法則は無いのだ。そしてその法則を作っているのは自分自身で、重要なのは自分自身がどうしたいのか?何がしたいのか?という事それが世界さえも作って仕舞うのだ。


だから私は探した。


「いた!」


私が見つけたのはあの扉を持った女だった。閃きだ。閃きは思考を反転させる。


息切れして膝に手を着いた私を閃きは凝視する。


「繋いでくれ現実へ」


女は優しく笑って扉を開いた。


私は微笑んで「ありがとう」と言って扉の向こうへ潜った。


・・・。


扉の向こうは真っ暗闇で進むべき方向の目印なんてものは無かった。匂いも温度も感触も無くて、何かに向かっているという確信も無かった。しかし、迷いなく私は進んだ。途中目を凝らすと男が一人擦れ違うように過ぎて行ったがあれは私だった。その後暫く闇を歩いて光のスリットを覗く3人組を見つけた。私は懐かしく微笑んで先を急いだ。

その後感覚で3日程歩いたがもう我慢できなくなってそこから全力疾走で力尽きるまで走った。さらに長い時間が流れて私は見つけた。酷い息切れをしていて倒れそうだが『それ』から目が離せなかった。思考に回すエネルギーはさっきまでの全力疾走で残っていなくて頭は空だった。だから思考の無いまま只見つめて静かに涙が流れていた。暗闇に細長い光のスリットがあってそこから白い綿埃の様なモノが入り込んでこちらの闇の中の空間を舞い落ちていた。スリットの向こうは見えない。


・・・。


ドーナツを重ねたみたいに真ん中に中庭があってここは8階だった。中には今たっぷりの闇を入れていて私は大きなガラス張りの待合室から中庭を見ていた。闇は暁闇だった。眠気とずっと腰をさすっていた手が痛かったがそんな事はどうでもよかった。少し前に書いた書類と私を気遣って引き攣った笑いを残して運ばれていった妻が気がかりで不安だった。書類は確立の数字とその確率で死ぬと書いてある手術同意書だった。

この時の私の歳は大人だった。だけど、情けなく顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

情けなく不安と恐怖で体中が震えていた。


「頼むから死なないでくれ」


震えながらそう呟いた。


「私の全てを引き換えにしてもいい。無事に帰って来てくれ。どうかお願いします。無事に帰って来てくれ、私その者も差し出していいから、私なんてどうでもいい。お願いだ死なせないでください」


私はこんなに取り乱す程小春さんを失いたくないと思っていると言うのが意外だった。成り行きで仕方なく一緒にいてある程度大切な存在と思っていたが、自分自身と引き換えにできる程とは思っていなかった。


手術の予定時間は大幅に遅れていて私はずっと神秘の存在に心の中で懇願していた。


中庭は闇を抜け朝青く明けてきた。私は丸い中庭の天井の空を見上げる。晴天の青空では無かった。寒そうな雲が覆って大きな綿埃みたいな雪が降っていた。おびただしい雪の群れの一つが妙にふわふわと空から落ちてくるように感じてその一つを目で追った。私から見て反対に遠い所からこの中庭に入ってきたのにまるでその一つの雪も私を見ているかのように真っすぐ私の方へ降下していて不思議だった。動きが危うくて私は心の中で応援する『頑張れ、こっちにこい』雪は私の顔の高さで目の前のガラスにくっ付いて溶けた。なぜか私は『良かった』と微笑んだ。


「すいません」


「はい?」


「こちらへ」


雪に安堵した瞬間看護師に呼ばれて私は案内された。

2日寝ていなかったので看護師が私をどこに連れて行くのか全く予想できなかった。


しばらく歩いて大きなガラスの前で止まった。部屋の中を観察できるようになっているガラスでガラスの向こうは外では無かった。


「おめでとうございます」


一瞬何の事なのか理解できなかったがガラスの向こうでさらにガラスの箱に入っているモノを見て先ほどまで共に夜を明かした不安と恐怖が歓喜と安堵に反転した。


双子だった。私の子供だ。必死に動いて生きようとしている。複雑な思考はまだない。只生きようとしている。目はまだ見えていないのに私の目をじっと見ていて不安そうに見えた。


私は心の中で言う『ありがとう。私の元へ生まれてきてくれたありがとう。私が君たちの父親だよ』


私は泣きながら二人を不安にさせてはいけないと思って笑い顔を作って見せた。そうして心の中で誓う。


『どんな事があっても君たちを脅かすあらゆる物事から必ず守る』


私はそう決意して一層微笑んだ。


君たちの名前はもう知っている。

君たちに出会ったこの点、私が生まれた点からこの点までの線を引いた直線で私は只生きる為にいた。何かの為にじゃなくて只生きるために困難が降りかかったらそれをなんとか乗り切って生き永らえる為にその延命を人生だと思っていた。だから死ぬ事が怖くなかった。全力を出してダメだったら仕方ないと思っていた。生きる事も只目の前にあるからとしか思っていなかった。

しかし、君たちと出会った点から先私には持たなくてはいけない物が出来てしまったよ。それは希望と正義だ。君たちの為に私の為に世界の為に私は希望と正義を自身に組み込んで生きる。これからよろしく希望と正義。


私はやらなくてはいけない事が出来た。絶対現実に目覚めるのだ。彼らを置いて私が死ぬ事は許されない。


そう思って眼光鋭く現実はどこか?と視線を作っていたらその先には女がいた。例の女だ。女は一体何者なのか?敵なのか?味方なのか?判然としないが今現実に目覚めようとしている私の前に立ちはだかったいる事だけは分かった。


「どうして?私の子供の事を隠したのだ?」


女は悲し気に笑った。


「だってあなたは生きようとするでしょう?」


「君は私に生きようとして欲しかったわけではないのか?」


「いいえ、私は安らかに最後を迎えて欲しかったのよ。最後くらい私を頼ってよ」


「未練を残さない様に辛い記憶ばかりを見せて人生に落胆させてでも諦めずに必死に生きて来たという事を誇りに思って達成感に満足しながら私を死なせようとしたのか?私を頼ってって?君は一体何なんだ?」

 

女の皮膚は剥がれ落ちていつか見た象の爛れた姿になった。


「私はあなたの狂気よ」


「狂気?とてもそうは見えなかったが君は正しく気高く見えた」


「それは、そう言うふうに振舞っていたからよ。でも慣れない事はしない方が良いわね酷く疲れたわ」


「どうして狂気の君が私の最後を安らかにしてくれようとしたのだ?狂気がするのは逆の事だと思うが」


「あなたは私を勘違いしている。凄惨な事態を招いてしまう存在だと思っているけど、それは結果論で私はあなたが壊れそうな時あなたが作っている現実を無視して現状を打開する提案をする」


「現状を打開する提案?」


「そうよ。あなたはあなたが解決しなくてはいけない問題があると思っているけど、問題はあなた自身。正常で全ての記憶を持っているなあなただった場合あなたは死を受け入れられず壊れてしまう。もう、良いのよ。あなたは十分苦労して来たのだから、今必死になる必要は無いの」


「私は今までの人生で君に頼った事はあったのかい?」


「いいえ、何度も死のうと思った事も狂いそうになった事もあったけど、何とか持ちこたえた。一度も私を行使した事は無い」


「そうか」


「凄いと思うわ。だから最後ぐらい私にもあなたに何かさせて欲しいの」


「ありがとう」


女は私の感謝を嫌がった。顔が嫌そうな顔で私を見詰めていた。


「お願いだから、大人しく死んで。どの道死ぬの。今からではほんの少しの事でも何かしようとしてもできないのよ。只、後悔と自責の念と苦しみと非力と焦燥とあらゆる凌辱りょうじょくに圧し潰されるだけ。もうどうにもならないのよだからどうか安らかに死んでくれない?」


「それが私の人生なんだろう?」


「まあそうとも言うけど、そんな最低の瞬間無くても人生は完成される」


「なら、私に返してくれないか?私の雪の日の記憶も雨の日の記憶も一つ残らず私に返して目覚めさせてくれ」


「そう・・・。分かったわ。あなたは最後の最後まで私を使わないのね」


女は笑った。とても素敵な笑顔で私は綺麗だと思った。


途端に私は私と言う人間の生きて来た時間と空間と認識を吸い上げて円錐の回転円に留めた様な竜巻の中で錐揉み状態になった。その中には狂気が隠していた私の世界があった。雨の日の記憶も風の日の記憶も雪の日もあった。世界とは私の為の物では無かった。女は私の人生を意味のある物で完成させようとしていたが、無意味な事こそが私を作っている重要性に私は気が付き、隠されていた記憶の一つを愛おしく感じた。何の変哲のない只の日常の風景だ。私は子供と風呂に入っていて、数を数えていた「20、20、20」その続きが分からなかった子供は「50、100、150」と言った。私の幼い頃にそっくりでそれが愛おしかった。こんな事何も意味を持っていないのに・・・。


気づくと私はあの洞窟にいた。周りの壁は粘液で赤黒く呼吸音と共に脈動していた。私は巨大な私の体内にいてこの肉壁の向こうは一枚だけ挟んで現実だと思った。この巨大な私の呼吸の動きの何度目だろうか?次には目の前が闇に包まれた。


包まれたは正確ではないな。目の前には薄い黒があって、それは瞼だと気が付いた。私は目を開ける。


全身の筋肉を抜き取られた様な脱力感があって実際体は何も動かなかった。声も出す筋肉と気力が無くてわずかに動く目の玉で辺りを見渡した。


ここは個室の病室で、たまになっていたあの高い断続音が『ピッピッピッピッピッ』と部屋に響いていた。心音を見る機械から音がしている様だった。

どんな大儀な役割を担っているかと思えば、なんと只の淋しい老人が老衰で死ぬだけだなんて・・・。私はもう年老いていてもう今日にでも死ぬ事が漠然と分かった。確かに正直目覚めなければ良かった。制限時間がすぐそこに迫ているのに何もできないという不安と恐怖が襲ってきていた「私の生き方はあっていた?」「すべき事は?」と矢継ぎ早に自分自身に詰問する。もし、女に私の安らかな死を手伝ってもらっていたら私は何と言うのだろうか?私は最後に言いたかった事があった。私はもう動かないが声に出した。


「いい人生だった・・・」


私の意識と言うものが足先から徐々に消えていく感覚を認める。遂に私は死ぬのだ。

先ほどの長い夢の中に出てきた私の中のいろんな私達がみんな浮かんで集合していた。彼らは私を見守っていてみんな爽やかな表情だった。


「ああ、ありがとう。こんな私と共に生きてくれた私達よ」


私が本当に感謝すべきなのは困難な人生を共に生きてくれた私自身だろう。


『本当にありがとう私よ』


・・・。


天気は澄明な青空で穏やかな波の何処までも広がる海原に小さな舟が波に任せて漂っていた。舟は乗り主を失い今は波に任せて漂っていた。そうして遠く小さくなって地平線へ消えた。






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