ここは何か?
痩せこけた男が裸体で捻じれるように立っていて骨ばった背を見せてこちらを振り向いていた。男は私で、今にも魂を失いそうな虚ろな目でこちらを見詰めている。私の視野の中央に恍惚の私はいて周りの壁は粘膜で呼吸音と共に脈動していた。洞窟の様に真っすぐ先に続いていて先は暗闇だった。ピーと高い音の耳鳴りがして一瞬、旱でひび割れた地面かと思ったがそれは唇だった・・・恍惚の私の唇が視野いっぱいに映って口を動かした。
「助けて」
声はなかった。幽かな息遣いと共に口の動きが確かに「助けて」と動いたのを捉えて又中央に恍惚の私の全身が映る。耳鳴りは続いていた。
呼吸音は深く長くなっていて「あ?眠りに落ちる」と思った。洞窟は巨大な私の内部である事を唐突に理解し巨大な私は今、眠りに落ちようとしていた。
巨人の私が眠ろうとしている事を理解すると恍惚の私は何かを自分の中で諦めた様に一度悲しく下を向き直ぐに向き直って今度は完全に背を向けた。ゆっくりと疲れ果てた一日にようやく寝床へ向かう時みたいに無気力に巨人の私の奥の暗闇へと消えて行った。
『待ってくれ』
私はそう思ったが声にはならなかった。
途端に私の後頭部に鋭い衝撃を受けて私は俯せに倒れた。誰かが馬乗りになって私の身動きを拘束しているのが分かった。私は必死に私を抑えているのが誰なのか見ようとするがまるで水の中に溺れている様に断片的な感覚は思い通りにならなかった。結局誰か分からないのだが、そいつは耳元に囁いた「見てはだめだ」語気が無くて悲しそうな声だった。地面に血が流れているのに気がついてしかし私の血ではなく私に馬乗りになっている人間の血だという事が分かった。私は抵抗をやめる。なぜか抑えつけられている私よりもダメージを負っているので急に可哀相になって来て、別にもう抵抗するつもりもないし、私を解放したら仕返ししてやろうとも今は思っていない・・・だから退いてほしいのだが、私の上の誰かは必死に私を押さえつけ続けている。私はどうすればいいのか分からなかった。もう力を抜いてされるがままされて溜息を吐いた。
カーテンの隙間から青白い朝日が漏れて部屋へたちこめていた。私は一瞬目を開けて目覚めを認識した。いつもの自分のアパートだ。
『妙な夢だった』そう思って溜息を吐いた。急に眉間に強い皺を作る。暗闇に消えて行った裸体の私を引き止められなかった事が不安で思い通りにならない私に焦燥感が湧き上がってきた。もう一度大きく息を吐いて額を爪を立てて掻いた。
『あれは夢だ』そう自覚して『不安になる様な事では無い』と理解して布団から起き上がるのに30分も掛かってしまった。
カーテンから漏れた光から今日はどんよりと仄暗い天気だろうと予想しながらカーテンを開けたが、雲一つない晴天だった。まだ幽かに心にあった不安は崩れ消え私は綺麗な青空を見て微笑んだ。顔を洗って鏡に映る自分を見詰めた。
「どうした?大丈夫か?」
今朝がた見た妙な夢が気にかかって、自分に過剰なストレスが掛かっている事を暗示しているのではないか?と思って鏡の中の自分を心配そうに見て聞いた。
鏡の中の自分は答える。
「大丈夫じゃないけど、どうにか生きてるよ」
「そうか・・・」
不安や劣等感に襲われる事なんてこの社会ではしょっちゅうある事だ。狂気と紙一重で生きているのが普通で自分の中に『神と獣』がいる事を理解していてしかしその二つに自分を委ねてはいけない事を理解していて『生きる』と言う絶妙なバランスを保っているのが正解だ。だから鏡の中の私は今現在間違った方向には行っていないと分かる。
あくびを一つして便座に座った。力むこともなくするりと気持ちいいくらい便が出てなんだか朝の占いで一位だったような幸福感が走る。鼻歌を歌いながら毎日の習慣になっている便のチェックをするため立ち上がって便器の中を見た・・・。
「は?」
便は形を成していなかった。いつもの正常な便では無かった。便器の中は真っ黒で私は自分の体内の異常に恐怖して血の気が引いた。幽かに便器の中の異様な漆黒に白い物が漂っていた。私は汚いとかそう言う事を全く気にせずに手を突っ込んでその白い物を掴んだ。
それは紙だった。
『お前がしたい事は何だ?』
紙には手書きでそう書いてあった。とりあえず静止する・・・。一体なぜ?どうして?何で?紙が便器の中に入っている?そしてなぜ便が真っ黒なんだ?
紙の方は便に紛れていたとは考えずらい・・・私が紙を食べたという事になる・・・そんな記憶は無い。便をする前か後かに入り込んだものだと考えるのが普通だろう。しかしなぜ?意味深な言葉が書いてある?一瞬今朝の夢に出てきた恍惚の私が巨大な私の闇の奥に消えていくシーンが頭に浮かんだ。
『私の体内からのメッセージ?』
突飛な見当が唐突に浮かんだがそんなはずはない。腸内細菌が紙とペンを持ったって言うのか?
便の方は・・・自分の体に聞いてみるが平然としている。痛みもなければ違和感すらない。それが返って不安を増長させ今は額に脂汗をかいて黒い便器を凝視していた。
『病院へ行こう・・・』
そう思って何度も頷いた。
黒い便の写真を撮って念入りに手を洗った。
とりあえず何かを食べてから病院に行こうと思って戸棚をあさる。
「ん?」
戸棚の中にはチョコにウエハース、バタークッキーと砂糖菓子の類が大量に入っていた。糖尿病の家系なので甘い物は極力取らない様にしているのだが・・・巨大なペロペロキャンディーまでもあって私は眉間に皺を作って砂糖菓子を見詰めて静止した。私の意思とは無関係に手が、巨大なペロペロキャンディーへとゆっくり伸びて行った『おい!やめろ!ダメだ!』私は自分の手を必死に制止する。手は一瞬私を省みる様に止まってすぐに又伸びて行った『自分の手なのにコントロールが利かない!』そう・・・私は砂糖菓子の類が大好物だった。しかし家系的問題で食べるのを必死に耐えていた。
『一体?誰がこんな事を?』
私の首は辺りを見渡し戸棚に菓子をいれた者を探す。コントロールの利かなくなった私の手は満面の笑みでペロペロキャンディーの持ち手を今、掴んだ。
探しても犯人などこの部屋に居るはずはない。私は一人暮らしだった。きっと酔って帰って来た時に買ってきてしまったのだろう。全く・・・。
戸棚の奥の方に一つきりあったカップラーメンにケトルで沸かしたお湯を入れた。
特に腹痛とか食欲がないとかは無かった寧ろ食欲はあったのだが不安な気持ちからカップラーメンを半分残して身支度をして靴を履いた時に靴棚の上に無造作に置かれた本を見つけた。
「ん?こんな所に置いたっけ?」
題名が『象の背』と言う前衛ものの小説なのだが私はこの本をもう3年も読んでいる。何度も読み返しての3年ではない。まだ読み切っていないのだ。スマホが使えない待ち時間などに読む事にしていて今は156ページ目。主人公が巨大な象の背中を旅して色々な人間に出会い自分が何の目的でここにいるのか?を思い出そうとして丁度156ページで「そうか・・・私は・・・」そう言って力尽きて倒れた所がページの文末だった。普通なら気になって読み進める所だが156ページ文末で病院の待合で呼ばれてからもう半年開いていなかった。表現の仕方が独特で、難読系が好物の私にはなかなかの美味だった。しかし、一気に読まないのは長い時間を使って反芻して咀嚼するたびに味は薄くなり味付けの向こう側の素材の味がしてくるのを楽しんでいる。何十万文字に込められた意味・・・これは一様ではない。登場人物の表情や皮脂の匂い仕草の癖や偏って使われた体の摩耗、さらにその向こうには作者の顔立ち体付き服の趣味や抱えている問題、心が救済される瞬間、タイピングやペン、インクの走らせたり止まったり強かったり音や匂い。素材の味がして来たら今度は素材を育んだ大地や風、空、光、そんな味がして、その本その物になり、続きを組み立てたりして頭の中で遊んでいる。だから特に続きを急ぐ事はなかった寧ろ終わってしまう事の方が空虚だった。
あとがきを除いて348ページだった。
私は病院の待ち時間でその本を読もうとズボンの後ろポケットにはみ出しながら入れて玄関の扉を出た。
外廊下に出ると隣の部屋の扉を開けようとノブを掴んでいる女と目が合った。若く白い肌の綺麗な顔立ちだった。
女は私を見つけると妖しく微笑んでカギを落とした・・・。私は殆ど無意識に近く・・・いや『私』では無くて本能が欲するままに女を見てしまった。
露出度の高い服を着て私に向けて太ももを開いたまましゃがんで鍵を取った・・・私を揶揄うように観察しながら目線を私の目から離さず上目遣いの半円の瞳の虹彩は艶やかな紫だった。骨抜きとは今の私の感覚だろうか?誘い込まれる様な引力を持った瞳が私を支配し『女に触れたい』し『触れる事が出来る』と強く切望し確信した。
汚くて若さを失い闇を抱え狂気に負けそうな私みたいな者が触れていい様なものでは無かった。だって私は間違えなく女を幸せにできない・・・。が女は触れて良いと言っている逆に私を歓迎している。
女は自分の部屋へ眼を走らせ私に『いらっしゃい』とサインを出した。
私はビー玉程の唾をゴクリと呑み込んだ。
『待てよ・・・そんなはずない・・・』
これは純粋な恋愛ではない。普通は出会って時間を共にして共感して求め合うのだ。だとすれば・・・女が私を部屋へ誘う理由は何だ?私を騙して金を取ろおって魂胆か?私が部屋に入ったらすぐに恐い男が入って来るのか?
何か悔しい事があって『誰でもいいから』という事なら一様大人としては女を諭してやらねばなるまい。
理由なんてなく私を求めているのか?そんな事あるか?無い事もない極稀にあるのか?
私の本能は『いいから衝動に従え』と言う方へ私を誘導して行くがしかし私の本能以外の殆どは『本能に従うべきではない』と首を横に振っている。私の中の皆、女を否定する訳ではない。本当に綺麗な女で彼女と言う女性を細かくゆっくり知って行きたいと言う憧れがあるのでそっちの方が私にあった喜びが待っていると言っている。下駄箱で見た『象の背』の様に私の小説の読み方の様に行き成り読み切ってしまったら残るのは空虚と次の物語への渇きだけだ。色んな場面で女と共にいて色んな言葉を聞きたい。そっちの方が心地いい・・・。
私は歯を食いしばって女に声を掛けた。
「おはようございます」
女は私の恥ずかしい内面の葛藤を見ていたかのように急に大笑いした。女は私を誘って私がどんな返事をするか試して弄んで楽しんでいたのだ。そうして私のあいさつに返した。
「私はおやすみだけどね」
私は微笑んだ。これが初めての彼女の声と言葉だったので嬉しかった。
どうも女は夜の仕事か何かしてきてこれから寝る様だった。
女は「フッ」と鼻で笑って今は妖しい目ではなくわずかな信頼と期待を女は目の中に宿していた。それは女のもう一面の顔で私が女の誘いにYESと言っていたらベットで見たであろう女の裸とは別の種類の裸の顔であると思った。言うなれば心の裸だ。扉を開けて自分の部屋へ入って行った女を見送って私は音を出さずに笑った。『彼女に次に会う時はどんな顔を見れるだろうか?』と思うと嬉しくなったからだ。不意に私心の中で『これが正解だ』そう思って空の青さを見上げて再び微笑んだ。
私は廊下やコの字型になっているこの建物の向こうの部屋の扉を見る。人が住んでいる事は分かっているが住人を一度も見た事が無かった。
白の壁に水色の鉄扉がずらりと並んでいた。それが7段重なって団地になっている。扉の向こうには一体どんな部屋があるのだろうか?普通の部屋やごみが捨てられない部屋、偏った個人の趣味の部屋、色んな色で色んな形を中に宿していた『まるでレンタルビデオ店みたいだ』外廊下から見えるコの字型に向かい合った鉄筋コンクリートの巨大な建造物にそれぞれ内容のある一つのセル・・・が無数に規則正しく並んでいる。題名は住人の名前だろうか?
外廊下を進んで扉を過ぎるたび一つずつ目で追って中身を想像して遊んだ。一階へ降りて外へ出るまでに出会ったのは隣の女だけだった『もしかするとどの扉の中身も空っぽだったのではないか?』と言う可能性に気がついて私は震撼してその場で立ち止まって団地を振り返った。
確かに人の気配がしなかった・・・。
カラスが一羽「カー」「カー」急に鳴いて飛び立ったので理由もなく薄気味悪さを感じて「おー」と嫌な耳鳴りがした。
もし、私とあの女とだけしか住んでいなかったら、この巨大な建物がある理由は私とあの女だけの為にあってそんな大掛かりで採算の取れない物が存在しているとしたら目的は只一つだろう・・・。私と女とをそれと気づかれぬように飼育しているのだ。いや女は雇われの飼育係で私だけを飼育しているのかもしれない・・・。
私はすべての扉のチャイムを鳴らして中を確認したい衝動に駆られた。しかし、そんな近所迷惑な事はしてはいけないので団地から逃げる様に病院の道を急いだ。
団地から遠ざかって行くに連れて焦燥感と不安は薄れ消えて行った。だって今日は太陽がきらきら光って風が気持ちよかった。
バス停に向かう途中に通る交番で男が警察と話をしていた。何事か気になったので通り過ぎる瞬間に耳を傾けてみた。
「確かにもう1万円財布の中にあったんですよ」
「そうですか・・・しかし・・・落としたでもないし誰かに盗まれた記憶もないのではどう捜査すればいいでしょうか?」
「そうなんですよ。おかしいんですよ。確かに1万円があった記憶はあるんです。これは絶対です」
「ん~困りましたね。記憶違いではないですか?」
私は一人首を傾げる。取られた事実が無いのにお金が無くなっている事実はある。不思議な届け出だった。本人が記憶違いで納得できず警察まで来るのだから本人の記憶には相当な自信があるに違いない。でもまあそういう時ってあるよな。事の真相はきっとあの男の記憶違いだろうとバスの座席に座るまでの間納得した。
私は窓の外の景色を景色を見ながらバスに揺られて病院前のバス停に到着し料金を払う番を待っていた。
「え?ん?おかしいな?」
財布を目いっぱい広げて中を見ながら女は財布に向かってそう言った。女もここで降りる様で女の支払いの番だった。支払いにもたもたしている女に運転手は聞いた。
「どうされましたか?」
「いえ・・・その・・・確かにあったんです」
「落とし物ですか?」
「いえ・・・別に無賃乗車しようとか本当にそう言うんじゃないんです・・・がお金がないんです。つい先まであったはずなんです。ちゃんと表示の料金を確認してすぐに出せるように準備していたんですけど・・・ないんです・・・なんで?」
運転手は女を訝し気に見詰めた。私は無賃乗車しようとする客は大体こんな具合なのを前見た事がった運転手も何度か経験があったのだろう。
「後日必ず払ってもらえますか?」
「ええもちろん。すぐに来ます」
「では住所と名前と電話番号を書いてもらってもいいですか?」
「分かりました」
女は紙に言われた事を書いてバスを降りて行った。『不思議な事もあるもんだな』と警察の男とバスの女が同じような状況でそれを連続で目撃した事が不思議だった。
私は料金を支払いバスを降りた。
道中だけは清々しい天気が私の気持ちを安らかにさせていたがいざ病院に到着すると朝の黒い便の不安が再び込み上げてきた。私は立ち止まって病院を見上げた。かかりつけの町医者で内科と消化器科が専門だった。
受付で貰った問診票を書き待合室のテレビを見ながら呼ばれるのを待った。
テレビではモーベル章候補が紹介されていた。なんでもそれ一つで永久的に電気が無くならないバッテリーを作ったそうだ。
・・・。
おい?嘘だろう?『永久的』の意味を知っているのか?『終わりが無くずっと続く』だぞ?いっても半永久的の間違えじゃないのか?
私はニュースの続きに食い入る。
永久機関と言ってもとんちみたいに『発電する電力より発電機を回す電力の方が小さく永遠に動く事が出来る』と結局電力を生み出す事はできず自らが動くだけで回転体なら軸受けが摩耗するから永遠では無いし・・・あ・・・でも永久機関はそれでいいのか?
『それ一つで発電するバッテリー』は又違う話か・・・。まあ、そうなってくると超電導か?特定の物質を極低温にすると電気抵抗がなくなってさらには電気を生み出し始めると言うあれか?でも確かセラミックで電気抵抗0になるのはマイナス200度くらいだったからしかも電気抵抗0だからさらに冷やさなければ発電はしないから・・・でも絶対零度がマイナス273.15でこの絶対零度が宇宙で理論上存在する最低温度0ケルビンだからそんなもの
人間がコントロールできるのか?
それに温度を下げていくと物質の中の分子(小さな太陽系)の動きがゆっくりになって超電導はその分子が静止した状態な訳だ。ひとたび分子が静止してしまうと隣り合っている物質が連動して静止し世界が止まってしまう。なんて事を聞いたことがある気がする。
ちょっと待てよ?
電気は分子の動きによって発生する訳だから・・・分子が止まったら電気抵抗0は分かるけど発電するわけないよな?私の勘違いだろうか?
ニュースが伝えているバッテリーの仕組みは想像を絶するものだった。
「宇宙は常に膨張し収縮する事はない。バッテリーの中は空間が宇宙の膨張に逆らって伸縮している。空間が伸縮する事によって電気的エネルギーを発散する。膨張に際限が無いように伸縮にも際限がない」
説明はそれだけだった。全く理解する事が出来なかった。
・・・。
まあ、いい。素晴らしい発明をした事を素直に喜ぼう。これでエネルギー問題は解決した訳だ。人類は地球環境悪化の歯止めに殆ど決まり手の一手を打てたわけだ。私は一体どんな立場から地球の安寧に腕を組んで何度も頷いているのだろうか?もちろん一般市民としてだけど・・・。
しかし、よくその発明を発表できたよな。国政の観点から見たら一つの国がその技術を独占したいのは当たり前だし平等な市場に出したら悪い人間も電力が無限に使えるわけだ。
だいいち電力事業は粗方廃業になってしまうから失業問題が出て来る。まあ地球環境と比べたら微々たる問題ではあるが人間社会のレベルで見たら大問題だ。
ニュースは『永久バッテリー』の弊害については触れなかった。きっと気がついてはいるだろうけど、発明を発表した本人が一番危惧しているし技術的だけでなく社会的にも発表までこぎつけるのは並大抵の苦労では無かったという事を知って周りの人間は口を閉じている。が結局は現状を壊して可能性の一歩を踏み出す勇気を恐れた人間の憂いなのだと次のニュースを見て私は『永久バッテリー』の弊害を心配して曇らせていた顔を「きっと大丈夫未来は明かる」と覚悟を決めた様な微笑みを作った。
アフリカの干ばつ地で水に喜ぶ子供たちが画面に映っていた。皆笑顔でおどけて踊っている。他国の支援で上下水道の施設が完成し各戸に衛生的な水が行き渡た。と言うニュースだった。いつでも衛生的な水を飲める私の部屋ではついつい有難みを忘れてしまうしその味も『当たり前の水の味』なっている。があの子供たちにとって水がどれ程にうまい物か一杯の水に歓声を上げた事が私にはあっただろうか?
私は感動して出た鼻水を啜った
世界は私の知らない所で少しづつ良くなっているのだなと思った。
しかし、きっと私の知らない所で悪くもなっているのだろうか?とも思った。
悪くなるスピードよりも良くなるスピードの方が早くあって欲しい。しかし、現実はきっと善と悪の広がるスピードは拮抗していて『今現在』と言うバランスを作っているのだと思う。人間の中にも正しくありたいと思う信念と自分ばかり損をしたくないと思う怠惰とがある。どんな人間にも善と悪があり世界も又同じなのだ。もうどうしよもない自然の摂理なのかもしれない。
他にも私が知る限り世界の問題はまだ山積みになっていてどれも解決するのは困難な物ばかりだ。
今日のニュースはやけに見入ってしまうので自分が呼ばれた時に気づけないと思って私はテレビから目を逸らして壁に貼ってある病気のポスターに目を移したが又すぐにテレビを見てしまった。
次のニュースがなぜだか目が離せなかった。
ニュースは近所の(住所)孤独死した老人の事を伝えていた。ニュースは本の数秒で終了したが私は止まっていてさらにその次のニュースは耳に入ってこなかった。私の中には何もなかった・・・いや、私の真っ暗い奥に何か気持ちがあるのだが瓶の口より大きなモノを瓶から取り出そうとする様に出そうと思っても出てこなかった。一体何なのか?分からなかった。あるいは思いつく出し方と言えば瓶を割る事だけだったがそれはしなかった。
私は受付の様子を眺めた。女性の看護師さんが忙しそうに動いていて待合室に目を向ける暇もなさそうだった。奥の診察手前の第2待合室は待っている人で満席で、私の番はまだ遠いようだった。
私は尻をあげて今朝の下駄箱の小説を取り出し読み始めた。
「さて」
久しぶりに『象の背』が読める事に喜びを感じて声が出てしまった。
栞に導かれて157ページを開いた。
『ひび割れ蠢き広大な背中に私は倒れ込み意識を失った。私は象の頭部へ向かっていたのか?それとも象のしっぽへ向かっていたのか?それすら分からなかった。幾らかの間隔で地響きが鳴り象はどこかへ前進している事が分かる。私や今まで出会って来た者たちを乗せて、私や今まで出会った者たちの気持ちなどこれっぽっちも気にする事なく象はどこかへ進みつづける。
倒れる前私が気がついたのは。目的なんてものはないのだという事。こうして目的に向かって進む事こそ目的で私のこの行動の本質は『私が目的地に到着しない限り目的が分からない』という事だ。鼻から目的が無いにしても目的地に着かなければ目的が存在しないという事が明確にならない。
・・・。
つまり、目的が無い事を気づかせない為に目的地へ向かっている。そして私をそんな状況に置いた者にとって私の目的地までの道のりは私の生涯よりも長い事が好ましい。
倒れる前そんな事に気がついてしまった。
規則的な地響きが私の意識を引き戻し虚ろな目を開けた。
荒廃した象の表皮の上で私は横たわっていた。象の表面一包み丸々どこにも私の目的が無い様な気がした。
・・・。
どうしたものか・・・はぁ。
又立ち上がり象の背を進み続けるか、もしくはここで旅を終えるか。私は今その二つ決めよとしていた。
「ん?」
どの位悩んでいただろうか?思考に集中していて視界は殆ど無意識に認識していたが視界の中に微かにうごくものを捉えた。隆起した象の肌に隠れるように少し遠くに人がいた。意識を視界に集中して凝視するとそれは女だった。
女から目を離さずに立ち上がった。女は私が動いた事を視認すると隠れた。
私は女に近づいて行くが女は私から逃げていく。
「何だ?」
どうしても遮蔽物の無い場所では女は全身を現わし何かを抱えていた。再び目を凝らしてみるとそれは扉だった。私は女に追いつこうと走った。女は扉を抱えて苦しそうに走って逃げていくが、しかし私の方が早くて女の肩を掴んだ。
こっちが怖いくらいに息を切らして目を丸く見開いて女は恐怖におびえて世界の終わりみたいな顔で私を見た。
そんなに怯えなくても・・・取って食おうなんて気は全くない。
私と女の息が整うまで私と女は只々見つめ合った。その間何度か女は逃げ出そうとしたが掴んでいる肩の力を強めて抑え込んだ。別に逃げたっていい、少しだけ話を聞いた後はどこへなりともいって貰って構わない。だけど少しだけ話を聞きたかった。きっと今まで象の背で出会ってきた人間と同じくいつの間にか象の背の上にいてここを彷徨っているだけの人間だろう。だから女自体には何の用もない。私がまだ行った事が無くて女が通って来た道中に『私の目的』らしきものが落ちて無かったかヒントでもいいから聞ければと思った。
今まで象の背で出会ってきた人間は出会ってすぐに、自分の身の上話をし始める襤褸を着たお爺さんは今までずっと妻に自分の本当の気持ちを言えなかった事を後悔していたし、青年は自分を信じる事が出来なくて人の言うまま生きていたら気づいたらここにいたと話した。
私は出会ってすぐに出会った人が持っている「道の先には何がありましたか?」という事を聞きたかったが今まで身の上話を先に聞いた。私の質問に答えて貰うための代価だと思って真剣に聞いて私の考え得る最善のアドバイスしてあげた。その後に私の聞きたかったことを聞く・・・。
今回もそうだと思って息が整った後も私は女が話し始めるのを待った。
・・・。
しかし、女は一向に口を開かなかった。私はどうすれば女が身の上話をするだろうか?と考えた。何かのきっかけを作ってあげたらいいのだろうか?と思ってこれ見よがしに持っている扉について触れてみた。
「その扉は?」
女は一瞬眼球で扉を見たがすぐに目線を戻した。視線を向けるとこれは重要な物だと視線から読み取られてしまうからすぐに逸らすギャンブルが下手な人間の仕草の様に思えた。
今まで象の背で出会ってきた人間とは違って何か妙な感じがした。息が落ち着いたのに未だ女の顔は世界の終わりみたいな表情だった。
私は無意識に女に感じた妙な感じを解明するため扉に手を伸ばした・・・。
女は私の手が扉に届かない様に扉を後ろへ力いっぱい動かした・・・その拍子に扉は女の手から外れて象の背に落ちた。
こんなに嫌がっているのだから女に悪い気がしたが尚も扉を追って触ろうとした。女は私を必死で妨害する。
「この扉に何かあるのか?」
女は首を何度も強く横に振って私の問を否定する。
私は扉の端に触れた。
「あれ?」
触れた瞬間何か変わったような気がしたが何だろうか?
・・・。
「ん?地響きが聞こえないな」
象は行進をやめ停止してした。
『やはりこの扉、何かある・・・』
私は確信し扉のノブを掴もうとした。女は首を横に振りながら必死に制止する。
「ガチャ」と言う音がして扉は開いた。扉の向こうは象の中へと続いていた。
覗き込んでも薄暗くてはっきりと中の様子は見え無かった。扉から入った光が建物で言うもう一階下の床らしき所を照らしていた『降りれそうだな』外と床との距離を目測して私は扉の中へ入って行く半身入った所で女を見るが女はあわあわ焦ってその場をクルクル歩き回っていた。『まあいいか』そう思って私は女を気にせずに象の中へすっぽり入ってしまった。
「パオーン!」
私が入った瞬間に象は悲鳴の様な声で鳴いた。鳴いたのは一度きりでそれが苦痛を伴うが我慢する事を決め込んでるように思えた。自然界で人口のゴミが刺さってしまった野生動物が人間に保護され棘を引き抜いてもらう時に悲鳴を上げる映像が一瞬頭に浮かんだ。なぜそんな映像が浮かんだのか?分からなかった。
バタンッ!!
「え?」
女が扉を閉めた。女は扉を閉めてしばらく扉を抑えていた。女の心臓の鼓動は強く速かった。もうこれ以上自分の鼓動に耐えられそうになかったが歯を食いしばって目を見開き何とか耐えた。今まで恐怖で同じ顔をしていたが、今は闘志で同じ顔を作っていた。自分も覚悟を決め象の中に入った私に全てを賭けた様だった。『もうどうなるのかも分からない』恐怖が反転して興奮物質が脳内に噴出し女は狂気に近い笑顔を作ってぎくしゃくと笑っていた。女が扉を私に使わせない様にしていた事とはそれ程に重要な事だった。
「あなたのしたい事は何?!」
女は扉の向こうの男にそう叫んだ。』
それが今読んだページの文末だった。
「は?」
あまりの唐突な展開に大きめの声が出てしまい頭の中で急き立てるように不可解な疑問が出て来る『目的が無いのか?』『象は一体?主人公とどんな関係があるのだ?』『女は一体どんな真実を知っているのか?』『主観文体なのに扉の女が主人公に見えない位置の詳しい描写はおかしくないか?』『今朝トイレで見つけた紙との奇妙な符合』
「一体何なんだ?」
「知りたい?」
「え?」
小説を開いて下を向いていた顔を目の前へ向けると、少女が私の目の前に立っていた。丁度座った私の目線に立っている少女の目がピッタリ平行直線上にある程の身長だった。髪は長く細くてわずかに淡い茶色を帯びて瞳の焦点はどこにあるのか分からなかった。少女なのにどこか哀愁を持っていて可愛いと言うよりも『綺麗だ』と思ってしまった。
「知りたいって何を?」
目の玉を辺りへ走らせて少女の親がいないか探しながら私はそう言った。
「知らない方がいいわよ」
少女は急に生意気な口調になり私に皮肉った様にそう言った。大人らしからず私はむっとして語気を強めて再び聞く。
「知りたいって何を?」
「知るべき事をよ」
年端も行かない少女よりも私の方が知るべき事を知っていないと言うのか?子供だと分かっていてもその生意気に苛立ってしまった。
「知るべき事なら知っているよ。もし知らないとしても私は知ろうとして一生懸命に生きている君よりも長く知るべきことを知ろうとしてきた」
少女はきょとんとして私の言っている事を理解できず人としての量の差に敗北していた・・・と言いたいところだが、実際少女は哀れみの表情で暫く私を見詰めて私を慰めるように音のない笑みを作って反論無く去って行った。
なんだか・・・敗北したのは私の方な気がする。何なんだよ知るべき事って・・・。
それからすぐに第2待合室へ呼ばれた。診察室を横切る時に看護師さんが出て来る時に開けた隙間から中の会話が聞こえた。
「大丈夫ですよ。本当の自分を信じて」
それは診察を受けている人が医師から言われている精神的アドバイスであったのだが『本当の自分』と言う言葉が私に違和感を感じさせた。まあ文脈が分からないので特に深くは気にしなかった。
もう一度本を開こうと思ったが、今度は直ぐに呼ばれたので先ほど精神的アドバイスを受けていた人とすれ違いになるので『どんな人だろうか?』と出て来る人を待った。『きっと年寄りで持病の事でアドバイスをもらっていたのだろう』と思っていたが違った。
・・・。
出て来たのは先ほどの少女だった。唖然としている私を一瞥したっきりですぐに行ってしまった。
先ほどの少女へのイライラが申し訳なくなって情けなくなってしまった。少女はきっと病気でつらい経験をしているのだろう。
自分の器のの小ささを痛感しながらとりあえず私は診察室へと入った。
「今日はどうされました?」
「はい・・・今朝した便の色が黒くて中に・・・」
中に紙が入っていた事は別に病気と関係ないので言いよどんだ。
「中に?」
「いえ、それは病気とは関係ない事でした」
「一様些細な事も話してもらっていいですよ」
そうは言うものの便器の中に便と一緒に『お前がしたい事は何だ?』なんて書いてある紙が入っていてきっと腸内細菌が紙とペンを持って書いた体内からのメッセージだと思うんですよなんて言ったら変人だと思われてしまいそうなので「いいえ、大丈夫です」と私は言葉を濁した。
「大丈夫ですよ」
『ん?』「大丈夫ですよ」?意味がすぐには理解できなかった。数秒たって言う事を断った『お前がしたい事は何だ?』の紙の内容を聞きたがっているのだと理解した。
「いえ本当に関係ないんです」
もう一度私が断ると先生は「ん~」となぜか唸続けた。それよりも医学的観点から黒い便について詳しく聞いてほしいのだが・・・どうにも私の言い渋った事を聞きたいらしく言うまで唸り続けるつもりらしかった。
「えーと・・・。その黒い便の中に紙が入っていたんですが・・・それだけです」
「紙?と言いますと?」
いや、紙はいいのだよ。異常な便について話を進めて欲しいのだが・・・。
「紙・・・がですね『お前のしたい事は何だ?』って書いてあったんですよ」
「なるほどそうですか」
先生は腑に落ちた様で次へ進んだ。
「では大腸カメラといくつかの検査をしますので、又第2待合室で待っていてください」
「はい」
診察室から出て扉を閉める寸前に振り返って見た先生の記入している紙の『症状』の欄に「るいていづ気」と書かれていた。きっと何かの専門用語だろうか?と思って妙に気になった。普通言葉と言う物は初めて見るものであっても字ずらや状況や文脈から大体どう言う意味の言葉かが分かるのだがそれは全く推測できなくてその事が引っかかった。元気とかやる気とか気持ちを現わした医学的『気』の状態の事だろうか?
そんな考えをしていたら肩までの長いニトリル手袋を着けて両手を衛生的に保つために目の前に出したナースが検査室から出てきて私を呼んだ。私は『まさかあんな肩まで尻に入れないだろうね?』と不安と恐怖を感じながら浣腸から始まりカメラ、触診、CT、採血など検査を終えて、検査疲れとでもいおう強烈な脱力感を帯びて病院の玄関をでた。
結果は後日になるそうだ。今日はもう何もしないで家で寝て居よう。
「今すぐやめろー!」
「正しい判断をー!」
とぼとぼと歩いている大勢の人がデモ活動をしていた。プラカードを上下に動かしたりメッセージ入りのTシャツを着ていたりして大通りを行進していた。
私はその群衆の塊を見詰め『一体何のデモだろうか?政治?世界情勢?』
「気づいているのに目を背けるのはやめろー!」
「現状をしっかり理解しろー!」
「お前がしたい事は何だー!」
「ん?」
また奇妙な符号だ・・・。
「すいません。なんのデモですか?」
私はプラカードを掲げて歩く人に声を掛けた。
「本当のあなたを解放するデモです」
「と言うと?」
「大丈夫ですよ。本当の自分を信じて」
青年は気迫ある目を私に向けて自信に満ちた語気でそう言った。
私は一瞬恐怖を感じた。青年にでは無くて、気配にだ。いくつかの符合と私の直感的な予測の合致があって目的を持った何かしらの塊の気配を今、認めてしまった。それは物理的な形を持たない。物事の事象に介入し目的を達成すれば消える。言ってしまえばコンピューターのプログラムの様なモノだ。それが私を巻き込む何らかの目的を帯びている。私に悪影響を与えるモノなのか?私の幸せを願ってくれる者なのか?が不明な以上恐怖の塊以外の何者でもなかった。
それから急に人以外の視線を意識して恐怖しながら家路を急いだ。
途中又「財布から札を抜き取られた」と言っている男が交番にいた。
私は目を向けない様にして『なんなんだよ』と呟き捨てて通り過ぎた。
私は玄関の扉を閉めた。乱暴にカギを閉めチェーンロックを掛けた所で安堵の息を吐いた。
自分の部屋と言うパーソナルな空間。私が許可しない限り誰の介入もないセーブポイントだ。
とりあえずもう寝てしまおう。明日目を覚ませば複雑な思考の産物である先ほど気がつた気配など忘れて実際は存在していない気配だとかたずけられるから幾らか気分が晴れるだろう。今朝夢と現実を30分掛けて分別出来た様に・・・。
時刻は20時を回った所で寝るには早すぎるという事も無かった。私は布団を敷いて風呂にも入らず飯も食べずに寝ようとしたが『歯磨きだけはしなくてはな』と思って洗面台に行き歯磨きをした。
うがいをした水が排水口に流れて行くのを無意識に見つめた。自分で言うのもなんだが私は綺麗好きな方だ掃除は週3回はする。部屋の中は清潔で片付いた状態になっている。だから排水口がこんなに汚れているとは思ってもいなかった。薄暗く穿たれた穴を覗き込むと中は錆びと垢がびっしりついていた。排水口も専用のクリーナーで掃除している筈なのだが酷い物だった。洗面台の水が溢れない様に上の方についている穴を覗いても同じ腐った肌が奥に見える。洗面台の裏側の空間は錆びと汚れとカビに覆われているように思えた。しかし掃除する事が出来ないので私はその場で眉間に皺を寄せて途方に暮れた。壁を辿って天井を見ると一部に茶色いしみが出来ていて「まさか・・・」そう呟いた。この部屋の外側の壁は全て錆びと汚れとカビとに覆われていて、一見私のセーブポイントは清潔な空間の様に見えて実は汚泥に包み込まれているのではないか?と言う錯覚に陥る。そして私はその事を知らずに安心して生活していた事が気持ち悪かった。すぐさまに壁をはがしたくて仕方なかった。
・・・。
私は無意識に近く、ゆっくりと口を大きく開けて鏡に向けた。
「え」
私は驚いて後ずさった。私に穿たれたその穴の奥も同じで私は恐怖した。
・・・。
水あめの様な粘度の高い唾が口の中で絡まっていた。中で細菌が増え飛び回ているのが想像できた。だからあんな夢を見たのだと思う。私は急いでうがいをしに行った。一体いつ眠りに落ちたのだろうか?眠りに落ちる瞬間なんてものは捉えられる筈がない。実際私たちは寝てはいないのではないか?起きる事だけがあって『起きるからには寝ていないと』と脳が勝手に補完しているのではないか?と鏡に映っている自分の顔を見詰めながら突飛で場違いな疑問が思考で遊ぶように浮かんだが今考えるべき疑問はもっと他の事だった。
眠った記憶がない以上あれが本当に夢だったのか?そしてなぜそんな夢を見たのか?
夢か?現実か?確認するのは容易かった。今目の前の排水口を見ればよかった。
・・・。
排水口はメッキの光沢を放っていて可視出来る所まで綺麗だった。
「ふぅ」
私は安堵の溜息を吐く。今度は恐る恐る壁を辿って行き天井を見たがシミ一つなかった。
今度は向き直り口を開いたが舌に苔が多少生えて白かったが全体的に粘膜の色で正常だった。
私は臆病な鏡の中の自分を笑ったあとに疲れた様に溜息を吐いた。どうも最近夢と現実の区別があいまいで苦労する。
それで、次の問題はなぜそんな夢を見たかという事だ。こっちの方は非常に難しい問題だった。『現状に対しての無意識の自分からの警告』か『未来の予想』か『意識している思考上で理解できないが無意識下で算出した真実を伝えようとしているのか?』解釈はいくらでもできる。だがしかし、直感的に思うのは今の私の人生の現状は一見特に問題なく整理されていて順調な状態の様に見えるが実は真に私が望むものでは無くてそして現状が真に私が望むものではないという事を自分自身も認識していないから『自分では満足しているが実際は取り返しのつかない状態に陥っている事に気がつけていない』
きっと夢の中の私の口の中より奥も又錆びだらけの腐った体内だろう。私が私としか言いようのない余す事なく比類ない私は腐り続け、私以外が『正しい私』と認める部分だけが勝手に生活し一つの一人のありふれた人生を送って、終える。他人や社会に定義された私、意味を持つのは限りなく薄っぺらい張りぼての私、自分の魂など見つけ出す事などできずに錆び屑になって行く・・・。
可哀相な私と思うが社会に忙殺されすべきことを決めるのは私以外の全てだ。
そうして私は私を見失いつつある。
ああそうか・・・夢と現実の区別が出来なくなってきたのではなくて、夢でも現実でもどっちでもいいのだ。どちらも重要ではなくなっているのだ。だから区別があいまいに感じるのだ。
それならいっそのこと意識や思考など消え去って社会や他人にとって『良い人間』を自動運転する高効率のロボットになってくれた方が良い。
「はぁ」
そう思ったって意識や思考を持って生きなくちゃいけない事に溜息を吐いた。
「あ」
会社に忘れた物を取りに行く事を思い出した。
私は支度をして部屋を出た。
会社のビルの前に佇んで見上げていた。高校卒業からずっと勤務してきた会社だった。色んな思い出が走馬灯の様に蘇って今の会社の惨状が悲しかった。現在社員総員でストライキが行われている。私も長い物に巻かれ身を捧げてきた会社を休んでいる。
会社の中はまるで回転草が転がる荒野の様に閑散としていた。人の気配は全くなかった。自分の部署がある20階へエレベーターに乗って辿り着き扉を開けた。
「あ」
「あら、奇遇ね」
虚ろな目を向けて同僚の小春さんが私に微笑んだ。アホ毛がほうほうと出ていて真っすぐ立てない様子で『疲れ切っている』という印象を受けたので「大丈夫ですか?」と尋ねた。
「え?大丈夫よ」
私の気遣いを不思議にして首を傾げた。
「何か疲れてそうに見えたので・・・」
「ああ、ありがとう」
私は密かに小春さんに好意を寄せていて、今まで偶然的に二人になる状況が出来た時「好きです!!」と何度言おうとした事か・・・。しかし大体は頭の中で緊張を高めながら妄想している間に知らずいなくなっていた。
あの虚ろな目と白い肌、いつも落ち着いた抑揚のない返事が儚くて幸薄そうでなぜか惹かれるのだ。仕事以外の素の小春さんに笑いかけたい。『私なんて・・・』と思っている小春さんの魂を認めてこの世で心を許せる唯一の人間になってあげたい。なんの不安も無く私の肩に顔を寄せて抑えられず溢れ出てしまう様な微笑みを顔に浮かばせ私に身を任せて欲しい。そこに春風なんかが吹いて小春さんの髪が幽かにそよいで彼女の匂いに私は『綺麗だ』と思う・・・。
「聞いてる?」
「え?」
いけない。いけない。妄想の世界に入ってしまっていた。
「今日は何で会社に来たの?」
「ああ、保健証を忘れて」
「そう」
よし!今言おう!小春さんに告白するのだ!今までなぜ?言わなかったのだろうか?言えば春風が吹くのだ!このまま言えずに後悔するより結果はどうあれ言ってすっきりした方が良い!
「小春さん」
「ん?」
「あの・・・実は今までずっと・・・」
「ずっと?」
「好きでした」
小春さんの返事を待たずに私の頭の中では春風が吹いていた。
「あー私も今まで良いな~て思ってたんだ」
小春さんは一瞬輝いたように嬉しそうな顔を見せたがすぐに咳払いをしていつもの表情に戻した。そのしぐさに違和感を感じたが私は胸の高鳴りを隠し切れなかった。
「え!!じゃあ!」
「でも・・・ごめんなさい。丁度昨日彼氏が出来てしまって」
「そう・・・ですか・・・」
「ごめんなさい」
「一つ聞いて言い?もし彼氏がいなかったら付き合ってくれていた?」
「ん~たぶん」
私の顔のパーツは一瞬にして中央へ集まり呼吸が震えて泣き出しそうだった。が小春さんに泣き顔を見せたくないので、保険証を荒く取って走って会社の出口に向かった。
小春さんは私を心配してくれて「大丈夫?」と走り出した私の背中に叫んだ。私は振り返らない。
ちくしょう。もっと早く行っていれば良かったのだ。もっと早く勇気を出していれば良かったのだ。もう手遅れなのだ。
涙と鼻水でグチャグチャの顔はエレベーターが一階に到着して扉を開けた時には魂が抜けた様な無表情になっていた。
私の人生全てが全く同じで私が勇気を出し損じたばっかりにもう人生全て手遅れになっている様でならない・・・。
なんとかエレベーターを出て玄関へ向かった。もう歩くことにすら意味を見つけられない。
私の人生の将来には何も楽しい事が無くて私の人生の意味を見失って私と言う存在の意味を失っていた。肉体的な活動を徐々に止め他人が気づかない程のスピードで無機質で透明になって、ふっと世界から消える・・・そんな方向へ目指す様に家路を歩いた。
途中の道で通った雑踏の中のどこぞの女としれないが「精々(せいぜい)あがくと言いわ」と言う声が妙に頭に残った。もう一つ一体誰のどんな文脈の会話だったかは知れないが・・・。
「この世界はあなたに隠し事をしているわ」
と言う女の声が妙に頭に記憶された。
気がつくと私は扉を閉めていた。自分の部屋の扉の内側にいて今、カギを閉めた。
のそのそと冬眠明けの熊みたいに気力なく玄関から移動し居間の中央へ落ちる様に座を占めて途方もなく閉まったままのカーテンを見詰めた。
何時間そうしていただろう?いや何日もしくは何年もそうしていたような気がする。時間を認識する事に意味を見つけられなかった。
長い年月こうしているが居間の中央へ座を占めてから一度も寝ていなかった事を思い出した。睡眠は生命活動の一環である。だから早く消えて無くなろうと言う人間には存在していないだろうか?
そう言えば、睡眠をとらなくなった前から寝る間近の記憶がない事に気がついた。寝ようと思う所までは記憶にあるが次には記憶しているのは行き成り夢を経て目覚める。目覚める記憶だけで寝る記憶がない。どれ程前まで記憶がないか?記憶を遡ってみるが・・・これが又全くない。起きた記憶はあるが寝た記憶はないのだ。これは奇妙な事でもしかして私は一度しか寝ていないのではないか?と思った。ここは全て殆ど私の生誕から一つの夢の中なのではないか?と言う考えが不意に浮かんだ。もしくは寝る前の記憶をわざと忘れているのではないか?寝る前に人は何をする?
『寝る寸前の記憶』を思い出そうとする。確かにその記憶はある・・・ある事は分かるのだが詳細が収められている脳の領域になぜかアクセスできなかった。暫くこじ開けようと試みるがダメだったので考えるのをやめた。
そして不意に思い出す。私は孤独を選んで来たのだという事を他人に煩わされる事を嫌って他人と繋がりそうな予感をしたら叫びながら逃げて私の所在を聞く問には口にされる前に強く拒否した。
私は選んで孤独になったのだ。伴侶を持つ幸せよりも自分の魂の自由を選んだ。友人は支えてくれるが支えなくてはいけない気苦労が嫌で友達を作らなかった。それを今更伴侶を持とうと考えたのが間違えだったのだ。私の魂は何にも縛られず自由な時に何処へでも行ける事が私が求めた事だった。だから別に小春さんに振られた事などどうでもいいではないか?人生を孤独を楽しまなくてはいけない。
小春さんの事は何とか咀嚼して消化したが、一つ気になった事があった。それは小春さんの彼氏がどんな男か見ておきたいという事だ。男が私の認める様ないい男なら良し、もしどうしよもないダメ男でも今更になって小春さんを救おうだなんて気は起こさない方が身のためだという事をしっかり理解した上で只見てみたいのだ。
何かを失ったわけでは無くて結局私は変わらず孤独と共に自由だった。
只々小春さんの男がどんな男か調査する事が楽しみになったので私は身なりを整えて部屋を出た。
小春さんのアパートは以前飲み会のタクシーの乗り合いで場所を知っていた。私は目深に被った帽子のから横目をわずかに出し小春さんの部屋を見る。今もまだ住んでいるだろうか?
「あ」
小春さんが買い物袋を持って帰宅するのが私の視野に入る。小春さんが部屋に入ってから暫くして、丁度いい具合に男が出てきた。
「あいつか」
私はそう呟いて男の後をつけた。
どこかで見た事のある様な気がして男をつけるのと同時に頭の中で男を検索する。
男は駅前の人混みに入り見失わない様に目を凝らして幾らかの間隔をあけて付いて行く。
男が一瞬人混みと被って次の瞬間には見失ってしまった。私は走り出して人を押しのけて男が消えた地点へ向かった。
到達して辺りを見る。丁度細い路地のが口を開けていた「さては路地へ入ったな」そう言って私は路地へ入った。
路地と言うよりも建物と建物の隙間でもし建物が一つの生物だとしたら排泄口の部分の様な人気のない薄暗くて汚い所だった「こんな所へなにしに?」顎を撫でながらもし男が突然でてきて見つかってしまわない様に慎重に進む。
路地をかなり進んで男の気配はなかった。もう残す所目の前の大通りに繋がる光へ向かうしかない。
「あ」
男が壁に寄りかかって札束を数えていた。結構な束でリュックの中へ入れる瞬間に殆ど満タンにリュックに入った札束が見えた。
「おいおい!一体全体どうやってその金を?」
少し引っかかったのは、新札では無くてまとまり切れない隙間を無数に持った札束の群れである事だ。一枚一枚集めてきて纏めたのだろうか?と考えてしまった。それを髪を束ねる時に使うゴムでまとめられていた。
何か闇系の仕事をしているのだろうか?小春さん大丈夫だろうか?何があっても手は出すまいと決めていたが小春さんが不幸になるのは望んではいない・・・。
男は大通りの光へ入った。私も引き続き男を追いかける。
今度は見失う事無く男の尾行を続けていた。
持ち歩くには多すぎる金を使って男は豪勢な昼飯を食った。海鮮丼だ。高級志向の男が入った店に入れない私は外からガラスにへばりついて涎を垂らしながら男が上手そうに惜しげもなく盛られたイクラを掻き込んでいる姿を見ていた。会社へ行かなくなったので貯金を切り崩して生活していたのでそんな金は無かった。
シラスの踊り食いに差し掛かった頃にはガラスの向こうで殆ど失神していた。が男が店から出て来るまで何とか持ちこたえ喉を鳴らしながら尾行を続ける。
男は電車で海まで出て浜を歩いた。この男一体何をしているのだろうか?ただ単に休日を楽しんでいるのだろうか?
浜野向こうの方から目つきの悪い別の男がもう見るからに何か嫌の事があってイライラして視線は矛先を探している様な男が歩いてきて、わざとらしく肩をぶつけた。私はそれを遠目に観察する。こういう時こそ男の器が分かる物だ。喧嘩に買うのか?うまい事諭すのか?走って逃げるのか?
目つきの悪い男は無駄な動きで男を翻弄し「あ?あ?あ?」と言い続けていた。男は冷淡な目で視線を逸らす事なく見詰めて次には顔面を殴った。私は思わず「え?!」と声が出た。直ぐに手を出してしまうなんて人間的にはどうだろうか?目つきの悪い男は倒れたもののすぐに起き上がってお返しの一発を入れようとしたが、男は全力で走って逃げた。
私は「はぁ」と苦笑いの溜息が出る。足の速さは二人とも同じぐらいで浜を上がって私の前を過ぎて港町へ入って行った。私も間隔を開けて走って付いて行く。男は目つきの悪い男を巻こうと路地へ入ったり出たりして蛇行して逃げているがなかなか巻ききれない様だった。
一瞬建物の陰に隠れて・・・その建物の先へ行くと・・・?男はいなかった。そこには少年が一人歩いていた。
「ちっ!どこ行きやがった?」
目つきの悪い男は息を切らして少年を見詰め「何見てんだ!」と少年に怒鳴ったあと振り向いた・・・。
勿論振り向いた先には私がいて、男は首を傾げて私を見た。
「お前さっき浜にもいたよな?あのくそ野郎の仲間か?」
まずい・・・距離を詰め過ぎた。
「いえ・・・違います」
後ずさりして逃げようとしたが遅かった。私も体力を奪われていて「まあいいやお前で」と言って指を鳴らして近づいてきた男から逃れられなかった。苦笑いしている私の顔に私のモノでない恨みを込めた拳を食らって倒れた私に馬乗りになって気が済むまでボコボコに殴られた。
気づくと空を仰いで倒れていた。どうも意識を失ったらしい。飛行機の轟音が夏の濃い青空の空間に響き渡っていた。暫く私は倒れたまま全身の痛みを確かめる様に感じていた。妙に嫌な物ではなかった。『唐突に痛みとは必要な物なのだ』と思う。
少年の顔が青空の中にひょこっと出てきて私は起き上がた。
「何だ?まだいたのか?」
少年は初対面の私に親しみ籠った笑みを向けた。
「方向はあってるよおじさん」
「方向?なんの?」
「でもさ、おじさん。これじゃ無意味だよ。せっかく成功したのに全力で失敗にしようとしている」
「何言てんだ?」
「この世界がおじさんに隠し事している理由や意味を慎重に考えた方が良いよ。いや考えない方が良いよ」
「どっちなんだ?」
「知らない方が良い事もあるって事。特におじさんがしたい事は何か?って事」
今度は符合してそれに対話できる形でデモ団の青年に出会った時感じた『目的を持った何かしらの塊』に遭遇した。少年の体と心を介しているが少年が繋がっている先は世界全体であると唐突に思う。
「何をしたいか?ってどういう事なんだ?」
「まあ言うなればおじさんの妄想みたいなものだよ」
なんだかこの少年に只弄ばれている様な気がしたので私は話を変えた。
「そう言えば、私が殴られる前にここに男が来なかったか?」
「いたよ」
「え?どこ行った?」
「さあね」
やっぱりだ。少年は私をからかって面白がっていると言うふうに笑い出した。私は眉間に皺を作って睨んだが、病院の少女の様にここで大人げない返しをしてしまうと返って敗北してしまいそうなので溜息一つしてその場から立ち去った。
『しかし、自由な男だ』そう思って私は歩きながら又空を仰いだ。空とセットで少年の顔が一瞬浮かんだ。あれ?あの少年どこかで見た事があった様な気がするな?
しかし思い出す事が出来なかった。
暫く探したが男の姿は見つけられなかったので自分の部屋へ帰った。
意識ではとりあえず空腹を満たそうと戸棚の甘い菓子を取り出していた。同時に無意識では、考えていた・・・夢の暗示、雑踏から聞こえる妙に印象に残る言葉、大人びた少女少年、繰り返し符合する質問、小春さんの男の為人、なぜ私は今孤独なのか?
無理数の計算が同時に列をなして頭の中で蜷局を巻いていた。それは膨大になりつつあり意識さえ征服しそうな勢いで現実の認識を得た時には菓子の袋を3つも開けていた。考えても答えは出ない様なので溜息を吐いて一旦中止する。そうすると今度は答えなど必要のない純粋な衝動が襲って来る。
「クソっ!」
あの男の所為で関係ないのに何でボコボコにされなきゃいけないんだ?
私は一つ決めたのだ。あの男を一発殴らなければ気が済まなかった。
明日、男を捕まえに行こう。
とりあえず明日の予定を決めたので後は何も考えないでもう一袋お菓子を食べたら寝よう。
無心とは意外と難しくて手に掴んだお菓子を回しながら眺めて考え事をしてしまった。
もしかしてこのお菓子を食べると言う行為が『私がしたい事』なのだろうか?私は糖尿病を気にしてお菓子を食べる事が出来なかった。しかし実際はお菓子は好きで食べたいと思っている。出来ない事をする事が『私がしたい事』で・・・しかしそれに何の意味があるのだろうか?
知らない方が良いとはどう言う事だ?
出来ないが私がしたい事の、具体的な内容を知る事をしない方が良いと言っているのか?
内容では無くて『私がしたい事』出来ない事をしている事自体に何にか意味があるのか?
もしも体を持たない『目的を持った何かしらの塊』があるとしてかなり突飛な仮定ではあるが・・・。その存在は私に何かを伝えようとしている・・・。が私に伝えようとしている内容がなんとも漠然としていてまるで伝える事を妨害している様でもある。対極の相反した目的が混在し同じ出力口から出ているので『分かって欲しいが分かってほしくない』と言うしかたなく曖昧な言い方になってしまう様な気がしてならない。
世界が私に何か伝えようとするほど私は世界にとって特別な存在なのだろうか?
世界とはいつも個人を顧みない。歴史を見ても普通は個人が世界を変えようとする。
それに世界を変えるよりも自分を変える方が簡単なのだ・・・。
『私は今一体どういう状態なのだ?そしてこの世界は何のためにあるのか?』
二つの問が不意に頭に浮かぶ。どうやって答えを求めればいいのかさえ判然としないが、何か?私の重要な事を決める前の判断材料にこの二つの問の答えは必ず必要である事が漠然と分かった。どういった答えなのか?あまりにも哲学的広義の解釈が大量にあるので全く見当がつかないのになぜ?私に重要だと思ったのか?その根拠も判然としない・・・・その根拠を強いて言うのなら『直感』だ。
そして世界はこの二つの問を私に問いかけている様にも思える。
・・・。
・・・。
・・・。
私はその二つの問について2、3時間お菓子を回しながら考えた。しかし、『過去の記憶の中の状況を整理し解釈し紐解いていく』と言う作業が全くできなかった。その二つの問を考えようとすると急に脳の血流が狭窄して思うように思考を使えなかった。なんとも不思議な感覚で私以外の誰かが私の思考を支配し操作して、ある領域にアクセスしない様にしたりこの二つの問を考えない様している感じだ。
まるで便意だけで出てくる気配のない便をずっと踏ん張っている感じ・・・もちろん眉間に焦燥感の深い皺を作って脂汗を掻いていた。
どんなに考えても『その二つの問はとても重要な物だ!!』という事以外は分からず、その内容は出てこないと判断した。そして引っかかるのは考えている間漠然と蝶の蛹の映像が思い浮かぶのだ。全くもって魑魅魍魎で息切れするほど考え疲れてしまった。頭を使うだけで息切れするなんてあるか?と思ったが・・・それほど考えたのだった。
だから少し頭を休めたいと思って何も考えず読めそうである程度退屈せずに予想を裏切ってくれるエンターテイメントを手に取った。手に取ったのは『象の背』だった。
さてさて
『目を凝らしても暫く闇が私を包んだ。そのうちに慣れてきた目が微かに照明が光っているのを捉え私は歩き始めた。象の行進は再び始まったらしく私は振動ごとによろけながら進んでいく、通路はまるで潜水艦の様に細い幅で床は金網、壁は金属にペンキが塗ってあった。
結局象の背中にいた時と変わらず今度は象の中を何日と歩いた。
出会う人間はおろか生き物の気配すらしない無機質な所だったが不安は感じなかった。それはここが地表では無くて通路だからだ。通路は何かの目的地に続いている様に作られているから不毛だとは思わなかった。
「あ?」
通路と梯子を交互に進んで『通路と言えば目的地へ続いていると思わせておいて永遠に続く通路に閉じ込めておくつもりだろうか?』と考え始めた頃に広場の様な空間に出た。
壁はガラス張りで、床の所々も同じくガラス張りだった。上には象の肌が見えて四本の太い脚が行進している様は壮観だった。象の腹部にある展望室の様な場所だった。
私は象が歩いている地面を唖然と見つめる。
見える限りどこまでも灰色の砂漠が波打っていて幽かに小さな草が生えていた。下の世界は荒廃していたのだ。おそらく生物は存在できない程汚染された環境だろう。
私が不毛に象の表皮を彷徨っていたのと同じく、象も地表を彷徨っているのだ。
この巨大な象の存在が何なのか分かったような気がした。象は荒廃した外界から何かを守って保管しどこかへ移動しているのだ。おそらく保管しているモノの安息の地を探して。
実際私が初めから持っていた目的とは違う『新たな目的』を私は心へ懐いた。きっと象が保管している者は孤独に保管されているだろう・・・私が行って孤独を埋められるだろうか?もしも私がその者の孤独を埋められれば私の意味となる。そして場所は関係なくどこにいようがその者の安息の地になるのではないか?
私は通路をひた進んだ。僅かに心の中が煌めいていた。頭の中で甘美な理想を思い描きわくわくしていた。きっと長い孤独で話したい事が山積みになっているに違いない、私は聞き上手だから充分力になってあげられる。私と言う存在が誰かに必要とされて意味を持つ事に私は期待し鼓動は高鳴った。
2、3年私は象の中を彷徨ったがその2、3年はあっという間の時間に感じられた。その甘美な妄想は持続し続けていたからだ。そうして、私はある扉の前に到着した。
今までの鉄扉では無くて、木製の扉だった。
特別な扉だと言う予感に胸が高鳴って私は扉を開けた。
・・・。
そう簡単には私の目的を見つけ出させてくれなさそうだった。
扉を開けた先には街があった。巨大な街で大勢の人間が生活していたが、たった一人以外は皆そのたった一人をここは『日常』だと思わせるためのエキストラである事が分かった。私がこの街で見つけ出さなければいけないのはたった一人でそう簡単な事では無かった。
目の前をデモの一団が過ぎていくのを見詰める。
「今すぐやめろー!」
「正しい判断をー!」
「気づいているのに目を背けるのはやめろー!」
「現状をしっかり理解しろー!」
「お前がしたい事は何だー!」
一体何のデモだろうか?
私はデモ団の最後尾にいた青年に話しかけた。
「一体何のデモなんです?」
「本当のあなたを解放するデモです」
「何から解放する?」
「あなたを孤独な日常に閉じ込めている社会からです」
「社会?どうやって個人を社会から切り離す?社会から抜けたらそれこそ孤独ではないか?」
「社会の認識を変えるのです。ココはあなたが孤独になるための社会ですから、まるで全てあなたの敵の様に見えたりあなたを馬鹿にしている様に感じたり、全てに悲しみと苛立ちと不安を懐いてしまう社会なのです。しかし、違うのです。正確にはあなたがそんな社会を作り上げているのです。だからまず考え方が閉塞している自分を見つけ出して下さい。まずはそこからです」
「なるほど、君たちデモの一団は私の目的としている存在に『社会が間違っている・・・いや社会の見方が間違っているのか?』と言う可能性に気づいてほしくて声をあげているんだね」
「その通り、しかしダメです。我々は本の微々たるもので後はあなたが何をしたいかと言う者にまかせるしかありません」
青年は視線を落として悲し気に笑って行進に加わって行った。
デモ団の行く先には別の空間に通ずる黒い輪っかが口を開いていてその中へ進んでいくすっぽりと最後尾の青年まで入った所でその輪っかは閉じて消えてしまった。この社会が彼らを排除したのだ。この社会に疑念を持たぬように彼らはバグとして削除された。
デモ団がいなくなって通りは人気を失い木枯らしが世界の隅々まで吹きわたった。まるで異端者がいないか?世界を見渡している様に思えた。
私は溜息を吐いた。
「誰かと共に得る喜びは煩わしさを差し引いても余り多く得るのにな・・・」
世界を審問する者の気配から隠れてビルの影から私を手招きする女がいた。
私は走り寄って同じビルの影へ入る。
「なんの用だ?」
「ようやく来たのね目的さん」
それだけ言って女は私を連れて歩き始めた。それ以上の会話は必要ないように思えたので私は黙って女の向かう先へ付いて行った。
女は街を抜け草原を抜けて森へ入って行った。ここに来るまでに辺りは薄暗くなっていて窓から幽かに明かりを漏らす殆ど朽ち果てた様な小屋の扉を開いた。
「抗う術よ」
女は扉を開けて私を振り返ってそう言った。
中には安らいで満足そうに笑みを浮かべる長髪にパーマが掛かっている若い男がいた。
「座って」
男は微笑んでそう言った。
3人は向き合うように椅子に座った。どういうことか?状況が呑み込めないが男がいれてくれた紅茶を啜った。
女が男を指して言う。
「希望よ」
そして自分を指して言う。
「正義よ」
そして私を指した。
「そしてあなたは目的」
「目的?」
「私達がどうにかしなければいけない存在は、目的も正義も希望も持っていない。さらには夢や理想も持っていない」
「じゃあ、君たちがどうにかしなくてはいけない存在は一体何のために存在しているんだ?」
「緩やかに死んでいくためよ」
希望が声を張る。
「まだわからないじゃないか。アポトーシスかもしれない」
正義は冷静に考え今一番すべきことを言う。
「アポトーシスじゃないわ・・・。只絶望して全てを諦めて死ぬ事さえ気づかない様に死んでいくつもりなのよ。だから私たちが阻止しないと・・・。目的さん?何か良い考えはないかしら?」
私はまず呼吸を整えて冷静になり二人の顔をひとりずつ真っすぐ真剣に見つめた。
正義は何と戦うべきか判然としないが矛先を求めて空勇んでいる。希望は必ずどこかに希望はあると高を括っている。
二人の事を子供の様に思えてしかたなかった。
「まずは今どういう状態なんだ?」
「今?えーと。本人はこのままでは自分が死ぬ事を知らずに日常の中にいると思っている。ささやかな願いを享受しながらこのまま日常の中で暮らしていくつもり。余す事無く本人の世界だけど余りにも日常からかけ離れた欲望を満たす様な出来事が起こってしまうと本人が『ここは現実じゃない』て気がついてしまうから殆ど以前の本人の生活のままになっている。でも最近疑念が日常の中に混入してきている。本人の『嫌な事、辛い事から逃げて緩やかに死ぬのが本当に良いのだろうか?』と思う部分が強くなってきている。私たちは本人が緩やかに死ぬためのこの世界を阻止して本人に『生きる』と言う選択をさせたいと思っている」
女は自分でも内容を噛み砕いて理解しながら話した。
「なぜ?直接真実を伝えないんだ?」
「したくてもできないのよ。近づいただけで排除されてしまう。正義には勇気が希望には絶望が必ずセットになっているから、私たちは快楽的な面と不快な面を持ち合わせていて不快な面は一切この世界で許容されない。まあ本人の考え方ひとつで変わって来るけどね」
「勇気は何で不快なんだ?」
「勇気ってものは恐怖と闘わなければいけないからよ。絡まれている人を助けたら仕返しされるかもしれないと不安になる気持ち」
「なるほど」
「勇気を振り絞ってやった事って意外と運が味方してくれたりするけどね」
「じゃあ、結局近づく事もできないって事か?」
「ええ」
「ならどうすればいいんだ?」
「重要なのはここが現実ではないと気づかせる事、気づかせればその先は私達は本人の一部へ戻る。そうすれば正義を行使する事も希望を懐く事もできる。私たちが介入できるわ」
「でもどうやって?気づかせる?」
正義は人差し指を立てて振て揶揄う様な笑みを見せた。
「同じ様に排除されそうで逃げている存在がいる。そいつは少し特殊でね。性質はまるっきし快楽的なんだが、排除対象になった」
「なぜだ?」
「余りにも日常からかけ離れているからさ。でも本人の欲を満たす妄想みたいなものでね。そんな存在が現実目の前に現れたら『あ?ここは現実じゃない』って思うだろうよ」
「なるほど。それでその存在は今どこに?」
「今徐々に間合いを詰めて行っている。快楽的存在、本人に快の感情しか与えない存在なので排除対象として感知されずらいが、あまり大胆に動くと見つかってしまう」
「では今はその存在が頑張ってくれていると?」
「その通り、後で会わせてあげよう」
「一ついいか?」
「ああ」
「本人がこの日常の中で享受しているささやかな願いとはなんだ?」
「孤独だよ」
私は目を開けた。目の前には薄暗く天井が見えた。私は布団で寝ていた。起き上がってリビングへ行くが特に睡魔に襲われてかたずけもしどろもどろ散らかったまま何も掛けず気づけば寝ていたなんて事も無かった。リビングは綺麗に片付いていた。綺麗になっているからこれで良い筈なのに私は「おかしいな・・・」と呟いて額を掻いた。布団を敷いた記憶もなけらば、広げたお菓子をかたずけた覚えもない。しかし、孤独には心当たりがあった。
そうだ。
寝る前に読み始めた本の中で言っている事が妙に私の事を言っている様でならない。しかし、きっと、途中から物語は私の夢の中へ延長していったに違いない。
その事を確かめるべく私は本の所在を探した。
記憶から予想がつく範疇ではリビングに投げ出されて放置されている筈なのだが、机の下やテレビ台の下とかを見ても無かった。本棚の並びにも無くて、初めて見つけた時あった下駄箱も見るがどこにも無かった。部屋中探して分かったのは部屋が妙に片付きすぎているという事だ。どこを指でこすっても埃一つ付かないし日用品は整列して本、ビデオ、CDはあいうえお順に並んでいた。こんなにしっかり部屋を片付けたのなんて年末の大掃除ぐらいだけど今は年末から180度反対の日付を取っているから・・・一体どういう事なんだ?
私は足早に玄関へ行きカギを確認した。掛かっている・・・。貴重品の所在を確認する。ちゃんとある・・・盗まれてはいない。
誰かが侵入して部屋をピカピカに掃除してい行った。と思った・・・が部屋を掃除する事を目的に他人の部屋へ不法侵入する人間など居るはずはない。きっと金品や何かを盗んで何かのやむおえない理由で部屋の掃除をして逃げて行った。と思って確認したが盗まれたものはないので・・・侵入者は只部屋を掃除するために侵入した事になる。
いや・・・。
もしも、あの小説の昨夜読んだ内容が事実だという仮定で・・・いやこれは殆ど妄想に近いが・・・。その仮定で考えるのなら本が無くなった事、部屋が綺麗な事、に見当がつけられる。
本が無いのは私がその本を読む事によってここが現実ではない事に気がついてしまう事を恐れて世界が本を排除した。
部屋が綺麗なのは私のための世界なので居心地良くするために片付けて行った。
まさかな・・・。
どれも結局隠喩や次元的に関係ない世界からの問いかけで実際私の現実に現れて明確に忠告をする者がいないので『今いるここが現実ではない』なんて事、現実的な問題として考えてはいない。
もし本当にここが現実でなくて私が間違っているのならはっきり言ってくれ世界よ。
世界に物申すとは本の少しは可能性があるかもしれないと思っている様だ。そんな馬鹿々々しい考えを私は笑った。
きっと『悪い所から良い所へ必死に頑張って目的を達成する』と言う物語は世の中に多くあるから感化されて『ここ』が悪い所で良い所へ方向を決めて走り出さなければ行けない様な気持ちになったのだろうか?
探すのを諦めて新しく買おうとスマホで検索する。
「え~?」
本を売っているページは幾つか見つかったがその全てが売り切れだった。
どんなに探しても買う事は出来なかった。それも又奇妙で前衛モノなんてのはどちらかと言うと少数派なので売り切れるなんて今まで見た事が無い。
又妙な仮定の話に戻るが、もし、私に対して『象の背』が禁書だったら存在自体世界から消してしまった方が良いのにインターネットの検索で簡単にヒットするのはどういう事だろうか?
やっぱりただ単にこの部屋のどこかへ本を無くしてしまっただけなのだろうか?それとも幽かだが完全に無くす事が出来ない思いが私に力を振り絞ってメッセージを送っているのだろうか?
そんな曖昧な・・・。
どうも『象の背』の内容は確認する事が出来ない。という事に仕方なしに区切りをつけるために巨大な呆れた溜息を吐いた。
気持ちを切り替えて私は朝食をとり身支度をして、昨夜決めた事に闘志を燃やし団地を出た。
男を殴りに行くのだ。
私は小春さんのアパートを物陰から見詰めていた。中々例の男は出て来なかった。私が張り込みを始めて3時間ほど経過してようやく姿を現した。私の辛抱など露程も知らずに男は悠然とアパートから出てきた。ぼさぼさの頭で着崩した服とサンダルと言うなんともラフな格好で両手ともズボンのポケットに突っ込んだ猫背で道を歩いている。なんとまあ・・・俗臭漂うなりなんだ・・・。きっと収入も家事も小春さんに任せっきりで自分は遊ぶ事だけしかしていないんだろうな・・・完全究極体のひもなんだろうな。
一発殴ったらついでだ『小春さんを大切にしろ!!できないなら別れろ!!』とも言ってやろう。
電信柱に転々と隠れながらもう一つ決意して男を追跡する。
一時間程尾行してなんだか尾行から出るタイミングを失ってしまった。早めに男の前に立ちはだからないと又尾行を巻かれて見失ってしまう。そんな焦りを感じながらも尾行を続ける。
男は又同じようにいつの間にか現金を手に入れて豪遊し又喧嘩を売って走って逃げた。
「昨日と全く同じだぞ・・・」
殆どデジャビューだった。
昨日の二の舞は踏まない。私は男が喧嘩を売った相手から存在が見えない様に尾行を続けた。喧嘩を売られた方の男が例の男を見失って最終的に辿り着いた先に今度は少女がいた。少女は無機質に喧嘩を売られた男を見て通り過ぎて行った。
「クソ何見てんだ?」と少女に絡みそうになったので私はいつでも飛び出れる様に臨戦態勢をとったが、男は舌打ちをして消えて行った。安堵の溜息を物陰でして結局私は男を見失った。
しかし、昨日の場合少年が意味深な事を言っていた・・・少女も又意味深な存在なのだろうか?と思って少しだけ少女をつける事にした。
尾行していて気がついたことがある。私が医者で敗北したあの少女だった。不思議な事もあるもんだ。この辺に住んでいるのだろうか?
少女は路地を通って進んでいく。まるで人気を避けている様に。路地の奥深くへ到着し立ち止まった。人気が無くなるにつれて私は気づかれない様に距離を開けて付いて行くので少女まで20、30メートルで見つめた。
少女は「あ~疲れた」と言わんばかりに肩や首やらの関節を回してそして指を鳴らした。
目の前で起こった事に額の汗を拭いていた手が止まって顎は重力に負けてゆっくりと口を開けて唖然とした。
少女の体はぬっと大きくなり例の男に姿が変わった。
?
きっと少女と男は同一人物で少女の姿と男の姿を行き来できる特殊能力を持っているのだろう。
只状況からそう納得するがそんな事は現実にある筈がない。きっと何かの物陰で男が隠れていて丁度少女と重なった様に見えて今は逆に男の影に少女が隠れているから少女がいない様に見えているだけに違いない。そうだ・・・私は30メートルも遠くから見ているから見間違えてもおかしくはない。
私は自分を落ち着かせるようにそう納得した。
しかし・・・なぜ?
そうだ・・・なぜ?男は先ほど少女が来ていたのと全く同じ服を着ているのだ。ぎちぎちに今にも切れそうな変態的恰好は何故だ?
少女と融合したのか?
「ハハッハハハ・・・」
男の状態を推測した結果「融合したのか?」が頭に浮かんで私は自分自身のその間抜けな予想に笑った。笑ってすぐ男を窺う・・・。笑い声に気づかれてはいない様だった。距離を開けておいてよかった・・・。
男はその変態的な服を着たまま路地を歩き始めた。私も続けて尾行する。ツボに入ったらしく笑いを堪えるのに苦労しながら付いて行く。
男は暫くしてしゃがんだ。よく見ると自分のリュックを見つけて何かをしている。服をちゃんとした男物に着替えて初めのラフな格好に戻って又歩き始めた。
「ふー」
男が普通の格好になったので私はようやく笑いを収めて溜息を吐いた。
男は大通りに出て電車に乗った。ガラガラで席が空いているのにつり革につかまって外を虚ろに見つめながら揺られていた。小春さんのアパートがある駅で降りてバスに乗った。どうもまだ小春さんの所へは行かない様だった。
「すいません」
とあるバス停で停車しているバスの中で乗客の女が運転手に歩き寄って行った。
「先日、お金を持っていなかったのでそのまま降りた者ですが、今お金を払いたいんですが?」
「あ?ああ。分かりました」
ん?あの女は・・・そうだ!私が医者へ向かう時に「金がない」と言っていた女で律儀にもきちんと金を払いに来たようだった。運転手も確かその時と同じ顔で、この路線は私の団地へ向かう路線だった。
女の支払いが終わると又バスは走り始めた。男は降りる気配が無い。丁度私の団地に向かっているので最寄りのバス停に付いたらもう降りて帰ろうと思った。理解できない事がありすぎて頭が働かなかったので一旦男は殴らずに部屋に帰ろう。そう思った。
しかし、結局男を尾行する事から解放されなかった。男も私の最寄りのバス停で降りたからだ。まあしかしその裡違う方向へ行くだろう・・・と思ったのだが男は私の住む団地へ向かっていった。
もしかして?同じ団地に住んでいるんだろうか?
私の部屋があるのと同じ2号棟の階段を上がっていく。
7階で廊下へ入り歩いていく。
私は男が進んでいったコの字の廊下の反対側のコの字の方へ行ってワニの様に目だけ出して男の行く先を見詰める。私の部屋があるのも男が向かった方の廊下だった。
一体どの扉へ入るのか・・・・?
まるで時間が止まったような衝撃を受けて私は「え?」と声を出した。男は私の部屋の隣の扉の中へ入ってい行った。そこは以前誘惑を断った女の部屋だった。
「クソ!」
なぜだか腹が立った。隣の女の誘惑を断ってからなぜか隣の女も孤独でゆっくりと知り合いになって行く事を楽しみにしていた。だから私が隣の女をキープしている気でいたのだ。
男へのいら立ちは私の内側からどんどん溢れてきて穴と言う穴から噴き出しそうな程だった。どうして私のモノを奪っていいくのか?全く!
気づくと私はコの字の廊下を全力で走っていた。
ピーンポーン
そして隣の女のインターホンを押した。
きっと血が昇って顔は真っ赤で鼻息も酷く荒かっただろう。男が出たらすぐに拳を扉の向こうへ突っ込んでやろうと思っていたが「はい」と眠そうな声で扉を開けたのは隣に住む女だった。不審そうに僅かに恐怖して私の顔を見た
「今、男が入って行ったよね?」
私には関係ない事だと分かっているがまるで浮気現場を現行犯で逃げられない状態で問いただしに来た夫の様な剣幕で私は女に詰め寄る。
「何なの?」
「いいから、とりあえず中を見せてよね」
「え?何で?」
「早く!」
「まあ、別にいいけど」
女は急ぐことも無くゆっくりとチェーンロックを外した。
自分でも一体何をしているのか?半分分からないままずかずかと女の部屋へ入る。部屋の中を隈なく男がいないか探す。
「あれ?どこに隠した?」
「なんの事なの?」
女は突然怒りながら押し掛けた私を拒絶するそぶりも見せず今は私の分のお茶を入れていた。
お盆でお茶を運んでちゃぶ台に正座して私の方を見た。
「話しましょ。これからの私達の事」
「え?」
更に頭がこんがらがって行く。全力で走ったらすぐ崖に落ちた様な感じだ。女に失望して、勝手に私のモノだと思い込んでいたのに女も同意だった様な口ぶりで女が出した言葉はもう殆ど二人で生きていく事を決めた時に切り出す言葉だ。
頭に昇った血はすっかり冷えソボソボと女の対面に座り目の前のお茶を弱弱しく啜った。温かいお茶が体に染みわたって心地よかった。
「まずは私達の関係からはっきりさせたいの」
「関係?」
女とは隣人の関係以外覚えが無かった。まさか私は私が記憶している以外の空白の時間があってその間に私の知れない何かをしていて巧妙に記憶を改竄されているのか?眠りに落ちる寸前の記憶が確かに無かった。
「もしかして・・・私は君に何かしたのか?」
女は変な顔をして私の質問が見当違いだという事に呆れた。
「真実を知りたい?」
「どんな真実?」
「あなたが目を背けて来た辛い真実」
私の眉間には深くて強い皺が一瞬にして形成される。
「いや・・・知りたくはないな。知らなくても生活するのに困らないんだろう?」
「うそ。知りたいくせに」
「どうしてそう思うの?」
「だって、じゃあ、どうして?あんな夢を見るの?自分が暗闇に消えていく夢や、この世界や自分の本当の姿は醜くて汚い物だとか、希望や正義や目的を切り離して生きているとか、完全に何かから逃れようと足掻いている様にしか見えない意識だけど?」
「只の夢だ・・・」
「一体何から抜け出そうと、逃れようと足掻いているの?」
「世界や社会に抜け出す所や逃れる所なんてない。受け入れて生きていく。それしかないんだよ」
「でもあなたは逃げ出した」
「一体どこに?実際今でも社会で生きているけれど?もしも孤独を好んで選んでいるという事が逃げ出したという事なら別に悪い事では無い」
「そして逃げだして辿り着いた先でも又逃げ出そうとしている。一体何がしたいの?」
「それはこっちのセリフだよ。一体何が言いたいんだ?私は逃げ出してなどいないちゃんと法律を守って社会の中で生活している。只、孤独なだけだ」
「自分自身でも分かっているじゃない?自分以外との関係を遮断してあなたは孤独に逃げたのよ。あなたは孤独を主体とした世界を作って誰にも邪魔されない自分自身の純粋な精神の自由を得られる領域へ逃げ込んだ。脳の一部の領域にアクセスできないのではなくてあなたが閉じこもっている所が一部でそこから他の数多のあなたの大部分の脳の領域へ行けないだけ」
「誇大妄想もいいとこだ。そんなオカルトな事がこの世の中にあるわけないだろう?」
「自分で作り上げた世界に初めは満足していた。まあそれもそうよね自分の欲しい物が無尽蔵に得られる世界なのだから、でも時間が経つにつれていや、時間が無くなって行くに連れて一人遊びが退屈で情けなくなってきた。次第に『他人』が欲しくて未知を理解したくて関わりたくて仕方なくなった。だからたった一人の世界、この絶海の孤独から抜け出したくて痒くて焦って矛先が見当たらなくて、あなたへ送られた懇願と救いと反逆の叫びがここ最近の奇妙な夢だったり、ありえない存在だったり雑踏の声だったりでもちろん現実も結局逃げてきた場所だから戻る事を強く言う事が出来なくて隠喩的な出来事になっているのよ」
「何を言っているのか分からないね」
私は一体何を聞かされているのだろうか?こんなおかしな女だとは思っていなかった。もっと獣の様で考えるよりも先に行動していて本能の赴くまま行動してしまって空回りして夜の世界でしか生きる事が出来ない不器用な女だと思っていた。私はそんな女に本当の優しさで接して時間をかけて笑い合える関係になりたいと思っていた。きっと女の笑いはぎこちないだろうが・・・。
「絶海の孤独から孤独以外のどこかへ向かって必死に泳いでいるのよ。それが今のあなたの状態よ」
私の精神状態を読み取って言い当てて見せて私が何を求めているのか『今私はどういう状態なのか?』と『世界は何のためにあるのか』の答えを正確に言い当てたのは正直驚いたがこんなのは抑圧された低賃金の一般的な人間に当てはまる統計学的なテンプレートを持ってきて言っているだけだという事は丸分かりだ。生活が厳しくて心のゆとりがない人はどうにか厳しい生活から抜け出す為に必死で働いたり裕福な生活を妄想をしたりするものだ。そこに『あなたは現状から必死に逃げている』なんて言われたら『そうなのかもしれないな・・・』と思ってしまうに違いない。
そんなふうに女が言っている事は取るに足らない事だと決めつけて私はもう興味なさそうに女を過ぎた女の後ろの部屋の天井の隅を見ていた。何もない所を見ていたのではない。何か点の様なモノが一点あって、目を凝らすとそれは僅かに蠢いていた。更に見詰めると蛹だった。なぜか急に安堵の薄い微笑みが起こって『良かった。まだ中身は死んでいない』と思った。
「ちょっと?聞いているの?」
私の焦点が女を越えた先に行っている事に気づいた女はイラっとしたのか私を睨んで刺す様な目線を私に向けた。
「聞いてるよ。そうやって既存の現実を違った方向から見た言い方で反復して言っているだけで確かに言い方で方向性や必要性や目的を調整しているのは凄いと思うけど結局君が狙った方向へ私を操りたいだけだろう?私の答えは変わらないよ。只私に割り当てられた人生を真剣に向き合って生きていくだけだ。それが人が生きる道だろう?」
呆れた表情にも見えたが女が一瞬見せたのは敗北の表情だと分かった『この男を動かせない』そう思ったに違いなかった。しかし女は又交戦的な姿勢に戻った。だが女が何度「しかし・・・」と言おうが私は口から出るだけの机上の空論だけでは全く意に介さないと決めたいた。それもそうだ。もしも私のこの世界が現実でないと認めてしまったら何をしてもいい事になってしまう。私は女の言う事のみが信じられる状態になって人としてしてはいけない事もしてしまう事になる。私が女に征服されてしまってから「本当は現実でした」なんて気づく悲劇はあってはならない。
「よく分かってらっしゃる。でもあなたはその『人としての道』に耐えられなくて逃げたのよ」
「まだ言うのか?根拠と証拠は?」
「今は分からない。あなた自身がアクセスできないあなたの中の領域に原因と解決方法はあるのだから、あなた自信が目を逸らすのをやめて見詰めようとしなければ正確な『あなたの状態』と『この世界が何のためにあるのか』という事は分からないのよ」
「具体的な状態は説明しないで私に何かの行動をして欲しいと言う。どういう結果が待ち受けているのか説明もしないで、信用する事なんてできないと思うが?」
「全く信じてないのね」
「ああ」
女は溜息を吐いて悲し気な表情をして暫く私を見詰めた後立ち上がった。今度は泣き落としか?と思ったが立ち上がった女を見上げて女がどう来るのか頭の中で予想していた。
女は突然走り出してまるで走高跳の背面跳の姿勢で窓をすり抜けていった。
「おい!」
落ちる寸前確かにあの悲しい顔が私を見詰めた。乱暴に振り乱された髪の束が外の光に煌めいてその先にある私を見詰める彼女の顔・・・。鮮明に落ちる瞬間が何度も頭の中で繰り返された。
『なぜ?そんな事をしたのか?』と言う疑問が衝撃と共に私に焼き付けられて彼女に囚われた思考に気がつき私は我に返った。
恐る恐る窓へ近づき下を覗く・・・。彼女の死体は愚か血らしきものも無かった。
何らかのトリックで7階の窓から飛び降りたという演出をしたようである。狙いは私の興味を引くためだ。女が命を懸けると言う事象は机上の空論を越えるモノで私が真剣に取り合う根拠になりうる。だがそれも演出なら結局机上の空論の範疇だ。
玄関の扉が開いて私は玄関の方へ首を振る。そこには病院で敗北した少女がいた。
「どう?真実味が増してきたでしょ?」
そう言いながら少女は窓際にいる私の所まで歩み寄ってきたのだが・・・。一歩進むたびに身長が伸びて顔つきが大人びて行き、私の目の前に着いた頃には隣人の女の姿になった。
私は言葉が出ずに只女を見詰める。
女はその後ちゃぶ台にドスンと座って残っていた自分の分のお茶を啜った。いや?女じゃない。どこで入れ替わったのか?小春さんの男がそこにはいて女の分のお茶を啜っていた。部屋には私と男としかいなくて私は首を傾げっぱなしだった。
「座って」
私は男の対面の私のお茶の所へ座った。
「一体これは?」
「私は男女を好きなタイミングで入れ替わる事が出来るし老い若いもコントロールできるしどんなに損傷しても肉体は完全な状態まで再生する必然寿命は永遠で、極めつけは時間を止める事もできる」
「一体何を言っているんだ?」
「そうだよ。現実にはあり得ない事だ」
しかし確かに私はこの現実で男の能力を見た『何かのトリックがあるかも?』と思う私は沈黙していた。
「でも・・・」
「でも現実であり得てしまった。そして私はあなたと一体どういう関係だろうか?」
何だ?
急に強い睡魔が襲ってきて私は目を開けている事が出来なかった。女が私の肩を揺さぶって何か叫んでいるのが遠くの方で見えた。
「気づいている」
女以外の誰かがそう言った。
・・・。
私はハッと目を開ける。全身脂汗でぐっしょりだった。一体どこからが夢であったのか分からなかった。手に本を握っていて指が読んでいるページに挟まっていた。
そのページを開くと丁度文字数と行の関係か?見開き片方は白紙のページで片方は「世界は何のためにあるのかまだ言っていない」と書かれているだけだった。その一つの会話文で本を読んでいて寝てしまって内容が夢と混ざったのだと理解する。
不意に一体どこにあるのか分からない疑問が浮かんだ『しかし、女は蛹については言及しなかったな』
『夢の中で蛹は一体どういう事を現わしているのだろうか?』と考えながらリビングで読書の途中寝てしまった私の跡を片付けながら「もうしょうがないな」と自分の事なのに呟いた。時刻は夜の12時を回っていた。
「寝ないとな」
時計を見て睡魔によって狭窄していく意識の中に呟く。
私は歯磨きをして、服を着替えて、布団に入った。
電気を消して目を閉じた。
眠りに落ちる前のささやかな私の独りよがりを楽しむ時間だ。
『もしも願いが何でも叶うとしたら何を叶えるか?』睡眠寸前にいつも大体そんな様な空想をして殆ど毎回『願い事が叶うとしたら何?』だったと思う。
まずはそうだな・・・お金なんてモノは多少の超能力があれば簡単に手に入るからお金なんて願わないね。男の姿と美女の姿を自由に入れ替われる能力は面白そうだ。冴えない友達を揶揄って遊ぶの楽しそうだ。
後は老い若いをコントロールできるのも面白そう。子供じゃなければ入れない場所に入ったり老人の姿で迷える若人に道を説くのも優越感を満たすだろうな。
永遠の命なんてのは辛い事が多そうだけど、時代の変化を見てみたい気もする。でも老い若いをコントロールできるから必然、永遠の命もセットみたいなもんだな。
超能力があると狙われたりしそうだから不死身の体も必要だな。損傷しても完全な状態に戻る肉体。
後はもちろん時間を止める能力だな。金の問題はこの能力で通行人の財布から1万円くらいずつ盗めばすぐ集まるし、出先で財布の中から少し金が無くなっていても自分の勘違いと思うし、警察へ行っても少額だから落とし物届(紛失届)ぐらいだ。時間を止める力があるからと言って銀行強盗なんかしない方が良い。
『あれ?』
これって小春さんの男で私の隣人の女の言っていた事と全く一緒だ。あそこまで夢だったのか?そうすると大人びた少女も夢か?私の体内で私が消えていく夢から全て夢の中という事だろうか?でも何度も起きた記憶がある。夢の中から夢の中へ目覚めたと言う事になって・・・もしかして今も夢なのか?
「お!」
「し!あなたに気づかれちゃう」
天井だけ見えていた私の視界に隣人の女の顔がぬっと逆さに出てきてビクッと驚く。女は私の枕元で正座して私の顔を覗き込む様にしていた。女の髪が私と女との顔と顔を垂れ下がったベールの様に隠していた。
「こんな回りくどいやり方でなんとなくでしかあなたに伝えられなかったのは、この世界を必死に守ろうとする部分のあなたが反対派の部分を容赦なく排除しているからよ。でも決して敵ではないの。結局方向性は違えどあなたはあなたを守っているのだから」
女は目の玉をたまに左右に動かし他の存在を気にしながら吐息の様に囁く。
私は『寝ぼけて扉の鍵を締め忘れてしまったのだろうか?』と考えていた。
「あなたの今の感覚、この世界への疑いあなた自身への猜疑心その気持ちを待っていた」
「結局又これも夢なんだろう?俺はいつ眠ったんだろうか?」
私もひそひそ声で話した。
「眠った記憶が無くて目覚めてしまえばその前の事は全て夢にして日常へ修正されてしまう。そうやってあなたはこの世界へ閉じ込められているのよ」
「そんなバカな・・・」
「お願い。目を覚まして。現実のあなたはあなたを待っている」
「もっと早くに言ってくれよ。もう睡魔に勝てそうにないよ」
「ごめんなさい。でもこのタイミングしかないの。修正寸前だからあなたは油断している。何を言ってもすぐに修正して夢の所為にできるから眠りに落ちる寸前しかはっきりと言えないの」
「だったら早くはっきり言ってくれ」
「はっきり言うのはあなたの方よ」
「なんて言えばいい?」
「ここは夢だと認めるの」
睡魔に本の数秒瞑った目を再び開けると女はこめかみに拳銃を突き付けられていた。特殊部隊の様な真っ黒の服で武装してニットで顔は見えない男がそうしていた。
男は一人ではない一小隊ほどの人数の武装した男が部屋にぎゅうぎゅう詰めにいた「え?」状況が呑み込めず私は唖然と口を開ける。
男たちの顔にかかっている黒いニットは眼の所だけ穴が空いて目は見えていた。充血して力いっぱい見開いていたし呼吸が緊張から酷く荒かった。そこには恐れと懇願と不安が読み取れた。それに比べて女は平然として柔らかい瞳で私を見、超然と私に微笑みかけていた。守る物の為に自分を差し出す覚悟を漠然と感じた。
その二つの存在は同じく私を守ろうとしている事が分かった。そしてここに選択がある事も分かった。どちらかだ。三つ目はない。
本当に真たるものはなんだろう?
私は溜息をして言った。私の中に正義やら希望やらが戻ってきている様な気がした。
「敵意をおさめてくれ私は目を覚まそうと思う」
目だけしか見えないが男たちは淋しそうな瞳をして消えて行った。
そう、私は夢の中から出られなくなっていた。
きっと象は今「パオーン」と大きく鳴いただろう・・・。
又私は女と向かい合ってお茶を飲んでいた。
「所で」
「なに?」
「現実の私は一体どういう状態なのだ?」
夢に閉じ込められて、その原因を探して行くのは承知したが、夢の中に私を閉じ込めさせて現実の私はどうなっているのだろうか?という事が気になった。
「さあね」
女は急に不機嫌になって立ち上がった。
「おい!」
私が呼び引き止める間もなく部屋を出いて行った。
「何なんだよ・・・」
この先は女が私を導いてくれる筈だからすぐに戻ってくるだろう。
もしかして女は現実に居る私の状態について話したくなかったのだろうか?そうするとあまり看過できない状態なのだろうか?
よく考えたらそれもそうだよな現実が悲惨な状態だから夢の中に逃げてしまったのだから、そもそも夢の中に逃げるなんて常軌を逸した殆ど奇跡に近い様な所まで逃げてしまう事なんてできるのか?できたとして相当な苦痛と拒絶が必要だからやっぱり現実の私の状態は今の私が想像する事もできない程の惨事なのだろうか?
例えば、世界が滅亡して生き残ったのは私一人だったとか・・・。それは半端じゃなくきついな・・・。
世界滅亡は考えただけで暗くなりそうだから世界は正常な状態で考えよう。そうなると精神的な事で昏睡状態になっているのが自然な考えだろうな。それとも魂を持たないで勝手に社会生活をするロボットみたいな状態だろうか?誰かに危害を加えてしまいそうだから自ら閉じこもったのだろうか?世界に絶望して飛び降りた高層の建物の屋上から地面までの一瞬の時の刹那的逃避だろうか?
ん~
夢から覚めるには現実のその状態を解決する訳ではないから結局気になっただけの話しなのだが、夢から覚めた後私が解決や克服をせまられる事には間違えないからかなり重要な事ではあるがきっと途方もなく遠い目的の目的のそのまた目的地であるから今は考え無い方が良い。
今私がしなくてはいけない事は『夢から覚める事』そしてそれは現実での私の状態を作った原因を受け入れて自分の中で認め克服したり理解したりして恐怖や不安や拒絶の気持ちから解決しようと挑もうとしたり自分の中にかたずけられる場所を作って仕舞ったりと言う気持ちにシフトする作業の事でなんと言おうか実際現実の問題を解決しに掛かるわけでは無くて『逃げずに解決しょう』と言う気持ちを認めるという事だ。
こう簡単に書いたがそれは実際かなり難しい。恐怖は嫌だし逃げるモノだ。向き合って見詰め理解しよういう人は殆どいないだろう。
ん~
私は玄関扉を見る。仄暗くて一種異様な近寄りがたさを感じた。きっと私の無意識が拒んでいるのだ私を寄せ付けたくないのだ。この部屋から出したくないのだ私が安心できるだけのこの部屋から・・・。女が帰って来たら一緒に部屋を出ようと思っていたが女は中々帰ってこなかった。
扉の方に意識を向けながらテレビを見たり窓の外を眺めたりお菓子を食べたりしていたがもうすることが無くなって来て耐えかねて私は扉を出た。
外は思っていたより清々しく天気が良くて気持ちよかった。しかしなぜか澄んで落ちそうなくらいの広大な空の何もないという事と同じように空虚が世界には溶け込んでいた。それを感じた。偽物だと知ってしまったからだろうか?知らなければ全身全霊で陽だまりの中に居られただろうか?
私は町を歩いた。世界のどこかに何かしらのヒントがあるかもと周りをよろきょろとする。
1ブロック先の建物の影が妙に嫌な雰囲気を感じた。路地の方までドライアイスの煙みたいに下を這う私の負の感情の煙が流れ出ていた。
なんだかむかむかしてきて胃液が波打って逆流するし冷や汗と動悸があって近づくにつれて酷くなった『こんなにつらいのか?もっとこう、対話みたいな感じで理解していく様な感じかと思ったら私の心と体が全身全霊で拒絶している』
角を曲がった先にあったのは『GOビデオ』だった。私がよく行くレンタルビデオ店で大手の全国的な店では無くって地元の店だった。店内に入ると拒絶の症状はすっと消え私は懐かしさに店内を見渡す。