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トライアングルラブとおっさん  作者: 仲島 たねや
第二章 トライアングルラブと弓矢
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トライアングルラブと弓矢②

「ただいま」


 指をひっかけて学生用の革靴を脱ぎながらセミにも劣るような声でただいまを言う芽亜里は、もとより誰かの返事を期待していたわけではなくて、おかえりもただいまもとにかく挨拶をしなければ謎の罪悪感に悩まされるから言っただけである。親のしつけが、心の芯にまで行き届いているからこその行動である。芽亜里はこういう自分が嫌いではない。しかし、それも家だけの話で、学校をはじめとする人の多い場所となると事情が変わる。


 人との会話はつっかえることもなければ声が出ないということもない。


 だから挨拶はやろうと思えばすぐにでもできる。


 それでも本心が他人を目の前にした途端に引っ込んでしまう。心にもない言葉を言ってしまう。周囲の敵は、芽亜里の口の開くたびに増えていった。いつのまにか、一人になっていた。


 疑問に思った。


 木島透、あの男は、いったい私のどこを好きになったというのだろう。


 私の本心は誰も知る由のないものであり、そうであれば残されるのは私の外面だ。


 やっぱり顔か。


 リビングの扉を開けて、ソファの上にスクールバッグを投げ出して、続いて自分の身もソファに投げ出そうとしたところで、


「こら、帰って早々お行儀が悪いぞ」


 体がびくついた。


 水の入ったガラスのコップを持っている母が台所に立っていた。怒ったような表情からすぐに表情を崩して笑いかける母は、ガラスのコップを傾けてその中身を一気に煽った。ぷはあ、豪快に鳴らされた喉の音がリビング中に響いた。


「びっくりした。仕事はどうしたのお母さん?」


 口元のしずくを拭って母は言う。


「まだ終わってないけど、営業先がこの近くだったから少しだけ寄ったの。めーちゃんが帰ってくるとは思わなかったけど。そっちこそ部活はどうしたの? 文芸部、だったけ?」


「今日の部活は休みなの」


 ふうん、そっけない返事は娘に対しての過干渉を嫌ってのことだろう。


 父は、ただの干渉でさえも嫌って母の元から離れていった。そのプライベートが後ろ暗い秘密に溢れていたからこその問題であり、母は言わないが離婚するまでの間にも別の女を作り、親としての品格が地の底にまで貶められるようなことをしていたに違いない。そんな父でも娘である芽亜里は可愛かったのか、それとも手放したからこその憐れみがあったのか、離婚してからは週に一度のペースで芽亜里の元にメールが届いた。ご飯は食べたか、欲しいものはあるのか、以前は交わすこともなかった言葉は、文面として見るだけでも気持ち悪かった。父からのメールは、徹底的な芽亜里によるシカトによりぷつりと途絶えた。


 忘れられない言葉があった。


 ドア越しに聞こえる言葉だった。


 両親が、言い合いをしていることに気づいて近づいたドアは、手をこまねいているようにわずかに隙間を開けていた。その時は中学一年生の夜で、喉の渇きに目を覚まして、リビングでコップ一杯の水でも飲もうとしていたのだと思う。寝ぼけまなこをこすり、両親の言い合いに気づき、ドアノブに手をかけるべきかを迷い、


 そして聞いた。


「お前って、なんだか昔よりも可愛くなくなったよな。老けたっていうかなんていうか。そんな顔だっけお前」


 けだるげな声が、父の声であることを理解するまでに五秒の時間を要した。


 父の声を皮切りにして、怒涛の剣幕の言い合いに、終幕が訪れた。


 ——出て行って。


 母のか細い声はやっとこのことで喉から絞り出された声であり、それを聞いた父は、ここは俺の家だという皮肉を呟きながらリビングを出ようとしていた。近づいてくる。勝手知ったる我が家が不法侵入者の紛れ込んだ危険地帯に思え、近づいてくる父は過激な洋画に出てくる黒服のエージェントに思えた。階段の影に身を潜めて息を殺して、玄関のドアの開閉の音を聞くと安堵のため息がこぼれた。大きな泣き声がドア越しに聞こえた。





 母が膝をつき涙を流していたのは、ちょうどこの場所じゃないかと芽亜里は思う。フローリングの溝へと吸い込まれた母の涙声は、芽亜里の耳にリフレインして消えてはくれない。


 男なんて、最低だ。


 自分の理想を押しつけたあげくにそれが裏切れてしまえばあっさりと手のひらを返す。


 芽亜里の外面に惹かれたあの男だって、数年の時が経つにつれて変わる、芽亜里の顔に失望するに違いない。そんなのは嫌だった。変わらないことこそが美しい。見た目にしても環境にしても、変わることさえなければ傷つくことはない。


 しかしそんなことはできるわけもない。


 母の声が聞こえる。


「めーちゃん? ぼおっとしちゃってどうしたの?」


 離婚してからばっさりと切られた髪を右耳にかき上げて、母が、心配そうにこちらのほうへと近づいてくる。おでこに当てられた手はひんやりとして心地よく、近づいた顔は昔と比べればシワの増えた気もする。それでも美人だし、芽亜里の母である事実はなにも変わることはない。


「熱は、あるのかないのかわからないわね。これだけ暑いと気温なんだか体温なんだかもよくわからないし」


「じゃあなんで熱を測ろうとしたの」


「んー、なんとなく?」


「なにそれ」


 笑いながら芽亜里は言った。


 それに対して、同じように笑いながら母は言う。


「だけど熱はないみたいね。お母さんが言うんだから間違いない。あ、もうこんな時間。それじゃあこれからお母さんはまた出るけど、あんまりクーラーの風に当たり過ぎたら駄目よ。あと、今日の晩御飯はオムライスがいいな」


 晩ご飯の担当は芽亜里だった。


 母の仕事の忙しさは、女手一つで芽亜里を育てる大変さは、芽亜里の手助け一つでいくらか軽減できると思えば家事でもなんでもやるべきで、それでも自分の仕事を取らないでほしいと母はすべての家事を芽亜里に任せることなく、しかし、芽亜里の熱意に押されてしぶしぶ晩御飯を作る役割だけは容認した。


「いってらっしゃい」


「はい、いってきます。テーブルに買い出しのお金は置いてるから、無駄遣いはしちゃだめよ」


 リビングを出ていく母の背中を見送った。


 ソファの後ろに目を向ける。ダイニングテーブルがある。


 ダイニングテーブルの上には、観葉植物の植木鉢の下敷きになってる千円札が二枚ある。片手サイズの植木鉢をひょいと上げて二千円を懐に入れる。テーブルクロスの一部にシミが作られ、そのシミの作られた原因は自分の汗にあることに気づく。シャワーでべたつく汗を流したいところではあるが、それは買い物の後にしたほうが効率的だろう。


 スクールバッグはそのままにして、玄関の木のような形の荷物掛けから、掛けられたエコバックを取って家を出る。


 夏の西日が肌を焼く。


 街路樹を練り歩く。


 赤いひらひらの旗が見えてきて、白のフォントで「激☆安☆売り」の文字がある。


 スーパーきねがわだった。


 店外にはスポーツドリンクを詰め合わせた段ボール、横並びのママチャリ群、山のように積み上げられた買い物かご。芽亜里は一番上に積まれている買い物かごを手にして、ガラスの自動ドアを抜けた。店内にはシベリアのような冷気が満ちており、謎のきねがわソングは洗脳でもするようにエンドレスリピートで流れている。


 オムライスに必要な具材は、次々と芽亜里の手にしている買い物かごに入れられていく。


 途中、流した汗の冷やされることで何度も身震いをした。自分の口からきねがわソングの呟かれている時にはこれ以上ここにいるのは不味いと思わせた。


 レジに並んだ。


 化粧品の匂いを漂わせるマダムは買い物かごに大量の具材を買い込んでいて、自分の番が来るまでそれなりの時間がかかることを覚悟させられた。


 それでもいつかは終わりはやってくる。


 芽亜里の恋のように。


 …………悲しくなってきた。


 1362円で会計を済ませて、持参のエコバックに商品を詰め込んで、スーパーきねがわを出た。


 アスファルトの陽炎は、芽亜里の汗を誘発するには十分な熱さを持っていた。一歩を踏み出して街路樹の陽炎を通り抜けていく。


 そこに木島透がいた。


 地面に注視している彼は、汗を拭うためにふと顔を上げる。


 目が合った。


 まさか話しかけられることはないだろうと思ってそのまま通りすぎようとした。


「春日井さん!」


 どういう神経をしているんだこいつ。


 けれど都合がいい。


 恋の終わりは、新たな決意の始まりだった。


 男なんて嫌いだ。


 それでも霧子のためを思えば、こいつとの関わりを避けて通ることはできない。


 非常に遺憾ではあるが、こいつと結ばれることこそが霧子にとっての幸せなのだから。


「あら、どこかで見たような顔だけどいったいどこの誰だったかしら」


 こんなことを言いたいわけではなかった。


 手を振っていた透はあからさまに傷ついた顔をした。大きな深呼吸を挟む彼はそれでもめげずに話しかけてくる。鋼のメンタルすぎる。


「実は探し物をしてるんだけど、……ああ、そうだ。ちょうどいいや。それを春日井さんにも手伝ってほしいんだけど時間空いてる?」


 芽亜里は推察する。


 透は、フラれた事実に構うことなく芽亜里に再びアタックを決め込もうとしている。この出会いは偶然に出くわしたものではなくて意図的に作り出されたものであり、透は芽亜里の隙を見つけるやいなやオオカミのように襲い掛かってくるかもしれない。それはそれで、スマホの録音の機能を駆使するなどして証拠を残し、あなたの好きな人の正体はどうしようもなく醜いケダモノでしたと霧子に報告できる。


 そういえば、気絶してたのに外を出歩いても大丈夫なのだろうか。


 ふと、心配の気持ちが芽亜里の首をもたげる。


 黙っている芽亜里にいきなり透が、


「彼女の名前は春日井芽亜里って言って、俺のクラスメイトです」


 え、急になに。


「え、急になに?」


 透は、誰もいないはずの虚空に目を向けて話していた。


「ああ、春日井さんを師匠に紹介したんだ……って、人憑きの状態では俺以外には姿が見えないんだっけ。実際は、ここに人がいるんだよ。よろしく頼む、って言ってる」


 どうやらなにも大丈夫ではなかったようだ。


 明らかに頭がおかしい。幻覚、幻聴、妄想の詰め込みのオンパレードだ。


「木島君、だったかしら。あなたちゃんと病院に行きなさい。なんなら付き添ってあげてもいいから」


「付き合ってあげてもいい⁉」


「違う! 付き添ってあげてもいいって言ったの」


 ああなんだびっくりしたと胸を撫でおろす透。


 こっちこそびっくりした。ペースが乱されている。心底おかしな奴だと思う。


 そういえば、と思い出す。


 髪色のわずかな茶色は生活指導の受けが非常に悪く、月の初めの服装チェックにはいつものように彼は引っかかっていた。髪を黒くするように言われた次の日は、なんら変わることのないその髪色に、生活指導は顔をあんぐりとさせて激昂していたことを覚えている。他人の意見のペースに乱されることのないマイペースは、逆に関わる相手のペースを乱すことになる。思わず、刺々しい言葉を吐いてしまう芽亜里の仮面ももしかしたら——男に期待するなんて馬鹿げている。すんでのところで思い直した。


 かぶりを振りながら話を戻す。


「もう病院はいいわ。それよりも探し物がどうとかって言ってたけどいったいなにを失くしたの? 日が沈むまでならまあ手伝ってあげないこともないけど、その前に荷物を家に置かせて。卵とかあるからこの暑さで腐らせちゃうといけないし」


「ああ俺持つよ。歩きながら探し物についても話す——よ?」


 近づいてきた透を、芽亜里は身を逸らして避けてしまった。男に対しての苦手意識もあった。だけどもっと単純な理由もあった。——汗をかいている自分は臭くないだろうか? 氷漬けにでもされたように固まる透は、二度目のあからさまの傷ついた表情で芽亜里の顔を見る。


 私に関わると、人は誰もが傷ついてしまう。


 何気ない仕草、何気ない言葉、何気ない思考、変わらないことは美しいかもしれない、芽亜里はそれでも変わりたいと願った。好きになった人ぐらいは幸せにしてあげたいと願った。芽亜里はそのまま手荷物をぐいと透に押しつけて、速めの足取りで帰路を辿って、後ろの透に振り向いた。


「はやく行きましょ。私の家、こっちだから」


 ぽかんとした表情の透は、慌てて芽亜里の背中を追った。


「やめてください。からかわないでくださいよ師匠」


 また虚空に話しかけている。


 これも自分のせいなのだろうかと考える。


 透の話が始まった。


 探しているのは一対の弓矢。それは天界に住むキューピットの落とし物で、その弓矢に貫かれたものは射手にめろめろの状態になること必至であり、使用時には本物の弓矢の大きさと変わらないけれど、使用時以外にはカバンに着けられるぐらいのアクセサリーぐらいの大きさになるのだと言う。落とした第一候補はナマズ公園のどこかであり、公園で遊んでいた子供たち、通称木島チルドレンたちの助力により公園中を捜索したが、まったく見当たらず木島チルドレンを解散させてから捜索範囲を公園の外にまで広げたらしい。そうして街路樹を練り歩く最中に、偶然にもスーパーきねがわから出てくる芽亜里に出会ったそうだ。


 芽亜里の家の前にたどり着く。


「…………」


 正直、霧子のことをどう思っているのかを会話の際中にでも聞いてみるつもりだった。


 でも駄目だった。


 心の中でずっとツッこんでいた。聞く暇もないぐらいにツッこんでいた。


 家に行くんじゃなくて、それとなく病院に誘導したほうがよかったかもしれない。


「と、とにかく冷蔵庫に袋の中身を入れてくるから、ここで待ってて」


「うんわかった」


 差し出されたエコバックを受け取って、ポケットから家の鍵を取り出して、玄関に入るやいなや靴を脱ぐ。玄関の芳香剤の甘い匂いが鼻孔をくすぐりセンサー付きの自動照明が起動する。リビングの奥に引っ込むドアを開けると、溜め込まれた熱気がバックドラフトのように襲い来る。エコバックの中身に影響が出る前に、芽亜里はキッチンの冷蔵庫の前に立つ。冷蔵庫の冷気を浴びながら次々とオムライスの具材を詰め込んでいき、このまま冷気を浴び続けていたいという誘惑を断ち切り、オレンジ色の斜陽に染められるリビングを後にした。今日で何度目ともしれない靴の履く動作をして、透が玄関先で待ってくれたお礼として、熱中症対策のための水分補給として、お茶の一つぐらいは出してもいいかもしれないと思い靴ひもを結ぶ行為を止めた。


 玄関ドアが開いた。


 芽亜里は驚いた。


 オオカミの本性を現した透が、いきなり牙を剥き出しにして、芽亜里を襲いにきたのかと思った。


 でも違った。


 そこには、夏の熱気を背負い立つ霧子の姿があった。


「あんたが春日井芽亜里ね! ちょっと話があるから顔を貸しなさい」

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