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トライアングルラブとおっさん  作者: 仲島 たねや
第一章 トライアングルラブと告白
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トライアングル・ラブと告白②

 保健委員なんてロクなものではないと荒波霧子は雑巾片手にそう思う。

 クラス内でのお決まりともいえる委員決めは、誰も進んで挙げるわけもない挙手制という制度を持っている。学級委員、体育委員、放送委員、図書委員を始めとした委員活動は、クラスの半数の人間が所属するようにできている。しかしそれは言い換えてしまえば、クラスの半数の人間が面倒くさい委員活動から逃れることができるということでもある。だからこそ誰も進んで手を挙げないし、最終的にはじゃんけん大会が開催される。そして霧子は負けた。早いうちに負けたからこその先取の権利で、比較的楽そうな保険委員を選んだ。年に二回だけ行われる健康診断があって、それの補助ぐらいしか活動はないと思っていた。

 しかし実際はどうだ。

 毎日毎日保健室の掃除をさせられている。

 そもそも保健室という空間が、霧子の肌に合わないことも知ってほしい。

 明らかに仕舞うタイミングを失った灯油ストーブは、見ているだけでも暑苦しくてうっとうしい。そして部屋に充満している薬品臭さが、どうにも鼻について落ち着かない。カーテンに囲われた三つのベッドは、いつも二つぐらい埋められている。

 ベッドの埋められている原因は、若くして保健室に配属された、養護教諭の八重草萌香のせいだった。

「あ、あの、毎日ありがとうございます荒波さん」

 背もたれのない回転式の椅子に座って、消え入りそうな声で話しかけてきたのが八重草萌香その人である。

 弱々しく垂れた目じりと百五十センチにも満たない背丈、サイズの合っていない白衣とトイレで使われてそうなスリッパ、彼女は、一見すると医者に憧れるコスプレ少女にも見える。その庇護欲を掻き立てる風貌に惹き寄せられた馬鹿な男子どもは、仮病を装うことにより事前に組まれたローテーション通りにベッドに潜り込む。ベッドを一つだけ空けているのはせめてもの良心なのかもしれず、しかし少しでも良心があるのであれば怪我もしていないのに保健室に来るんじぇねえよと霧子は思う。

「いいよ、もえちゃん」

 謝るぐらいなら掃除を手伝ってほしいところであるが、以前、八重草先生が掃除を手伝ってくれた時に嫌らしい目つきの教頭が、生徒の成長のためにも先生であるあなたが掃除を手伝うことはないのだとねちっこく言ってきた。意志薄弱を体現したような小動物八重草は、まさか教頭の言葉には逆らうこともできない。霧子は掃除をすることでいったいなにが成長するんだと心で思い、それでも霧子はそれを口にだすような直情的な人間ではないからしぶしぶ掃除を続けた。

 もう一人の保険委員はいつものさぼりだ。

 なんでも部活が忙しいらしいが、それなら霧子だってテニス部が忙しい。

 掃除なんてはやく適当に終わらせて部活に行かないと。

 そうは思うがしかし、これだけの時間はやりなさいという労働時間が掃除にはある。これが二十分。せめて半分にしろと思う。カーテンの隙間からあがる霧子へのひやかしは、八重草先生の消えゆくような「だめですよー」の声に静まる。でれでれと。

 永遠に黙らせてやろうかと思った。

 その時に騒がしく廊下を駆けてきた奴がいて、けたましく保健室の扉が開けられて、いがぐり頭のユニフォーム姿の生徒が、

「やべえ!」

 その語彙力こそがやばいと思う。

「ど、どうしました!」

 生徒よりも慌てふためいている小動物八重草は、回転式の椅子を倒しながら立ち上がる。机の上に積まれていた書類がその衝撃で宙を舞う。相手にするべきは駆け込んできた生徒か、それとも今にも地べたに落っこちそうな書類か、その二つの選択肢に悩む八重草先生は、もうどっちつかずの状態であうあう言っている。

 それに構うことなく足を進めたいがぐり頭は、唾の飛ぶような喋り方で八重草先生をまくしたてる。

「とりあえずこれからあいつが運ばれてくるから。あ、あいつっていうのは俺がノックの練習をしようとして、で、どれだけ球を飛ばせるかって話になって、それからとにかく思いっきり打ってみるとそこにあいつがいたから、別にわざとっていうわけじゃないんだけどそいつが周りも見ずに走ってるから球が当たって、ええっと」

 いまいちよくわからない。

 そしてよくわからないうちに廊下がざわめき、四人の男子生徒が長方形を組んで歩いてきて、神輿のように担がれた一人の生徒がその頂きには存在している。ぐったりとしている。

「ど、どうしました!」

 八重草先生は書類を諦めたらしい。

「こいつが飛んで来たら球を失ったんだ! 違う‼ 球がぶつかったらこいつが気を失ったんだ!」

 八重草先生は大変なことじゃないですかと慌てる。こういった状況に合わせた対応マニュアルを思い出そうと、彼女はポンコツロボットのように頭を捻る。それをせかすように騒ぎ立てるいがぐり頭、担いでいる男子生徒の処遇に困る四人、霧子はカオスの一端を見た気になる。

 しっちゃかめっちゃかだった。 

 しかし、

「「ちょっと待たれい‼」」

 カオスの場が驚くほどに静まり返った。

 ベッドを囲うカーテン越しから発せられたデュエット、そちらにすべての視線が注がれることはもはや神の意思ではないかという錯覚さえあった。カーテンを照らしているのは窓から差し込む太陽光で、カーテンに映し出されているのは仁王立ちの二つの影だ。じゃらじゃらと音を立てながら勢いよく開かれるカーテンは、小太りな眼鏡の丸山と痩せすぎて骨のような木村をその奥に出現させた。

 八重草先生は驚きに目を見開いて、

「あなたたちは表面的には現れない重篤な病を抱えているのだから、ちゃんと寝ていなくては駄目じゃないですか!」

 どんな仮病をもえちゃんに吹き込んだこいつら。

 表面的には現れなくても、重篤な病を抱えているのなら病院にでも行けばいい。

 心配性ここに極まれりといった可愛いもえちゃんのことだから、病気の話を聞いたその瞬間にすぐさま119で救急車を呼びそうなものだけど、もっともらしい言い訳に関してはやたらと弁の立つ彼らのことだ。いけしゃあしゃあと無垢な老人に対して孫の名を語る詐欺師ばりのテクニックで、まんまと陽の当たる位置の保健室のベッドを二つとも勝ち取ったに違いない。その二人が、胸の前で腕を組むというまったく同じポーズでベッドに立っている。陽の光が、まるで後光のように光の輪郭を二人に与えている。

 目つきだけはいっちょ前にキリリとさせている二人が、例の二重奏を奏でる。事前に打ち合わせたからこそのハモりではないかと霧子はいぶかしむ。

「「落ち着くのですもえちゃん先生。もえちゃん先生には悪いのですが、実は隠匿性放課後症候群にかかっているという話は嘘なのです。我々はね、こういった時のサポート役としてあなたの近くいたのですよ」」

 はっとした表情の八重草先生。

 その反応は、遠回しなストーカー発言にドン引いたからだと言ってくれ。

「「とにかくそこの野球部君は冷静になり、生徒を担いでいる体格のいい君たちははやく空いているベッドに彼を寝かしてやりなさい。そして荒波! 貴様は手を緩めることなくピッカピカになるまでもえちゃん先生の保健室を掃除し続けろ!」」

「なんで私にだけ当たりが強いんだよ」

 とにかく保健室にいる全員が動き始めた。

 いがぐり頭の野球部生徒はラマーズ法を駆使して冷静さを取り戻し、神輿担ぎの四人は空いているベッドに一人の男子生徒を下ろし、八重草先生は寝かされた生徒の横に立ち彼の呼吸だとか脈拍だとかを診察し始めた。一仕事を終えたみたいなできる男の顔をした丸山と木村は太陽の光を孕んだカーテンの奥に引っ込んだ。そのまま二度と出てくるなと思う。

 霧子は掃除をするふりをする。

 そしてふと思う。

 未だに神輿のように担がれていた男子生徒の顔を見ていない。比較的に女子の中では背の高いほうにいる霧子だが、男に担がれている人の顔を見れるぐらいの背の高さはない。飛んでくる野球のボールに気づかない何ともおめでたい頭にたんこぶを作ったのはどこのまぬけか。

 興味が湧いた。

 だから覗いた。

 八重草先生の頭越しに。

 ベッドに寝かされた彼の顔を。

「——っ‼」

 声にならない驚きだった。

 驚かないほうが不思議だった。

 彼の名前は透。

 霧子の幼馴染でご近所さん。

 びっくりするほどの直情的な性格はまったくといっていいほどに幼稚園から変わっておらず、親切という親切を見ず知らずの誰かに振りまける善意の安売り男であり、しかし自分のやりたくないことには頑として首を縦に振らない頑固な一面も併せ持つ中々にトリッキーな奴。一目だけで印象付けるのではあれば透は柔和な雰囲気で、しかし天性の騒がしさと空気の読めていそうで実はまったく読めていない性格は、彼のことを初めて目にする人間であれば戸惑うこともあるだろう。そのせいで問題を起こすこともたまにある。例えば透は生まれつきの髪色がわずかに茶色がかっていることもあり、学校で行われる指導教員の頭髪検査はいつも引っかかって黒く染めろと言われている。が、やっぱり、彼は自分を曲げることなく自分の髪色に自信を持ちながら日々を過ごしている。透への対応やその評価を狂わせる見た目にそぐわない頑固さのせいで、彼の評価は教師によってはまったく別なものになることもある。

 そして一つだけ大事な情報が抜けていた。

 霧子の幼馴染でご近所さんで、そしてなにより霧子の想い人が透である。

 恋心を自覚したのは小学二年生。

 いつも一緒にいて、とっても楽しくて、あれ? 私ってあいつのこと好きなんじゃん。

 もはやその思考に至ると透のことを意識せずにはいられなかった。もはや照れ隠しの軽い暴力を振るわずにはいられなかった。生まれた時からの幼馴染で、仲のいいご近所さんで、そして異性を気にしない間柄で。そんなぬるま湯につかるような居心地のいい関係性は、あと一歩でも踏み込もうものならたちまちのうちに崩れ去ってしまうような気がしていた。

 しかし毛細血管の見える白目をむきながらバカみたいに口を開けている透を見ると、その一歩がどうして踏み出せなかったのだろうとめちゃくちゃに後悔する。保健室に充満していた薬品の臭いは汗にまみれた男どもによって塗り替えられて、設定気温を保つための静音駆動のクーラーはむわりと上昇する気温に対して風量をいや増し、閉じられている窓を貫通するグラウンドの部活中の生徒たちの声は、八重草先生をはねのけてから透の胸に顔をうずめた霧子のでっかいむせび泣きに潰される。

「と  お  る  が  死  ん  じ ゃ  っ  た  ――――――――――――」

 尻餅をついた八重草先生が痛むお尻をさする。ベッドを取り囲む四人の男子が耳を塞ぐ。霧子の声に驚いたいがぐり頭が大仰に身を仰け反らせて、カーテンの奥に引っ込んでいた丸山と木村はカーテンの隙間から何事かと様子をうかがう。それに構うことなく泣き続ける霧子は、もう目の前の透のことしか見えていない。どうしてこのようなことになってしまったのだろうと考える。このようなことになってしまうのであれば早く気持ちを伝えればよかったとも考える。もう全部が全部手遅れで、ほら、握りしめている透の手は氷のように冷たくなって——いなかった。

 あれ?

 まともな思考力を欠如していたその頭に、それこそ氷にでも当てられたような冷静が取り戻される。

 手と手を通して伝わってくる温もりは、一定の間隔で上下を繰り返す胸の動きは、四方八方から痛いぐらいに突き刺さってくる奇異の視線はいまだに目の前の命が失われていないことを示している。顔が赤くなるぐらいに恥ずかしくなった。目元は明らかに赤くなっていた。先ほどまでの慌てふためきようを誤魔化すように霧子は「なにしてんのよあんたたち、さっさと透が目を覚ますように動きなさい!」具体的な指示などあったものではない。それでもケツをひっぱたかれたように動き始めた四人の男子といがぐり頭が八重草先生に指示を乞い、むさい男どもに囲まれた八重草先生はとにかく水と氷と救急車を要請した。

「あんたたちも動け!」

 霧子は、カーテンの隙間から様子をうかがっていた丸山と木村に大声を飛ばす。跳ねるようにスタートダッシュを決めた二人の背を見る。その二人が視界から消え去ったことを確認する。完全なる冷静さを取り戻した霧子は自分の行動をふり返って後悔する。

 担がれた男子生徒がまさか死んでいるとは思っていなかった。

 それでもそれが透であるとわかった途端に恐ろしいぐらいのマイナス思考が一気に押し寄せてきた。それの処理の追いつかない霧子の脳はもっともマイナスな結果である「死」を過程をすっ飛ばして導き出した。思わず慌てふためいてしまった。それでも霧子の中に芽生えた透への気持ち、それを伝えられないことへの後悔は紛れもない真実である。

「う…………」

 声を漏らしたのは透の喉だった。

 ベッドのそばにいるのは霧子だけで、それならば透に答えるのは霧子しかいない。

「透! 私がわかる⁉」

「……えっと、——霧子か? ええっと、なんでこんなところにいるんだろ俺」

 頭に手を置きながら上半身を起こした透は自分の記憶を探るように天井を見つめる。

 霧子はほっとした。

 胸を撫でおろした。

 救急車の出番だってこれなら必要ないだろう。

 天井を見つめる透の視線は、しばらく戻ってこない。どうしたのだろうと思って、屈めていた腰を上げて透の顔を見下ろした霧子はそこに絶望チャンピオンの表情を見る。

「ど、どうしたの透⁉」

 気絶したことによる後遺症なのかもしれない。強く打ちつけたその衝撃で、頭の中の脳神経回路が狂ってしまったのかもしれない。

 くっくっくっくっ、不気味に笑いだした透には明らかに救急車が必要であろう。

「と、とりあえずもえちゃん呼ぼうか?」

 保健室には存在していなかった氷を保健室にいた生徒が探しに行って、119に連絡を通した八重草先生はこの場を霧子に託した。保健室にいるのは霧子と透の二人っきりということがつまるところで、しかし、この状態の透を放っておくわけにもいかない霧子はそれでも自分の手に負える状況ではないことを悟って踵を返し、

 ——腕を掴まれた。

 霧子は思わぬ不意打ちに対して高鳴る心臓を抑えつける。

「どうしたの?」

 精いっぱいに出した言葉はもう動揺しすぎて震えていたかもしれない。

 透の瞳を見る。

 今にも泣きそうなほどにうるんでいる。そう思った瞬間にはすでに泣いていた。

 情けないと思うよりも心臓をわしづかみにされたような気持ちになった霧子は、いわゆる母性本能をくすぐられた状態になったことを自覚する。愛おしくてたまらないという感情が沸き上がり、普段は見ることのできないであろう大人しくて弱々しい透のその頭を霧子は優しく撫でようとしてからいやまて早まるなと思い直すことで伸ばした手を引っ込める。そして、男泣きというにはあまりにも女々しく泣いている透がひくつくように肩をふるわせながら口を開いた。

「聞いてくれるか霧子?」

 もちろん聞くよ、私でよければなんでも聞いてあげる——軽率にこんなことを言ってしまったことをまさか数秒後の自分に責められることを霧子は知らない。

「実はな、俺な、フラれたんだ」

「へ⁉」

 ちょっと待ってほしい。

 フラれたというのはそれはつまり透がどこぞの誰かに告白し、あろうかとかそれを断った不届き者がいるということではないか。いや別にそれはよくて本題は別にある。告白するべき相手がいたという事実がさっきの透の言葉には含まれている。

 誰だそれは。

 私という可愛い幼馴染を差し置いて、そんな奴がいたということに驚きだ。それに少なからず傷ついた。どうして数秒前になんでも聞いてあげるなんて言ってしまったのだろう。

 しかし同時にチャンスであるとも思う。

 どこの誰かは知らないけれどここまで透が傷心しているのはそいつの断り方の酷さを表している。透の心を思うのであればもちろん同情だってするけれど、ここまで傷ついているのならそれを慰めることにより透の心は自分のほうに傾くのではないかという打算も生まれる。しかしそれでは手ぬるいのではないのかという疑問も生じる。まるで手塩に掛けるように透の心をゆるりと傾けているその最中、霧子の知らぬうちに愛の告白だのフラれるだののアクションをまたぞろ起こされてはたまったものではない。

 なによりも霧子の心が許せない。

 常に好きな人には自分のことだけを見ていてほしいと願うことはなにもおかしくないはずだ。

 後悔だってしたばかりだ。

 だったらやってやろうと霧子は思う。

 あくまでも平静を装って、それでいて情熱的に。

「ねえ透」

 鼻水をすすりながらぐちゃぐちゃな顔を向ける透が、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げる。

「なに?」

「もうそんな奴のことは忘れちゃいなよ」

 ここで透の手を握る霧子はばっくばくの心臓を鼓膜の裏で聴く。

「私だったらあんたのことを泣かしたりしない」

 戸惑ったようなおろおろとした雰囲気が透の手からひしひしと伝わってくる。

 構うものかと思う。

 ここで決め台詞。


「透の彼女に、私がなってあげる」


 いけ!

 届け!

 私の想い!


 霧子はあなたの彼女になりましたという契約を結ぶための抱擁を試みた。この抱擁を受け入れた時こそが透の心を手に入れた時であり、緊張のし過ぎでいくつもの残像を残しながらおずおずと透の背中に回された手にありったけの願いを託す。あとちょっとだもうすぐだいけいけいいけとあくまでも包容力のある大人の表情を装う霧子はすぐさま表情を崩す。目を見開いた。口をぽかんと開けた。やっぱり女の子とは違うたくましいその手は、制服越しの霧子の肩を掴むと同時に、距離を空けるように動かされる。

「俺は春日井さんが好きなんだってば!」

 こいつ空気読めやという気持ちが二割で、あとは自失諦念羞恥心、一言で言ってしまえば、ショックの気持ちが八割を占めた。

 透の彼女に、私がなってあげる?

 思い返すだけでも恥ずかしいうえにおこがましい。

 春日井という名前を心に刻む霧子。

 許さねえこいつと思う。

 今までの実らぬ恋も、ついさっきの告白も、なにもかもがこいつのせいなのだと無条件で思った。

「こんな冗談を言うなんてお前らしくないぞ霧子——ってうわ! 顔が怖いぞどうした」

 透の声に耳も貸さない霧子は透の腕を振り払いずかずかと保健室を出ていく。すれ違いざまに氷を手にした生徒に会うがこれを互いに無視する。生徒に至ってはなにも霧子を無視するつもりなどなかったはずだが、なにやら鬼気迫る様子の霧子に圧倒されて、もはや廊下の脇のほうに避けることしかできなかったのである。

 歩く霧子はしかし目的地なんて考えていない。

 春日井とかいう奴に会ってまさか殴り込みに向かうつもりでもない。

 霧子が欲したのは誰にも会うことのないような静かな場所。

 とにかく学校になんてもういたくない。

 次第に風を切るように速められていくのは霧子の歩調であり、慣れた手つきで荒波霧子の名前のシールの貼りつけられた下駄箱から取り出したスニーカーと学校指定の緑のスリッパをはき替えるとそこからはすでに歩きではなくて颯爽とした走りへと転じていた。最近になって防犯対策のために設置された玄関のカメラが霧子を捉え、特にどの部活にも所属していないヤンキー崩れが霧子の進路を空け、わずかに一人分しか空けられていない横開きの門に霧子が勢いそのままに超えていく。

 桃色の花弁を無くした桜並木がレンガ状の公道を両脇に挟む。セミの鳴き声は死んだのかと思ったらすぐさま息を吹き返す。夏の日差しは地表のミミズを容赦なく干していく。

 走る霧子は、まぶたの裏から溢れ出ようとしている涙をぬぐう。

 いっそこの涙も、夏の日差しが奪い去ってくれればいいのにと、そう思った。

 荒波霧子、生まれて初めての失恋だった。

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