トライアングル・ラブと告白①
三角関係とおっさんの話です。
心臓が、胸筋を突き破るのではないかという緊張だった。
前方には、うだるような熱気を吸い込んだ校舎の壁、なんの花も植えられていない茶色の花壇、後方には、ひし形を連ねたフェンス、のぞき見防止の背の高い木々たち、どこかでじーこじーことセミが鳴いているけど、もはや待ち人を待ち続けている透にはセミの鳴き声はBGMとしても機能していない。汗でへばりついた学校指定の白シャツも、靴にいる働きアリの登山と下山も、もうこいつここに生えてるんじゃねえのというぐらいに動じない透は、一人の少女の到来によりやがて人間としての表情を取り戻す。
男、木島透、生まれて初めての告白だった。
少女がしゃなりと歩いてくる。
夏という季節にはおよそふさわしくない雪のような肌が、周囲とまったく同じはずなのにまったくそうは見えない学校指定の白シャツから覗いている。服そのものに価値があるのではなく、それを着る者にこそ価値があるのだという生きる見本のようだと透は思った。しかし見つめすぎるわけにもいかない。気持ち悪いと思われるかもしれない。こちらに近づいてきていることはわかっているけど、まるでそれに気づいていないような素振りで再び直立不動の姿勢に戻る。一歩、また一歩と、彼女が近づいてくるたびに透の心臓が早鐘を打つ。
もう我慢ができない。
「や、やあ! 春日井さん」
話しかけた。
針金を埋め込まれたように横を向く。
挙げた手は手刀でもするようにぴんと伸びていた。
「え、ええ」
春日井芽亜里は透の裏返った声に多少たじろいだ。
しかし何事もなかったみたいに会話を始める。
「それで、話ってなにかしら?」
今日の昼休みのことだった。
透は芽亜里のよくいる図書室に行き、周囲にだれもいないことを八回ぐらい確認して、話があるから今日の放課後に校舎裏に来てほしい、と言った。五時限目の数学と六時限目の現代文は気持ちが浮つきすぎてなにも話が入ってこなかった。頭はあほみたいにからっぽで、けれども吸い寄せられるように体はふらふらと校舎裏を目指していた。
そして今に至る。
「じ、実はさ」
今さらになって汗が気になる。
セミの声も気になる。
透と芽亜里を包み込んでいる校舎の影が、遺伝子操作により生み出された怪獣のように思えた。
負けるものかと透は思う。
この怪獣に踏みつぶされた時こそが、透の気持ちが負けた時なのである。
男らしくあれ!
一世一代の大勝負!
勝てば祝砲、負ければ花を散らせて堂々と去れ!
透は気持ちを正すと同時に姿勢も正し、芽亜里の瞳をまっすぐに見つめ返してから勢いよく腰を曲げて手を差し伸べる。
「春日井さん! どうか俺と付き合ってください!」
沈黙の時が流れた。
十年に匹敵する時間が流れた気もする。
差し伸べていた手が痙攣でもするかのように震えはじめて、閉じていた両目は恐る恐るといった様子で片方だけ開けられて、透はもしかしたら手を差し伸べた先にはすでに春日井さんの姿は無くなっているのかもしれない、そう思ってちょっとずつ顔をあげてみると、肩口をくすぐるような黒髪が絹束みたいなしなやかな指にかき上げられていた。芽亜里の姿があってほっとする。彼女は透と同じように緊張しているに違いなく、戸惑いがちに伸ばされた手が、あと数秒の内にでも透の手と触れ合う、いまにその時がやってくるに違いない。
しかし事実は残酷だ。
はあ、というため息が聞こえた。
「まあこんなことだろうとは思っていたわ」
「へ?」
この時の透の表情は、まぬけチャンピオンの称号があれば、間違いなくその栄光に輝いている顔をしていた。
「はっきりと言っておくけど、返事はノーよ。ありえない。まじで無理だから」
この時の透の表情は、絶望チャンピオンの称号があれば、間違いなくその栄光に輝いている顔をしていた。
しかし容赦のない言葉は続く。
「そもそも私はあなたのことを何も知らないもの。名前はなんていうの? どうして私の名前を知っているの? なにも知らない赤の他人から付き合ってくださいなんて言われても、それがただの買い物に付き合ってぐらいの意味合いであっても付き合わないに決まっているじゃない。それに——」
透の耳にはもう芽亜里の声は届いていない。
そもそもこんなにも喋る人であったことを、透は知らなかった。
実のところで芽亜里のことを、その内に秘められた本性を、透だってなにも知らなかったのかもしれない。だけども芽亜里のことを好きになったのはただの上辺だけのものではない。断言だってできる。フェンス越しの見ず知らずのおばあちゃんに宣誓したっていい。
ふと耳に意識を戻すと、芽亜里の声は未だに続いていた。
いっさい自分の気持ちに嘘偽りのない言葉を吐いて、それが否定されることだって考えていたけれど、だからってこれは、あ
「あ?」
透の発した一文字を芽亜里がオウム返しにして、小首をかしげて、自分の発した一文字を今の心境として透は発展させる。
「あんまりじゃないかー‼」
うわああああああああああああああああああああああ!
駆けだした。
たぶん内股で、おそらく、流れる涙を白シャツの袖で拭いながら。
そのまま遺伝子操作で生み出された怪獣の影を超え、楕円形のトラックが引かれているグラウンドの隅に出て、無駄なおしゃべりをしながら走る陸上部の集団とすれ違って、なんだあいつ気でも狂ったんじゃねえかという視線が、透の背中を痛いほど貫いてくるけれど、透はそれにお構いなしに走っていた。当然のように周りの様子なんて目に入っていない。だからこそ透は気づかなかった。栗の下側みたいな頭のお調子者の野球部員が、どれだけ遠くに打球を飛ばせるのかを悪友に自慢していたことを。心地よい金属音を響かせたバット、縫い目のかすれたボールの軌跡、透の頭にそれはロックオンされ、やはりそれにも気づいていない。
鈍い音が響いた。
その音を出したのが自分であると理解する間もなかった。
景色が、幕を閉じたように暗転した。
グラウンドの隅のほう、砂埃を巻き上げながら透は倒れた。
グラウンドに集められた視線は、見事なまでにある一点に集中していたことは、もはや言うまでもない。