開かずの鍵
「ほら、ここに」
得意満面で、どうだと言わんばかりに畳みかけられたが、宛名が全然違う。
「貴方……これ、お義母様宛のお手紙じゃない。知らないわよ、見つかっても」
「書き写したものですから問題ありません」
乳母はちゃっかり者である。
「コンスエロ公爵夫人が主催される仮装舞踏会です。これならお顔を隠して出席できますわ。かりそめの宴のようなものなので公式の夜会とはいえませんが、社交界とはどのようなものかを見学なさるにはうってつけでございましょう。ヘドウィック伯爵家宛てに招待状も届いております。ゲルトルーデ様がたにバレないよう振る舞いになって、お早めにお戻りくだされば何の問題もございません」
問題しかない。義母たちはルクレツィアを人目に出したがらないから、3人で行くはずだ。そうなるとルクレツィアは招かれざる客。3人の目を欺いても、他の人間に見つかってしまえば一大事である。
仮装舞踏会は各自の邸宅で扮装を済ませてから会場に入る。一般的な夜会に比べて誰何は緩やかだ。出入り口の人ごみに要領良く侵入できれば、その後は難なく溶け込めるだろう。しかしジェンマの発想は危険すぎた。
「ご安心ください! これでもわたくしは色んな夜会に出席しましたのよ。コツは心得ておりますわ! 危険物を持ち込んでいないか検査されるくらいで、通されるはずですわ!」
「公爵家の催し物がそんなので良いの……?」
「あそこには精鋭の守衛隊がありますし。仮装舞踏会そのものが世俗のしがらみから解き放たれたい趣旨で開かれるものですから。心配なさらないでください!」
「でも。ドレスがないわ。ちゃんとしたものよ。お義母様は手配してくれないし、お父様は渋りそうだし」
それなりに隠れ無い家名ではあるが、近年、ヘドウィック家は難局にぶつかりつつある――――財政面で。
領地から上がってくる収入は安定しているし、曲がりながらもヘドウィック伯が文官の職にありつけている関係上、そこからの実入りも良い。こういうと、さぞ財政に富む勢家だと思われがちだが、実際は違う。さすがに貧窮しているわけではないけれども、潤沢とは口が裂けても言えないのが現状だ。
本来であれば金の力は大貴族と肩を並べるはずだった。現実は、市民層の豪商にも負ける。
原因はひとつ。
浪費。
義母たちがやたらめったら物を買いたがるのだ。亡きラヴァンダ子爵が病的な守銭奴だったせいでの反動もあるそうだが、それにしたって豪華な服飾品や無駄に高直な調度品を求めすぎる。大粒の宝石を縫いとめた、今にも重みで薄い綿の生地が裂けてしまいそうなドレスを何着も買いあさり、ゴテゴテした飾りつけが悪趣味な装身具を多数注文する。他にも、『妖婦』と有名な何某の貴族夫人が愛用しているという真偽不明の触れ込みの乳液を大量に仕入れたり、原材料に疑念が残る『若返りの水』なるものを馬鹿みたいに買い占めたり。自らの肌の質を高めるのに涙ぐましい努力をしているが、まったく変わりないあの3人を見るにつけもう諦めたら良いのではと思ったりする。というか、根本的な部分を見直すべきである。
とにかく、無駄遣いの癖が滲みついているのだ。伯爵家先祖伝来の貯蓄では賄いきれないほどに。このまま悪化すれば、領地から上がってくる収益が赤字と化し、一気に深刻化する。
そのせいで古参の使用人を泣く泣く何人か切り捨てたくらいなのだから、全盛期に比べその財力は推して知るべし、だ。嫌々ながらルクレツィアが義母たちのドレスを仕立て直しているのは、こうした裏事情もあった。
ヘドウィック伯爵もそれとなく自家の懐事情は把握している。だからこそ余分な出費は実の娘であっても決して許さないだろう。まあそれでも、ルクレツィアの顔見せを成功させるに足るドレスを繕うだけの資金は確保しているみたいだが。
「お義母様たちのせいで、私にシワ寄せが来たのよ。お父様は再来月の夜会で私を見せて、結婚まで一発で終わらせたいのよ。それ以上のドレスなんて作ってもらえないわ」
「ご安心ください」
ジェンマが堂々と胸を叩く。
「衣装部屋はしかり、亡き奥方にまつわるお部屋の鍵はすべてわたくしが管理しております。いつかお嬢様が身辺でお困りになられたとしても、お心を煩わせることがないように」
ルクレツィアは耳を疑い、あんぐりと口を開けた。
ヘドウィック邸には人呼んで『開かずの間』と言われる部屋がある。ルクレツィアの亡き実母が生前寝起きしていた私室だというが、どうしてだか彼女亡き後、そこの鍵だけ屋敷中をひっくり返しても見つからなかったのだ。
愛妻との永別を受け入れられない伯爵が、辛さのあまり故意に鍵を紛失したのだろうと噂されていた。当時の伯爵は、幸せの絶頂期の精彩が見る影もなく、憔悴しきっていたから。
「もしかして、あそこの鍵、貴方がずっと……?」
乳母とはいえ一使用人が隠し持つなどありえないものである。しかしジェンマはどんと構えていた。
「ええ。わたくしが一番、奥方様に信頼されていましたから。それに亡き奥方様とお嬢様にしか似合わない、あれほどの絢爛なお召し物がゲルトルーデ様やビビエンヌ様、クニグンデ様のお手に渡ってはいけませんもの。ドレスがお嘆きのあまり破けてしまいますわ」
丁寧な口調とは裏腹に、発言内容は爆弾的だ。普段は澄ました様相で給仕するジェンマも、彼女らの所業には腹を据えかねるものがあったらしい。
「そうですわ! わたくしったらなんて時間の無駄遣いをしていたのでしょう。お嬢様はヘドウィック伯爵家の血を引く唯一の姫君であるのですから、しかるべき装いをなさることにお時間を割かないといけませんのに」
名案が閃いたようにジェンマが手を叩いた。繕っていた義理の次姉のドレスを放り投げ、目を輝かせてルクレツィアににじり寄る。
「ジェンマ? ど、どうしたの。顔が紅くなっているわ」
「思い立ったが吉日ですわよ、お嬢様。幸運にも今夜から明日の晩にかけて、ゲルトルーデ様がたはユーステス子爵の祝賀会に出席される予定ですの。その間に亡き奥方様の遺されたドレスをご試着してみましょう。あの方々に見られては取り上げられてしまうのが目に見えますものね」
怒涛の爆弾発言の主は得意顔でドレスの中に提げていた、錆の目立つ金メッキの鍵を引き上げる。この乳母はやることなすこと、言うことがたくましい。
古びた扉が無遠慮に開け放たれた。長年この部屋の開閉を司ってきた扉は傷だらけで滑りも悪く、慎重に押さないと醜く軋み上げる。
聴覚を聾する不快な開閉音がせり出し、ルクレツィアは唇を噛んでしかめ面した。
「ドレスの補修は終わったのかしら?」
不愉快な音を発生させた主はものともせず、白鳥の羽根扇を煽ぎながら衣装部屋に踏み入る。大柄な人影の後部で、2人の女がぴったり侍っていた。