幻惑の宵宴
「貴方ね、待ちなさいよ――――って、ええ?」
青年の足が止まる。2人はめまぐるしい道のりを越え、コンスエロ公爵所有の大庭園に出られる柱廊に行き着いていた。階上の大広間から溢れ出たシャンデリアの灯が、夜空を照らすおぼろな満月が、草花生い茂る庭園を蒼く濡らしている。
「ほとんどの客はみんな大広間に入り浸っている。ここなら部屋に戻る客と出くわすこともないだろう。何かあれば草木の影が隠してくれる。例の馬車のようにな」
さりげなく潜り込んだことを指摘されると、さすがに後ろめたくなる。
「……あんまり言わないでよ……」
大広間に嵌められたガラス張りの窓は演奏中の円舞曲を外へ透かしていた。夜風とともに、管弦の音色がしめやかにそよぐ。
青年はルクレツィアの背中をくるりと回し、己と向かい合わせた。ルクレツィアの目線は青年の胸部にある。視界の開けた瞳に映る、しっかりした肩幅、硬く締まった胸、長い手足。そして金茶の髪が綺麗な、厳しい空気を醸す秀麗な顔立ち。月明かりを浴び、幻想的に浮かんで。ルクレツィアはベールを胸元で握り締める。
立場を忘れて見惚れていたい。月影清かな闇夜を遥か天上に掲げ、立つ青年は、異性に耐性のない令嬢の心を乱すのに充分すぎた。
改めて、男の筋張った手が差し伸べられる。夢見心地な音楽にも惑わされ、ルクレツィアは応じかけ……。
「あ……」
音が、消えた。大広間を満たしていた舞踏の調べが終わった。ルクレツィアの熱も一気に冷める。
なんてこと。このままじゃ本当にまずい。
帰らなければ。屋敷へ。馬車へ。
急激に意識を引き戻されたルクレツィアは新しい曲が響く直前で踵を返した。ドレスをたくし上げ、駆け出す。青年の焦った声が飛び込んだが、構っちゃいられない。
履き慣れない靴が痛い。ものの数秒でルクレツィアはこけた。青年の呆れるため息と腕が迫る。介添えされるまい、捕まえられてたまるかとルクレツィアの身体が瞬時に動いた。
こめかみに留めた髪飾りを引き抜き、尖った先端を青年の左肩に突き立てる。漏れた、驚きが混ざった吐息。呆然とする青年をよそにルクレツィアは這うように起き上がり、靴を脱ぎ捨てて走った。
きついコルセットが憎たらしい。ちょっと暴れただけで息が上がってしまっている。熱くなる顔、沸騰する頭。もはやわけが分からない状態でひたすら逃げ抜いた。早く、早く。馬車を見つけて。意識が真っ白になる前に。
※***※….※***※…..※***※…..※***※.
左肩が小さな痛みを訴える。青年は構わず、手元に落ちた光り物を取り上げる。
蝶の羽根の銀線細工が美しい、中央に白百合の咲いた装身具。彼女が投げつけた髪飾りだ。生まれた頃より贅という贅を凝らした物品に囲まれた青年だからこそ分かる。これはそこらの身分では手にできない極上品だ。
月明かりに翳し、じっくりと眺め入る。と、サテンに針金を通した白百合の花びらの一片に、金糸の文字が縫われていた。とても小さくて、見落としそうになる。
濃灰のの目を近づけ、解読する。何かの名前のようだった。
「ヘドウィック……」
無意識になぞった、声。青年は怪訝な顔をする。
聞き覚えのある響き。これは家名だ。たびたび耳にする、あの。