みどりのファイア
「パダ古陶展」の頃は春の花が満開だったけれど、それもぬるい雨に打たれてまたたく間に散ってしまって、かわりに木々の緑がぎらぎらと濃くなってきた。今日は汗ばむほどの陽気だ。
(あ、また来てる)。舞台衣装の包みを抱いて教室を出たところで、ひょろりと長身のシルエットを見つける。花の終わりから、校内でゼンの姿を見かけることが増えた。
ゼンと交際を始めたと、我が親友オリから報告を受けたのが一ト月前のこと。似合いのつがいに、小姑ことあたしは喝采で応えた。以来、一段ときれいになったオリと、ゼンと三人で、茶やら酒やらのテーブルを囲むようになったのだが。…いいのだろうか。お邪魔ではないかと恐縮するが、交ぜてもらったなら話も弾み、こいびとたちはそれを当然と思っているようだ。 その席で、ゼンはうちの芸術学校の生徒ではないと知った。
他校の史学科に所属していて、民俗学を学んでいるのだという。ところが、授業でさらっと触れた宗教美術の沼にはまってしまい、観るだけでは飽き足らなくなって、うちの学校に聴講生として通うようになったらしい。
はっきり云って、ゼンに絵心はない。
だが、眼が良い。
視力ではなく、審美眼のことだ。また、建築家のように、ものを見るときに脳内で方眼に割ることもできる。それと、一から描いたものは拙いが、手先は器用で、根気も強い。
というわけで、神像が身につけている金属製の装飾品の修復や、災害で泥水をかぶった宗教画の洗浄方法などを、オリの指導教授に習っているのだそうだ。この指導教授はゼンの指導教授の呑み友達であるため、紹介状を握ってオリたちの画室を訪れたのが、ふたりのなりそめであるらしい。
まあ、いちいちこちらのツボにはまる奴である。面白い男だ。ツボというのは、あたしの持病である「郷愁」に由来するものである。あたしのルーツ、海の彼方の大陸に棲まっていた、先祖たちの特技。パダの一族の特性。代替りして縁は切れてしまったが、曾祖父の一族は、やたら勉強ができたり無闇に手先が器用だったりする者が結構いるらしい。学者と工芸家の血筋なのだそうだ。
もっとも、ゼンはパダとはゆかりのない、ただの歴史オタクだが。身内の昔語りに出てきそうなキャラは気に入った。異性の親友というのもいいものだ。
丈の高い野草を思わせる姿が、オリの画室がある棟へ向かっていく。それを見送って、あたしはふうっと息をつき、天を仰いだ。快晴。
さて、放課後の喫茶の屋外席。オリとゼン、プラスあたしで、パダの宗教美術に関する燃え語りが大団円を迎えたところである。渇いたノドに本校名物の、スパイスが効いた発泡水が旨い。願うならば河岸を換えてちょいとアルコールが欲しいところであるが、昨日から服んでいる薬のせいで止められているので我慢する。
ゼンは襟元をゆるめて手で風を入れながら、満足しきった顔をしている。オリは小さな帳面に、ゼンとあたしの舌戦で気に止まった言葉を書き付けていた。
絵描きであるオリは、自己の内面からイメージを汲み上げては画布に写しているが、出力ばかりでは枯れる。創作にインプットは必須だが、われらの燃え語りは、彼女の琴線にふれることがままあるらしい。彼女いわく、「ふたりの燃えどころを突き詰めると、自分のときめきを保ちつつ、一般の需要に触れられる」とのこと。果たしてそうかは疑問だが、オリに妬かれないことは心底有り難い。やましいことは何もないが、最愛の親友の不興を買うことが、あたしには心底恐ろしい。オリを失うなんて、考えられなかった。
「飲み物、追加を頼んでくる。欲しいものある?」
ゆらりと立ち上がって、ゼンは問うた。だらだらと汗をかいている。衣替えを終えて十日ほどだが、風がなくて妙に蒸す。またたく間に、夏は本番を迎えたらしい。オリもあたしも半袖を着てきて正解だった。生徒のなかには肩をむき出しにしている者もちらほら居る。
「わたしも行く、」
とオリも財布を出して席を立つ。
「たしか、今日から氷菓がでたの。見たい。リザは?」
「あ、あたしは待ってる。スパイスアイスティー頼める?」
「了解」
石畳を踏んで、ふたつの影がカウンターへ向かう。仲むつまじいふたりを見ていると、いつまで三人でいられるかなあと、そんなことばかり思う。小姑だってナイーブにもなるのだ。
ひとつに束ねた髪の根元に、熱がたまって重い。いったんほどいて、風を入れる。夏にしか味わえない解放感はいくつかあるが、これもそのひとつだろうか。とはいえ汗っかきには、これから三ヶ月続く暑気はこたえる。
「…『汗っかき』?」
あたしは呟いた。あごに指を当て、しばし考え込む。汗っかきといえば。
「お待ちどお、」
顔を上げると、トレイを持ったふたりが帰ってきていた。ゼンが、あたしの前にアイスティーのグラスを置いてくれる。あたしは、その手を思わず凝視した。
ふと気づいたのだ。「こいつ、この暑さでも長袖だな」と。「汗かきのくせに」と。思った瞬間、ざっと身体が冷たくなった。それじゃまるで、あたしの亡父と同じじゃないか。
亡父というのは、要するにパダの一族の男だが、決して半袖を着なかった。なぜかというと、異様に毛深いのだ。大陸の男性によくある資質らしい。優男タイプだったので、彼の腕を初めて見た時、のちの妻である母はひどく驚いたとのこと。
「たいていのやつはギャップにとまどう、いじられるのはご免だ」というのが亡父の主張で、ゆえに、いつも長袖で通していたのだそうだ。あたしは気にしなくていいと思うが、享年三十八、男ざかりだった身としては隠したくなるものらしい。
で。問題は目の前のこいつだ。ゼン・ラヅだ。
まさか、こいつも毛深いんじゃないだろうかということだ。
そういえば、目の色みどりがかってるし。まさかとは思うが。
「あ、煙草いいですか」
ゼンが、遠慮がちに問う。
「どうぞ」
そう答えて、あたしはゼンの目を盗み見た。
パダ氏は、目に特徴がある。太陽光では解らないけど、炎に照らされると瞳にみどりのちいさなファイアが浮かぶのだ。もっとも、混血が進んだ現在ではそれを持たない者もいる。あたしは一応ファイア持ちだが、ごく小さいので、たぶんオリですら気づいていないだろう。
ゼンが紙巻きに火をつける。マッチの灯に照らされ、彼の瞳のおもてでみどりのファイアがひるがえった。
パダだ……!なんで気づかなかったんだ。パダだ。パダの男だ。
めまいがする。出逢えた。出逢ってしまった。家族以外の同族に!
あたしにとって永すぎる一瞬が過ぎ、ゼンは旨そうに一服喫んだ。オリはゼンから煙草の箱を借りて、パッケージデザインに夢中になっている。ふたりは知らない。知るはずがない。一本のマッチが火をつけたものは、煙草と、ゼンの瞳だけではなかったなんて。三つめ。三つめは……あたしの子宮だった。
あたしは、パダの新しい命を生みたいと思ってしまったのだ。 より濃い血を持つパダの子。あたしと、ゼンの、子を。