大風
「パダ古陶展」の受付で切符をきってもらい、会場に一歩入ったところで、人生で幾度も繰り返された衝動があたしを包んだ。
大陸の熱気がつぶてとなってあたしの顔を撃ち、肌を灼く。
帰った、還ってきたのだ、パダのあの大地に!
と云っても、眼前にあるのは雄大な山河や碧空では無い。ただ、玻璃に鎧われた生活道具が鎮座するのみだ。
けれど、鼻の奥がつんと痛むほどの懐かしさに、身の裡が音を立ててぞよめく。大陸から伝わった技術で造られた展示物と、大陸由来のあたしの血が呼応しているとしか思えない。
あたしは奥歯をかみしめて涙をこらえた。やわらかに落とされた灯りは、充血した眼を隠してくれるだろう。そんな些細なことを、大陸の母神の慈しみだと感じる。妄想だと百も承知で、あたしは名も知らぬ母神たちに祈りに似た感謝を捧げた。
展覧会は、絶妙な入りだった。閑散としているわけではないが、気に入りの作品の前では、気兼ねなく長居できる。三足亀を模した香合や、翼を広げた火の鳥の形をした酒瓶が特に気に入った。酒瓶は、翼が持ち手になっている。対になる盃が五つ、火の鳥をぐるりと囲んでいた。こちらは卵をイメージしているようだ。独特の赤い地紋を釉薬で表現しているのが好ましい。
会場内では、オリとはつかず離れずで、各々好きに見て回っている。
絵描きのオリは、展覧会では目の色が変わる。押し黙って呼吸すらせず作品を凝視するのは、脳内デッサンをしているのだろう。天女が、美の現場では夜叉に変わる。余人は気圧されるようだが、あたしはこの、凄みのあるオリも好きだ。
あたしは被服をやってはいるが、手に職をつけたいというだけなので、実は大望はない。職人と呼ばれるとうれしいけれど、美を生む情熱において、凡人の域を出ない。オリとは違う。したがって、オリの絵の一ファンとして、学びの場である展覧会では彼女の邪魔をしないことにしているのだ。まあ、彼女の美貌に血迷ったナンパ野郎が現れたら、速攻で助けに行くが。
今回は衣装の断片も展示されていた。片袖しか現存していないとのことだが、袖口に施された刺繍から、海の民の晴れ着だと推察できるとのこと。薄く透ける布に丁寧に刺された糸は、なるほど、魚のひれを表現しているようだ。縫い目を、針の跡を、目で追う。思わず、熱い息をもらす。この美しい縫い取りを一針一針刺したひとが確かに居たのだ。
被服科の学生としては、再現にチャレンジしたい。衣装制作のバイトが入ったら、提案してみようか。などと思いつつじっと見ていたら、間近で煙草のいい香りがした。
思わずそちらに首を巡らすと、いつの間にか若い男が隣にいて、衣装を凝視している。男が「リギョか……」と呟くのを聞いて、あたしはばっと衣装に向き直った。
ほんとだ、この文様は、大漁の先触れに現れるという伝説上の魚・リギョの胸びれだ。
ということは、この衣装は、「ジーティエンのか……?」あたしの呟きに、今度は男の肩がびくりとはねた。
男とあたしは顔を見合わせた。知らない人と独り言を応酬した気恥ずかしさで、あたしたちは、へらっと曖昧な笑みを交わして離れた。
気を取り直して、次は、普段使いの茶碗を見る。口径のわりに深い飯椀だ。パダはぶっかけ飯を好んだそうなので、汁をたっぷり入れるがためだろう。白い茶碗だが、内側は赤い。飯の色を引き立てるデザインだ。
青菜と魚を煮合わせた汁をかけるとこの赤が映えるだろうな。それとも、黒い殻と濃黄の身を持つ二枚貝の潮汁だろうか。大陸ではわずかにしか生息しないその貝が、本邦ではざくざく採れると知って、パダ氏は驚喜したというのを読んだことがある。うん、やはりあの潮汁のための色合わせだろうか。
感心して見ていると、また煙草の香りがした。振り返ると、やっぱりさっきの男だ。男もびっくりした顔をしている。なんとなく、そそくさと茶碗の前を離れてしまった。
しばらく台所ものの展示を見て、祭具のコーナーに移る。神事に使う水差しがあると知って、楽しみにしていたのだ。水差しのケースには先客が張り付いている。近づくと、煙草の香りがした。先客は、あの男だ。
実は、あれからもこの男とは展示物の前で出会った。実に通算十回目である。といって、つきまとわれてるわけではない。断言できる。最初はちょっと警戒したが。そうではなくて、興味の対象と事物の好みがあきれるほど一致するだけなのだ。観念したように、男は口を開いた。
「……よく、お会いしますね」
穏やかに微笑む。展示物のために照明をやわらかく落としたホール内で、男の口元が目を引いた。煙草喫みのくせに、きれいな歯をしている。
「……ええ。パダ、お好きなんですか?」
問うまでもないが訊いてみる。あんなにがっつりケースに張りつくやつが「お好き」じゃなくてなんだというのか。我ながら愚問である。恥ずかしい。しかし男は明快に答えてくれた。
「好きですね。口承でこれだけのものが伝わったことに惹かれます」
あたしは驚き、男の顔をあらためて見つめた。なんと云おうか、個人的には満点の回答だったのだ。
そうなのだ。パダ氏はもともと、文字を持たない民族だった。伝説では「大陸の魔術師に使役されていた使い魔」となっているが、あながち間違ってもいないのだろう。彼らは大容量の記憶力を持つため、文書を作る必要性を感じなかった。情報はすべて口伝で遺していったのだ。現代に生きる末裔たちも、入試などではあまり苦労しないことが多いと聞く。あたしみたいな例外もいるが。
「あ」あたしもそこが好きなんです、と云いかけたとき、視界の端にオリが現れた。
あたしの視線の先を追って、男が振り返る。
「オリさん、」
「あ、やっぱりゼンさんだ」
見たこともないような満面の笑みを交わすふたりを前に、あたしは、オリがあたしから卒業しつつあるのを悟った。こいつがゼン・ラヅか。そっか。なら、たぶん、小姑の完敗だ。
ゼンを加えて三人組になったあたしたちは、場内を堪能した帰り、隣接のカフェでお茶を頼んだ。あいにく、酒の時刻には早かったのだ。少し残念に思ったが、カフェの品書きには展覧会とのコラボメニュウがいくつかあり、大陸風の軽食が食べられると知ってテンションが上がった。
店のおすすめは、大ぶりのポットで淹れる薬草茶だ。氷砂糖を入れるのが本式だが、入れる入れないは好みに任せるとのこと。ゼンに甘いものは平気かと伺いを立てたが、どうせなら本式を味わいたいと云ってくれたので、オリはご機嫌である。
やがて茶器と点心が運ばれてきた。砂時計がついてくる。砂が落ちきったら自分たちで注ぐ形式だ。
ポットは玻璃製で、茶葉と氷砂糖の他に、乾燥させた薄紅の花のつぼみや、同じく干した柑橘の皮が透けて見えた。オリはちいさく感嘆の声を上げ、茶葉がひらくのを食い入るように観察している。ゼンは愉しげに、オリに包みこむようなまなざしを注いでいる。そのあたたかな笑みは、親鳥の翼を思わせた。
砂がすべて落ちた。あたしはポットを揺らし、茶の濃度を目視する。頃合いだ。ポットの蓋に軽く手を添え、三つのカップに、順繰りに注ぎ分ける。ゼンは何故か、あたしの手元をじっと見ている。オリが彼に目配せして、「ね、」と云った。ゼンは小さく頷く。こいびとたちには何かの符丁があるらしい。
内心、首をひねりつつ、カップをそれぞれに渡す。熱い茶をゆっくりひとくち飲んで、ゼンが口を開いた。
「リザさん、お茶入れるの上手いですね」
「どぉも」
相変わらずの塩対応が自分でも情けない。云い訳のように、
「親がうるさかったので」
と云うと、ゼンは「違う」と云った。
「たしかに濃さが頃合いで旨いけど、そこじゃなくて、ポットの扱いがきれいだ。手がいい」
「関節が優美なのよね。しなやかで」オリが云う。継いで彼は、
「活かそうと思ったことはないの?」などとのたまう。あたしは軽く衝撃を受けた。全くない。
「活かすって、例えば?」と好奇心全開で訊ねたのはオリで、ゼンはポットをにらむようにして考え込んだ。だが、口元は茶目っ気のあるカーブを描いている。
「手品師かな。あれは、手の動きで観衆をだますって聞いたことがある」
自分の手に魅力があるとは思えない。まじまじと己の持ちものを見る。何の変哲もない、ただの手だ。しかし、何だな、また舞台の話になるとは思わなかった。
お褒めにあずかり光栄だがいたたまれなくなって、
「まあ、それはそれとして、」
と本日の展示物の感想を投げてみる。途端にゼンの眼がきらりと光って、燃え語り大会が始まった。
なるほど、オリの話どおり、存分にオタク談義ができる。ゼンはあたしの解釈を静かに聞いているかと思えば、反す刀で熱く異論へ導く。それを受けたあたしもさらなる一手を出す。まるで斬り結んでいるかのような爽快さだ。が、毛ほども色気が無いので、オリも妬かない。しゃべり続けるふたりのカップに時折お茶を注いでくれながら、にこにこと耳を傾けていた。
店員が灯りを運んできたことで、ずいぶん時間がたったことを知る。すっかり夢中になっていた。窓の外は夕焼けが始まっている。夜はバイトが入っているというゼンを見送り、オリとあたしは学生街の酒場へ河岸を替えた。
「きれいなひとでしょ、」
オリの言葉に、あたしは素直に頷いた。と云っても、彼はあたしの基準ではいわゆるイケメンではない。が、なんか浄い感じがするのだ。
おキレイというのではない。静かで熱い。季節の変わり目に吹く大風のようだ。恵みと違和を携えて現れ、通り過ぎたあとに豊穣を残す。
清濁併せ呑んで、なお浄い。
ゼン・ラヅってやつは、そういうイメージだった。