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「私にとってあなたとは何か」という問いへの解

作者: 門林はみめ

 初めに結論から言ってしまおう。

「あなたは、取り替え不可だ。」と。しかし、この結論に至るまでには決して、綺麗事は登場しない。ただ、硬い論理を一歩一歩踏みしめるだけで良い。その歩みに少しお付き合いいただければ幸いだ。


 かつて、僕にこう問いかけた人がいた。「あなたにとって、私とは何か」と。

 その人は当時の恋人であったために、何か彼女なりに求めているものがあったのかもしれぬとは思うものの、気の利いたことも言えず僕は応えに窮してしまった。分からなかったのである。


 こう思う人もいるかもしれない。「今自分で、言ったじゃないか。その人は恋人ではないのか」と。

 確かに、彼女が恋人(今は元であるが)であることは違いあるまい、無論よき友人としても認識していた。だが、それだけだろうか。それだけで答えになるのか。


 その恋人だの友人だのは、社会的位置づけに過ぎぬと思う。すなわち、「定義」にさえ当てはまれば、その人はその属性を社会から与えられるのだ。


 たとえば、高校生カップルは一般的に告白という儀式を行うことによって、カップルとして認められるのであり、別れ話というこれまた儀式を終えてフリーになるのだ。それらを介しなければ、高校生社会では互いに恋愛感情を発展させていても「何やら怪しい仲」に過ぎず、もはや手に負えないような不仲な関係にあっても「ギクシャクした交際」などとされる。


 他の例で言えば、二人の間に子供がいるカップルがいるとしよう。二人はその子の親であると言えるだろう。少なくとも社会的にはそう見られるに違いない。そしてそれは、酒浸りでめったに家に帰らないような親であったとしてもだろう。「親失格」等と言うことはあれど、本当に親として認めない人は少ない。


 上記の例には、批判はあるかもしれないが、少々大目に見てほしい。なぜなら、「定義」には文化的背景や個人の思想信条に左右される部分がある。我々の普段の思考回路は決して科学的ではないゆえに、常に定義を共有しているわけではないのだ。


 さて、例より分かるとおり、関係を表す名詞(親、子、恋人、先生等)は前述どおり社会的属性に過ぎないのである。

 そして、社会的属性は「あなたにとって、私とは何か」という問いの答えにはなりえない。社会的な目と個人の目にかなりのギャップが存在しているためだ。


 こちらも具体例で見てみよう。

 冷酷なようだが、社会的に先生は取り替え可能である。免許を持っており、あなたに何かを教えてくれていれば、それは先生であろう。学生時代を思い出してみてほしい。先生は、数年に一回は変わったはずだ。それでも、よほどのことがない限りあなたは授業に出席し、その空間で皆はその人を先生と呼んだ。 

 では、「あなた自身」にとって先生と呼ぶにふさわしい人物を思い浮かべて欲しい。一般に恩師と呼ばれる人だ。彼ないし彼女は、取り替え可能だろうか。否、とは思わなかったか。


 恋人でも同様だ。恋人は取り替え可能な物である。

 あなたは、人生において幾人かの人と恋をし、付き合うことだろう。その現恋人や元恋人らは皆、社会的属性として「あなたの恋人」という肩書きを持っていた時期がある。

 では、彼女らはあなたにとって、同様か。否だろう。もし、同じだと思っているなら相当恋愛が不向きな人に他ならない。


 すなわち、定義によって図ろうとすると、どうもうまく行きそうもない。

 逆に定義を狭くすれば、うまく行くかもしれないと思う方もいるかもしれないが、それはこう反証可能である。その定義から外れた人はあなたにとって別人になるのか。

 具体化すれば、学校を卒業した途端に、恩師に敬意を抱かなくなった。などということだ。

 これまた、否だろう。


 さて、構成上やむを得ず、ひたすらに反例を先に持ってくる形になってしまった。

 反証ばかりあげていても仕方が無いので、自論へ移ろう。


 自論はこうだ。「あなたにとって、私とは何か。」という問いへの応えは、「あなたは、私のアイデンティティの構築に〇〇のような影響を与えた人だ」と言うほかあるまい。

 つまり、良い悪いに関わらず、その人の実績によって左右されるものにほかならないのだ。


 先生で言えば、「集団行動アレルギーをもたせた」や「批判的に見る傾向を持たせた」など。恋人で言えば、色々あるだろうが「自分を恋愛不審にした」や、「野心的にした」などということだ。


 逆に言うと、いくら有名な先生でも、美形な人でもあなたのアイデンティティに作用しなければ、「なんでもない人」にすぎない。

 実体験に照らし合わせてほしいどうだろう。そうではないか。


 この実績に依存した結論を導いた理由としては、我々は結局の所その人の振る舞っている表面しか見れない、という確信からである。

 付き合いが長くなれば、一般にその人の影響が大きく、その人が分かるようになったような気がするのは、振る舞っている事象を見る機会が増えるからに他ならない。そして、集めたデータベースよりその人の行いの規則性を見出したとき、本質がわかったかのように思えるのである。


「本当は良い人」という論理もデータからの推測であるわけだ。しばらく、付き合ってみて、特定の条件下は悪印象であるが、他では好感を持てる行いをすることが判明したに過ぎない。


 これより、親友や肉親のことをわかっているような気がするのは、データを多く持っているからに他ならず、初対面の人や衝突を起こさないよう恐る恐る付き合っていた人の本質がつかめないのも同じ理由から説明がつく。


 また、我々が振る舞いによってのみ他人を認識するのであれば、ある人振る舞いが意味を持ったとき、我々に取ってその人は意味を持つのである。

 行動が意味を持つ時とはいつか。それは、あなたを少しでも変えた時だろう。

 これは例で見ると明らかである。

 1954年以前のアメリカでは、あらゆるものに白人用黒人用という区分があったのだが、その際に黒人が白人用のものを使うというのは、ある人には怒りを生み、ある人には希望を与えただろう。間違いなくそれはアイデンティティに変化をもたらした。しかし、現在、黒人が白人と同じものを使っても何も変化をもたらしはしない。そこには特に意味がないことがわかるだろうか。


 そこで自論に戻ると、特別な間柄に限らず、他人とは自身のアイデンティティに影響して初めて意味を持つのである。アイデンティティに影響するとは、言い換えれば自らに少しでも変更を加えることである。


 そして、前述通り、理想としては、その人が自身に与えた影響のデータ全てが「私にとってのその人」ということにあるわけである。

 しかし、現実に具体的に、解を「あなたにとって、私とは何か」という問いへ与えるとすれば、その人に受けた影響を列挙し続ける必要があるのであるし、当然自身では気付けない影響もあるだろうから原密に伝えることは不可能に近い。

 だが、楽観視すると、確かに解は存在するのだ。


 見方を変えて、他人から与えられた意味を知ることで、自分の意味づけをなすとすればこうなるだろう。

 あなたがある人に与えた影響が一つや2つであれば、その人にとってあなたは置き換え可能かもしれない。 しかし、密接に関係している人にはあなたは、数え切れないような多大な影響を与えているであろうし、その中にはあなたにしかなし得なかったものも混じっているかもしれない。

 あなたが与えた影響の組み合わせによって、他人よりあなたは置き換え不能な意味を付与されていると言えるだろう。

 よって、最初の結論に戻る。「あなたは置き換え不可だ」と。


 今回は、対人において自らの存在意義を見出そうと試みたわけであるが、個人的には納得しうる解を出せて、宿題を終えた気分である。

 

 どうだろう、僕には勝手に自明だと決め込み、論理をやや飛躍させる癖があるため、不明な箇所があったら是非訂正してほしい。また、矛盾点や反例があれば指摘をしてほしい。


なお、後書きするとするならばこの結論は決して真新しいものではない。

「オンリーワン」や「かけがえのない人」などという言葉はよく目にするものであり、感覚的に我々は自覚しているのだろう。


また、この結論は、あくまで一人では自らの存在意義を認識し得るものなどではなく、「自分とは何か」という問いへは限りなく、不完全な応答である。


しかし、現代社会が、自分なんていなくたっていいと思えてしまうような社会であるなら、そこに何かを投じられたらな。と思う。

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― 新着の感想 ―
[一言] よくわかりました。 置き換え不可だなんて、素敵ですね。 また貴方のことを一つ知りました。
[一言] このエッセイを素材にして煮込んだ物語作品が読みたいです。 この結論に至った人物がどう変化し、何を口走るのか。 『花マル……』のような短編で、ぜひ!
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