奇跡は意外と起こりうる
「ねえ、今度どこか二人で遊びにいかない?」
――鋒原 光は、こと女に関して遠慮を知らない。
「もう。私彼氏がいるの知ってるでしょ?」
何故なら、自分は女性から愛される人間だと理解しているからだ。
「別に良いじゃん、遊びにいくくらい。何なら俺と付き合っちゃっても良いしさ」
「縦妻さん、俺と付き合って下さい!」
――縦妻 香織はなびかない。いかなる誘惑にも、どんな口説き文句にも。
「あ、あの……ごめんなさい。付き合えません」
何故なら、興味が無いからだ。そうやって異性を避ける内、いつしか本当に異性との付き合いが苦手になってしまったのも事実だ。
――鋒原光と縦妻香織は、絶対に仲良くなれない。ましてや付き合うなど、想像の中で思い描く事すら難しい。
***
「香織ー。この前の塾の話、電話入れときなさいよ」
香織の母、彩乃は言った。
「あ、そうだった。ありがとお母さん」
香織は、大学受験に向け学習塾に通う事を考え始めていた。そこで、前々から勧誘の電話の来ていた赤羽ゼミナールの体験講習を受ける事にした。
「お母さーん、赤羽の電話番号わかる?」
「その辺にパンフレットあるでしょ」
彩乃は電話台のあたりを指差した。
「ありがと」
香織は赤羽ゼミナールのパンフレットを左手に持ち、受話器を頭と肩で挟むと右手で電話番号をダイヤルし始めた。
一つだけ。ここで予め言わせてもらうと、香織は注意力の足りない人間ではない。普段からおっちょこちょいな部分がある訳でもないし、徹夜明けの朝でもない。
「もしもし」
電話に出たのは、若い男。その後に「赤羽ゼミナールです」と続かなかったのを香織は少しだけ不思議に思ったが、そのまま続けようとした。
「あの、以前からお電話いただいていた縦妻ですが」
香織がそう言うと、電話の向こうの男は怪訝そうに「はい?」と聞き返してきた。
予想外の応答。瞬間香織は言葉を失い、頭の中で現状を理解しようとした。――とは言え、この状況で考えられるのは間違い電話ぐらい。
「あの……、赤羽ゼミナールさんですか?」
電話の向こうの男は、少し黙った。
「……いえ、鋒原です」
電話の向こうの男、改め鋒原光は、億劫そうな声でそう言った。しかし、この現状を飲み込むと光は、電話の声が若い女である事から興味を持ち直した。
「間違い電話?」
光は優しく、気さくに笑いながら話しかけた。
「そ、そうみたい……です。ごめんなさい」
「いやいや、全然。むしろ俺こういうのって結構好き。どこの誰とも知らない相手と偶然関わりを持つっていうさ」
言うまでも無いながら、光の場合のそれは異性相手に限る。
「は、はあ……」
香織は戸惑った。ただ普通に間違い電話でしたで電話を切らせてくれれば良いのに、相手の男が何故か話しかけてきたからだ。
「どこに住んでるの? 高校生? あっ……いや、いきなりこんな事聞くのって失礼すぎるかな。はは」
「………………」
香織は無言を返した。そして、悪気がある訳では無かったが、突然今の状況が怖くなり、
「ごっ、ごめんなさい! 間違い電話でした!」
そう言って、一方的に電話を切った。
「ツー……、ツー」
光の耳には、電話の機会音が寂しげに繰り返る。
「クソッ!」
光は、苛立ちを隠す事なく受話器を放り投げた。
――夜、鋒原家。
光はまだ、昼間の間違い電話の事が気になっていた。これも何かの縁、もし相手の女が美人だったら取り逃がしたのは悔しすぎる。昼間はお互い何も知らなすぎたから警戒されたが、向こうの女も自分の顔を見れば仲良くなりたいと思うに決まっている。光は、冗談でも何でも無く本気でそう考えていた。
「光ー。電話空いたわよ」
――鋒原光は麻雀に興味がある。
だからこの時、自分の携帯電話でなく家の電話を使うに至ったのは、自分の携帯電話は今麻雀のゲームを起動していたからである。
そして、一つだけ。ここで絶対に言っておかねばならないのは、光は香織の電話番号を控えていないということ。間違い電話であったし、普通に生きていれば二度と関わる事も無いであろう相手。そんな番号を控えておくのも気持ち悪いと思ったし、別にその必要性も無かったから。
――だから、この結果は偶然である。
「はい。縦妻です」
一瞬、光は受話器を落としそうになった。唇が痺れ、頬は震える。
女友達の元に掛けるつもりだった光は、この信じられない出来事を夢か幻のものなのかとも。
光は、香織の元に間違い電話を掛けた。一体、どういう確率で奇跡が重なればこういう事が起こるのだろうか? 光は神という概念を特別信じている訳では無かったが、この出来事を神の仕業で無いとするなら、宝くじで一等当てる方がどれほど簡単か。
「もしもし? どなたですか?」
香織の声で我に返ると光は、小さく笑った。
――これが、鋒原光と縦妻香織の初めの出会い。まだまだ互いの事など何も知らない、受話器越しに言葉を交わしてみただけ――。