5本目
水戸かず子と名乗った謎の女。いや正味の話、かなりの美女である。
初見のときはレオタードすがただったが、いまはふつうの服装に戻っていた。最初、なんだこいつと思ったが、むしろレオタード復活キボンヌのオレだった。
「……さん。青木さん?」
「はっ」
「紙とペンを……てゆうか、聞いてなかったでしょ」
「聞いてたって。パラグライダーで時を駆けちゃった話でしょ?」
多少不満そうな顔でオレからペンを受け取ると、彼女は紙に何やら書きはじめた。
2016年→2017年→2016年(水戸)
2017年→2016年(青木)
「つまり、こういうこと。アタシは未来へ行って帰ってきた。あなたは過去へ溯行ったまま。そしていま、おなじ2016年にいるってわけ」
「水戸さんのほうは、ほぼノーダメージじゃね?」
「簡単に言ってくれるわね。こっちは商売道具を未来に置いてきちゃった、てのに」
「このまま来年まで待てば取り戻せるんじゃね?」
「あなたこそ、1年ダブっただけで問題なくね? ……そういえば、あなたにとって今日は2017年の何月何日だったの」
「3月31日」
「丸1年、先輩ってわけね。それじゃ、あらためて聞くけど……」
と、彼女はヘンな目くばせをした。だいたいが下世話な話になるパターンだ。
「あなたにとっての去年、つまり2016年に、何か大きなイベントはなかった? 株式の特定銘柄が急騰したとか、万馬券が出たとか、ロト6が……」
「株も競馬もやらないから興味ない。ロト6も買ったことがない」
「あなたって、何がたのしくて生きてるの?」
「……パチンコを少々」
「つまんねー! こいつマジ、つまんねー」
言って彼女は大の字に寝そべった。いや、パンツ見えるからマジで。
「じゃあアタシ、そろそろ帰るわ」
「あのさ、いまさらだけど、アンタ何者なの」
「わかるでしょ、秘密組織のエージェントよ。趣味でレオタード着てると思った?」
「何なん、あのレオタード。目立ちすぎだろ」
「逆転の発想よ。あれだけ仮装すれば、逆に普段のアタシがバレずに済む」
「あ、なるほど。……でもいま、オレに普段のカッコさらしてんじゃん」
「今回はイレギュラー。任務失敗しちゃったし、いまはもう勤務時間外てことで」
任務、そういえば荷物がどうとか言ってたっけ。
「荷物が何だったか、やっぱり言えないわけ?」
「ええ、ごめんなさい。それだけは」
これ以上引き留める理由もないので、オレは彼女を玄関まで送ることにした。そうして立ち上がったとき、ふとある物が目に入った。
心臓が凍る、という表現はこういうときに用いるのではなかろうか。
それはオレにとって見慣れたはずの入館証だった。IDカード。オレらのように顧客の個人情報を扱う職場では、こういった通行手形的なカードが必要になる。まあ一般企業で言うところの社員証みたいなものだ。
ちがう……オレとはちがう男の写真がそのカードにはプリントされていた。名前もちがう。山田一郎、と書いてある。
ふつうに考えれば、これはオレではない誰かのIDカードということになる。だが、なぜそれがオレの部屋に置いてある?
予感がしてオレは咄嗟に財布をしらべた。そこに入れてある運転免許証を見たとき、予感は絶望へと変わった。
人は本当に力が抜けると、膝から崩るものだと身をもってしった。
「……どうしたの」
傍から見てもテンパり度120パーセントの、オレの一連の行動を見て水戸さんが心配してくれた。
「やばい……やばいよ、水戸さん」
オレ、ちょっと泣いちゃったもん。IDカードと運転免許証のふたつを彼女に見せた。山田一郎さんとかいう、全然しらない人のね!
「え、ちょっと待って。……ウソでしょ」
彼女も怯えたように口元を押さえている。オレの気持ちを汲んでくれたらしい。
「マジだよ、水戸さん。免許証も財布もスマホも、この部屋にあるものはぜんぶオレのものだ。ただ、写真に写っている人物が替わってしまっている」
「世界線が移動した……の?」
ぽつりと彼女はつぶやいた。