007 アグレアさん、のりこむ
タイトルを変更しました。
あとがきに書いてた落書きを削除しました。
帝城の西門に皇太子一行を見送ったアグレアは、その足で帝城の西に設営されたルペラニカ州軍の陣営に向かった。
率いて来た兵はドレッドキープに配していた五千。中央へ行く機会という事で、里帰りの意味からも、イスカル人兵士を優先した編成になっている。
アグレアは自身の天幕には寄らず、真っ直ぐ出納士官の天幕を訪ねた。
中には一人、帳簿と向き合うイスカル人女性がいた。
赤い髪を左に束ね、首かけの鎖が付いた縁の厚い眼鏡を掛けて、ドレイファスの旗から起案された赤と黒の制服に身を包んでいる。右胸には向かい合って正座する番の黒猫が刺繍されていた。
「マリカ! マリカ・スカッピア出納長、ちょっと」
「はい、総督」
急な帰還にも驚いたが、開口一番名を呼ばれ、マリカ・スカッピア出納長は眼鏡を外し、緊張した面持ちで駆け寄った。
「ぶっちゃけていい?」
「ダメです。巻き込まないで下さいっ」
阿吽の呼吸だった。同時にマリカの本心だった。
以前、これを受け入れて本当に面倒な事に巻き込まれた経験があるのだ。あれはそう、忘れもしない二年前……。
などと回想していたら上官は強硬策に打って出た。
「ごめん、ぶっちゃけるね。皇帝陛下の――」
「ダメー! いやー! 絶対聞きたくないです! いやいやっ」
「ちょっとマリカ。貴女もう二十二でしょ? 子供じみた態度は止めなさい」
「だって今皇帝陛下って言ったじゃないですか! ダメですよ? その先は絶対聞きませんからねっ」
「命令不服従かぁ」
「パワハラかぁ」
マリカは何度目か知れない後悔をした。
ドレイファスの猫の紋章が可愛いからとルペラニカ総督府への任官を希望したのがケチの付き始めだ。
こんな事なら親の勧めに従って、故郷に残って結婚しておけば良かった。心の底から本気で思う。
しかし最早逃れられまい。不条理に対する怒りから来るヤケクソな思いに突き動かされるまま、マリカは肚を据えた。
「分かりました。聞きましょう。どうぞ仰って下さい」
「皇帝陛下の遺体を探すの手伝って?」
「!?!??」
「あれ? 聞こえなかったのかな。皇帝陛下の――」
「聞こえてますよ! 聞こえましたとも! どういう事ですか!? え……? 陛下、亡くなったんですか? 嘘ですよね?」
「あ、それを抜かしちゃってたか。ごめん」
「ちょっとぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「くるしっ、やめっ、放しなさい。落ち着いてっ」
マリカはアグレアの襟首をグイグイ締め上げガクガク揺さぶった。
落ち着ける訳がない。
寝耳に水で陛下が死んだと知らされる。その事実に先んじて遺体を探せと命じられる。
心臓が弱ければ死んでいたって不思議はない。
「とにかく緊急事態なの。皇太子殿下の為に役に立つ気があるなら、黙って手を貸して。勿論、軍とは関わりのない活動よ。余所にバレたら大目玉じゃ済まないでしょうね。それでもこれだけは保証する。これはお国の為よ」
カメリアの瞳に真摯な想いが宿っていた。これに貫かれてはマリカも否とは言い返えせなかった。
アグレアは独断で動いていた。
何度か皇太子の傅役であるラニエロ・コヴェリ侯爵に相談しようかと思ったが、向こうは向こうで動くのだし、別々でいいかと判断した。
何しろあちらは離宮に行ってしまって直接のやり取りが出来ないのだ。致し方がない。
一先ずマリカには全てをぶっちゃけた。
マリカは何故か死にたそうな顔をしていたが、アグレアは無論、この件でこれ以上の人死にを出すつもりなどなかった。
「遺体を見つければ一発逆転だっていう私の発想はどう?」
「分からなくはないです。侍従長と侍医が怪しいなら、総督の仰る通り毒殺の可能性は十分あります。毒は何かしら痕跡が出ますから相手も用心するでしょう。遺体を発見して、痕跡を見つければ、確かに大逆転です」
「だよね? じゃあ探そう。普通に考えて陛下の遺体は何処に在ると思う?」
「そうですね」
遺体の処理にはそれなりの手間が掛かる。そこに生前の貴賎は関係ない。
通常、皇帝崩御の際は、大葬礼以前に帝城の北にある帝室の御苑で火葬を行って荼毘に付す。
火葬もそれなりの儀礼を以って執り行うので、準備には一定の時間がかかる。それまで遺体は帝城の地下にある歴代皇帝の寝所に安置される慣わしだ。
「歴代皇帝の寝所? え? 皇帝のお墓ってお城の地下にあるの?」
「違います。地下には歴代の似姿や遺品の一部が安置されているんです。何代だったかは忘れましたけど、瞑想の間として使ってらっしゃった皇帝もいますよ。ミラグロス帝以降、数年に一度、一般にも公開されるようになりましたし」
「なるほど。普通ならそこな訳か。今回の場合ならどう?」
「可能性は高いと思いますね。隠すには持って来いの場所ですよ。ここでないとしたら些か考えあぐねてしまいます」
候補地が一つ上がった。
有力な候補だとマリカは言う。しかしアグレアは首を傾げた。
遺体は本物と偽物の二つが存在する。
昨日の時点で偽物の遺体は皇帝の居室にあった。
それが歴代皇帝の寝所に行くとして、そこに本物も隠してあるなら、遺体が二つ並ぶ事になってしまう。それは有りなのだろうか、と。
「そんな事するかな? 相当な数の共犯を囲い込まないとバレバレなんじゃない?」
「なるほど。では仮に地下に安置される遺体は一つに限定しましょう」
「うん」
「第一に、昨日の時点で本物の遺体が地下にあったとします。すると偽物の遺体はもう持ち込めません。どこか別の場所に隠すか、処分するかです」
「そうだね」
「第二に、昨日、総督が目にした遺体を地下に持って行くとします。この場合、本物は既に別の場所に隠したか、処分した。という事になって、火葬の儀では偽物が焼かれて荼毘に付されます」
「ダメじゃん。そんなの絶対に許せない」
「はい」
「第一と第二、どっちだと思う?」
「それは分かりません。ただ――」
マリカは推察した。
第一と第二のどちらの場合でも、怪しまれずに運び出せるのは棺に入れた一体だけ。一方の遺体は未だ皇帝の居室から持ち出されていないのではないか。
まず、皇帝は宰相カルロ・トラバーチが墜死の場に居合わせた前日にも宰相と会っている。前日に宰相が退出してから翌日に訪れるまでの間に殺害されたのだ。
殺害翌日の偽装工作は宰相を巻き込む綿密なものだし、自死を演じた偽物も皇帝の生前には引き込めなかったろう。
殺害、引き込み、入念な準備を要する偽装工作。これが立て続けとなれば、秘かに遺体を外部に持ち出せたかは疑わしい。普通に考えればまず無理だ。
生きている人間の出入りは皇帝府に数名の協力者がいれば苦労はない。つまり偽装演者の引き込みも困難ではなかった。が、死んだ人間の出入りとなるとそうはいかない。とにかく目立つ。
木箱に入れても肩を貸した振りをしても人目を惹かない訳にはいかない。
皇帝府の全員を共犯と仮定しても、外に出た途端にアウトだ。不審な物を見たという証言が何かしら出るだろう。
ではいつ持ち出すのか。
腐臭が漂うまで放置はできまい。今は四月で帝都の春は暖かい。
夏は気温が上がり切らないというのに皮肉なものだが。
「そうか。確かに宰相を目撃者にする計画なら余裕は……。あれ? 宰相が目撃した墜死体は?」
「それは共犯が死体の振りをしただけでしょう。演者が実際に墜死する筈もないですし、ましてや本物の皇帝の遺体を持ち出すなど有り得ません」
アマンダは腑に落ちた。
宰相が見たサロモン帝は壁垣の上に俯せだったという。あの部屋は窓も多く、真っ直ぐ地面まで落ちる窓は幾つもあったろう。そこに偽装の裏側が垣間見えた気がした。
ラニエロは侍従長と侍医以外の共謀者も徹底的に洗い出すと言っていた。ひょっとしたら二桁以上いるのかもしれない。
「遺体の持ち出しに関しては皇太子殿下が離宮に向かわれた今こそ動きがありそうですね。今日以降数日以内でしょうか」
「なら直ぐに見張らせよう。斥候部隊から何人か見繕えばいい」
「余り露骨にやると亀の首が引っ込んでしまいますよ」
「勘付かれそうになったら堂々と元帥府にでも行っちゃえば? こっちは元帥がいつ到着するか、今か今かと待ってるんだから」
アグレアは早速、斥候部隊から口の堅そうな者を見繕って皇帝府の見張りに回した。と同時に侍従長フェデリコ・メロイと侍医ラウロ・ファリーニの私邸にも見張りを付ける。
マリカ曰く、「遺体の扱いに関しては二人が、あるいは一方が確実に動く」と目されるからだ。
夜になったが、アグレアの下にはこれといった報告は届かなかった。
見張りの交代指示を出したアグレアは、意を決してマリカの天幕を訪れた。
「どうかされましたか?」
「うん、ちょっとね」
「その黒い外套は何ですか?」
「マリカの分も持って来た」
「……」
マリカは眉間に皺を寄せ、その皺に人差し指を当てながら頭痛を堪えた。
総督が何を考えているのかは手に取るように分かった。無論、分かりたくもなかったが。
「待って下さい。行くんですか?」
「その方が早いじゃん。何とかして侵入しよう」
どうして私なんだろうか。
総督はひょっとして私に懐いているのだろうか。
だとしたら本当に本当に本っ当に迷惑な話だ。
そんな風に思いながらも、マリカに出来る事と言ったら天を仰ぐくらいなものだった。
「無理ですよ。見つかったらどうするんですか?」
「何とかなるよ。マリカの頭脳で考えよう」
「自分のおつむで考えて下さい!」
しかし本気なのだろう。信じ難い事だが、総督は本気で歴代皇帝の寝所に潜入しようと考えているのだ。
マリカは今日何度目かの「死にたい」を感じた。
気が短いにもほどがある。
今日見張り始めたばかりなのに、もう潜入とか言い出すのだから。
しかし……まてよ?
ふとマリカはある事に思い当たった。
「どう? 何かいい手はあった?」
「可能性はありそうです。行くだけ行ってみるのも良いかも知れません」
「さすがマリカ! 今日から私の副官決定!」
「どんなヨイショですか。やめて下さい。全力で辞退させて頂きます」
「ひどいっ!」
深更。炭で顔を黒く汚し、黒装束に身を包んだどこかの総督と出納長は、帝都の闇をすり抜けるように進んで行った。
帝城付近は静まり返って、城が鼾でも掻きそうな気配だ。
北面に向かい、皇帝の居室がある塔の真後ろで立ち止まる。いずれ巡回の衛兵が通るだろうが、幸い今は誰もいない。
「これかぁ」
「はい。数年に一度、一般公開の時に開かれる門です」
高さと幅が二十メートルほどの正方形に穿たれた下り階段を、厳つい鉄格子の大門が塞いでいた。
公開のたびに城内を民で溢れかえらせる訳にも行かず、場外から直接入れるこの門を設置したのだと言う。
「ざるくない? 子供や私たちくらいの体格ならすり抜けられる隙間だよ」
「悲しいですけど、それは事実ですね」
そう言ってマリカは胸の辺りをペタペタした。
平たい。
マリカが悲嘆にくれるその間にも、アグレアはするりと鉄格子を抜けて、階段を下りて行く。
マリカも慌ててそれに続いた。
階段を下りきると闇溜まりに彫刻の施された石の大扉が聳えていた。
この手の扉は屈強な男性が大人数で押し開けるもので、大抵は自重だけで塞がっている。あるいは下に車輪が付いていて、その場合は内側から閂がかかっているのが普通だ。
いずれにせよ、女二人では見上げて立ち尽くす以外に出来る事もなさそうだった。
「残念ですが、中に入るのは無理そうですね」
「んなぁこたーない」
なまった口調でそう言って、アグレアはジャランと鎖の塊を取り出した。
「え? 持って来たんですか、それ」
それ、とは熊殺しの勇者たるアグレアのメインウェポン。見た目も凶悪な棘付き分銅鉄鎖だ。
蛇型の鉄環で編まれた鎖の両端に、棘の付いた錨型の錘がぶら下がっている。しかもこの武器、ただの鉄くれではない。
鋼の竜骨と呼ばれるドレイファスの家長に受け継がれる品で、神々の忘れ物であった。
神去りし人の世には、呪文や聖句を唱えて摩訶不思議の現象を起こすような魔法は存在しない。占をする魔女や、錬金術を行う魔法使いなどの存在は知られていたが、それも大抵は眉唾の類だ。
しかし、人界には魔法や奇跡と呼ぶ他ない存在も確かにあった。
一つは神の印を持つ者。神が触れた証とされる刻印を持つ、不思議な能力を備えた者たち。
一つは神々の忘れ物。神々が去る際に置き忘れて行ったとされる、謂れある品々。
七神殿に煌々と燃える不滅の神炎もその一つだ。
鋼の竜骨は界蛇宮へ昇った渦神シュトロアの腰飾り。鎖は使い手の思い通りに波打って伸縮し、錨はその大きさを自在に変える事が出来た。
「暗くて見えないけど、どうよっ!」
振り回した鎖の一端を垂直に投げ上げる。
ガツンとどこかに当たる音がして、錨型の錘が落ちてきた。
「ダメか。よーし、もういっちょぉ!」
再び遠心力を利用して上に放り出す。
アグレアは慎重に伸縮と波打ちを制御して、望みの結果を待った。
すると今度はガッとどこかにはまり込む音がした。
アグレアがグイッと引けば、鎖はまるで獲物を掛けた釣り糸のように緊張した。
「ほら、上手く行った」
「え、どういう事ですか?」
「この手の扉は重さで上に隙間が出来るでしょ? そこに錨を引っ掛けたの。これから先端を大きくしてって、私たちが通れるくらいまで隙間を広げる。で、中に入る」
「……どんな発想ですか。いえ、凄いですけど」
変な感心の仕方をするマリカを後ろに下げて、アグレアは嵌まり込んだ錨の錘を巨大化させた。
ゴリゴリッ、ミシミシッ――。耳障りな音と共に破片が落ちて、片側の扉が床にめり込んでいった。
アグレアは手元の錨に足を掛けると、鎖を縮めて上に吊り上げられるように移動して、天辺に出来た隙間を確認した。
十分な幅と見て隙間に滑り込む。それからマリカの為に鎖を伸ばして垂らした。
マリカを引き上げた所で見回りの衛兵が通り過ぎて行ったが、階下の闇溜まりは死角になっていたようで事無きを得た。
「ふぅ。それじゃ降りよう」
「えっ、ちょっ、きゃあ」
「こら、暴れないでよっ」
アグレアはマリカの腰を抱いて、内側に鎖を伸ばしながら降下した。
ここに潜入は果たされた。が、辺りは当然のごとく一面の闇。
「私バカみたい。明かり持ってくるの忘れた」
「大丈夫です」
火口を使う音がして、小杖の先に脂布を巻いた簡易松明が周囲を照らした。
「マリカが私の明かりだった。忘れ物はしてなかったよ?」
「何言ってるんですか。長くは持ちませんから急ぎましょう」
「はい」
上司と部下があべこべになった気がしたが、二人は小走りに中心部を目指した。
両側の闇に、ぬぼーっと浮かび上がる歴代皇帝の像が怖い。
背後の壁は更に暗くてほとんど見えなかった。どうやら巨大な肖像画が掛けられているようだ。しかし、今はそれらを鑑賞しに来たのではない。
「これだ!」
「ですね」
立派な拵えの台車に簡素な棺が載っていた。
大葬礼の棺は後々作られる。ここにあるのは火葬の儀の為の燃えやすい造りの棺なのだろう。とはいえ皇帝の棺だけに大きさはかなりのものだった。
「留め金とかはないみたい。開けよう。マリカ向こう側行って」
「はい。いいですよ」
「陛下だったら御免なさい。失礼します。せーのっ」
息を合わせて力を込めたが、予想以上に薄く軽い蓋は浮き上がるようにして外れた。それを脇に立てかけるように降ろし、マリカが小杖の火をかざす。
「これは……」
「どうです総督。本物ですか? それとも偽物ですか?」
「これは偽物。昨日陛下の居室で見た遺体だ」
火に照らされた遺体は、顔に石膏で修繕した面相を貼り付けたものだった。
間違いなくレオカディオと共に確認した遺体だ。
「となると本物は未だ皇帝の居室でしょうか」
「うん……。ねぇ、どっかに別の棺もないかな?」
「あるとは思えませんけど、念の為この火が消えるまでは探してみましょう」
「そうしよう」
二人はか細い明かりを頼りに広大な寝所を探し回った。
柱の影に像の影、遺品を並べた陳列台の裏側。しかし何処にもそれらしきものは見当たらない。
「ないかー……」
都度都度がくりと項垂れるアグレアを見て、つい疑問がマリカの口を衝いた。
「総督はどうして、この件にこれほど固執するんですか?」
「え? んー……。殿下が、元気なくて、だからかな」
子供好きなのだろうか。
マリカは首を捻った。捻りながらも総督らしいなとは感じていた。
アグレアは感情に対して素直に行動出来るのだ。
素直が過ぎて傍迷惑な事も多々あるが、感心させられる事も多い。そうありたいと思っても普通は中々出来ない事を、極当たり前のようにしてしまうのだから。
「ここにもないかー」
「総督。もうこの場所にはありませんよ」
闇の中で見落としもあるかもしれない、そう食い下がりたかったが、アグレアはマリカの言い分が正しいと頷いた。
「……。ここに偽物の遺体を置くなんて、歴代の皇帝だってきっと怒ってる」
「そうですね。でも、とにかく今は。棺の蓋も開けっぱなしです」
「分かった。戻して引き上げよう。後の事はまた考える! マリカが」
「いい加減にして下さいっ」
悔いはあった。
ここで本物の遺体を見つけて、それで陰謀の痕跡がどうとかいうのではなくて、ただ、少しでも早くレオカディオに、サロモン帝と、本当の父親と対面させてあげたかった。
ここへ来ればそれが出来るんだと思っていた。でも違った。
アグレアはその事が無性に悔しかった。
「総督。ちょっと待って下さい」
棺に戻って蓋を閉めようとしたところで、マリカから待ったがかかった。
「どうかしたの?」
「もう一度蓋を下ろしましょう」
急ぐんじゃなかったの? とは思ったが、マリカに何やら思案があると見て、アグレアは取り敢えず従う事にした。
再び蓋を脇に立てかける。するとマリカは一、二歩後ずさって、まじまじと棺を見つめた。
「やっぱり……」
「なに? なんなの?」
「手伝って下さい。遺体を動かします」
何を言い出すのかとアグレアは目を瞬いた。けれどマリカが遺体に手を掛けたので、仕方なく介添えに回る。すると、マリカは横臥させた遺体の下をまさぐって底板を晒した。
「見て下さい。位置がおかしいでしょう? 遺体は二つともここにあったんです。この棺は二重底なんですよ」
「まっ、マリカ! いや、まじか! ちょっ、早く早く! 火が消えちゃう」
揺らめいた火に焦りを感じて、アグレアは無造作に偽の遺体を引き摺り出した。
ドサッと鈍い音を立てて偽物が床に転がる。それを無視してアグレアは底板の縁に爪を掛け、乱暴に引っ張り上げた。
果たしてそこにサロモン帝はいた。
「やったぁ! 見つけた! マリカすごいっ、えらいっ」
「落ち着いて下さい。早く見分しないと」
窘められてもアグレアは嬉しさに舞い上がった。
遺体を見つけて嬉しがるのも変な話ではあったが、何にせよここへ来た目的は達せられたのだ。
見分はマリカに任せて、アグレアは今後の出方を考えた。
ここを出たら直ぐに離宮に早馬を立てよう。二つ揃った遺体を突き付ければ、侍従長にしろ侍医にしろ弁明の余地はない筈だ。その役回りは皇太子府にやって貰おう。
アグレア自身は宰相府にカルロ・トラバーチを訪ねるつもりでいた。
ラニエロに先んじて中央行政府を動かせば、多少はクマのぬいぐるみの意趣返しにもなる。そう思うとまたぞろ頬が緩くなるのだった。
地図等
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