006 皇太子と黒猫
コヴェリ侯爵家は帝都南方スポルタニアの名家。代々、中央に人材を輩出し、主に宰相府以下、中央行政府に於いて功績を重ねて来た。
ラニエロ・コヴェリもその例に漏れず、物価調整、国庫管理の長を歴任した。そのラニエロが官を辞する決意をしたのは、かの宰相マッシモ・カルダーノがプロスペロ帝によって捕らわれた時の事だ。カルダーノの後継と目されていたラニエロは、お鉢が回って来る前にと、病を理由に官を返上して国許へ戻った。好色帝の宰相として名を遺す気はなかったのだ。
いずれ代を譲り、朽ちて行くのだろうと思っていたラニエロを、中枢へ呼び戻したのは現宰相カルロ・トラバーチだ。
「君が汚名と考えた地位を私が引継いだのだ。貸しを返して貰えるな」
そう言って、カルロはラニエロに傅役兼ね皇太子府侍従長として出仕を命じた。
ラニエロは当時六十歳。幸い杖こそ頼らないが、腰の曲がった老人だ。今更と思ったが、皇太子の尊顔を拝して気が変わった。くっきりと意志の強い瞳の奥に、希望のようなものを見たのだ。最後のご奉公。そう考えて、孫より若い皇太子の為、ラニエロは老体に鞭打つ事を決意した。
その日、凶報が皇太子府に舞い込んだのは事が起こって間もない刻限であった。
有り得ぬ事態が起きた。
宮中の所々に配した己が耳目とも呼ぶへき手の者からの報せに、ラニエロは眩暈を感じた。窮境に違いない。嫌な汗が流れた。が、何とか踏ん張り、留まった。
現場に居合わせたという宰相のように寝込んでいられる状況ではない。
「殿下、此度の事、何やら只ならぬものを感じます。一度帝城を離れ、ウースラの離宮にお隠れになる事をお勧め致します」
一先ず物理的な距離を確保したい。ラニエロが第一に検討したのはその事だ。しかし、レオカディオは直ぐには応じなかった。
「爺、私には父上のお傍で祈る事も許されぬのか?」
「どうか陛下。皆、起こり得ぬ事が起きたと申しておりますが、この爺めに言わせれば起り得ぬ事など起きはせぬのです。誰かが起こさぬ限りは」
「ならば爺は、父上が自ら命を絶ったのではないと、そう申すのか?」
レオカディオは静かに詰め寄った。父の死に必死になって涙を堪えた目は赤く染まっている。
母は父が帝位に就く前に亡くなっていた。
父帝の御世に皇后府はなく、父は後添えを選ぶ素振りすら見せなかった。
一つには先帝である好色帝の存在が影響しただろう。また、政務に追われてその暇もなかったに違いない。
だがレオカディオには分かっていた。父は我が子がそれを望んでいないと察して、その意に副ってくれたのだ。只でさえ朧げな母の記憶を褪せさせたくない子の気持ちを、分かってくれたのだ。
余り言葉を交わさぬ親子であったが、それでもレオカディオは父を愛していた。
「真相は、分かりませぬ。手の者をやって秘かに調べさせてはおりますが、仮に陰謀めいたものがあったとして、相手もそれなりの用心はしておりましょう。時間は掛かるものと思われます」
「起り得ぬ事は起こらぬ、か。それは確かな事だ。だが何故ウースラへ行かねばならぬ? 今中央を離れては反って相手の思う壺ではないか?」
皇太子の言い分も分かる。だが、ラニエロの考えはまた違った。
これが謀略であれば長らくの空位を狙った謀略など有り得はすまい。敵は直ぐにもレオカディオを即位させようとするだろう。
そうなれば新帝即位の儀に向けて皇太子府は忙殺される。その最中で敵はいずれ邪魔になるラニエロの排除を図るに違いない。都合の良い傀儡帝を生み出す為に。
ラニエロ自身は老いた命に未練はなどない。が、皇太子の為には今少し生きていなくてはならなかった。
即位の儀は疎かに出来ず、水も洩らさぬ防御も敷かねばならぬとなれば、敵を焙り出す暇があるかどうか。
一方、父帝の崩御に気鬱を発せられたとして皇太子が離宮へ赴くのはそう不自然な事ではない。
皇后府がない以上、敵が警戒するのは皇太子府のみ。それが中央を離れれば、気を緩めてボロを出す事も考えられる。
敵味方が同量の時を稼ぐには違いないが、即位を急ぎたい敵にこそ痛手となるだろう。
浮いた時間に敵が謀略の証拠隠滅を図るとなれば、その尻尾を掴めるかが鍵となる。
遅かれ早かれレオカディオは第二十代皇帝として即位する。その時までに、君側の奸たり得る者たちを徹底して排除しておかねばならなかった。
元帥府の一室に黒い革鎧を着込んだ女騎士の姿があった。その家紋から黒猫卿と称される北の女侯爵アグレア・ドレイファスだ。肩口に切り揃えた黒髪はサラサラと流れ、丸みのある鼻梁を中心に整った顔立ちは、愛嬌たっぷりの太い眉が一際目を引いた。
今年、十八になるアグレアは顔つきも体つきもすっかり大人びてはいたが、その輝くカメリアの瞳には、猫眼を思わす少女らしい好奇の色を忍ばせていた。
「え? 皇帝陛下が亡くなったんですか?」
思いもよらぬ話にポカンとしたアグレアは、口を開けたまま、数度瞬いた。
「まだ公にはされておらぬが、どうやら事実ではあるようだ」
「そうなると私はどうすれば? 聞かなかった事にしてこのままセイバーウォールへ?」
アグレアはセイバーウォールへ向かう前の手続きで帝都に来ていた。ここ元帥府へは同じフリア人であるオットー・グリーデマン伯爵に挨拶をしておこうと立ち寄ったのだった。
「いや、その前に少し手を貸してはくれぬか」
「何でしょう?」
「皇太子殿下の警護に付いて――」
「お断りします」
アグレアはきっぱりすっぱり、聞き終えもせずに断った。
帝国の官職ではオットーが上だが、爵位はアグレアの方が高く、このような受け答えもある程度は許される。
大昔の話になるが、フリア人はかつて皆、ドレイファスの麾下に集ったという点も大きいだろう。
「……何故だ?」
「そう囁くんです。私の守護神様が」
「んん? 君の守護神というのは確か……」
「恋患宮のフェルベライ様です」
「待て。殿下は騎士宮でリュクセレイだ。フェルベライとは双子神の間柄ではないか。相性は抜群の筈だぞ。先年には何やら贈り物まで賜ったのだろう?」
守護宮に坐す神々同士の関係や、象徴とされるもの。それらが人と人の結びつきに表れるという事は広く信じられていた。そしてそういう事が実際であるかのように見られる出来事が、事実、世間には間々あるのだった。果たしてこの場合はどうだろうか。
「そんな、婦女子の星占いじゃあるまいし。何か貰ったのは確かですけど、それは今はどうでもいじゃないですか。そもそも殿下のお守なら近衛の出番なのでは?」
擦れっ枯らした言い草に、オットーは女の気難しさというものを痛感させられた。が、それをおくびにも出さず話を続ける。
「そこが問題だ。皇帝府は禁軍を動かす権限は皇帝にしかないと言って兵を出さん」
「なら大将軍の兵を動かせば良いのでは?」
「こちらの兵は帝都を外から守る為ものだ。宮門及びその内部については権限が及ばぬ」
「それなら私の兵だって動かせませんよね」
「であるから、一騎当千の黒猫卿個人に依頼している」
「……いやいやいや。それはおかしいでしょ。何で私が、あんな意地悪な皇太子を」
語尾をもごもごと口籠って、アグレアは眉根を寄せた。
サンドバッグとして重宝しているクマのぬいぐるみが脳裏を過る。
「とにかく、皇太子府から内々に依頼があったのだ。こちらとしても何もせぬという訳にはいかぬではないか。何、ニ、三日の事だ。殿下は間もなくウースラの離宮に移られるという話だからな」
「離宮へ? そこまで身の危険を感じてらっしゃるんですか?」
「少なくとも、皇太子府ではそのようだ。どうだ? 引き受けてくれぬか?」
さて困ったぞ、とアグレアは顎に拳を当てた。
熊殺しの武勇伝をぶら下げて、数日皇太子府で睨みを利かせろと言う。
あの嫌味な贈り物の一件は、宮中に於いては恋バナのように広まっているらしく、個人的な誼での出入りも不審がられはしないだろうという判断のようだった。
甚だ不本意だ。不条理とも言える。しかし皇太子は今年まだ十二歳。それが父帝を亡くした上に、身の危険を感じていると聞けば、知らぬ顔が出来るほどの薄情さは持ち合わせていなかった。
「二日で」
元帥府を出たその足でアグレアは皇太子府を訪れた。
侍従の案内でレオカディオの居室へと通され、早々に殿下とその傅役である老侯爵に迎え入れられた。
アグレアの目から見た皇太子は、将来のイケメン化を確約された美少年というものだ。
少し癖のある紅色の髪。
宝石のようなジョンブリアンの瞳。
僅かにバスキアの色合いを覗かせる浅い褐色の肌。
人柄は良さそうであった。しかし状況が状況だけに重苦しい影を纏ってもいる。
――若過ぎる。歴代の皇帝にも十四、五で即位した例はあったけど、殿下は更に若い。これは相当苦労するだろうな。
アグレアはクマのぬいぐるみの事は一先ず脇に置いて同情した。
この二日、宮闕の騎士としてしっかりお守りしよう、そう思いを新たにして、精一杯恭しく一礼をした。
「黒猫卿はウースラへは同道せぬのだったな?」
「はい。今日明日お側に控えさせて頂き、その後はセイバーウォールへ向かう予定です。ただ――」
「ただ?」
「いえ、今は元帥府にグリーデマン大将軍が入っておいでですが、枢密院はこの事態に際して前線のカヴァレラ元帥を呼び戻すかどうか検討中のようなのです。私は元帥の指揮下に入る予定でしたので、そうなるとセイバーウォール行きもどうなるのか、と」
「行かぬで済むなら行かぬがいい。前線で得る物など何もないであろ」
「? ですか殿下、中央軍は苦戦しているのでは?」
「かも知れぬ。が、其方が呼ばれたのは苦戦が理由ではないように思う」
皇太子府に在っては政情や軍の動きに通暁できる訳もなかったが、レオカディオはアグレアとの些細な会話だけで思い当たる事があった。
要は中央はセイバーウォールの城壁にドレイファスの旗を並べたいのだ。それによって造反したミストリカの総督に、中央とサイレンは一体であると知らしめたいのだろう。
ドレイファスは最後まで帝国という巨大な力に抗った、謂わば反帝国の象徴のような存在だ。それがこの情勢下でも中央とがっちりスクラムを組んでいるとなれば、造反者の士気に些かの影も差そうという、ケチな打算が見て取れた。
レオカディオが中央を、そしてそこを牛耳るイスカル人を厭うのはこうした点にもある。
いつまでたっても他の人種を臣民として受け入れず、利用する事しか考えていない。物心いずれからも搾取する事しか考えていないのだ。
扉が開き、宮女が老侯爵に何やら耳打ちをして下がって行った。
皇太子はアグレアとの会話を切り上げて、上着に手を掛けた。
アグレアは世話役の宮女が排されているのだと気付き、急いで着替えに手を貸した。
「ありがとう」
「どう致しまして、殿下」
僅かだか素直な笑みが覗かれて、アグレアは不思議と安堵した。父帝の事がなければもっと明るい笑顔に違いない。それを取り戻させてあげたい。そうも思った。互いを守護する双子の女神がそうさせるのかもしれなかった。
「それでは殿下、参りましょう」
ラニエロが先に立ち、護衛のアグレアも殿下の後に続いた。
どこへ行くかと問えば亡き父帝の下だという。
これは難しい場面かも知れない。
アグレアは気を落ち着けるように小剣の柄に手を触れた。
「そう言えば殿下」
「うん?」
「殿下は何故、私にクマのぬいぐるみを下さったのですか?」
移動の間の場繋ぎにと、何とはなしに尋ねてみた。
皇太子との対面を果たしたアグレアは、これまで贈り物に感じていた意図に疑念を持ち始めたのだ。
「気に入って貰えただろうか?」
「ん? ええ、まぁ、可愛らしいですね。それなりに重宝してます」
しどろもどろになる。
サンドバッグとして重宝し続けたクマは、今となっては見る影もなくボロボロであった。黙して墓場まで持って行く他はない。
「あれは女性に贈り物などした事がない私に、爺がアドバイスしてくれたものなのだ。謂わば私と爺からの贈り物だな」
「……ほう? では侯爵閣下にもお礼を述べねばなりませんねぇ」
前を歩くラニエロは首筋を焼き切られるような視線を感じた。
比喩でなしに物理的な痛みを錯覚する視線だ。老体にはきつい。
しかし今ここで変に言葉を連ねても火に油だろう。
老侯爵は聞こえなかった振りをして粛々と歩き続けた。
背後から圧し掛かる闇がひたすら重かった。
やがて三人は皇帝府へと至る。そのまま皇帝の居室へ通され、寝室のベッドに横たわる十九代皇帝サロモン・グラディーノの亡骸と対面した。
室内には皇帝府侍従長のフェデリコ・メロイ。そして侍医のラウロ・ファリーニの姿もある。
レオカディオはベッドの傍らへと進んだ。その後ろでラニエロが侍従長と侍医を相手に込み入った話を始めたようだ。
皇帝の顔には帝国旗を刺繍した布が乗せられていた。
両手で大剣を掲げた神イスカリオの姿は、イスカリア帝国から受け継いだ古い旗印だ。
グラデニア帝国となってからは地色が朱色から真紅へと変わった。
レオカディオはその布に手を伸ばし、ややあって触れずに引っ込めた。その様子に、アグレアは身を屈めて耳元に問う。
「宜しいのですか?」
葬儀は火葬だ。遺体の長期保存は出来ない為、後々の葬礼を前に荼毘に付される。姿を留めた父帝との対面はこれが唯一無二の機会と思われた。
「いや。だが、父は墜死したのだ。顔が崩れいるやも知れぬ。黒猫卿は少し離れておいた方が良い。厭なものを見ずに済むであろう」
アグレアはこの期に及んでの気遣いに舌を巻きながら、意を汲んで数歩後ずさった。
レオカディオの手が再び顔伏せの布へと伸びる。その時の三者の目の動きには目まぐるしいものがあった。
一斉に皇太子の手元に向かった視線は、次いで互いの表情を伺う様に三者間を飛び回り、侍従長や侍医のそれはアグレアにまで向けられた。
アグレアは咄嗟に強い視線をぶつけて返した。
侍医は慌てて目を泳がせ、侍従長は表情を硬くして、必死に迎え撃つかのように思われた。
きな臭い。端的な印象はそれだ。
陰謀めいたものを察するラニエロが二人の表情にそれを探るのは分かる。先程まで続いていた皇帝の死に関する質疑も、状況の把握よりは探りを入れる類のものだろう。
対して侍従長と侍医のそれはラニエロの“追う”視線とは真逆の“逃がれる”視線。悟られはすまいか、という焦慮を抱えた後ろめたさを思わせた。
レオカディオが僅かによろめく。
アグレアは直ぐさま屈むようにして身を添わせた。
視界に入った皇帝の顔には石膏の面相が施されていた。
仮面を被せるのとは異なり、損壊を補うように、代用の顔として貼り合わせてあるのだ。
考えるまでもなく異常だ。
墜死と言うからにはまともに顔面から落ちた事になる。しかし事実としては考え難かった。
背後ではラニエロが再び二人に詰め寄っていた。
アグレアもそこに加担したかったが、護衛が出しゃばる場面ではない。
侍従長と侍医は、損傷の激しさ故に手を尽くして修繕したと口を揃えて釈明していた。
「殿下、大丈夫ですか?」
「……うん」
支えた肩に震えを感じて、アグレアは摩るように手を動かした。
遺体は証拠の最たるものだ。今ここで何らかの確証を得なければならない。
アグレアは皇太子の耳元に唇を寄せた。
「殿下、お辛いでしょうが良くご覧になって下さい。髪色はどうですか? 顎の形、耳の形、確かにお父上のものですか?」
レオカディオは盗み見るような視線で父帝の異様な死に顔を覗いた。だが、正直に言えば判からなかった。
日々顔を合わせ言葉を交わす市井の親子とは違うのだ。共に過ごした時間を搔き集めても半年に及ぶかどうか。
今も記憶の中の父ばかりが浮かび上がって、見ているのに見ていないような、そんな状態なのだった。
「手を見たい……。掌に、触れてみたい」
ふとした思い出に触れてレオカディオは呟いた。
何時だったか、何処であったかも定かでない記憶。
ただ、父の両手が頬を挟むようにして、少し乱暴に撫でつけた。その感触が何故か楽しくて、繰り返しせがんだのではなかったか。
「殿下」
アグレアが胸の上に組まれた手を外していた。
レオカディオはそこへ身を乗り出して、そっと右の手に触れた。
冷たさを取り除くように掌と甲とを包み込む。
答えは確かにそこにあった。
「あれは父上ではない」
皇太子府に戻り、居室に入るなりレオカディオは言った。
手が違う。触れた感触に覚えがなかったと、そう言うのだ。
ならばあの遺体は誰だろうか。
アグレアが疑問に思うその隣で、ラニエロは得たりとばかりに手を打った。
「トラバーチ殿は利用されましたな。敵は宰相閣下の目の悪しきを用いて、罠に嵌めたに違いありませぬ。私もメロイらに色々と尋ねましたが、どれも用意された答といった印象でした。恐らくは何者かに自死を演じさせ、トラバーチ殿を目撃者に仕立てたのでしょう。あの遺体は始末された演者という線も考えられます。いや、先ず以ってその線でしょうな」
「だとしたら父上は?」
レオカディオの問いが、推察に踊るラニエロの舌を止めた。
あの遺体が偽りだとしても、サロモン帝の死は覆りはしない。
「それは、最早……」
「……そうか」
「ともかくも殿下。これで皇帝府に謀議が持たれたは明白。明日にもここを離れて離宮にお隠れになられませ。我が手の者に宮廷の隅々まで調べを致させます」
アグレアは黙っていた。
黙って考えていた。
偽の遺体を見せたという事は、本物を見せる訳にはいかなかったという事だ。その理由は?
恐らく一目で何らかの不審を抱かれるような遺体だからだろう。
墜死とは別の明確な死の痕跡。
それは――毒か。
「あの、本物の御遺体を見せなかったのは何故でしょう? 見せられなかった理由は?」
アグレアの問いにラニエロは皇太子の耳を憚って声を潜めた。
「黒猫卿は陛下のお顔を叩き潰せますかな? 好色帝ならばいざ知らず、サロモン帝は実のある皇帝であられた。故に敵もそこまでの仕打ちが出来なかった。甘さがあったのでは? それこそが我々にとっての幸運というもの」
侍従長と侍医の態度を見た後では、甘さ、という言葉にも頷けた。
この件に彼らが絡んでいるのは明らかだろう。しかし、どちらも堂に入った悪党には見えなかった。度胸の程など知れたものだ。侍医などは侍従長の操り人形の類ではなかろうかと思えたほどだった。
「フェデリコ・メロイも一人で立ち回るほどの胆はなき者。皇帝府に潜む彼の同調者を洗い出す事こそ肝要です」
「爺。裏で裁かず、表に引き出せるか?」
「出来得る限りそのように努めまする。アグレア殿」
「はい?」
「敵が気取られたと知れば万が一も有り得る事。小人ほど過激な手に走りやすいものです。今宵はご用心を」
「御心配には及びません。例え刺客が熊だろうと、軽ーくひと撫でです」
「……あ、そう」
他意満載の笑みを向けられてラニエロは思わず腰が引けた。
幸いと言うべきか、刺客の類が姿を見せる事はなかった。むしろ現れたくれた方が、それを捕えて真相を明かす一助にも出来たのだが……。
いずれにせよ皇太子一行は翌日、予定通りウースラの離宮へと発って行った。
アグレアの方は一旦セイバーウォール行きを白紙とされ、前線から呼び戻されるカヴァレラ元帥の到着を待つ事となった。
地図等
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