001 歴史のお勉強
ざっくりとした背景です。
神話の時代が終わり、神々は去った。
人は受け継いだ大地――人界で集団を作り、やがてはそれが国となって、国同士は間を置かずして争いを始めた。
帝歴以前。
大陸中西部に勃興したイスカル人の国家は海を目指し、東はバスキア人の国家ライデンと戦端を開いた。
長きに亘る一進一退の攻防が繰り返され、ついにはイスカル人がバスキア人を征す。
戦勝の英雄は王となり、これを以って誕生したのが旧帝国の前身、イスカリア王国だった。
イスカリアの動きに応じて一早く王政に移行した国があった。南方マリブ人により建国されたミストリカ王国だ。
彼の王国は更に南にあったヘムネス人の国家カンタゴナを攻め滅ぼし、一方の雄として威を振るった。
「カンタゴナを滅ぼしたミストリカの版図はイスカリアの倍にもなった。イスカリアは当時、北のノルドラントとも争っていたのに、良く凌いだものだ」
豪奢な居室の身の丈に合わぬ見台を前に、皇太子レオカディオ・グラディーノは嘆息した。その様子に傅役を務めるラニエロ・コヴェリ侯爵は白染めの老いたあご髭を撫でつける。
「左様。我らはご先祖の獅子奮迅の働きにこそ感謝せねばなりません。南に大国ミストリカ。北に勇猛なるノルドラントを牽制しつつ、イスカリア王国はいよいよ帝政へと移行。我がグラデニア帝国の前身、イスカリア帝国と相成りました」
「うんざりする。この歴史書を端から端まで読んではみたが、戦ばかりでよくもまぁ飽きないものだ」
見台に置かれた豪華な装丁の史書を閉じて、近く十歳の誕生日を迎える皇太子は、如何にもイスカル人らしい紅々とした癖毛に指を通した。
意志の強そうなジョンブリアンの瞳が老侯爵に向けられる。
これ見よがしに史書を閉じて見せるのは、しばしの雑談をという言下の要求だ。
「確かに――。それはまぁ、我らイスカル人の神であるイスカリオの気性によるものでしょうかな」
乾いた笑いを交えて老侯爵が答える。
神代からイスカル人の版図にある火焔神殿には五柱の神々があった。その内の一柱が獅子宮のイスカリオだ。
戦いとイスカル人の神。何者に対しても挑戦的で、雷神ヘクトンの双子の娘を力で奪った逸話などは特に知られていた。
皮肉にも皇太子の守護宮は双子神の一方、雷霆神殿に祀られる女神リュクセレイの騎士宮だ。
その事もあって、レオカディオはどうにもイスカリオという神が好きではなかった。
更に言えば、レオカディオは自身イスカル人でありながら、イスカル人を好んではいなかったのだ。
皇太子レオカディオは帝歴六〇一年六月の生まれ。
父帝は十九代皇帝サロモン・グラディーノ。
祖父は二年前に没した悪名高き好色帝プロスペロ。
この祖父の存在が、レオカディオに同族であるイスカル人への嫌悪を植え付けていた。そしてそれが後に大乱を招く一因ともなって行くのである。
帝歴五九七年。
時の皇帝プロスペロ・グラディーノは政務を皇帝府に任せきり、自身は後宮に入り浸りという日々を送っていた。
枢密院は皇帝府という衝立によって、皇帝と直々に国政を図らう機会を得ず、その時期が長引く事でしばしば官府の暴走を招いた。
一方、プロスペロ帝はこの年、後宮勤めに就いたばかりの年若い宮女に手を着けている。室でもない成人したばかりの少女が齢四十の皇帝のお手付きとなったのだ。
無論、後宮に上がるからにはお手付きを狙う娘らもいよう。しかし、それは大体が下級貴族の話であって、上級ともなれば箔付けに一年かそこらを務めるというのが常。皇帝もそれには手を着けないという暗黙の了解があった。
身籠った宮女は日々、泣きながら帰郷をせがみ、これを面倒に思ったプロスペロ帝は、あろう事か帝の種を宿した宮女を秘かに帰郷させてしまう。
この事態を察知した時の宰相マッシモ・カルダーノは速やかに私兵を動員。宮女の帰郷途上を狙って、腹の子共々これを密殺し、事故として処してしまった。
内々に奏上したところ、プロスペロ帝の言葉は「そうか。お前も大変だな」の一言だったと言う。
事故の調査と始末を委ねられた中央軍は、入念かつ執拗にこれに取り組んだ。
何故ならば、死亡した宮女は中央軍を率いる元帥キアフレード・カメルレンゴ大公の末娘だったからだ。
カメルレンゴ大公家は代々、皇族の降嫁によって帝国の中枢に深く食い込む家柄であり、イスカリア帝国時代からの大功臣の系譜でもあった。
元帥府による綿密な調査の結果、事故は偽装されたものと判明する。
事故後、宮女の息があったかは不明だが、腹部に小さな孔が見られ、取り出された胎児の頭部にも同じ孔が発見されたのだ。
元帥府はこれを針状の凶器を用いた確殺行為と見て、更なる調査に取りかかった。
しかし、調査をするまでもなく、カメルレンゴ大公には分かっていた事があった。
それは、後宮勤めに就いた娘を孕ませる者が、プロスペロ帝の他にはいないという事実だ。
「泣いてせがむのでな。それならばと帰してやった。うん」
後宮に踏み込んできた元帥を前に、幾人もの裸婦を侍らせた皇帝は、目も合わせず、なおざりに答えたと言う。
「腹に子があると知って尚、帰したのですか?」
「あれほど泣き続けられては気も腐ろう。邪魔になったので帰した」
「邪魔に、と仰せで。それ故、始末をさせたと?」
怒りの余り懐剣に手が伸びそうになる。
激情を堪える元帥を前に、皇帝はしかし、眉一つ動かしはしなかった。
「いやいや、始末をつけたのは宰相だぞ。あ奴が勝手にやって、わざわざやったと報告しに来よった。余は女は殺さぬ。いたぶる趣味もない。其方の娘もここで大人しくしておりさえすれば、斯様な始末とはならなんだろうに」
「左様で……。宰相に話を伺わねばなりませぬ故、これにて御前、失礼致します。後宮を騒がせましたる段、平にご容赦下さい」
踵を返せば途端に上がる背後の嬌声。元帥の瞋怒、如何ばかりのものであったろうか。
一方、元帥が後宮に乗り込んだと知った宰相カルダーノは、立ち入りの禁を犯した元帥を指弾。強引に枢密院を動かして、中央軍の統帥権を凍結させた。
これが引き金となって中央軍は分裂。
帝国の中心であるセンチュリオ四州は、瞬く間に混乱の淵へと突き落とされて行ったのだった。
「さぁ大変だぞ。怒れるカメルレンゴ大公は子飼いの将帥を率いて中央軍を割ってしまった。爺はこれをどう思う? 全てイスカル人の愚かさが招いた事とは思わぬか?」
「お言葉を返すようですが殿下。それはイスカル人であるから、という事にはならぬように思われます」
「しかし現実に皇帝も、宰相も、元帥も、全員がイスカル人ではないか。人界を統一しておきながら、一つの人種で中枢権力を独占し続けた結果なのでは?」
「いえいえ。皇帝の血筋には十五代の折にミラグロス様によってバスキア人の血が入りました。お忘れではありますまい。御身の内にも流れたるその血を」
「無論だ。あの方こそ真に偉大な国母とも言えるお方だ。あの方の血を引く事こそ我が誇りだ」
レオカディオは熱心に思いを語ってみせた。
聞き手となった老侯爵は、宮廷では擦り切れて久しい話題を、新しい教本を開いたかのように語らう皇太子に目を細めた。
帝歴三五一年。
最後まで帝国に抗した北のウィンターランドが降伏した。
ここに神話の時代以降、人の世は初めて一つの国家に収まった。
先んじて二九九年に起きたクーデターを経て、イスカリア帝国からグラデニア帝国へと変遷していた帝国は、二代グラデニア皇帝トランクウィッロの御代にその快挙を成し遂げた。
当時は統一帝国グラデニアと号し、帝都中が余さず喝采に包まれたと言う。
統一から百五十年余を経た帝歴五一九年。
バスキアの侯爵令嬢であるミラグロス・グアルディオラが舞台に上がる。
長らく子に恵まれなかった十三代フェルディナンド帝の子を身籠ったのだ。
当時、後宮に室として上がれるのはイスカル人だけであり、宮女に過ぎないミラグロスが皇后となる事には反対の声が相次いだ。
ミラグロスは夫帝がイスカル人の室との間に男子をもうけるまで、という条件付で仮の座に就いたに過ぎなかった。
しかし、バスキア人の陽気で社交的な性質からか、彼女は常に華やかに振舞い、宮廷のイスカル人男性を魅了して、徐々にではあるが受け入れられて行った。
そして幸か不幸か、フェルディナンド帝はミラグロス皇后との間にもうけた二人の男子を除いては、ついに一人の子も成さぬまま、病に伏して世を去った。
幼い子らの代理として初の女帝位に就いた一四代ミラグロス帝。彼女は在位中には取り立てて成す事もなく、成人した息子へ速やかに玉座を譲った。
長子のフィデンツィオ帝が在位二年で流行り病に罹り崩御。その後を次男バルタサールが継ぐ事となる。
この時、次男だからと、亡き夫帝の許しを得てバスキア人由来の名を付けていた事が宮中で取沙汰された。
改名問題にまで発展した騒ぎは、皇太后となったミラグロスの言葉によって一旦の沈静化を見る。
「我々は何処へ行くのでしょう。数知れぬ戦を経て、幾たりかの勲の上に立ち、トランクウィッロ帝によって一つとなった我々が、今もこうして道に迷っています。――グラデニア帝国は人界全てを一つのものとしたのではなかったのですか。揺るぎなき力を示し、我が旗の下に集えかし、と、そう四海に呼びかけたのでは。――人集いて、戦禍に破れたる各地を築き直そうというこの時に、例え皇帝の名であれ、人の名一つでいがみ合うなど、余りにおぞましき様と申せましょう。国策を後に回して、国を乱すその行いこそ恥ずべきもの――。就中、一つの国には一つの民。イスカル人であろうと、バスキア人であろうと、等しく帝国の臣民なのです。マリブ人然り、フリア人然り、ベクタン人、ヘムネス人。亜人もその輪に加わりましょう。これを良しとせぬ者はいずれ国を割るに相違ありません。流血多くして一つと成したこの国を、何故宝と思えぬのですか。二度とは与えられぬものだと言うのに」
「我が血の血、我が肉の肉、それらはグラデニア人のものです。皆のそれもまた、等しく同じであると知りなさい」
レオカディオは役者になったかのように身振りを付けて諳んじた。
「よくもまぁつかえずに言えたものですな。お見事です。が、そのミラグロス様もバルタサール帝と共に後宮改革に乗り出され、結果的には宮中を混乱に陥れましたなぁ」
老侯爵は髭を摘まみながら、話を逆立ちさせるようにやり返した。
聡明とは言え、十にも満たないレオカディオは途端に口先を尖らせ、ヘソを曲げたような顔になった。
「それでも為すべき事を成された。皇族が率先して他の血を取り入れればこそ、幻の如きグラデニア人も確たる存在と成り得るのではないか」
「左様。公平という難事こそが、いずれ帝位に就かれる御身の大事と思し召されるのならば、尚の事イスカル人にも目を向けて頂きたいと。爺はそう思うのです」
「それは分かっておる。私がイスカル人に求めるのは神イスカリオの象徴にある寛大さだ」
「ふむ。力、勇気、寛大、名誉。確かにございますな」
「ミラグロス様がグラデニア人を語られた時、イスカル人の中にも幾らかは新しい帝国の未来を望む者たちがいた。しかし十分ではなかった。少数派である彼らを頼みにグラデニア人を語られたミラグロス様は、確かに早まったのかも知れぬ」
「まだ続くのですか?」
「続く! 黙っておれ」
「はは」
傅役の横槍をはねつける皇太子。二人の間では常、繰り返されて来た遣り取りだ。
「あの時イスカル人が寛大と寛容を示していれば帝国は変われた。しかしそうはならなかった。反ってミラグロス様を、そして少数派を封じ込めにかかった。どうだ爺。何処を探しても寛大さの欠片もない。――確かにイスカリオは己の敵にはそれを示さぬ。しかし、国は一つとなったのだ。同じ旗の下に集う者らにはそれが示されて然るべきではないか」
「なるほど」
「ところがイスカル人は未だに他の者を下に置いて見下す。さて爺、寛大さは一体何処へ行った?」
「はて、どちらかへお出かけのようですな」
「連れ戻して参れ。今すぐに!」
老侯爵のおとぼけに、皇太子は笑みを隠しながら言い放った。
事実、この二人はすこぶる仲が良かった。変装して城下を歩けば祖父と孫を地で行けるだろう。それだけに老侯爵は皇太子が心配でならないのだ。
レオカディオの聡明さは公平さによって軸を保とうとする所がある。危うい事だ。自らの言葉の中に紛れた真実、そこに足を取られかねない。
――殿下の仰る通り。神イスカリオは己の敵にはそれを示さぬのです。グラデニア人と成り得る彼らではありますが、未だ敵でもあるのですぞ。
昨今の情勢下に於いては、イスカル人による中央独占体制を緩和させようと策する地方の動きは活発だ。
レオカディオの思想は、そこに取り入らんとする地方の増長を誘発し兼ねないものだった。
そして昨今の情勢とは、プロスペロ帝、宰相カルダーノ、元帥カメルレンゴ、三者が錯綜した結果、中央軍が分裂したという事実に端を発していた。
帝歴五九七年六月。
宰相カルダーノは、帝室の種を外部に出さぬ為の謀略を、好色帝によってあっさり暴露された。
彼は元帥の暴発を抑えようと統帥権を凍結したが、元帥は自らも枢密院メンバーである事を盾に、これを無効と取り合わなかった。
元帥は腹心の将帥たちと共に中央軍のおよそ半数を率い、カメルレンゴ大公家の根拠地であるイスカリア州アーカンに布陣。世に言うアーカンの乱を引き起こした。
宰相は再び枢密院を御してカメルレンゴを罷免。新たに元帥を立て、両軍は帝州グラデニーとイスカリア州の州境に対峙した。
カメルレンゴ大公側には旧イスカリア帝国の恩禄を食んだ大功臣諸家が続々と集結。
センチュリオ四州は如何ともし難い緊迫の情勢下に置かれた。
五九九年。
翌年に人界千年紀の祝祭を控える中、二つに割れた中央軍は慢性的な小競り合いのもつれから、イスカリア州の州都クリザベル近郊で大規模な衝突へと至った。
戦火は一夜にしてセンチュリオ全域に飛び火した。
アーカンの乱は、ついに中央戦争へと、その段階を移したのだった。
カメルレンゴ大公は宰相以下、枢密院や皇帝府の腐敗を強く非難した。また、帝室に対しても「バスキアの血、淫蕩の血、無能の血を断つ」と公言して憚らず、明確な逆意を隠そうともしなかった。
大公の言にミラグロス帝を侮辱されたバスキア人は大いに激怒し、中央の支持に回った。
大公に投げ返された言葉は「ミラグロス帝に手を着けた淫蕩の血こそイスカル人の本性」というもので、後宮改革の功労者が、元々はフェルディナンド帝のお手付きとされた事実を揶揄した内容であった。
六〇三年。
戦乱を煩わしく思ったプロスペロ帝によって宰相カルダーノが捕縛される。
カメルレンゴ大公を逆臣と罵り追及を逃れていた宰相だが、皇帝に見捨てられ、身柄はカメルレンゴ大公に引き渡された。
プロスペロ帝によれば「密殺に関して、余は事前も事後も承諾はしていない。殺人は罪なのだから、これを引き渡す」という事だった。無論、司法を無視した独断だ。
この時期、プロスペロ帝は後宮を潤す為に中央官職を切り売りしており、帝国中枢には無能の官が蔓延っていた。
彼らは問題のある好色帝を後宮に押し込めておく事すら出来ない浅才鈍才の集まりだったのだ。
こうして宰相が代わり、新体制となった帝国中枢部は、カメルレンゴ大公による前宰相の処刑を承認。同時に和解を持ちかけた。
大公側も端緒から六年を経て収め時と考えたのだろう、帝都に赴く事に応じている。
中央戦争終結に向けた両陣営対面の座は翌六〇四年初頭に設けられた。
そこでまたもやプロスペロ帝が事をややこしくしてしまう。
「如何なる理由であれ、公が帝室を侮辱し、弓引いたは事実。であれば事を収めるにしても条件の一つ二つは呑むのであろう?」
「……。如何なる条件でしょうか」
「公の三番目の娘は月女神プレヴィナも恥じらう美女と言うではないか。その者を後宮に上げよ」
この発言により、大公は席を蹴って国許へ立ち返ってしまった。
この時ばかりは陣営の別を問わず、誰もがプロスペロ帝の急逝を願ったに違いない。
しかし願う好転を得られぬばかりか、プロスペロ帝が没するまの数年間に、実に三度も冷夏が訪れ、国土の疲弊に拍車をかける事態となって行くのだった。
六〇六年、秋。
冷夏に見舞われた農村の窮状は筆舌に尽くし難く、見かねたミストリカ州総督クリフトン・ギルマーティンが中央に税の軽減を願い出た。
これに対し、プロスペロ帝は新しい後宮の建設には増税こそが必要だと突っ撥ねている。
翌年、ミストリカ州は造反。国土の荒廃を顧みぬ皇帝に昂然と義憤をぶつけた。
このギルマーティン総督の義挙に、次々と同調する者が現れ、追随する動きが各地で相次いで行った。
六〇九年。
ついにプロスペロ帝没する。
長年の淫蕩の報いであろう、死因は公には伏されたが、性病によるものであった。
好色帝の後には継嗣のサロモンが齢三十五にして一九代皇帝の座に就いた。
しかし、新帝の御世だからと事態が好転する訳もなく、後世の学者が小氷期と称する所の天候不順に悩まされ、各地に於ける農民蜂起はいよいよ収拾のつかないものになりつつあった。
そこで、サロモン帝は第一に中央の結束を高めようと、カメルレンゴ大公との和解を急いだ。
皇帝は譲歩に譲歩を重ね、その甲斐あって中央戦争はこの年、どうにか十年越しの終結に漕ぎ着けている。
直ちに再編された中央軍はその後、間断なく反乱、暴動の鎮圧へと駆り出された。
各地へ赴いた兵らは、そこで中央戦争がもたらした惨状を目の当たりにするのだった。
昼餐を迎えた皇太子と老侯爵は、テーブルの両端に座して優雅に宮女たちの給仕を受けていた。
宮中にあっては世の荒廃を知らず、並ぶ品々はどれも贅を尽くしたものばかりだ。
「それにしてもグリーデマン大将軍は立派な人だな」
帝歴六一一年となる今年、サロモン帝は枢密院と図ってサイレン地方直轄軍を中央に迎えた。
中央軍は疲弊した上にセンチュリオ各地の火消しに忙しく、帝都の治安が疎かになっていた為である。
サイレン地方は生来辛抱強いフリア人の土地故か、農民の蜂起も少なく、大将軍府を預かるオットー・グリーデマン伯爵の下、軍は至って頑強。
生粋のフリア人である伯の入城には反対の声も多かったが、背に腹は代えられぬ事態として、先月帝都に迎えらた。
グリーデマン伯は齢五十七にして筋骨逞しく、大柄な北部人は皇太子からすれば壁のようにすら見えただろう。
フリア人の常でその性分は質実剛健。しかして情は穏やかであり、幼い皇太子とも隔てなく接する人柄だ。
イスカル人である事をどこか恥じているレオカディオにとっては、それが嬉しくてならなかった。
「人物は確かに。しかしながら、これまでイスカル人で固めていた中央の顕職にフリア人が就くとなりますと、色々と問題も起きますでしょうな」
千切ったパンをスープに浸しながら、老侯爵がしわい声を鳴らした。
「問題とは、例えば?」
「既にして殿下が懐いておいでです」
「懐いてなどおらぬ。立派だなと感銘を受けただけだ。それの何が悪い?」
「悪くはございません。しかしながら、お立場上、周りの目というものも考えて頂かなくては」
「周りの目がなんだ。中央にはもっとイスカル人以外の人材を集めるべきなんだ。それをしなくてはグラデニア人の国家など遠い夢ではないか」
「さりとてここは急がば回れの心です」
「回ってる間に天に召されてしまったら元も子もない」
「殿下はまだ九歳ではありませぬか」
「じきに十になる。二桁だ。人間は皆、二桁で死ぬのだぞ」
「げにもげにも。仰る通りですなぁ」
老侯爵は空返事で昼餐を進めた。真面目に付き合っていては半分も食べぬ内に、端から宮女に片付けられてしまう。
その様子を見て、すっかり食事を忘れていた皇太子もカトラリーを持ち直した。
「しかひ、しょの」
「お口の中の物を飲み込まれてからお話し下さい」
「うむ。その、グリーデマン伯爵が伴っていた女騎士は伯の娘だろうか?」
「お尋ねにならなかったのですかな」
「聞きそびれたのだ」
「あの女性はまた別口です。ああ見えてもそのお立場は州総督ですぞ」
「州総督!? 若過ぎはしないか? 十五かそこらに見えたのだが……」
六地方三十七州から成る帝国の組織は、その頂点に皇帝を頂き、直下に皇帝府を置く。
皇后を迎えれば皇后府が開設され、嫡出子誕生となれば皇太子府が組織される。
皇帝の下には、現状イスカル人のみによる枢密院が設置され、メンバーは中央の各組織から選抜。皇帝に次ぐ権能を与えられていた。
枢密院の下は行政を司る宰相府。
法務典礼を司る大法典府。
中央軍を率いる元帥府。
そして地方軍を率いる大将軍府。
センチュリオ四州を管轄する中央軍に対し、大将軍府はサイレン、スピナス、ミストラ、バルタン、ゾアフティの五地方に別個に置かれている。
軍部の構成は中央も地方も同じだ。
元帥府、あるいは大将軍府の下には各州軍を率いる総督府が置かれる。
今二人の話題に上る女騎士も、総督府にあって州軍を率いる総督、かつ州軍司令という立場にあった。
総督府の下は都督府。
各州の主要な都市といった要衝に開設され、都市軍を率いる。
更に下にはより実戦的な軍営府があるが、こちらは常設のものと臨時開設のものとに分かたれる。
また、海に面する地方に限っては大将軍府の下に提督府が設置され、これは海軍を統轄した。
「何と申しますか、血筋でしょうなぁ。あの者の旗印は赤地に黒猫でございますから」
「赤地に黒猫? ……あ、ドレイファスか!」
カランと音を立ててレオカディオの手からナイフが滑り落ちた。
宮女は慌てずそれを拾い上げ、トレーのバスケットから新しく替えのナイフを取り出す。
「左様。アグレア・ドレイファス女侯爵。先年父君が亡くなられ、後を継がれました。今回はその報告兼ね、帝都見物に参られたようですな」
「あの年で侯爵、総督か。フリア人が男女の別なく長子に後を取らせるとは聞いていたが、ああも若くては大変なのではないだろうか」
「殿下の伴侶にお迎えになれば、楽にして差し上げる事も出来ますが?」
「爺、その言葉は私ではなく彼女を侮辱するものだぞ」
ムスッとした叱責の言葉に、老侯爵は亀首を竦めた。
ドレイファス家は帝国中に知れ渡るフリア人の家系だ。
名将シグムント・ドレイファスはグラデニア帝国が統一を果たすその直前まで、ウィンターランド軍を率いて力戦した名将、英雄として周知されている。
子孫であるアグレアも既にして幾つかの武勇伝を持っていたが、皇太子の耳には未だ入っていない様子だった。
「それにしても帝都見物か。体裁ばかりを整えた張りぼての都を見て、さぞがっかりするのだろうな」
「お慰めになられたいのであれば贈り物でもされては如何ですかな?」
「帝都土産にか? ふむ、女性に贈り物などした事はないが……」
「さすれば昨今流行のクマのぬいぐるみなど喜ばれるかと思われます」
「武門の女性に? そんなものかな? ふむ、考えておこう。フリア人の友人が出来るのなら私も嬉しい」
レオカディオは素直に受け取って昼餐を進めた。
果たして皇太子の贈り物は気に入って貰えるだろうか。
老侯爵の眼にはどこか悪戯な光が宿っていた。
地図等
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