010 バルタンの貴公子
ウーナの騎馬隊がノルデンフリアの山間部をえっちらおっちらと進んでいた頃。帝国の中枢は上を下への大騒ぎに見舞われていた。
歴代皇帝の寝所に二つの遺体を発見したアグレア・ドレイファス女侯爵は、即座にその事実を宰相府、並びにウースラの離宮に移った皇太子府に報せた。
体調不全を訴えて出仕を控えていた宰相カルロ・トラバーチは、報せを聞くと腰を痛めそうな勢いで跳ね起きて、直ぐさま中央行政府に号令をかけたという。
中央行政府が動けば、帝都内は巡察官や内調官が走り回り、あらゆる角度からの捜査が始まった。
遺体の見分。現場の再検証。この大それた弑逆に関わったとされる者たちは、数日の間に次々と検挙されて行った。
離宮にあった皇太子レオカディオも、さながらとんぼ返りのように帝城へ帰還した。
皇太子府と中央行政府は密に連動して事に当たった。
やがて、連日連夜の尋問に耐えかねたのだろう、一番に身柄を拘束されていた侍医ラウロ・ファリーニが自殺を遂げる。
同じ頃、ファリーニの私邸を捜索に向かった捜査官が、現場で不審者を拘束した。
身元を調べた所、皇帝府の侍従の家人である事が判明。
不審者は黙秘を続けたが、皇帝の施療、投薬、看護に関する一連の記録を持ち出そうとした現場を抑えられており、それだけでも重罪に処された。
その後、捜査の手は本格的に皇帝府へと伸びて行った。
不審者の主であった皇帝府の侍従を拘束したところ、大法典府より雇人の犯罪を以って雇用者を拘束するのは不当との指摘があり、即日放免。この件で中央行政府と大法典府は険悪となった。
宰相カルロ・トラバーチは拘束を逃れた侍従が前皇帝府からの留任者である事を踏まえ、侍従長フェデリコ・メロイを含む、全留任者の徹底した身辺調査を開始した。
一方、典礼府に於いて、二重底の棺を用意した咎で典礼官が二名拘束された。
下部組織である典礼府から検挙者を出した大法典府は大いに面目を潰し、以降、捜査への横槍を控えるようになった。
そして昨夜。調査対象であった侍従の一人が夜半の帝都脱出を見咎められ、拘留された。
侍従は拘留中に自殺を図った為、監視下に置いての治療と尋問が行われた。
半ば朦朧とした侍従を相手に繰り返し誘導尋問が為され、これによって弑逆の謀議に加わった者の名が続々と浮かび上がってきた。
以降、名の上がった者たちの逮捕拘束と家宅捜索とが順次行われている。
「それで爺、結局のところ何名なのだ?」
ここ十数日、目まぐるしさの余り眠りの浅くなったレオカディオは、重い瞼を押して老侯爵に目を向けた。
「各人の証言を重ね合わせますれば、二十三名になりますな。血判状でも出てくればすっきりするのですが、さすがにそこまでは」
「全員が皇帝府の者か? 留任した者以外にもいるのか?」
「自殺した侍医を除けば主体は全て皇帝府の者です。留任者全員の他に二名の名が挙がっております。他は棺の件で典礼府から二名。職工と徒弟合わせて三名」
「二重底の棺か……」
帝城を出た皇太子レオカディオがウースラの離宮に到着するのとほぼ同時に、アグレア・ドレイファス女侯爵からの早馬が到着した。その事にも驚いたが、報せの内容にレオカディオは転げそうになるほど驚かされた。
自身が離宮に向かったその日の晩に、父帝と偽物、二つの遺体を発見したというのだから、どんな魔法を使ったのかと真剣に考えてしまうほどだった。
「爺、彼女はすごい女性だな」
「お后候補になされまするか?」
「そういう事を言っているのではない! 奇跡を運ぶ女神のような女性だと讃えているのだ」
しかしてその奇跡を運ぶ女神こそが、熊を殺戮する悪魔の如き女性な訳ですが、との言葉を呑んで老侯爵は苦笑いを浮かべた。
ラニエロにしてもアグレアが成した事の重大さは衝撃と共に受け止めていた。こうして冗談交じりの考えに興じる余裕すら、アグレアが与えてくれたものに違いないのだから。
「しかし、皇帝府には父上を殺したがる者がそんなにもいたか」
「情けない限りですな。何ともお労しい」
「だが、これで終わった。そうだな?」
「捜査を打ち切りはしませんが、大きな区切りが付いたと申せましょう」
「うむ、そうなると爺。即位はいつになる? あまり長く玉座を空けてはおけぬだろう」
「それに付きましては既に下準備を進めております。大まかな段取りとしまして、先ず余り間を開けずにお父君を荼毘に付します。次いで即位の儀は来月早々。その際、大逆犯への刑を宣告し、廉正なる治世の始まりを民に示します。大逆犯は大葬礼の直前に刑に処し、お父君の霊の慰めと致します」
「そうか……。爺、派手な戴冠などいらぬぞ。父上の葬儀にしてもそうだ。粛々と、つましやかにせねば」
大逆は一族郎党にまで及ぶ罪。
レオカディオは己の治世が贖いの血によって開かれる事に諧謔を感じていた。
祖父プロスペロ帝が乱した世を、何とか立て直そうとした父サロモン帝。それが僅か四年の在位に終わった。その死は今の世の乱れを象徴するものだ。そして成人にも満たぬ新帝が即位する。
――我が守護たる騎士宮の象徴は統治、堅固、防御、同盟。民衆の生活を固く守り抜くには味方の力を束ねねばならない。だが、そもそも誰を味方とするのか。そこが大いに問題だ。
夏に蒼く映える山塊は、緑生い茂る北の原野を遥か高みから見下ろす、巨人の一団を思わせた。高い峯々から吹き下ろす風が、盆地に滞留した温かい空気を掻き混ぜて行く。
北と言ってもそこは帝都の北西。海から遠く離れた内陸に位置するバルタン地方。その中核州サントナの州都に近かった。
バルタン地方は精強なバルタン馬と、巨大な金鉱床で知られる他は、余り人の口に上る土地ではい。北の異域へ通じる門は開かれた例がなく、山中深くに聳える七神殿の一つ、山皇神殿は信仰に身を捧げた者たちの修行地としての側面が強い事から、大した人足を招くものでもなかった。
帝都の騒ぎが一段落を迎えた頃、エドムント・バリーシュは北の原野に軍勢を並べて、陣形の演習を行っていた。
エドは州都ギャベルホルンに根を張るベクタン人貴族で、バリーシュ男爵家の次男に生まれた。
茶色味の強いブロンドに涼やかな青い瞳を備えた美男子。自信家であり、プライドが高く、若さに見合った野心もある。
一方では情誼に厚く、昔から大勢の仲間が彼を取り巻いた。
エドの兄は成人を目前に亡くなった。
五つ年上だった兄は少年グループのリーダーだった。
ある日、また別のグループと縄張り争いが起こり、リーダー同士で訓練用の木の棒を槍に見立てた槍試合を行う事になった。
結果、兄は相手を突き落としたが、偶然にも折れた相手の棒が兄の胸に突き刺さった。それで死んだ。
縄張りと引き換えに、エドは兄を失ったのだ。
それまで兄という庇に収まっていたエドは、ギラついた太陽の下に押し出された。
兄のグループをそのまま引き継く事になったからだ。
ベクタン人はとかく親兄弟、親類縁者を大事にする。グループのメンバーは皆、どこかで血の繋がった身内だった。
彼らにとって本家のエドは、年若くとも立派な旗印に違いなかったのだ。
やがて成人したエドは州軍に入隊した。
そこで何処まで上に行けるかと張り切った。
だが、現地徴用兵は賄賂の一つも包まないと中々取り立てては貰えない。それを知ってあっさり辞めてしまった。得るべきものは才覚で得る。そうした想いが強かった。
そんな中、中央戦争以来、年々傾く情勢を眺めては、面白い時代になったとほくそ笑んでいたのだった。
角笛が鳴った。
次いで太鼓が打ち鳴らされ、各騎兵のブロックが流れながら形を変えていく。
随分動きが良くなった。
二ヵ月前は押し合いへし合いで目も当てられぬ有様だった。というのも、エドは新しい陣形に取り組んでいたからだ。
エドは近くこの軍を率いて行くつもりでいた。
何処へかはまだ確とは分からない。
何より、今はまだ自分の軍ですらなかった。
三千は祖父の兵で、己の手勢は百ばかり。僅かに一角を埋めているに過ぎない。この三千をそっくり頂く上手い手はないか。このところエドはそればかりを考えていた。
「おおーい、エド! エドよー!」
後ろから坂を駆け上がって来る騎馬がいた。
従弟のパベル・ウルバンチクだ。
パベルは突き上げた拳に書状らしきものを握り込み、それをはためかせながら横に付けた。
「今度は何だ。毎度毎度騒がしい奴だな」
「まぁ聞けって。帝都でとんでもない騒ぎがあった。新帝が即位するんだとよ」
「何? お前またそうやって俺を担ごうってんじゃないだろうな?」
「安心しろ。今度に限っては本当の話だ」
何故今度に限る。そう思いつつ、エドは毟るようにして書状を奪った。そして目を見張る。そこには確かに皇帝サロモンの死と、新帝即位に関する情報が書き連ねてあった。
エドの野心はまだはっきりとした形を成してはいなかったが、その視線はバルタンを離れて中央へと向けられていた。在りし日の兄に、よく中央の話を聞かされた事も影響しているだろう。
鍛え上げた軍勢を率いて、中央に出る。その機会が訪れたのかもしれない。俄かにそう感ぜられた。
「信じ難い事だが、どうやら事実のようだな」
「面白くなってきやがった!」
「俄然な。よし、演習は切り上げだ。館に戻るぞ」
「おうっ」
エドは陣形の指揮を執る仲間に駆け寄り、解散の指示を出すと、直ぐさま切り替えして、パベルのやって来た坂を共に駆け下って行った。
「パベル!」
「なんだ!?」
「俺は新帝に会いに行くぞっ」
「よし来たっ」
鞍上で交わされる短い言葉の中に、はち切れんばかりの感情が籠っていた。
目指す館は両親が暮らす城館とは別の場所にあった。州軍を抜けたエドが祖父にせがんで手に入れたものだ。
エドと祖父とは格別の仲だった。
かつて、中央で皇帝の傍らに侍していたという祖父は、非常に気難しく、一族からも煙たがられていた。
その祖父が、赤子のエドの何を気に入ったのか、膝に乗せてあやすという事を良くやった。他の孫はおろか、己の子をすら抱いた事のない祖父がである。
二人の結びつきは今日に於いても変わらず、エドは必要な物を何でも祖父から手に入れた。
祖父はエドがいつか大事を成すと信じているようで、それに応えようという気持ちがエドを動かしている事もまた確かだった。
州軍を抜けたエドは再びグループのリーダーに収まり、仲間は館に入り浸った。
祖父から得た資金で装備を整え、仲間を増やして騎兵隊の真似事をしたりもした。
不良集団のレッテルを張られていた時期もある。いや、今も大して変わらない。
そんな連中の根城と化した館は、小さくともエドと仲間にとっては夢の城だった。
「待ちくたびれぞ! 何処へ行ってやがった!?」
館に着いた二人を待ち受けていたのはエドと同じシアンの瞳を持つ少女。
「インドラ、来てたのか。何の用だ? こっちも忙しいんだ」
「はっ、どうせまた爺様の兵隊で軍隊ごっこだろ? オマエラー、エドサマニツヅケー、みたいな」
「黙れ、煩い奴だな。何度も言ってるが、ここは女の来る場所じゃないんだ」
「出たよ。ココハオンナノクルトコロジャナイ、キリッ。はいはい、ばっかじゃねーの」
「お前、身内だからってあんまり調子に乗るなよ? 用件は何だ?」
インドラ・シルハーネクはエドの再従妹だ。母親同士が従姉妹になる。
インドラの生母は亜人で、その影響からインドラ自身、人間離れした膂力と桃花色の髪を持っていた。
美人だが性格はツンケンを通り越して既に男化しており、エドはこの再従妹を些か苦手としていた。
「書状を返せよ。そこのパベルにお館宛の書状をくすねさせたろ? 今すぐ返せ」
「何だと? パベル、お前これくすねて来たのか?」
「まぁ見方によってはそうなるかもな」
父宛の書状と分かってはいたが、既に目を通してこちらへ回してくれたのだと思っていた。
エドはパベルにゲンコツを入れて、懐の書状を返した。
エドの父バリーシュ男爵は、インドラを伴回りの兵として館に置いていた。家同士も近く、自然、身内の中でも家族ぐるみでの付き合いが深い。
取り分けインドラは、役目柄バリーシュの館に詰めているので、何かにつけてエドの館にも顔を見せるのだ。
「まったく。余計な手間をかけさせんなっての。特にパベル! お前、あんま調子に乗ってると、終いには俺の拳が炸裂するからな」
「うるせーぞ、雌ゴリラ」
「よし、ぶっ殺す」
「やめろっ!」
インドラが桃色の髪を逆立てた所へ、エドが割って入った。
力では敵わないのだが、インドラは昔、エドに大怪我をさせた事があり、それ以来、エドに対しては何があっても手を上げないのだった。
「そうだインドラ。賭けをしないか?」
「はぁ? なんだよいきなり」
「俺がお爺様から借りてる兵だが、俺はあれをそっくりそのまま貰うつもりだ。上手く行ったら何をくれる?」
「まーた口先だけかよ。いくら爺様だって三千もの兵をくれる訳ないだろ。何くれるって? やれるもんならやって貰おうじゃん。本当に手に入れたんなら、そん時は何でも好きな物をやるよ」
「聞いたな? パベル」
「おう聞いた。パンツでもくれるってか」
「死ね! ブタッ!」
ワンツーパンチから金的のコンボを叩き込まれ、パベルは玄関マットに沈んだ。
インドラはそのまま外へ出て舞うように馬に跨る。
「そんなウ〇コみたいなのと一緒にいたら、エドもウ〇コ人間になって、穴という穴からウ〇コたれるようになっちまうからな! バーカバーカ! おととい来やがれっ」
赤らんだ顔でウ〇コを連呼してインドラは嵐のように去って行った。
「……汚ない啖呵切って行きやがったな。あいつあれで本当に嫁に行く先があるのか?」
呆れ返った先で足元のパベルに目を落とす。
泡を吹いて倒れ込むパベルをソファに放り出し、自分は棚の酒瓶を取って、手ずから注くど一口に呷った。
――即位か。
エドは思考を巻き戻す。そうとなれば期待できる事があった。恩赦だ。
パベルの兄ラデクは帝都の獄に繋がれていた。ラデクはバルタン地方直轄軍を率いるレレク侯爵の執事をしていた。それが昨年の暮れ、不意に帝都へと赴いた。恐らくレレク侯爵からの密命を帯びていたのだろう。
ラデクは帝都でサイレン地方の貴族、ヘンリク・ルンデゴート男爵と接触した。そして現場に踏み込んで来た官憲によって捕らわれてしまったのだ。
ラデクはルンデゴート男爵との反乱の共謀を否認し続けた。しかし中央はレレク侯爵の動きを警戒したのだろう、その後もラデクは解放されず、今も獄に留め置かれているのだった。
「うおぉ、いててて。あんのゴリラめ、倅がお亡くなりになったかと思ったぜ」
「起きたか」
「頼むから止めてくれよっ」
「あんな瞬殺止める暇あるか。それより、倅が無事なら直ぐにも帝都へ行くぞ。殿下に会って、即位の恩赦でラデクを返して貰うんだ」
「そいつぁいい。早く兄貴に会いてぇな。しかし上手く行くかね?」
「さあな。ただ、新帝となる皇太子殿下は身内嫌いの外様好きらしいってのが専らの噂だ。運さえ向けば何とかなるだろうさ」
ギブ・アンド・テイク。エドはそれを考えていた。
国が乱れる以前なら、中央軍は皇帝にとって私兵のようなものだった。しかし今は違う。
新帝はカヴァレラ元帥の忠誠を獲得する必要がある。それが叶うか否かはエドにも分からない。ただ、皇太子にはイスカル人嫌いの噂があって、そこにチャンスがあるかもしれなかった。
エドムント・バリーシュはその日の内に従弟パベル・ウルバンチクを伴ってギャベルホルンを発った。
今はまだ百の手勢しか持たぬ若者が、博打を仕掛けに昼夜をひた走り、一路帝都へ。
地図等
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