000 プロローグ ~デイバーリーチの戦い断章~
見渡せば燎原に火は絶えて、所々、灰鼠に燻る煙ばかりが漂っていた。
草の海に浮かぶ小島の如く密集した木立。その中に息を潜める五十名足らずの部隊。
静まり返った朝の気配と隙のない包囲網に、兵士らはいよいよ意気阻喪し始めていた。
帝歴六一三年六月。
遡れば十六年前の乱に端を発し、中央軍を二つに割った中央戦争の混乱。それは終結から四年を経た今も尚、残火燻らせ、熾火が爆ぜるように乱を引き起こしていた。
帝都北東、およそ三五〇キロ離れたデイバーリーチでは、乱を鎮めんとした都市軍が内部の反乱により分裂。反乱軍の手によって、中央が任じた司令官は排除され、主城を取り巻く五つの支城が奪われた。
リーチ城に立て籠もった残存勢力は、秘かに一部の兵を城外へ出し、包囲網を形成する支城の一つを奪取。それによって外部と連絡を取り、援軍を呼ぼうと画策していた。
「キム、敵陣に動きは?」
「副長。まだ向かっては来ないみたい、かな」
その答えを確かめるように、副長ジャマルディ・イニヤンガは見張りの頭越しに木立の向こうを窺った。
夜半の行軍は予期せぬ遭遇戦となり、何とかここへ逃れたが、夜が明けた今、残された時間は僅かだろう。
副長は夏だというのに、粟立つチョコレート色の肌を摩った。そうしながら、希望を探していた。
「どの方角も同じね」
「抜け出せそうにないかな?」
「今の所は、うん。ところでキム、ウーナを見なかった?」
「隊長なら少し前に様子を見に来たけど。副長と同じで巡回してるんじゃ?」
「そう、ありがとう。昨晩の戦闘ではぐれた者たちは?」
「誰も。死んだのか、逃げたのか、何も分からない」
「そう……」
「副長」
「なに?」
「僕たち助かるかな?」
「キムがお守りをくれたじゃない」
副長は愛想も誤魔化しもない小波のような笑みを浮かべた。
手には初陣の前に、キムが送った河原の石が握られている。ただの石くれだったが、流れに磨かれて宝石のような艶があった。
キムのベルトには、代わりにと渡された、副長手作りの根付が挟まれていた。こちらは蜜蜂を模った幸運のお守りだ。
どちらも兵士と言うにはまだ若い。
二人に限らず、隊は軒並み十代の若者で構成されていた。そしてそのほとんどが軍歴のない者たちだ。
キムは、こうなる前は石工をしていた。別に選んだとか、望んだとか言う訳ではない。
親もまた石工だった。その親が、生活の苦しさから農村の蜂起に加わった。
連れ出されたキムは、鎮圧に来た軍に追われて方々を逃げ回った。やがて、親ともはぐれ、共に逃げる農民たちと賊徒のような暮らしに落ちて、結局は軍に囲まれ、そこで強制徴用されたのだった。
長引く戦禍は、戦費を賄う税という形で農村を締め上げる。
そこへ加えて、近年の天候不順から冷害を招くという負の連鎖。
塗炭の苦しみに喘ぐ者たちは賊に落ちるか、安かりしとはいえ手当の出る兵士になるか、残された選択肢はそう多くはなかった。
「じゃあキム、ここは任せるね」
黒い肌の副長は高い所で束ねた真っ白なポニーテールを揺らして背を向けた。
その白さが、黒い肌と土色の鎧に良く映えていた。
キムはその遠ざかる後ろ姿を、青い想いを込めて見送った。
副長の足取りは早い。
木立の間に間に隊の者と目が合えば無言の目礼を交わし、隊長の行方を追う。
隊長のウーナとは長い付き合いだ。
十年近く、二人は北の辺境で家族も同然に育った。いや、気持ちの上では本当の姉妹か、それ以上だった。
北地に暮らすフリア人は黒い肌のヘムネス人を差別しない。
ジャマルディは南方で奴隷に落とされ、北の果てでクレベルソンという一家に買われた。
買われたが、奴隷としてではなく、家族として迎えられた。そこでウーナと出会い、人間として生きる喜びを知ったのだ。
もし、ここで命が終わるのならば彼女の隣で死にたい。そう思った。万が一にも、ウーナを逃がす事ができたなら最高だな、と。
ウーナ・クレベルソンは北方、サイレン地方の生まれ。ポーラノーラの街に程近い、猫の額ほどの所領を持つ田舎貴族の家に育った。
フリア人は男女の別なく長子が後を取る。その為、ウーナは世襲を許された土地持ち騎士である父の後継に立てられた。
緑の牧場に暮らし、両親の他には弟が一人。そして五歳の時に家族に迎えた同い年のヘムネス人が一人。
家畜で事足りるので家猫はいない。
犬は牧羊犬が二頭いた。
「ふぅ。この辺りかしらね」
ウーナはお誂え向きな小岩に腰を下ろした。
木立の中の狭い曇天を見上げ、浮かべるのは薄い苦笑い。
昨夜は散々な乱戦になった。
後追いで敵と当たるだろう父の部隊に勝機を作るべく、ウーナは別動隊を率いて、支城の裏手へ回り込みを図った。
ところが予想外の速さで城を落していた敵は、城周辺に掃討部隊を差し向けており、部隊はその網にまんまと飛び込んでしまったのだ。
ウーナたちは草原に身を伏せて極力交戦を避けようとした。
すると敵は冬越しの枯れ草に火矢を放った。
燻り出されるように白兵戦へと移行し、燃え盛る草原の中で多くの味方が斃れて行った。
そうした中、火の回る速さに慄いた敵と、気まぐれの雨とに救われて、ウーナたちは何とかこの木立に難を逃れた。
しかし、明けて見ればぐるりを五百は下らぬ兵に囲まれている。
対する味方は元いた半数という有様だった。
「やれるだけの事をやってこの結果なら、まぁ仕方がないわ」
運を味方に出来なかったと小さく嗤った。
短剣を膝の上に乗せると、目を閉じて、しばしの時を過ごす。
朝の静寂に紛れる小鳥の囀りを楽しみながら、脳裏に思い出を描いては口元をほころばせた。
頬にかかる真珠色の髪は朝露の湿り気を帯び、払う指の白さと溶け合うかのようだった。
やがて瞼が開かれ、海色に似たマドンナブルーの瞳が輝けば、そこには決然も沈痛もなく、日常の面持ちだけが浮かんでいた。
「我が守護、北洋の女神プラキアよ、私、ウーナ・クレベルソンは齢十四を以って御許へ向かいます。どうか御手を広げてお迎え下さい」
しっかりと握った短剣の先を、自らの喉元へと差し向ける。
「父上、母上、お先に参りま――」
ドンッ!
横合いから突き飛ばされた。
「何やってるの!!」
「あっぶ、あっぶな! ちょっとジャム貴女、今、喉! 喉かすったわよ!?」
小岩から転げ落ちた拍子に切っ先が触れて、ウーナの喉元には薄っすらと赤味を帯びた筋が通っていた。
「ウーナがバカな事してるからでしょ!」
「バカって貴女……」
「バカでしょ!? バカバカッ、バカウーナ!」
「えごっ」
怒涛の剣幕でジャマルディがマウントを奪った。
ウーナは押し潰されたカエルのように呻いた。
「なんでっ……。そんなに簡単に諦めてっ、ウーナが隊長でしょう!?」
「分かってるわよ。だからこそ潔くと思ったんじゃない」
肘を着いて身を起こそうとするウーナ。
ジャムはその両肩を力任せに押し返して、起き上がるのを許さなかった。
「バカッ! どうしてそうなるの! 残された私たちは!? みんなここで死ねってこと!?」
「そんな訳ないでしょ。上手く逃げてくれればいいなとは思っていたわよ」
「逃げ筋があるって思うなら、そこに賭けてウーナが指揮を執ってよ!」
怒りの収まらぬジャムが、ラベンダーの瞳から涙の粒をポタポタと落とした。
ウーナは抜け出そうともがくのを止めて、そのままぐでんと大の字に横たわった。
ジャマルディ・イニヤンガは昔から、感情が高まると我知らず涙を流す娘だった。
出会ったその日から愛称はジャム。
それまで弟しかいなかったウーナの、かけがえのない姉妹になった。
「そりゃあね、逃げ筋があればねぇ……」
「ぐすっ……ないの?」
「あったらいいなぁ、くらいよ」
「真面目に!」
泣きたいのはこっちよ。そんな言葉を隠してウーナは嘆息した。
とにかく目まぐるしかった。
そもそもが体制側にいると思っていたら、知らぬ間に反乱側に立っていた。
無論、隊長として決断はした。しかしそれも望んでの事ではない。
出だしは良かった。
反乱軍は想定通り、敵に大打撃を与え、全ての支城も落として見せた。
ところが今の状況はどうだ。
見回せば息を吹き返した敵に囲まれている。今や殲滅の時を待つばかりではないか。
「大真面目よ。私の計算だと、一方にドーンと行ってバーンとやっても倍以上の敵が相手よ。徒の隊で負傷者も有りじゃ絶望しかないわ」
「それで何もかも諦めたの? ドーンと行ってバーン作戦がダメだから?」
「言い直されると恥ずかしいから止めて頂戴。でもどうかしら? ただ、クレベルソンは代々の騎士。武門に生まれた以上、最期くらいは潔く。そう思ったのは確かね」
「わ、私に一言も言わないでっ」
恨みがましく睨みつける。
「謝って!」
「え? 何よ」
「悪い事をしたら謝るんでしょ。ちゃんと私に謝ってよっ」
感情に巻かれたジャムは、今の状況などどうでも良いように、ただ謝罪を迫った。
ウーナは勢い首でも絞められ兼ねないなと思い、素直に応じる事にした。
「ごめんなさい、ジャム。馬鹿な真似をした私をどうか許して頂戴」
「……もうしないで。やだよ、ウーナ」
「分かっているわ。ごめんね」
「うん」
ウーナはジャムの頬に触れて、流れる涙の筋を拭った。
それから不意に、自分よりも遥かに育ちの良いジャムの乳房に手を伸ばした。
革鎧に阻まれて温もりも手触りも有りはしなかったが。
「えっ、なに?」
「そろそろ退いて貰おうと思って」
「もう、口で言ってよ」
若い花房を隠すようにジャムが身を離す。
それからウーナの腕を引いて立たせると、掴んだ腕をそのままに言った。
「ウーナ。武門だからって死ねばいいってものじゃない。どんな時でも生きる意味や価値はある――。木の根や土を噛んでだって生き延びる。それだって立派な武門でしょ」
死地にあっては生を願い、その生に何らかの価値を求める。
人間というのは不思議なもので、誰もがそこに至り、逃れる術を知らない。
ただ生きる。
その事が不可能な、どうにも不格好な生き物だった。
「力説ね。でも、ジャムの言い分も尤もだわ。――さて、それじゃあ戻って、最後の最後まで指揮を執りましょうか。これで満足でしょう? 私の可愛い副長殿」
マドンナブルーとラベンダーの瞳が互いの姿を映し出し、そこにあるべき姉妹の姿を見た。
ウーナは最早ここでは死ぬまいと思い、ジャムは決して死なすまいと覚悟をした。
「ウーナ! ジャム! 来たよー! 来た来た来たーっ!!」
転がり込むようにして現れたのは、隊の斥候班を任されているハスミン・セラだった。
偽装用の枯れ草を乱暴に外せば、目にも明るい橙の髪。
日焼けしたような小麦色の肌はバスキア人のそれだ。
「来たよっ、東から!」
「え、何が? 東の敵陣だけが寄せて来たの?」
「違うって! 来援! 味方! やっほーい!」
「来援!? どこの誰が?」
「シクスたちだよっ、うちらの騎馬隊が囲いを破って、今、東の囲いは総崩れになってる。やったね! これで命が繋がった!」
白黒の姉妹はそれこそ目を白黒させた。
シクスはジャムと対を為す一方の副長だ。
彼らは父の麾下で行動を共にしている筈だった。
追っ付けやって来て、敵と正面を切ると思われたが彼らが何故。
「どゆこと?」
「さぁねー。昨夜の乱戦で逃げ戻った連中がいたかもね。それで報せたのかも。とにかく急ごっ。脱出するなら今しかなんだから」
「それはそうね。ハスミン貴女、西側の子たちに集まるように伝えて頂戴」
「とっくに手は回してあるって。二人とも、早く早く!」
言い終えぬ内に踵を返すハスミン。
三人は木立の中を全力で駆け抜けた。
木立の東側には昨夜を生き延びた面々が揃い、駆け付けたウーナの下知を今かと待っていた。
どの顔を見ても昨夜の疲れが抜けずにある。けれども今は、そこに希望なる輝きが添えられていた。
ウーナは彼らを見て「何とかなるものね」と思い、ジャムは「みんなを死なせずに済んだ」と安堵の息を吐いた。
「オーケー、余計な話をしている暇はないわね。みんなっ、一気に駆け抜けるわよ。準備はいい? 負傷者には手を貸してやって」
隊長の言葉に、生き延びるチャンスを得た若者たちの眉が開ける。
ジャムはさっきまで死のうとしていたウーナの凛とした声に、内心可笑しさすら感じた。そしてそんな余裕が生まれた事を素直に喜ぶのだった。
「何をにこにこしているのジャム。まだ助かってないわ。私と貴女で先頭を往くわよ」
「え? ダメダメ! 先頭は矢の的なんだから、ウーナは真ん中にいて」
「戦場ならどこにいたって矢は飛んで来るわ。私が隊長なんだから、当然先頭よ」
このようにウーナには運を天に任せる所があった。
生への執着が希薄と言うか、己の命に殊更の重きを置かないのだ。
為せば成る。天が許せば生き延びる。
そうした生来の楽天は時に勇ましくもあったが、ジャムにしてみればとんでもない事で、ストレス以外の何物でもなかった。
「負傷者は中に入れて守りなさい! 持つのは盾。剣はいらない。さぁみんな、ドーンと行ってバーンとやってビュビューンと逃げるわよ! 天宮に坐す己が神の加護を願って!」
ウーナの指示に隊が一つの生き物へと変わる。
時を置かず行動に移さねばならないとあって、ジャムもそれ以上は言葉を飲んだ。
「いざっ、我に続けー!!」
ファーストペンギンが飛び出して行った。
フリア人としては歳を考慮しても小柄で痩せっぽち。そんなウーナが大声上げて先頭を切り進む。
その後ろから、若い雄叫びが思い思いに追い被さっては連なった。
「我が守護、展帆宮の女神プラキアよ。束の間、我らの生を繋ぎ給え」
ウーナの静かな祈りが隣を行くジャムの耳にも届いた。
神去って人の天地となりしこの時代、果たして加護は下るのだろうか。
ジャムは一瞬そんな事を思ったが、直ぐにその考えを振り払って、己が守護神の名を叫んだ。
「大地の母、女蜂宮のタタハリよ! 今こそ御身の加護をくれらせ給え!」
これは一地方の局地的な戦闘に過ぎない。
しかし、このような戦いがこの時代には何処へ行っても繰り返されていた。
争い、奪い、従え、牛耳る。
天を巡る二十二宮の神々は黙して語らず。
疲弊した民は、この混乱を終結へと導く英雄の登壇を待ち望むばかりだった。
地図等
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